「ナツキ・スバルです」
その声が消えるより先に、赤色灯がもう一周した。
光が人垣を舐めていく。掲げられた腕、板の面、開いたままの口。一つ残らず赤く染まって、また元の色に戻る。
「そのまま」
年配の巡査が、手のひらをスバルへ向けた。
「両手は上げたままで。ゆっくり、こちらへ」
「はい」
「そこで止まって。それ以上は近づかないで」
スバルの爪先が止まった。
エミリアとの距離、四メートル。あいだに制服が二人。その向こうに、レムとラムとベアトリス。
汗が顎から落ちて、アスファルトに小さな点を作った。
「スバル!」
「エミリアたん、動くな。手ぇ上げろとは言わねぇけど、動くな」
声の大きさを、わざと落とす。届く範囲を、自分で決めるみたいに。
「一件落着とは言えない。……でも、来た」
「バルスが来たことで不安要素が増えて、余計に安心できないわ」
「久しぶりの第一声がそれか」
「久しぶり?」
ラムが、眉を寄せた。
「ラムたちは昨日の朝まで一緒だったのだけど」
スバルの動きが、止まった。
上げたままの指が、一度だけ握られて、また開く。
「……ラム」
「何よ」
「屋敷を出たの、いつだ」
「昨日の朝よ。食堂に、バルスの椅子だけが空いていたわ」
「……そうか」
喉が一度、上下した。
「何日も経ってないんだな」
「当たり前のことを、わざわざ確かめるのね」
スバルは答えなかった。
答えないまま、視線をずらした。
レムは、三人より半歩後ろにいた。エミリアの肩の陰から、スバルの顔を見て、それからすぐ足元へ目を落とす。
「レム」
「……はい」
「怪我は」
「ありません」
「そっちじゃなくて」
「…………ありません」
二度目のほうが、小さかった。
「……スバル」
ベアトリスの声は掠れていた。エミリアの袖を掴んだまま、一歩も動いていない。
「ベア子。飯は」
「食べたのよ。知らない娘がくれたやつを少し。そもそもベティーは腹が減らないかしら」
「食っとけ。腹が減ってると、心まで狭くなるからな」
「…………」
「後でなんか買ってやる。米でも、パンでも、甘いやつでも」
「……別に、頼んでないのよ」
俯いたまま、袖を掴む指に力がこもった。昨日から、この子がずっと離さずにいる場所だった。
「バルス。昨日今日で、感動の再会は結構よ」
「わかってる。まずは話し合いで済まないか試す」
「口が回るのは知っているけれど。こんなよく分からない国で、通じるの」
「通じる」
スバルは、両手を上げたまま顎で周囲を示した。塔。光の板。走る箱。
「ここ、俺の地元だから」
三人の視線が、同時にスバルへ集まった。
「……ここが」
レムが、初めて顔を上げた。
「スバルくんの、故郷なんですね」
「出所の知れない男だと思っていたけれど、合点がいったわ」
ラムが、頭上の灰色を見上げた。
「故郷も知れないわね」
---
年配の巡査が、手帳を開き直した。開いたページは、朝から書きかけのまま止まっている。
「ナツキさん。そもそもこの四人とは、どういうご関係で」
「知り合い……いや、身内みたいなもんです」
「みたいな、と言われてもね。どう見ても血縁には見えないよ」
「見えないです」
「じゃあ、まず名前と、生年月日」
「ナツキ・スバル。生まれは——」
四桁と、二桁と、二桁。スバルはそれを、一度も言い直さずに並べた。
「歳は」
「……そこは、ちょっとややこしくて」
「ややこしい?」
「日付は今言ったとおりです。計算は、そっちでしてもらえますか」
年配巡査の指が、一度止まった。
手帳の余白に数字を書き、下に引いて、線を引く。それから顔を上げて、スバルの顔をまともに見た。
見て、もう一度、書いた数字を見た。
「……ナツキさん。失礼だけど」
「はい」
「この歳には、見えないな」
「よく言われます」
「よく言われる、で済ませる話かな」
「……済ませてほしいです。今は」
年配巡査は、それ以上追わなかった。追わないまま、ペンの尻で数字を一度叩いた。
「住所」
