帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第4話「身元引受人」

 

 

「ナツキ・スバルです」

 

その声が消えるより先に、赤色灯がもう一周した。

 

光が人垣を舐めていく。掲げられた腕、板の面、開いたままの口。一つ残らず赤く染まって、また元の色に戻る。

 

「そのまま」

 

年配の巡査が、手のひらをスバルへ向けた。

 

「両手は上げたままで。ゆっくり、こちらへ」

 

「はい」

 

「そこで止まって。それ以上は近づかないで」

 

スバルの爪先が止まった。

 

エミリアとの距離、四メートル。あいだに制服が二人。その向こうに、レムとラムとベアトリス。

 

汗が顎から落ちて、アスファルトに小さな点を作った。

 

「スバル!」

 

「エミリアたん、動くな。手ぇ上げろとは言わねぇけど、動くな」

 

声の大きさを、わざと落とす。届く範囲を、自分で決めるみたいに。

 

「一件落着とは言えない。……でも、来た」

 

「バルスが来たことで不安要素が増えて、余計に安心できないわ」

 

「久しぶりの第一声がそれか」

 

「久しぶり?」

 

ラムが、眉を寄せた。

 

「ラムたちは昨日の朝まで一緒だったのだけど」

 

スバルの動きが、止まった。

 

上げたままの指が、一度だけ握られて、また開く。

 

「……ラム」

 

「何よ」

 

「屋敷を出たの、いつだ」

 

「昨日の朝よ。食堂に、バルスの椅子だけが空いていたわ」

 

「……そうか」

 

喉が一度、上下した。

 

「何日も経ってないんだな」

 

「当たり前のことを、わざわざ確かめるのね」

 

スバルは答えなかった。

 

答えないまま、視線をずらした。

 

レムは、三人より半歩後ろにいた。エミリアの肩の陰から、スバルの顔を見て、それからすぐ足元へ目を落とす。

 

「レム」

 

「……はい」

 

「怪我は」

 

「ありません」

 

「そっちじゃなくて」

 

「…………ありません」

 

二度目のほうが、小さかった。

 

「……スバル」

 

ベアトリスの声は掠れていた。エミリアの袖を掴んだまま、一歩も動いていない。

 

「ベア子。飯は」

 

「食べたのよ。知らない娘がくれたやつを少し。そもそもベティーは腹が減らないかしら」

 

「食っとけ。腹が減ってると、心まで狭くなるからな」

 

「…………」

 

「後でなんか買ってやる。米でも、パンでも、甘いやつでも」

 

「……別に、頼んでないのよ」

 

俯いたまま、袖を掴む指に力がこもった。昨日から、この子がずっと離さずにいる場所だった。

 

「バルス。昨日今日で、感動の再会は結構よ」

 

「わかってる。まずは話し合いで済まないか試す」

 

「口が回るのは知っているけれど。こんなよく分からない国で、通じるの」

 

「通じる」

 

スバルは、両手を上げたまま顎で周囲を示した。塔。光の板。走る箱。

 

「ここ、俺の地元だから」

 

三人の視線が、同時にスバルへ集まった。

 

「……ここが」

 

レムが、初めて顔を上げた。

 

「スバルくんの、故郷なんですね」

 

「出所の知れない男だと思っていたけれど、合点がいったわ」

 

ラムが、頭上の灰色を見上げた。

 

「故郷も知れないわね」

 

---

 

年配の巡査が、手帳を開き直した。開いたページは、朝から書きかけのまま止まっている。

 

「ナツキさん。そもそもこの四人とは、どういうご関係で」

 

「知り合い……いや、身内みたいなもんです」

 

「みたいな、と言われてもね。どう見ても血縁には見えないよ」

 

「見えないです」

 

「じゃあ、まず名前と、生年月日」

 

「ナツキ・スバル。生まれは——」

 

四桁と、二桁と、二桁。スバルはそれを、一度も言い直さずに並べた。

 

「歳は」

 

「……そこは、ちょっとややこしくて」

 

「ややこしい?」

 

