帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第5話「十四時三十七分」

 

 

窓の外を、同じ緑が流れていた。

 

畑と、畑と、その切れ目の細い道。ときどき家が二軒だけ並んで、また畑に戻る。

 

車両の端に、五人で固まっていた。乗客は数えるほどしかいない。立っている者は、誰もいない。

 

ベアトリスはエミリアの肩に頭を預けて、目を閉じていた。眠っているのかどうかは、顔からでは分からなかった。

 

エミリアが、窓から目を離した。

 

「……ねえ、スバル。さっきから畑ばっかりよ。あと一駅だけって、言ってなかった?」

 

「言った」

 

つり革が、揺れに合わせて一斉に同じ方向へ傾いた。

 

「……言ったけど、降りる度胸が出なかった」

 

「三度扉が開いて、三度とも降りなかったわね」

 

ラムが、腕を組んだまま言った。窓の外は見ていない。

 

「見てたのかよ」

 

「見ていたわ」

 

膝の上で、スバルの指が一度握られて、また開いた。

 

「離れることと、解決することは別よ。バルスは今、前者しかしていないわ」

 

「……わかってるって」

 

車輪の音が、継ぎ目をひとつ拾った。

 

「スバルくん」

 

レムが、隣から顔を向けた。

 

「お財布は」

 

「二万九千八百ちょい」

 

「四日で尽きます。レムが数えました。スバルくんが数えないので」

 

「……四日か」

 

スバルは、ポケットの上から財布の厚みを確かめた。厚みは、昨日より薄い。

 

「宿は」

 

「無理だ」

 

答えるまでに、少し間が空いた。

 

「お前らは住所も身分証もねえし、ベア子は子どもに見える。俺の名前で五人分取ったら、必ず確認されて、記録も残る」

 

「……子どもではないのよ」

 

目を閉じたまま、ベアトリスが言った。声には、いつもの張りがなかった。

 

エミリアが、その頭を肩でそっと支え直す。

 

「ねえ、スバル。あなたのお家は」

 

スバルは、窓の外を見た。

 

畑の向こうに、細い鉄塔が一本立っている。それが遠ざかって、視界から抜けた。

 

「……だめだ」

 

「でも」

 

「今ごろ家の前に人が立ってる。テレビか、ネットの奴か、警察か」

 

エミリアが、口を閉じた。

 

「俺が帰ったら、母さんまで巻き込む」

 

スバルの膝の上で、指がまた握られる。

 

「……それに、家に戻るだけじゃ、お前らは帰せない。今探さなきゃいけねえ帰り道は、そっちじゃねえんだ」

 

誰も何も言わなかった。

 

車輪の音だけが続いた。畑が切れて、川が一本、下を通り過ぎていく。

 

「……じゃあ、今度はその帰り道を探しましょう」

 

エミリアの声は、大きくなかった。

 

「追いかけられて走ってるだけじゃ、どこにも着かないもの」

 

スバルが、顔を上げた。

 

「エミリア様の言う通りです。バルスより先に言った分だけ、余計に正しいわ」

 

「俺と比べる必要ある?」

 

「私、こっちから探しに行きたいの」

 

エミリアは、スバルを見ていた。目をそらさない。

 

スバルの喉が、一度上下した。

 

「……わかった。探す」

 

背もたれに、肩を預ける。

 

「どうせ俺も、逃げ切ったあとのこと、何も持ってねえし」

 

天井のスピーカーが、駅の名前を読み上げた。

 

ベアトリスが、まぶたを開ける。

 

「降りるぞ。切符出して。しまい込まないで」

 

---

 

高架の下は、昼でも影が濃かった。

 

太いコンクリートの柱が等間隔に並び、その足元だけ、風が通らずに埃が溜まっている。

 

頭の上を電車が通るたび、会話は一度、途切れた。

 

足元に、安い店の袋が転がっていた。帽子が二つと、フードつきの上着が三枚。値札は切って、袋の中にまとめてある。

 

スバルは、柱に背を預けたまま言った。

 

「ベア子。屋敷でお前がやったこと、もう一回聞かせてくれ」

 

ベアトリスは、柱の反対側に座っていた。両膝を抱えている。

 

「石には触れてないのよ。細く絞ったマナを、表面に這わせただけかしら」

 

その指が、地面の埃に線を一本引く。

 

「……戻ってこなかったのよ。吸われた」

 

「吸って、何に使った」

 

「分からないのよ」

 

「そこは分かってくれよ」

 

「分からないものを分かったと言えば、次に死ぬのはスバルかしら」

 

線が、途中で消された。

 

「……言えるのは、あれが転移に関わっているらしい、ということだけなのよ」

 