「××市××町三丁目——番地まで言いますか。郵便番号も出ますよ」
「いい。電話は」
「自分の携帯と、家の固定と、母親の携帯。どれから言います」
「全部お願いします」
答えたのは、若い女性巡査だった。左腕を身体の前でそっと支えている。
「〇九〇の——」
数字が、澱みなく並んでいく。
ラムが、その横顔を見ていた。
「次から次へと、よく出てくるものね」
「……全部、答えてしまっていいのでしょうか」
レムが、声を低くする。
「大丈夫。スバルを信じましょう」
エミリアはそう言って、そこで自分の声が掠れたことに気づいた。
「……私たちじゃ、一つも答えられなかったもの」
「エミリア様」
「昨日からずっと、同じことを聞かれてたの。名前と、歳と、住んでる場所と、家族。全部、本当のことを言ったのに、一つも答えたことにならなかった」
「スバルくんは、全部答えています」
「うん」
「……スバルくんに、迷惑をかけてしまうでしょうか」
「もうかけているわ。今さらよ」
ラムはそう言って、板の列を一度見渡した。
「……バルスが答えるほど、ラムたちの輪郭が薄くなるわね」
年配巡査が、肩の無線へ口を寄せた。声は低く、短い。
数秒の沈黙。返ってきた音は、四人には意味を持たない雑音だった。
「……はい。ナツキ、スバル。……ええ。確認、取れました」
その一言で、二人の警官の姿勢がわずかに変わった。
肩の力が、ほんの少しだけ抜けたのが、エミリアにも分かった。
「……え。もう、分かったの」
「随分と仕事が早いこと」
「早すぎませんか」
レムが眉を寄せた。
「あの人は、まだ何も見せていません。札も、紙も」
「見せる必要が無いのでしょうね」
ラムは、板の光で下から照らされた巡査の顔を見ていた。
「この街のどこかに、バルスは最初から書いてあるのよ」
女性巡査が、手元から顔を上げた。
「ナツキさん。あなた、行方不明者届が出ています」
「……あー。いつのやつですか」
「取り下げが、先週」
「……母さん、仕事が早ぇな」
「数年前に家を出たきり、連絡が取れないと」
「そうです。色々あって帰れなくて。先週、ようやく両親と会えました」
「その『色々』は、今ここで話せますか」
「……話せます。信じてもらえるかは、別として」
女性巡査は頷いた。頷いてから、顔つきを戻した。
「では、署でお願いします」
---
「それは……強制ですか」
「お願いです。ただ」
女性巡査は、擦り切れた背中をこちらへ見せないように、半身をずらした。
「警察官が一人、負傷しています。その時点で、朝までと同じ扱いにはできません」
「負傷。……誰が」
「レムです」
答えたのは、レム本人だった。
「ごめんなさい、スバルくん。レムが、その方を突き飛ばしました」
「まじでか」
「……はい」
「いや、待って。状況は」
「ベアトリス様に、人の膝が当たって。倒れそうになって。伸びてきた手を、払ったつもりでした」
「……つもりで、あの距離まで飛ぶのか」
スバルは、女性巡査の背を見た。
制服の背中が白く擦り切れている。左の袖が肘から先で裂けて、めくれた内側が赤黒く汚れていた。血は、もう乾きかけている。
「……立ってるの、痛いですよね」
「業務に支障はありません」
「答えになってないですよ、それ」
「ええ。答えになっていません」
女性巡査は、そこで初めて微かに笑った。笑ってから、すぐに顔を戻す。
「穏便に済ませるためにも、ご同行をお願いします」
「その前に、一つだけ」
スバルは、上げたままの手を下ろさずに言った。
「署に入ったら、この四人は、どうなりますか」
女性巡査が黙った。
答えたのは、年配巡査だった。
「……正直に言うよ。ここで押し問答するより、そのほうがいい」
「お願いします」
「まず、その青い髪の子。負傷の件がある。これは別件だ。同じ部屋では聞けない」
「……はい」
「次に、そっちの小さい子」
ペンの先が、ベアトリスへ向いた。
「どう見ても年齢が下すぎる。保護者もいない。うちだけの話じゃ済まない。別の機関が入る」
