エミリアの靴音が、アスファルトを短く叩いた。
正面に、十数人。誰もが手のひらの板をこちらへ向けている。板の面に嵌まった丸い目が、一つ残らずエミリアを追っていた。
振り向けば、背後にもいつの間にか人が回り込んでいる。逃げ場を探す間もなく、隙間が埋まっていく。
ラムが半歩、横に並び、視線だけで周囲を確かめた。
「昨日より増えていますね。移動を」
「……ねえ、ラム。今日、私たち何度も場所を変えたわよね」
足は止めなかった。
「はい」
「それで、私たちを知ってる人は減った?」
ラムが、板の列を端まで数えた。
「……増えました」
「動いても増えたの」
エミリアはレンズの列を、端から端まで見た。
「だったら、増えたぶんだけ、その中にスバルを知ってる人がいるかもしれない」
「エミリア様」
レムの声がした。呼びかけだけで、続きはなかった。
「隠れてたら、誰にも聞けないもの」
ラムが息を吐く。
「……理屈は通っています」
エミリアは人だかりの前へ出た。半円の前列が、わずかに後ずさる。
レムが半歩遅れて続き、ベアトリスがその陰に身を寄せた。
「私はここにいる」
---
エミリアは、列の端に立っていた一人の前で足を止めた。
足を止めた分だけ、背後の人垣が距離を詰めた。
二十代くらいの青年だった。リュックの肩紐を握ったまま、板を持つ手が中途半端な高さで止まっている。ここまで四人を追ってきた顔ぶれの中には、いなかった顔だ。
「あなた」
「……え、俺?」
「どうして、私たちがここにいるって知ってたの?」
「え、なんすか。SNSでバズってたんで、来ただけっすよ」
ベアトリスがエミリアの脇から顔を出した。
「もっと分かるように、ちゃんと喋るのよ」
青年の視線が、初めて下へ落ちる。
「……うわ、人形みたい」
「勝手にベティーを人形扱いするんじゃないのよ」
青年が半歩下がった。
「口悪っ」
「その、えすえぬえす、っていうのは何なの」
「いや、SNSはSNSでしょ」
「知らないの。教えて」
エミリアはまっすぐに青年を見ていた。青年のほうが、先に目をそらす。
「……あー、っていうか、これ」
板の面を、こちらへ向けた。
---
差し出された板が、光っていた。
そこに、街路が映っている。夕方の光。走るエミリア。ベアトリスを抱えて追うレム。振り返るラム。
「……なにこれ」
「これ、昨日の——」
レムの語尾が途切れた。
「見られていたのですか」
ラムの声に、青年が肩をすくめる。
「誰かが撮ったんでしょ。バズって、コメントに場所書いてあったから来た」
「待ってください」
レムが板へ一歩近づいた。
「これ、姿を写すものだと思っていました」
「は?」
「写した人が、持っているだけのものだと」
「持ってるけど。持ってて、出すんだよ」
「……出す」
「出すっしょ、普通」
噛み合わないまま、青年の指が画面を滑った。街路が別の街路に変わり、また戻る。
ベアトリスは、画面を覗き込んだまま動かない。まばたきの間隔が、少しずつ長くなっていく。
「……エミリア。よく見るのよ」
「なあに」
「そこに映っているのは、今のベティー達じゃないのよ」
指が、板の縁をなぞった。
「昨日のベティー達なのよ」
エミリアは、光る板の面から目を離せずにいた。夕方の自分が、そこで走っている。走り終えると、また最初から走り出す。
「……昨日の私が、まだいるの」
「いや、いないでしょ」
「じゃあ、これは何なの」
「何って、動画」
答えになっていない。青年にとっては、それで答えらしかった。
ラムが顔を上げた。
「これを、他の者も見られるの?」
「そりゃ」
「ここにいない者も?」
「ネット繋がってれば」
「……昨日、この場所にいなかった者が、昨日のラム達を見た」
「そうそう」
「それで、今日ここへ来た」
「あ、そういうこと」
ラムの視線が、ゆっくりと周囲を一周した。十数台の板が、こちらを向いている。
見えているのは、この十数台だけだ。
「消せないの」