電車が通った。

 

音が屋根を叩き、柱を震わせて、遠ざかる。

 

「なら、同じ気配がした場所は」

 

「一度だけ匂ったのよ。落ちてきた日、人混みの中で」

 

「そのあと、人の流れに乗って駅まで歩きました」

 

レムが言い添える。袋の口を折り畳みながら、目だけは道の方に向けていた。

 

「濃くなったのは、あの低い門の向こうだったかしら」

 

ベアトリスが、顔を上げる。

 

「……そこで掴めなくなったのよ。この世界は薄すぎるかしら」

 

スバルは、柱から背を離した。

 

「門の向こうで何か起きたんなら、こっちの世界にも何か出たはずだ」

 

爪先で、地面の小石を転がす。

 

「……あの街のもんは、だいたい電気で動いてる。灯りも、板も、門も」

 

「でんき」

 

レムが、その音をそのまま返した。

 

「で、駅みてえなでかい設備なら、調子が悪くなった時に記録を付けてるかもしれねえ。時刻とか、場所とか」

 

「かもしれない、ね」

 

ラムが、柱にもたれていた。立っているというより、寄りかかって体を支えている。

 

「かもしれない」

 

スバルは、否定しなかった。

 

「当たる保証はねえよ。ただ、今持ってる札はそれ一枚だ」

 

ベアトリスが、膝から顔を上げた。

 

「……ベティーに読めない紙に、ベティーの見たものが書いてあるかしら」

 

「あるといい」

 

エミリアが、二人のあいだに立った。

 

「それ、あの駅なのよね。今朝、切符で抜けたところ」

 

「そう。戻ることになる」

 

「私は戻る。自分で決めたことだもの」

 

言い切ってから、エミリアは自分の手を見た。それから、袋の中の帽子へ目を移す。

 

「レムも」

 

レムが、袋を持ち上げた。

 

「ただし条件が三つ。日が落ちてから動く。駅の中では走らない。レムが退けと言ったら、必ず退く」

 

「……三つ目、重くない?」

 

「重いです。スバルくんは、調べ始めると前しか見ないので」

 

反論の言葉が、途中で止まった。

 

「……了解」

 

「ラムは反対しないわ」

 

柱から、ラムが体を起こす。ほんの一瞬、肩が壁に戻りかけて、また離れた。

 

「ただし、ラムの脚は今朝より遅いことは覚えておきなさい」

 

「ベティーはあの街の空気が嫌いなのよ」

 

ベアトリスが立ち上がる。スカートの埃を払う手が、途中で止まって、そのまま下ろされた。

 

「……行くのよ」

 

「よし。これ被れ。帽子とフード」

 

スバルが袋を裏返すと、布がまとめて出てきた。

 

エミリアが、帽子を両手で受け取る。

 

「私、そんなに目立つ?」

 

「銀髪も桃色も青も、全部だよ。服も」

 

「千九百八十円でした」

 

レムが、値札を畳んでポケットに入れた。

 

「往復の切符と合わせて、四日が三日半になります」

 

「……安いのか高いのか分からねえな」

 

前髪を帽子の中へ押し込むエミリアを見ながら、スバルが言った。

 

「スバルくん」

 

「ん」

 

レムが、道のほうを見ていた。声の高さは、さっきと同じだった。

 

「さっきの店の前にいた人が、この道にもいます。大きな荷物を背負った人です」

 

スバルは、振り向かなかった。

 

視線だけを、柱の陰からずらす。

 

五十メートルほど先の電柱の横に、男が一人立っていた。背中に、四角く膨らんだ荷物。顔は、こちらを向いていない。板を覗き込んでいる。

 

「……警察じゃねえな。警察はあんな待ち方しねえ」

 

「追ってきますか」

 

「分かんねえ」

 

帽子の縁を引き下げる。

 

「ただ、俺たちを探してんのは警察だけじゃねえってことだ。……歩け。走るな、目立つ」

 

五人は、柱の列に沿って歩き出した。

 

高架の上を、また電車が通った。

 

音が途切れたとき、電柱の横に男はいなかった。

 

---

 

夜の北改札は、中央だけが明るかった。

 

改札機の列の上に、白い光の帯が伸びている。その下を、傘を持った人や、鞄を胸に抱えた人が、途切れずに流れていった。

 

東の端だけが違った。

 

三台分を囲うように、灰色の仮囲いが立っている。通路はそのぶん細くなり、人は自然と中央側へ寄って歩いていた。

 

囲いの内側で、作業着が二人、開けた機械の前に座り込んでいる。工具箱の蓋が開き、青いシートの上に部品が並んでいた。

 