「日付は今言ったとおりです。計算は、そっちでしてもらえますか」

 

年配巡査の指が、一度止まった。

 

手帳の余白に数字を書き、下に引いて、線を引く。それから顔を上げて、スバルの顔をまともに見た。

 

見て、もう一度、書いた数字を見た。

 

「……ナツキさん。失礼だけど」

 

「はい」

 

「この歳には、見えないな」

 

「よく言われます」

 

「よく言われる、で済ませる話かな」

 

「……済ませてほしいです。今は」

 

年配巡査は、それ以上追わなかった。追わないまま、ペンの尻で数字を一度叩いた。

 

「住所」

 

「××市××町三丁目——番地まで言いますか。郵便番号も出ますよ」

 

「いい。電話は」

 

「自分の携帯と、家の固定と、母親の携帯。どれから言います」

 

「全部お願いします」

 

答えたのは、若い女性巡査だった。左腕を身体の前でそっと支えている。

 

「〇九〇の——」

 

数字が、澱みなく並んでいく。

 

ラムが、その横顔を見ていた。

 

「次から次へと、よく出てくるものね」

 

「……全部、答えてしまっていいのでしょうか」

 

レムが、声を低くする。

 

「大丈夫。スバルを信じましょう」

 

エミリアはそう言って、そこで自分の声が掠れたことに気づいた。

 

「……私たちじゃ、一つも答えられなかったもの」

 

「エミリア様」

 

「昨日からずっと、同じことを聞かれてたの。名前と、歳と、住んでる場所と、家族。全部、本当のことを言ったのに、一つも答えたことにならなかった」

 

「スバルくんは、全部答えています」

 

「うん」

 

「……スバルくんに、迷惑をかけてしまうでしょうか」

 

「もうかけているわ。今さらよ」

 

ラムはそう言って、板の列を一度見渡した。

 

「……バルスが答えるほど、ラムたちの輪郭が薄くなるわね」

 

年配巡査が、肩の無線へ口を寄せた。声は低く、短い。

 

数秒の沈黙。返ってきた音は、四人には意味を持たない雑音だった。

 

「……はい。ナツキ、スバル。……ええ。確認、取れました」

 

その一言で、二人の警官の姿勢がわずかに変わった。

 

肩の力が、ほんの少しだけ抜けたのが、エミリアにも分かった。

 

「……え。もう、分かったの」

 

「随分と仕事が早いこと」

 

「早すぎませんか」

 

レムが眉を寄せた。

 

「あの人は、まだ何も見せていません。札も、紙も」

 

「見せる必要が無いのでしょうね」

 

ラムは、板の光で下から照らされた巡査の顔を見ていた。

 

「この街のどこかに、バルスは最初から書いてあるのよ」

 

女性巡査が、手元から顔を上げた。

 

「ナツキさん。あなた、行方不明者届が出ています」

 

「……あー。いつのやつですか」

 

「取り下げが、先週」

 

「……母さん、仕事が早ぇな」

 

「数年前に家を出たきり、連絡が取れないと」

 

「そうです。色々あって帰れなくて。先週、ようやく両親と会えました」

 

「その『色々』は、今ここで話せますか」

 

「……話せます。信じてもらえるかは、別として」

 

女性巡査は頷いた。頷いてから、顔つきを戻した。

 

「では、署でお願いします」

 

---

 

「それは……強制ですか」

 

「お願いです。ただ」

 

女性巡査は、擦り切れた背中をこちらへ見せないように、半身をずらした。

 

「警察官が一人、負傷しています。その時点で、朝までと同じ扱いにはできません」

 

「負傷。……誰が」

 

「レムです」

 

答えたのは、レム本人だった。

 

「ごめんなさい、スバルくん。レムが、その方を突き飛ばしました」

 

「まじでか」

 

「……はい」

 

「いや、待って。状況は」

 

「ベアトリス様に、人の膝が当たって。倒れそうになって。伸びてきた手を、払ったつもりでした」

 

「……つもりで、あの距離まで飛ぶのか」

 