「撮った奴が消しても、保存してる奴がいるし」
「……保存」
「あー、なんて言えばいいんだろ。増えんだよ、勝手に」
エミリアが、青年へ顔を向けた。
「じゃあ、ここにいない人にも、私の声は届くの?」
「まあ、届くっちゃ届くけど」
「どこまで」
「どこまでって言われても。そんなの分かんないっすよ」
「……分からないくらい、遠くまで」
その言葉を、エミリアは二度、口の中で繰り返した。
ベアトリスが、板から一歩下がった。
「気持ちが悪いのよ」
「え、なんで」
「見えない場所から、ベティーだけが見られているかしら」
「そんな深く考えなくても」
「考えるに決まっているのよ」
もう画面を見ようとしない。エミリアの背へ、身体半分を隠す。
青年が、板をそちらへ向けかけて、止めた。少し考えてから、下ろす。
「……あー。今のは、撮らない」
誰も、それには答えなかった。四人の間隔が、いつの間にか半歩ずつ縮まっている。
レムだけが、板の面を見つめたままだった。
やがて、青年へ向き直った。
「あの」
「はい」
「じゃあ、その板で、スバルくんも探せますか?」
青年が、少し考える。
「……人探しの投稿とかは、まあ、あるっすよ」
レムが振り返った。
「エミリア様」
エミリアは、もう歩き出していた。
「——聞いてください!」
---
ざわめきが止んだ。
エミリアは人だかりの中心に立ち、息を吸った。
「私、エミリアです」
「この子はベアトリス。こっちがレムとラム」
呼ばれた名前の順に、レンズが動いた。
「私たち、人を探してるの。ナツキ・スバルっていう人」
「黒い髪で、目つきが悪くて、でも、すごーく優しい人なの」
エミリアは頭を下げた。
「お願いします。誰か、その人を知りませんか」
下げた頭が、なかなか上がらない。
群衆が静まり返る。
掲げられた板の列が、ゆっくりとせり上がった。隙間から覗いていた顔が、また一段減る。
シャッター音だけが、ばらばらと鳴った。
袖が、引かれた。
「……見つかるかしら」
「見つかるかもしれない。こんなに目があるんだもの」
---
その静けさを、声が破った。
「はい、今の撮れました。今の、伸びると思う」
前列に、板を縦に構えた男が立っていた。二十代。視線は板の面と四人の間を、忙しく行き来している。
「……勝手に撮ってんの?」
コンビニの袋を提げた若い女が、眉を寄せていた。
「公共の場だし」
「そういう問題じゃないでしょ」
男は画面から目を離さない。
「あ、伸びてる」
エミリアは、ラムの方へ声を落とした。
「……何が起きてるの?」
「分かりません」
ラムの目は、その手元にあった。
「ただ、あの板の向こうで、急に人が増えたようですね」
「五百いった」
「……五百」
「今、見てる人の数」
ラムは動かなかった。
「……エミリア様」
「うん」
「思惑通りです」
エミリアは、増えていく板の列を、端から端まで見た。
「……通りすぎてるね」
---
人が増えていた。
三十。数えるのをやめる頃には、五十を超えている。
歩道の幅が、端から削られていく。車道との境に立っていた者が押し出され、慌てて戻る。横道の入口にも、いつの間にか人影が立っていた。信号を渡ってきた列が、そのままこちらへ流れ込む。後ろが厚くなるたび、前が一歩ずつ近づいた。
「エミリアだ」
「ほんとにいる」
「エミリアさーん、こっち向いて」
名乗ったばかりの名前が、話したこともない相手の口から聞こえてくる。呼ばれるたび、エミリアはそちらを見た。見るたび、知らない顔だった。
掲げられた板の数だけ、丸い目がある。後ろから来た者が、前の肩越しに腕を伸ばした。板の向こうの数字が増える。増えたぶんだけ、肩と肩の隙間が減っていく。
四人の間隔が、また縮まった。ラムがエミリアの半歩前へ出る。レムがベアトリスの肩へ手を置く。背中と背中が触れる距離まで来て、ようやく四方の全部が見えるようになった。
板を構えた男の画面の端を、細かい文字が下から上へ流れ続けている。
> ヤラセ乙
> 外国人?