「……こっち側だけ人がいねえな。工事で細くしてんのか」

 

スバルは、柱の陰から囲いを見ていた。帽子の縁を、指で押さえている。

 

「中央は混んでいます。ここだけ、囲いの内側です」

 

レムが、人の流れの速さを目で追った。

 

「スバル」

 

袖が引かれた。

 

ベアトリスの手だった。指の力が、昼より強い。

 

「なんだ」

 

「……匂うかしら。途切れ途切れなのよ」

 

息が浅かった。それを隠すように、ベアトリスは背を伸ばした。

 

「昼の場所では、何も言いませんでしたね」

 

「言うことが無かったのよ。ここは、在る」

 

「近いってことでいいのか」

 

「近いとまでは言っていないのよ」

 

「バルス」

 

ラムが、顎で示した。

 

「作業着が二人。座り込んでいるわ」

 

エミリアが、帽子の下から囲いを見た。

 

それから、一歩前に出た。

 

「……私が先に行く」

 

「エミリアたん?」

 

「今度は私が話す。戻るって決めたのは、私もだから」

 

スバルの口が開いて、閉じた。

 

「では、レムが半歩後ろにつきます」

 

五人は、囲いの切れ目から中へ入った。

 

靴の下で、養生テープの継ぎ目が鳴った。

 

若いほうの作業着が顔を上げ、腰を浮かせる。

 

「あ、すみません。こちら通れません、南側へ回って——」

 

言葉が、途中で止まった。

 

視線が、エミリアの帽子からこぼれた銀の髪へ移り、それからレムへ動く。

 

「……真壁さん」

 

「あ?」

 

年かさの男が、機械の中から手を抜いた。

 

「昨日の動画の人たちです。……銀髪の子と、青い髪の子」

 

日向が、胸元の無線に手をかけた。

 

背を向け、口元を襟に近づける。

 

「駅務室。北改札東側です。朝の連絡の人たち、来てます。……はい、五人」

 

無線が、短く鳴って切れた。

 

「……早いな」

 

「規則です。見かけたら連絡するように、今朝言われてます」

 

日向は、無線から手を離さなかった。

 

「連絡したなら、来るまでのあいだだけ、聞いて」

 

エミリアが言った。両手は、体の横に下ろしたままだった。

 

「三十秒もかかりません」

 

「じゃあ、三十秒で言います」

 

スバルが、エミリアの隣に並んだ。

 

「……昨日の昼、この改札、停電しませんでしたか」

 

「していません」

 

即答だった。

 

「え」

 

「電源も通信も、正常でした。制御だけが一斉に落ちて、数秒で勝手に戻りました」

 

日向の視線が、開いたままの機械へ落ちる。

 

「……ログに、落ちた理由が書いてありません」

 

スバルの喉が、小さく鳴った。

 

「……外したか」

 

「二十年やってるが、理由の書いてねえ落ち方は初めてだ」

 

真壁が、工具を布の上に置いた。置いてから、膝に手をついて立ち上がる。

 

「時刻、教えてもらえませんか」

 

「言えません。あなたたちが何なのかも分からないのに」

 

「日向」

 

「真壁さん。今日は庇わないでください」

 

そのときだった。

 

改札機の表示が、一斉に消えた。

 

読取部の緑の光が、端から端まで落ちる。頭上の照明は点いたままだった。囲いの中の作業灯も、白いまま光っている。

 

止まったのは、音だった。

 

通過音の電子音が、二十二台分、同時に途切れた。

 

中央側で、鞄を抱えた男が足を止めた。扉に肩を挟みかけた学生が、後ろへ下がる。改札の向こうから、駅員の声が飛んだ。

 

数秒。

 

表示が、端から順に戻った。電子音がまた鳴り始め、人の流れは、何事もなかったように前へ動き出す。

 

「……おい」

 

「……今、落ちました。二十二台。また同時に」

 

日向の指が、端末の画面を滑った。

 

「三度目だ」

 

真壁が、囲いの外を見て、それから五人を見た。

 

「日向。人が来るまで、こいつらの話を聞く。俺の判断だ」

 

「……三分です。それ以上は、私の立場が持ちません」

 

「十分です」

 

スバルが、半歩前に出た。

 

「……時刻」

 

日向は、画面を見たまま言った。

 

「昨日は十四時三十七分。二十二台、同時です。今朝も、同じ出方で、同じ二十二台」

 

「今朝、俺たち、ここにいました。走って、改札抜けて、電車に乗った」

 

日向の顔が、上がった。

 

「……自分たちのせいだと言ってるんですか」

 

「分かりません」

 

スバルは、目をそらさなかった。

 

「ただ、居ました。それは事実なんで、隠しても仕方ない」

 