スバルは、女性巡査の背を見た。

 

制服の背中が白く擦り切れている。左の袖が肘から先で裂けて、めくれた内側が赤黒く汚れていた。血は、もう乾きかけている。

 

「……立ってるの、痛いですよね」

 

「業務に支障はありません」

 

「答えになってないですよ、それ」

 

「ええ。答えになっていません」

 

女性巡査は、そこで初めて微かに笑った。笑ってから、すぐに顔を戻す。

 

「穏便に済ませるためにも、ご同行をお願いします」

 

「その前に、一つだけ」

 

スバルは、上げたままの手を下ろさずに言った。

 

「署に入ったら、この四人は、どうなりますか」

 

女性巡査が黙った。

 

答えたのは、年配巡査だった。

 

「……正直に言うよ。ここで押し問答するより、そのほうがいい」

 

「お願いします」

 

「まず、その青い髪の子。負傷の件がある。これは別件だ。同じ部屋では聞けない」

 

「……はい」

 

「次に、そっちの小さい子」

 

ペンの先が、ベアトリスへ向いた。

 

「どう見ても年齢が下すぎる。保護者もいない。うちだけの話じゃ済まない。別の機関が入る」

 

「別の、機関」

 

ベアトリスが繰り返した。

 

「悪い場所じゃない。ただ、今日はもう、あんたたちと同じ部屋には居られなくなる」

 

「……ベティーは、この四人といるのよ」

 

「そう言ってもらえるのが、いちばん困るんだ」

 

ベアトリスの指が、エミリアの袖を掴み直した。

 

「残りの二人も、別々だ。話が食い違わないかを見るのが、こっちの仕事でね。あんたたちが正直かどうかじゃない。手順がそうなってる」

 

「……五人、全部バラバラってことですか」

 

「そうなる」

 

スバルは、一度だけ目を閉じた。

 

開けたときには、もう次の言葉を選んでいた。

 

「……俺が、身元引受人になるってのは」

 

「あなたが?」

 

「はい」

 

「ナツキさん。あなた、この四人の何にあたりますか。親族ですか。後見人ですか」

 

「……違います」

 

「同居していた事実は。契約でも、写真でも、何か残ってますか」

 

「……無いです。この国には、何も」

 

「先週まで、行方不明者届が出ていた人だ」

 

年配巡査の声に、意地の悪さはなかった。だからこそ、逃げ場が無かった。

 

「悪いけど、今日のあなたに預けられるものは、何も無い」

 

「……じゃあ、俺も一緒に行きます。同じ部屋じゃなくていい。同じ建物にいれば」

 

「それは構いません」

 

女性巡査が言った。

 

「ただ、いつ出られるかは、私には約束できません」

 

スバルは、何も返せなかった。

 

「……スバル」

 

「ん」

 

「また、すぐ会えるのよね?」

 

エミリアが言った。

 

スバルの唇が、開いて、閉じた。

 

「……スバル?」

 

「…………」

 

「答えられないのね」

 

ラムだった。

 

「……悪い」

 

「謝らないで」

 

ラムは、顔の向きを変えないまま言った。

 

「答えられないという答えを、ちゃんと出しただけよ」

 

---

 

人垣の後方が、また押した。

 

規制線はまだ張られていない。制服の一人が、車道へはみ出した群衆を両腕で押し戻している。その頭の上を越えて、腕と板が伸びてくる。

 

「あ、今の聞こえた? 『また会えるのか』って」

 

「お前、少し黙れよ」

 

「なんで。いいとこじゃん」

 

女性巡査が群衆へ向き直ろうとして、左肩を庇った。

 

一瞬、息を止める。額に汗が浮いていた。

 

レムが、一歩動いた。

 

「……あの。手当てを」

 

「結構です」

 

「レムがやったことです。だから」

 

「だから、結構です」

 

拒絶ではなかった。

 

ただ、身体のほうが先に、半歩下がっていた。

 

女性巡査自身が、それに気づいて顔をしかめる。

 