「別の、機関」
ベアトリスが繰り返した。
「悪い場所じゃない。ただ、今日はもう、あんたたちと同じ部屋には居られなくなる」
「……ベティーは、この四人といるのよ」
「そう言ってもらえるのが、いちばん困るんだ」
ベアトリスの指が、エミリアの袖を掴み直した。
「残りの二人も、別々だ。話が食い違わないかを見るのが、こっちの仕事でね。あんたたちが正直かどうかじゃない。手順がそうなってる」
「……五人、全部バラバラってことですか」
「そうなる」
スバルは、一度だけ目を閉じた。
開けたときには、もう次の言葉を選んでいた。
「……俺が、身元引受人になるってのは」
「あなたが?」
「はい」
「ナツキさん。あなた、この四人の何にあたりますか。親族ですか。後見人ですか」
「……違います」
「同居していた事実は。契約でも、写真でも、何か残ってますか」
「……無いです。この国には、何も」
「先週まで、行方不明者届が出ていた人だ」
年配巡査の声に、意地の悪さはなかった。だからこそ、逃げ場が無かった。
「悪いけど、今日のあなたに預けられるものは、何も無い」
「……じゃあ、俺も一緒に行きます。同じ部屋じゃなくていい。同じ建物にいれば」
「それは構いません」
女性巡査が言った。
「ただ、いつ出られるかは、私には約束できません」
スバルは、何も返せなかった。
「……スバル」
「ん」
「また、すぐ会えるのよね?」
エミリアが言った。
スバルの唇が、開いて、閉じた。
「……スバル?」
「…………」
「答えられないのね」
ラムだった。
「……悪い」
「謝らないで」
ラムは、顔の向きを変えないまま言った。
「答えられないという答えを、ちゃんと出しただけよ」
---
人垣の後方が、また押した。
規制線はまだ張られていない。制服の一人が、車道へはみ出した群衆を両腕で押し戻している。その頭の上を越えて、腕と板が伸びてくる。
「あ、今の聞こえた? 『また会えるのか』って」
「お前、少し黙れよ」
「なんで。いいとこじゃん」
女性巡査が群衆へ向き直ろうとして、左肩を庇った。
一瞬、息を止める。額に汗が浮いていた。
レムが、一歩動いた。
「……あの。手当てを」
「結構です」
「レムがやったことです。だから」
「だから、結構です」
拒絶ではなかった。
ただ、身体のほうが先に、半歩下がっていた。
女性巡査自身が、それに気づいて顔をしかめる。
「……ごめんなさい。今のは、私が悪い」
「いえ」
レムの手が、行き場を失って落ちた。
その横を、小さな影がすり抜けていく。
「どきなさい」
「ベア子、待て」
「待たないのよ」
ベアトリスは女性巡査の前で足を止め、見上げた。掌が、裂けた袖の上へ持ち上がる。
その手首を、スバルが掴んだ。
上げていたはずの右手が、いつの間にか下りていた。
「離すのよ」
「駄目だ」
「あの女は、倒れかけたベティーに——」
「分かってる。分かってるから駄目なんだ」
スバルは膝を折り、ベアトリスの耳元まで顔を下げた。声が、周りへ漏れない高さまで落ちる。
「今ここでやったら、お前が『説明できないもの』になる」
「……何を言っているのよ」
「傷が消えるより、傷が消えたことのほうが問題になる街なんだよ、ここは」
ベアトリスの目が、掲げられた板の列を、端から端まで舐めた。
数えるのをやめる数だった。その全部に、丸い目が嵌まっている。
指が、ゆっくりと下がる。
そのとき、車道側で声が上がった。
押し戻していた制服の一人が、逆に二歩持っていかれる。群衆の前列が一段こちらへ寄り、背中と背中が壁になった。板の列ごと、視界が切れた。
ベアトリスの唇が、音にならない短さで動いた。
掌は、袖の裂け目から指二本ぶんのところにあった。
光は、灯らなかった。
一秒。あるいは、もっと短い。
人垣が戻り、光が戻る。
ベアトリスは、もう元の位置にいた。
女性巡査が、自分の左腕をゆっくり上げた。