> この銀髪、今朝警察から逃げたって言われてたやつじゃん
> 通報しろ
> 場所どこ
> 東口出て、コンビニの角
> 特定完了
> かわいそう
> 保護してやれよ
> 誰か飯食わせてやれ
> てかスバルって誰
「三千いった。やば」
男が、流れる文字を目で追った。
「お、特定早い。もう場所出てるね」
エミリアが振り向く。
「……場所が、出てる?」
「今から来る人いるってさ」
ラムが黙った。エミリアの前へ、半歩、位置をずらす。
「……追われていたのではありませんね」
「え」
「朝から、何度場所を変えても先回りされました」
「ラム達より先に、居場所の方が伝わっていたんです」
ベアトリスがレムの服を握った。
「……気味が悪いのよ」
「ベアトリス様」
「目の前の連中なら、睨み返せるかしら」
顔は上げない。
「でも、この向こうにいる奴らは、ベティーからは見えないのよ」
人垣の隙間から、若い女が遠慮がちに前へ出てきた。
「あの……何も食べてないでしょ。服、動画と同じだし」
袋の口を開き、三角の包みとペットボトルを取り出す。
「変な意味じゃないから」
レムは両手で受け取り、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
若い女が目をそらす。
「……うん」
---
配信者が、じりじりと距離を詰めてきた。板を構えたまま。
「ねえ、そこの銀髪の人。エミリアさんだっけ」
「はい」
「その耳、どうやってくっつけてんの。近くで撮らせてよ」
「……くっつけてないの」
「うんうん。じゃあ、そのままで」
さらに一歩。レンズが、顔の三十センチ手前まで来る。
反対側からも、別の板が伸びてきた。
ベアトリスが、その間に割り込んだ。レムが、もう半歩、二人の背後に詰めていた。
「離れなさい」
男がレンズを下げた。
「お、いいね君」
「……何よ」
「その髪、どうなってんの。ウィッグ? 一回触らせて」
「触るなと言っているのよ」
「触ってないじゃん、まだ」
伸びかけた手の前に、リュックの青年が入った。
「——やめろって」
「なんで」
「嫌がってんだろ」
「嫌なら嫌ってそう言えばいいじゃん。言ってるならやめるし」
「言ってただろ今」
男が、少し考えた。
「まあ、俺が撮らなくても他の奴が撮るし」
言い終える前に、視線はもう板の面へ戻っていた。
「……お前」
エミリアが、二人の間に入る。
「ねえ。あなた」
「はい?」
「あなた、何がしたいの?」
「え」
「私たちを助けたいの? それとも、困らせたいの?」
配信者が口を開いた。
音にならない。
「……いや、そういうんじゃなくて」
「じゃあ、なあに」
配信者がレンズを上げ直した。
「……別に。撮ってるだけだよ」
少し離れた場所で、通勤鞄を提げた五十代の男が、板を耳に当てて喋っていた。
「——ええ、東口の、コンビニの角です。人が集まってて、小さい子もいて。はい。はい」
その隣に立つ中年の女が、四人の方を見ていた。目が合うと、眉を下げる。
「ごめんなさいね。でも、平日の朝に、あんな小さい子が」
「見過ごしたら、こっちが後悔するから」
遠くで、サイレンが鳴った。
---
サイレンは二つに分かれ、近づき、人垣の外側で止まった。
赤い光が、板を掲げる腕を順に舐めていく。パトカーが二台。制服が四人、降りてきた。
先頭は、若い女性巡査だった。その後ろに年配の巡査。残る二人は、見覚えのない顔だ。
「……また会いましたね」
「……はい」
「無事だったんですね。よかった」
「え」
「今朝、あのあと姿が見えなくなったので。ずっと気になってました」
「……ありがとう、ございます」
女性巡査が頷く。頷き終えたところで、顔つきが変わった。
「ただ、このままにはできません」
「どうして」
背後で人が押され、悲鳴のような笑い声が上がった。女性巡査の目が、一度そちらへ流れる。
「通報が、この一時間で十数件」
「子供が心配だと。人が集まって迷惑だと。不審者がいると」
一度、言葉を切る。
「——あなた方を心配する通報も、混じっています」
「もう、こちらが何もしないという選択肢がないんです」
年配の巡査が手帳を開いた。開いたページは、書きかけのまま止まっている。
「朝から、変わりは」
「……ありません」
「身分証。連絡先」
「何も」
「泊まる場所」
「ありません」
ペンが、紙の上で止まった。
「すいません、通ってくださーい。立ち止まらないで」
制服の一人が、車道側へはみ出していく群衆を押し戻していた。掲げられた腕が、その頭の上を越えて伸びてくる。
年配の巡査が、女性巡査の方へ顔を寄せる。声が落ちた。
「朝と同じだ。何もない。子供が一人」
「……ここでは無理だ」
---
女性巡査が、四人へ向き直った。
「移動します」
「え」
「署でも、近くの施設でもいい。ここにいる限り、人は増えます」
「話は後で聞きます。食事も、休む場所も出せます」