「……ごめんなさい。今のは、私が悪い」

 

「いえ」

 

レムの手が、行き場を失って落ちた。

 

その横を、小さな影がすり抜けていく。

 

「どきなさい」

 

「ベア子、待て」

 

「待たないのよ」

 

ベアトリスは女性巡査の前で足を止め、見上げた。掌が、裂けた袖の上へ持ち上がる。

 

その手首を、スバルが掴んだ。

 

上げていたはずの右手が、いつの間にか下りていた。

 

「離すのよ」

 

「駄目だ」

 

「あの女は、倒れかけたベティーに——」

 

「分かってる。分かってるから駄目なんだ」

 

スバルは膝を折り、ベアトリスの耳元まで顔を下げた。声が、周りへ漏れない高さまで落ちる。

 

「今ここでやったら、お前が『説明できないもの』になる」

 

「……何を言っているのよ」

 

「傷が消えるより、傷が消えたことのほうが問題になる街なんだよ、ここは」

 

ベアトリスの目が、掲げられた板の列を、端から端まで舐めた。

 

数えるのをやめる数だった。その全部に、丸い目が嵌まっている。

 

指が、ゆっくりと下がる。

 

そのとき、車道側で声が上がった。

 

押し戻していた制服の一人が、逆に二歩持っていかれる。群衆の前列が一段こちらへ寄り、背中と背中が壁になった。板の列ごと、視界が切れた。

 

ベアトリスの唇が、音にならない短さで動いた。

 

掌は、袖の裂け目から指二本ぶんのところにあった。

 

光は、灯らなかった。

 

一秒。あるいは、もっと短い。

 

人垣が戻り、光が戻る。

 

ベアトリスは、もう元の位置にいた。

 

女性巡査が、自分の左腕をゆっくり上げた。

 

肘を曲げる。伸ばす。肩を回す。もう一度。

 

「……え」

 

「どうした」

 

「……いえ」

 

裂けた袖はそのままだった。乾いた血も、擦り切れた背中もそのままだった。

 

彼女はもう一度だけ腕を回して、それから、ベアトリスを見た。

 

ベアトリスは、あらぬ方向を見ていた。

 

「……ベアトリスちゃん」

 

「なんなのよ」

 

「……ううん。なんでもない」

 

言えなかった。言葉にした瞬間に、自分が何を言っているのか分からなくなることが、先に分かった。

 

スバルが、ベアトリスの襟を軽く引き寄せる。

 

「おい。やっただろ」

 

「やってないのよ」

 

「嘘つけ」

 

「……痛みだけよ。あんなもの、指先で摘まむ程度かしら」

 

ベアトリスの膝が、少しだけ笑っていた。スバルの袖を掴んで、それを誤魔化す。

 

「この世界は薄いのよ。一杯汲むのに、井戸を一つ空にするようなものかしら。……だから、それだけなのよ」

 

「なんでやった」

 

「…………」

 

ベアトリスは、顔を背けた。

 

「借りを作ったまま連れて行かれるのは、趣味じゃないかしら」

 

---

 

サイレンが増えた。二つ。三つ。

 

人垣の外側が厚くなり、前列と後列の境が、もう見えない。誰かの肘が誰かの背に当たり、笑い声のような悲鳴が上がる。

 

「移動します。四人とも、それとナツキさんも」

 

女性巡査が言った。

 

「バルス」

 

「……」

 

「試したのは見ていたわ。足りなかっただけよ」

 

「……足りなかったな」

 

「モタモタしていると、エミリア様にご迷惑がかかるわ」

 

スバルは、下ろした自分の掌を見た。

 

それから、エミリアを見た。

 

「エミリア」

 

「うん」

 

「今から俺、たぶんすげぇ悪いことする」

 

「……うん」

 

「止めないのか」

 

「止めない。でも、ひとつだけ聞かせて」

 

エミリアは、まっすぐスバルを見た。

 

「それ、一人で背負うつもり?」

 

「……」

 

「じゃあ、私も一緒に悪いことするわ。半分こ」

 