肘を曲げる。伸ばす。肩を回す。もう一度。
「……え」
「どうした」
「……いえ」
裂けた袖はそのままだった。乾いた血も、擦り切れた背中もそのままだった。
彼女はもう一度だけ腕を回して、それから、ベアトリスを見た。
ベアトリスは、あらぬ方向を見ていた。
「……ベアトリスちゃん」
「なんなのよ」
「……ううん。なんでもない」
言えなかった。言葉にした瞬間に、自分が何を言っているのか分からなくなることが、先に分かった。
スバルが、ベアトリスの襟を軽く引き寄せる。
「おい。やっただろ」
「やってないのよ」
「嘘つけ」
「……痛みだけよ。あんなもの、指先で摘まむ程度かしら」
ベアトリスの膝が、少しだけ笑っていた。スバルの袖を掴んで、それを誤魔化す。
「この世界は薄いのよ。一杯汲むのに、井戸を一つ空にするようなものかしら。……だから、それだけなのよ」
「なんでやった」
「…………」
ベアトリスは、顔を背けた。
「借りを作ったまま連れて行かれるのは、趣味じゃないかしら」
---
サイレンが増えた。二つ。三つ。
人垣の外側が厚くなり、前列と後列の境が、もう見えない。誰かの肘が誰かの背に当たり、笑い声のような悲鳴が上がる。
「移動します。四人とも、それとナツキさんも」
女性巡査が言った。
「バルス」
「……」
「試したのは見ていたわ。足りなかっただけよ」
「……足りなかったな」
「モタモタしていると、エミリア様にご迷惑がかかるわ」
スバルは、下ろした自分の掌を見た。
それから、エミリアを見た。
「エミリア」
「うん」
「今から俺、たぶんすげぇ悪いことする」
「……うん」
「止めないのか」
「止めない。でも、ひとつだけ聞かせて」
エミリアは、まっすぐスバルを見た。
「それ、一人で背負うつもり?」
「……」
「じゃあ、私も一緒に悪いことするわ。半分こ」
「エミリアたん……!」
「五等分よ」
ラムが、袖を直しながら言った。
「数を間違えないで」
スバルは笑った。
笑って、それから女性巡査へ向き直り、頭を下げた。
「すみません。俺、これから逃げます」
「……は」
「先に言っときます。黙って逃げるのは、なんか違う気がしたんで」
「ナツキさん、待って——」
---
そのとき、人垣の後ろが押した。
「行っちゃう!」
「見えねー、前どいて!」
後方には、何が起きているのか知らない者しかいない。前が動いたことだけが分かる。分かったぶんだけ、詰める。
押された前列に、退がる場所は無かった。車道側に立っていた制服が、群衆ごと二歩持っていかれる。
赤色灯の横に、人ひとりぶんの隙間が空いた。
スバルは、それを見た。
見て、一拍、遅れた。
自分が何もしていないことを、確かめるみたいに。
「……行くぞ」
レムが動いた。ベアトリスを横抱きにして、隙間へ身体をねじ込む。ラムが続き、エミリアがスバルの背を押した。
「おい——! 止まりなさい!」
「待って、待ちなさい!」
五つの足音が、赤い光の外へ抜けた。
先頭は、いちばん足の遅い男だった。
「右! 階段は下りるな、脇を抜けろ! アーケード入るぞ!」
「……道を知っているのね」
「俺の街だ」
---
アーケードの下は、まだ朝だった。
シャッターを半分上げた店。搬入のトラック。積み上げられた発泡スチロールの箱。買い物袋を提げた人が、走ってくる五人を見て、慌てて道の端へ寄る。
「すんません! 通ります! 通ります!」
「——失礼します!」
レムがベアトリスを抱えたまま、箱の山を跳び越えた。着地の音がしない。
その三歩後ろで、スバルが箱に肩をぶつけた。
「うぉ、っと」
「バルス」
「なんだよ」
「遅い」
「知ってる!」
背後から、拡声された声が届く。
「東口ロータリー、対象五名、徒歩で北へ。商店街方向!」
その後ろから、別の声も追いかけてきた。
「見えた見えた見えた! 商店街入ってったって!」
「ねえスバル」
エミリアが横に並んだ。息が、まだ上がっていない。
「私たちがスバルを抱えたほうが、たぶん速いわ」