「一つ聞くのよ」

 

ベアトリスが、スバルの袖を掴んだまま前に出た。

 

「その記録では、本当に完全に同じ時なのかしら」

 

日向の眉が寄った。

 

「……え」

 

「同時に見えるものが、同時とは限らんのよ。人の目では、そうでしょう」

 

真壁が、腰を折ってベアトリスの顔を覗き込む。

 

「……嬢ちゃん、何屋だ」

 

「屋ではないのよ」

 

日向が、その場に屈んだ。

 

端末を膝に載せ、指で画面をなぞる。指が、一度止まった。

 

「……東端の三台だけ、ほんの少し早いです。戻るのも、ここが最後」

 

スバルが、囲いの内側を見回した。三台の機械。その向こうの壁。

 

「東端」

 

「でも、私たちが落ちてきたのは、大きな道の真ん中のほうよ」

 

エミリアが、囲いの外へ目をやった。

 

「……ズレてる」

 

「ズレているのよ」

 

袖を掴む指の力が、少し強くなった。

 

「……そこから先は、分からないのよ」

 

日向が、立ち上がった。

 

「あの。……あなたたちは、結局なんなんですか」

 

「それは——」

 

「昨日のお昼に、ここじゃない場所から来たの」

 

エミリアだった。

 

「エミリアたん」

 

「言うわ」

 

帽子を、少しだけ押し上げる。銀の髪が、作業灯の白に触れた。

 

「気がついたら大きな道の真ん中にいて、車に轢かれかけて、それから駅に来た。門を通れなくて、ずっと外に立ってた」

 

日向は、何も言わなかった。

 

「信じてほしいとは言わない。でも、嘘は言いたくないの」

 

囲いの外を、人が通り過ぎていく。誰も、こちらを見ていない。

 

「……信じねえよ、そんな話」

 

真壁が言った。

 

「うん」

 

「信じねえけど、機械は直ってねえ。明日も俺はここにいる」

 

---

 

囲いの外へ出ると、空調の低い音が壁の向こうから漏れていた。

 

歩道には、街灯が等間隔に並んでいる。その手前、囲いの角の上に、四角い箱が一つ、外を向いて据えられていた。

 

「あー、ついでに一個言っとく」

 

真壁が、それを親指で示した。

 

「その囲いの真上、カメラがある」

 

スバルの足が、止まった。

 

「……え」

 

「駅の外向きのやつです」

 

日向が続けた。

 

「昨日の十四時三十七分も、位置的には映っているはずです。……中身は、私は見ていません」

 

「見せてください」

 

「私には開けられません。保安の担当か、警察の照会がないと出てきません」

 

「……警察」

 

「今朝、事情を聞かせてほしいと言われた時に、映像を消さないようにという話も出ていました」

 

日向は、カメラを見上げていた。

 

「……照会が入っていれば、私のところまでは下りてきません」

 

袖が、また引かれた。ベアトリスの指が、布を握り直している。

 

スバルは、カメラの黒い面を見上げた。そこに映っているものは、ここからは見えない。

 

「……俺たちが出てきた瞬間が、映ってるかもしれない。それを、俺たちだけが見られない」

 

「バルス」

 

ラムが、静かに言った。

 

「機械が二十二台止まった。ベアトリス様が匂うと言った。それだけよ。ここが帰り道だとは、まだ誰も言っていないわ」

 

「言っていないのよ」

 

「……だな」

 

「スバルくん」

 

レムが、囲いの切れ目を見ていた。

 

「人が来ます。三人。制服です」

 

スバルは、答えなかった。

 

「あと、手」

 

レムの視線が下がる。スバルの右手は、指が白くなるまで握られていた。

 

「ずっと握ったままです。行きましょう」

 

「……行く」

 

「これ」

 

日向だった。

 

差し出された指のあいだに、破った紙の端が挟まっている。

 

「……なんすか」

 

「時刻です。十四時三十七分、二十二台」

 

受け取る手を、日向は見なかった。

 

「……信じたわけじゃありません。ただ、数字は誰のものでもないので」

 

紙が、スバルの掌の中で一度だけ折れた。

 

五人は囲いの外へ抜け、歩道を歩き出した。

 

背後で、機械の蓋が閉じる音がした。

 

街灯の手前に、二人立っていた。

 

一人はフードを深くかぶり、もう一人は、大きなリュックを背負っている。

 

板の光が、フードの下の顔を下から照らしていた。

 

近づいてこない。ただ、そこに立っている。

 

「スバルくん」

 

「見た」

 

スバルは、帽子の縁を引き下げた。

 

「……走らない。振り向かない。そのまま歩け」

 

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