「エミリアたん……!」

 

「五等分よ」

 

ラムが、袖を直しながら言った。

 

「数を間違えないで」

 

スバルは笑った。

 

笑って、それから女性巡査へ向き直り、頭を下げた。

 

「すみません。俺、これから逃げます」

 

「……は」

 

「先に言っときます。黙って逃げるのは、なんか違う気がしたんで」

 

「ナツキさん、待って——」

 

---

 

そのとき、人垣の後ろが押した。

 

「行っちゃう!」

 

「見えねー、前どいて!」

 

後方には、何が起きているのか知らない者しかいない。前が動いたことだけが分かる。分かったぶんだけ、詰める。

 

押された前列に、退がる場所は無かった。車道側に立っていた制服が、群衆ごと二歩持っていかれる。

 

赤色灯の横に、人ひとりぶんの隙間が空いた。

 

スバルは、それを見た。

 

見て、一拍、遅れた。

 

自分が何もしていないことを、確かめるみたいに。

 

「……行くぞ」

 

レムが動いた。ベアトリスを横抱きにして、隙間へ身体をねじ込む。ラムが続き、エミリアがスバルの背を押した。

 

「おい——! 止まりなさい!」

 

「待って、待ちなさい!」

 

五つの足音が、赤い光の外へ抜けた。

 

先頭は、いちばん足の遅い男だった。

 

「右! 階段は下りるな、脇を抜けろ! アーケード入るぞ!」

 

「……道を知っているのね」

 

「俺の街だ」

 

---

 

アーケードの下は、まだ朝だった。

 

シャッターを半分上げた店。搬入のトラック。積み上げられた発泡スチロールの箱。買い物袋を提げた人が、走ってくる五人を見て、慌てて道の端へ寄る。

 

「すんません! 通ります! 通ります!」

 

「——失礼します!」

 

レムがベアトリスを抱えたまま、箱の山を跳び越えた。着地の音がしない。

 

その三歩後ろで、スバルが箱に肩をぶつけた。

 

「うぉ、っと」

 

「バルス」

 

「なんだよ」

 

「遅い」

 

「知ってる!」

 

背後から、拡声された声が届く。

 

「東口ロータリー、対象五名、徒歩で北へ。商店街方向!」

 

その後ろから、別の声も追いかけてきた。

 

「見えた見えた見えた! 商店街入ってったって!」

 

「ねえスバル」

 

エミリアが横に並んだ。息が、まだ上がっていない。

 

「私たちがスバルを抱えたほうが、たぶん速いわ」

 

「道案内が荷物になってどうすんだよ!」

 

「レム、この男を置いていくかしら」

 

「置いてくな!」

 

スバルが急に速度を落とし、店と店のあいだへ身体をねじ込んだ。

 

「こっち。子供の頃から知ってる抜け道だ」

 

一つ目の角を曲がる。

 

二つ目を曲がった先で、足が止まった。

 

灰色の壁。工事の囲い。黄色と黒の縞が、行く手を横一列に塞いでいる。

 

「……あれ」

 

「行き止まりに見えるけど」

 

「変わってる……! ここ、前は裏の駐車場まで抜けられたんだって!」

 

「『俺の街だ』とは何だったのよ」

 

「何年か経ってんだよ! ……いや、何年かって、なんで俺——」

 

言いかけて、飲み込んだ。

 

アーケードの方から、足音と声が近づいてくる。「そっち行った!」と、誰かが叫んでいる。

 

レムが囲いを見上げた。

 

「エミリア様、ベアトリス様。先に行きます」

 

「レム」

 

「はい」

 

「使うな」

 

「……分かっています」

 

レムは囲いの継ぎ目に爪先をかけ、二度で上へ抜けた。ベアトリスを抱えたままだった。ラムがその後を追い、板の上で身を翻して消える。

 

「ごめんねスバル、ちょっと我慢して」

 

「え。ちょ、待、まさかお前」

 

「へっちゃらよ!」

 

「へっちゃらなんて今どき——」

 

「えい!」

 

「うわああ!」

 