「道案内が荷物になってどうすんだよ!」
「レム、この男を置いていくかしら」
「置いてくな!」
スバルが急に速度を落とし、店と店のあいだへ身体をねじ込んだ。
「こっち。子供の頃から知ってる抜け道だ」
一つ目の角を曲がる。
二つ目を曲がった先で、足が止まった。
灰色の壁。工事の囲い。黄色と黒の縞が、行く手を横一列に塞いでいる。
「……あれ」
「行き止まりに見えるけど」
「変わってる……! ここ、前は裏の駐車場まで抜けられたんだって!」
「『俺の街だ』とは何だったのよ」
「何年か経ってんだよ! ……いや、何年かって、なんで俺——」
言いかけて、飲み込んだ。
アーケードの方から、足音と声が近づいてくる。「そっち行った!」と、誰かが叫んでいる。
レムが囲いを見上げた。
「エミリア様、ベアトリス様。先に行きます」
「レム」
「はい」
「使うな」
「……分かっています」
レムは囲いの継ぎ目に爪先をかけ、二度で上へ抜けた。ベアトリスを抱えたままだった。ラムがその後を追い、板の上で身を翻して消える。
「ごめんねスバル、ちょっと我慢して」
「え。ちょ、待、まさかお前」
「へっちゃらよ!」
「へっちゃらなんて今どき——」
「えい!」
「うわああ!」
視界が回り、腹に腕が食い込み、囲いの縁が目の下を過ぎていった。
着地。塗料と、掘り返した土の匂い。
囲いの向こうで、誰かの声が跳ねた。
「うわ、なんだ今の、ニンジャかよ! ……いや、ヤラセでもAIでもないからね、俺リアタイだからこれ!」
「……エミリア。降ろせ。降ろしてください」
「あ、ごめんね」
スバルは足をつき、膝に手をついて、二回だけ深く息をした。
「どこへ行くの」
「駅」
「スバルくんのご実家は」
レムが訊いた。
「……近い」
スバルは顔を上げて、囲いの向こうの屋根を一度だけ見た。
「近いから、行かない。今あそこに五人で転がり込んだら、母さんちが明日から見世物だ」
「賢明ね」
ラムが言って、先に歩き出した。
---
工事の裏道を抜けると、線路沿いの細い道へ出た。
金網の向こうを、銀色の筋が二本、どこまでも伸びている。その先に、昨日の建物があった。
そして、あの低い門があった。
「……ここ」
エミリアの足が、止まる。
「昨日の関所ね」
「通れないのよ、ここは。ベティー達には」
「札が要ります。持っていません」
レムが言い終える前に、スバルは券売機の前に立っていた。
「そこで待ってろ」
光る面に指を走らせる。数字を押す。硬貨が落ちる音。
紙が、五枚。
「ほら。切符。通行証みたいなもんだ」
「小さいわね。誰に見せるの」
「見せない」
スバルが門の前に立ち、一瞬、手を止めた。
「……入れる穴が、無いな。変わってる」
「そこよ」
ラムが、横から指を差した。
「昨日、ラムたちは半日あの門を見ていたのよ。紙を持っている者は、そこへ入れていたわ」
スバルが、ラムを見た。
「……助かる」
「どういたしまして」
エミリアの掌に、紙が一枚残った。
厚みのない、指で摘まめば折れる紙だった。
「……買えば、通れるの」
「そう。買えば通れる」
「これだけで?」
「これだけで」
エミリアは、その紙と、目の前の門を見比べた。
腰ほどの高さ。走って跳べば、一歩。昨日、五歩先に進めなかった場所だった。
「……私たち、ずっとここで困ってたのに」
「困ってたな」
スバルは、それ以上何も言わなかった。
エミリアが、紙を差し入れる。
短い音が鳴った。
透明な羽が、開いた。
一歩。二歩。
通った。
振り返る。門はもう閉じている。さっきまで自分がいた側が、そこにあった。
「……ちゃんと、通れた」
「出てきた切符、忘れず取れよ。それ無いと、向こうで出られないからな」
「入るのにも要って、出るのにも要るのよ。難儀な門かしら」
ベアトリスが、爪先立ちで紙を引き抜いた。
レムが最後に通り、一度だけ振り返った。
門の向こう——昨日の四人が立っていた側で、制服の駅員がこちらを見ている。