「……レム」
レムは、エミリアとベアトリスの位置を一度確かめてから答えた。
「……悪い話ではないと思います」
「戻れる保証もありません」
ラムの声は低い。
「うん。でも、ここにいたら、この人たちも困る」
エミリアは女性巡査へ向き直った。
「分かりました。行きます」
女性巡査が息を吐いた。下がりかけた肩が、すぐ戻る。
「行きましょう。離れないで」
袖が引かれた。
「……離すな、かしら」
「うん。離さない」
年配の巡査が、群衆へ向き直った。
「道を空けてください、下がって」
前の列が、いったん退がった。声の届く範囲だけ、アスファルトが見える。
道は、保たなかった。
後ろから来た者は、何が起きているのかを知らない。前が空いたことだけが分かる。空いた分だけ、詰める。
「え、なに、終わり?」
「前見えないんだけど」
しぶしぶ退がった前列の背中を、事情を知らない後列が押し戻していく。板を構えた男が、横歩きでついてきた。板は下ろさない。
四人が、パトカーの方へ歩き出す。
レムは、ベアトリスの半歩後ろについた。人の腕が伸びてくるたび、その手首の高さを目で追う。伸びる。引っ込む。また伸びる。
ラムがレムへ顔を寄せ、囁いた。
「レム」
「はい」
「使うな」
「……分かっています」
---
群衆が動いた。
「行っちゃう!」
「見えねー、前どいて!」
後方が押した。前列が、ぐっと出る。
空いたはずの道に、人が詰まった。
規制線はない。警官は四人。
「下がって! 危ないから下がってください!」
声は、後ろまで届かない。届いた者は退がる。届かない者が押す。押された者には、退がる場所がない。
人の壁が崩れた。
誰かが、前のめりに押し出された。その膝が、ベアトリスに当たる。
「——ッ」
小さな身体が傾いだ。
女性巡査が、とっさに腕を伸ばす。
人影が重なった。背中と背中の間から、光る板が突き出される。制服も、肩も、顔も、その向こうへ隠れた。
レムの目に映ったのは、隙間から入り込んでくる指先だけだった。誰の手なのか、どこから伸びているのかは、見えない。
その先に、傾いだベアトリスがいた。
「触らないでくださいっ」
伸びてきた手首を、レムの手が掴み、外側へ払った。
身体が、後ろへ跳ぶ。
一メートル。二メートル。
アスファルトを、背中が滑る音。
静寂。
シャッター音だけが鳴り続けている。
「……え?」
「今の、何」
「警察、殴った?」
一斉に、すべてのレンズが向いた。
人影が割れる。
倒れているのが誰か、レムの目に入った。
「……あ」
---
年配の巡査が駆け寄った。女性巡査は肩を押さえ、肘をついて身を起こす。制服の背中が、白く擦り切れていた。
「大丈夫か」
歯を食いしばる音がした。
「……動けます」
年配の巡査が無線に手をかける。
「本部。東口前、警察官一名負傷。応援願います」
「待って! レムは、守ろうとしただけで——」
女性巡査が、片膝をついたまま顔を上げた。
「分かりました」
「え」
「話は必ず聞きます。だから、動かないでください」
声は上がらなかった。責める言葉もなかった。
「全員、両手を見えるところに出してください」
「レム」
「姉様」
「手を上げなさい」
レムの手が、震えながら上がった。
「待ってください! いきなり殴ったんじゃありません!」
若い女が、人垣から飛び出していた。
「下がって」
「押されたんです、あの子が! 倒れそうになって、それで!」
「俺も見てました。証言します。名前も連絡先も出します」
青年が、自分の板へ目を落とす。
「……動画、あります。最初から」
配信者は、撮り続けたまま板の面へ喋っていた。
「……やば。これ、やばいって」
中年の女が青ざめて立っている。隣の男の袖を掴んだまま、何も言わない。
サイレンが増えた。二台。三台。
人垣が厚くなる。前の列と後ろの列の境目が、もう分からない。
ベアトリスは、エミリアの腕を掴んだまま震えていた。
エミリアが目を閉じる。
「……スバル」
---
人垣の外から、声がした。
「——エミリア!」
エミリアの肩が跳ねた。
「エミリアーーッ!!」
レムが顔を上げる。
ラムが振り返る。
最後に、ベアトリスが。
「…………スバル?」
人垣が、外側から押し分けられた。
「うわ、押すなよ」
「どいて! どいてください!」
黒いパーカー。汗だく。肩で息をしている。片手に握った板の画面には、この場のざわめきが、そのまま流れていた。
「……スバル」
「スバル!」
駆け寄ろうとする。
「動かないで!」
エミリアが、止まった。
スバルも、駆け寄らない。
両手を、ゆっくり上げる。警官から見える高さまで。
「待ってください! その四人、俺の知り合いです!」
一斉に、レンズがスバルを向いた。
「……あなたは?」
スバルが口を開く。
一度、周囲を見た。
それから、エミリアを見た。
「ナツキ・スバルです」