視界が回り、腹に腕が食い込み、囲いの縁が目の下を過ぎていった。

 

着地。塗料と、掘り返した土の匂い。

 

囲いの向こうで、誰かの声が跳ねた。

 

「うわ、なんだ今の、ニンジャかよ! ……いや、ヤラセでもAIでもないからね、俺リアタイだからこれ!」

 

「……エミリア。降ろせ。降ろしてください」

 

「あ、ごめんね」

 

スバルは足をつき、膝に手をついて、二回だけ深く息をした。

 

「どこへ行くの」

 

「駅」

 

「スバルくんのご実家は」

 

レムが訊いた。

 

「……近い」

 

スバルは顔を上げて、囲いの向こうの屋根を一度だけ見た。

 

「近いから、行かない。今あそこに五人で転がり込んだら、母さんちが明日から見世物だ」

 

「賢明ね」

 

ラムが言って、先に歩き出した。

 

---

 

工事の裏道を抜けると、線路沿いの細い道へ出た。

 

金網の向こうを、銀色の筋が二本、どこまでも伸びている。その先に、昨日の建物があった。

 

そして、あの低い門があった。

 

「……ここ」

 

エミリアの足が、止まる。

 

「昨日の関所ね」

 

「通れないのよ、ここは。ベティー達には」

 

「札が要ります。持っていません」

 

レムが言い終える前に、スバルは券売機の前に立っていた。

 

「そこで待ってろ」

 

光る面に指を走らせる。数字を押す。硬貨が落ちる音。

 

紙が、五枚。

 

「ほら。切符。通行証みたいなもんだ」

 

「小さいわね。誰に見せるの」

 

「見せない」

 

スバルが門の前に立ち、一瞬、手を止めた。

 

「……入れる穴が、無いな。変わってる」

 

「そこよ」

 

ラムが、横から指を差した。

 

「昨日、ラムたちは半日あの門を見ていたのよ。紙を持っている者は、そこへ入れていたわ」

 

スバルが、ラムを見た。

 

「……助かる」

 

「どういたしまして」

 

エミリアの掌に、紙が一枚残った。

 

厚みのない、指で摘まめば折れる紙だった。

 

「……買えば、通れるの」

 

「そう。買えば通れる」

 

「これだけで?」

 

「これだけで」

 

エミリアは、その紙と、目の前の門を見比べた。

 

腰ほどの高さ。走って跳べば、一歩。昨日、五歩先に進めなかった場所だった。

 

「……私たち、ずっとここで困ってたのに」

 

「困ってたな」

 

スバルは、それ以上何も言わなかった。

 

エミリアが、紙を差し入れる。

 

短い音が鳴った。

 

透明な羽が、開いた。

 

一歩。二歩。

 

通った。

 

振り返る。門はもう閉じている。さっきまで自分がいた側が、そこにあった。

 

「……ちゃんと、通れた」

 

「出てきた切符、忘れず取れよ。それ無いと、向こうで出られないからな」

 

「入るのにも要って、出るのにも要るのよ。難儀な門かしら」

 

ベアトリスが、爪先立ちで紙を引き抜いた。

 

レムが最後に通り、一度だけ振り返った。

 

門の向こう——昨日の四人が立っていた側で、制服の駅員がこちらを見ている。

 

「あ」と、口が開いた。

 

何かを言う前に、五人は階段を下りていた。

 

---

 

「三番線に、まもなく——」

 

「喧しい声ね。誰が何を喋っているのか、分からないけれど」

 

「もうすぐ乗り物が来る。黄色い線の内側に下がれ」

 

「黄色い……」

 

エミリアが、足元を見た。

 

細長い黄色の帯が、ホームの端に沿って続いている。表面に、規則正しい突起が並んでいた。

 

「これ、ここにもあるの」

 

「どこにでもあるよ」

 

エミリアは、しばらくその帯を目で追っていた。それから、内側へ一歩下がった。

 

風が来た。

 

音が、腹の底から押し上げてくる。

 