「あ」と、口が開いた。
何かを言う前に、五人は階段を下りていた。
---
「三番線に、まもなく——」
「喧しい声ね。誰が何を喋っているのか、分からないけれど」
「もうすぐ乗り物が来る。黄色い線の内側に下がれ」
「黄色い……」
エミリアが、足元を見た。
細長い黄色の帯が、ホームの端に沿って続いている。表面に、規則正しい突起が並んでいた。
「これ、ここにもあるの」
「どこにでもあるよ」
エミリアは、しばらくその帯を目で追っていた。それから、内側へ一歩下がった。
風が来た。
音が、腹の底から押し上げてくる。
「何、この……怪物。いえ、建物?」
「こんなに大きな『家』を、魔法も使わずにどう動かしているのよ。さっぱり分からんかしら」
「電車。……とりあえず乗ろうぜ」
扉が開く。人が降りて、人が乗る。誰も、誰にも指示していない。
五人が乗り込み、扉が閉まった。
ホームが、後ろへ流れ出す。
---
車内は、それほど混んでいなかった。
それでも、座っていた数人が顔を上げ、そのうち二人が板を取り出した。スバルが、ベアトリスの頭を軽く押して、窓側へ向けさせる。
「顔、下げとけ」
「押すんじゃないのよ」
「頼む。あと一駅だけ」
ベアトリスは文句を言いながら、窓へ向き直った。
流れていく街を、しばらく黙って見ていた。
スバルのポケットが、震えた。
一度切れて、また震える。取り出した板の面に、同じ二文字が出ていた。
「……鳴ってるわ」
「鳴ってる」
「出ないの?」
「出たら、俺、たぶん帰るって言うから」
エミリアは、それ以上訊かなかった。
「スバルくん」
レムが、吊り革を掴まずに立っていた。
「ん」
「レムは、スバルくんの帰る場所を、壊しに来たんでしょうか」
スバルは、震え続ける板を見たまま答えた。
「壊れてねぇよ」
「でも」
「壊れてねぇ。俺が今、自分で出てきただけだ」
レムが、何か言おうとして、やめた。
やめて、頭を下げようとした。
「謝んな」
その前に、声が飛んだ。
「俺が決めたんだから、謝んな」
レムの頭が、中途半端な高さで止まる。それから、ゆっくり戻った。
スバルは窓へ顔を向けた。
家の屋根が、途切れずに流れていく。屋根と屋根のあいだに隙間は無く、隙間があれば、そこにも道があった。
「……数年なんだよ、こっちは」
「え」
「……なんでもない」
エミリアが首を傾げた。レムは、その言葉の置きどころを探すように黙った。
ラムだけが、スバルの横顔を見ていた。
何も言わなかった。
板が、また震えた。三度目か、四度目か、スバルはもう数えていなかった。
親指を、長く押し当てる。
画面が暗くなり、指を離すと、それはただの黒い板になった。
「切ったのよ、それ」
ベアトリスが、窓から顔を戻した。
「切った」
「……いいのかしら」
「よくはねぇ」
スバルは、黒くなった板をポケットへ滑り込ませた。
「よくはねぇけど、決めたのは俺だ」
車輪の音だけが続いた。
エミリアが、そっと窓の外へ目をやる。灰色の塔が遠ざかり、屋根の色が少しずつ変わっていった。
---
電車の去ったホームに、二人残っていた。
一人はフードを深くかぶり、もう一人は、大きなリュックを背負っている。
黄色い線の内側で、フードの男が板を覗き込んでいた。画面の中では、同じ数秒が繰り返し流れている。
青い髪の女が、腕を払う。
制服が、一メートル以上、後ろへ跳ぶ。
「……何回見ても、人間の力じゃねぇな」
「加工だろ」
「加工なら、撮ってる奴の手が揺れてねぇとおかしい」
リュックの男が、鼻から息を抜いた。
「警察が先に押さえるだろ」
「押さえられてたら、今そこの電車に乗ってねぇよ」
フードの男が顔を上げ、電車の消えた方向を見た。線路の先は、もう見えない。
「どの駅で降りるか、分かるか」
「分かんねぇ」
板の面を、指が撫でる。
「……けど、あれだけ目立ちゃ、誰かが上げる」
画面の中で、また女が腕を払った。
二人は、それを最初から再生し直した。