「何、この……怪物。いえ、建物?」

 

「こんなに大きな『家』を、魔法も使わずにどう動かしているのよ。さっぱり分からんかしら」

 

「電車。……とりあえず乗ろうぜ」

 

扉が開く。人が降りて、人が乗る。誰も、誰にも指示していない。

 

五人が乗り込み、扉が閉まった。

 

ホームが、後ろへ流れ出す。

 

---

 

車内は、それほど混んでいなかった。

 

それでも、座っていた数人が顔を上げ、そのうち二人が板を取り出した。スバルが、ベアトリスの頭を軽く押して、窓側へ向けさせる。

 

「顔、下げとけ」

 

「押すんじゃないのよ」

 

「頼む。あと一駅だけ」

 

ベアトリスは文句を言いながら、窓へ向き直った。

 

流れていく街を、しばらく黙って見ていた。

 

スバルのポケットが、震えた。

 

一度切れて、また震える。取り出した板の面に、同じ二文字が出ていた。

 

「……鳴ってるわ」

 

「鳴ってる」

 

「出ないの?」

 

「出たら、俺、たぶん帰るって言うから」

 

エミリアは、それ以上訊かなかった。

 

「スバルくん」

 

レムが、吊り革を掴まずに立っていた。

 

「ん」

 

「レムは、スバルくんの帰る場所を、壊しに来たんでしょうか」

 

スバルは、震え続ける板を見たまま答えた。

 

「壊れてねぇよ」

 

「でも」

 

「壊れてねぇ。俺が今、自分で出てきただけだ」

 

レムが、何か言おうとして、やめた。

 

やめて、頭を下げようとした。

 

「謝んな」

 

その前に、声が飛んだ。

 

「俺が決めたんだから、謝んな」

 

レムの頭が、中途半端な高さで止まる。それから、ゆっくり戻った。

 

スバルは窓へ顔を向けた。

 

家の屋根が、途切れずに流れていく。屋根と屋根のあいだに隙間は無く、隙間があれば、そこにも道があった。

 

「……数年なんだよ、こっちは」

 

「え」

 

「……なんでもない」

 

エミリアが首を傾げた。レムは、その言葉の置きどころを探すように黙った。

 

ラムだけが、スバルの横顔を見ていた。

 

何も言わなかった。

 

板が、また震えた。三度目か、四度目か、スバルはもう数えていなかった。

 

親指を、長く押し当てる。

 

画面が暗くなり、指を離すと、それはただの黒い板になった。

 

「切ったのよ、それ」

 

ベアトリスが、窓から顔を戻した。

 

「切った」

 

「……いいのかしら」

 

「よくはねぇ」

 

スバルは、黒くなった板をポケットへ滑り込ませた。

 

「よくはねぇけど、決めたのは俺だ」

 

車輪の音だけが続いた。

 

エミリアが、そっと窓の外へ目をやる。灰色の塔が遠ざかり、屋根の色が少しずつ変わっていった。

 

---

 

電車の去ったホームに、二人残っていた。

 

一人はフードを深くかぶり、もう一人は、大きなリュックを背負っている。

 

黄色い線の内側で、フードの男が板を覗き込んでいた。画面の中では、同じ数秒が繰り返し流れている。

 

青い髪の女が、腕を払う。

 

制服が、一メートル以上、後ろへ跳ぶ。

 

「……何回見ても、人間の力じゃねぇな」

 

「加工だろ」

 

「加工なら、撮ってる奴の手が揺れてねぇとおかしい」

 

リュックの男が、鼻から息を抜いた。

 

「警察が先に押さえるだろ」

 

「押さえられてたら、今そこの電車に乗ってねぇよ」

 

フードの男が顔を上げ、電車の消えた方向を見た。線路の先は、もう見えない。

 

「どの駅で降りるか、分かるか」

 

「分かんねぇ」

 

板の面を、指が撫でる。

 

「……けど、あれだけ目立ちゃ、誰かが上げる」

 

画面の中で、また女が腕を払った。

 

二人は、それを最初から再生し直した。

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