窓の外を、同じ緑が流れていた。
畑と、畑と、その切れ目の細い道。ときどき家が二軒だけ並んで、また畑に戻る。
車両の端に、五人で固まっていた。乗客は数えるほどしかいない。立っている者は、誰もいない。
ベアトリスはエミリアの肩に頭を預けて、目を閉じていた。眠っているのかどうかは、顔からでは分からなかった。
エミリアが、窓から目を離した。
「……ねえ、スバル。さっきから畑ばっかりよ。あと一駅だけって、言ってなかった?」
「言った」
つり革が、揺れに合わせて一斉に同じ方向へ傾いた。
「……言ったけど、降りる度胸が出なかった」
「三度扉が開いて、三度とも降りなかったわね」
ラムが、腕を組んだまま言った。窓の外は見ていない。
「見てたのかよ」
「見ていたわ」
膝の上で、スバルの指が一度握られて、また開いた。
「離れることと、解決することは別よ。バルスは今、前者しかしていないわ」
「……わかってるって」
車輪の音が、継ぎ目をひとつ拾った。
「スバルくん」
レムが、隣から顔を向けた。
「お財布は」
「二万九千八百ちょい」
「四日で尽きます。レムが数えました。スバルくんが数えないので」
「……四日か」
スバルは、ポケットの上から財布の厚みを確かめた。厚みは、昨日より薄い。
「宿は」
「無理だ」
答えるまでに、少し間が空いた。
「お前らは住所も身分証もねえし、ベア子は子どもに見える。俺の名前で五人分取ったら、必ず確認されて、記録も残る」
「……子どもではないのよ」
目を閉じたまま、ベアトリスが言った。声には、いつもの張りがなかった。
エミリアが、その頭を肩でそっと支え直す。
「ねえ、スバル。あなたのお家は」
スバルは、窓の外を見た。
畑の向こうに、細い鉄塔が一本立っている。それが遠ざかって、視界から抜けた。
「……だめだ」
「でも」
「今ごろ家の前に人が立ってる。テレビか、ネットの奴か、警察か」
エミリアが、口を閉じた。
「俺が帰ったら、母さんまで巻き込む」
スバルの膝の上で、指がまた握られる。
「……それに、家に戻るだけじゃ、お前らは帰せない。今探さなきゃいけねえ帰り道は、そっちじゃねえんだ」
誰も何も言わなかった。
車輪の音だけが続いた。畑が切れて、川が一本、下を通り過ぎていく。
「……じゃあ、今度はその帰り道を探しましょう」
エミリアの声は、大きくなかった。
「追いかけられて走ってるだけじゃ、どこにも着かないもの」
スバルが、顔を上げた。
「エミリア様の言う通りです。バルスより先に言った分だけ、余計に正しいわ」
「俺と比べる必要ある?」
「私、こっちから探しに行きたいの」
エミリアは、スバルを見ていた。目をそらさない。
スバルの喉が、一度上下した。
「……わかった。探す」
背もたれに、肩を預ける。
「どうせ俺も、逃げ切ったあとのこと、何も持ってねえし」
天井のスピーカーが、駅の名前を読み上げた。
ベアトリスが、まぶたを開ける。
「降りるぞ。切符出して。しまい込まないで」
---
高架の下は、昼でも影が濃かった。
太いコンクリートの柱が等間隔に並び、その足元だけ、風が通らずに埃が溜まっている。
頭の上を電車が通るたび、会話は一度、途切れた。
足元に、安い店の袋が転がっていた。帽子が二つと、フードつきの上着が三枚。値札は切って、袋の中にまとめてある。
スバルは、柱に背を預けたまま言った。
「ベア子。屋敷でお前がやったこと、もう一回聞かせてくれ」
ベアトリスは、柱の反対側に座っていた。両膝を抱えている。
「石には触れてないのよ。細く絞ったマナを、表面に這わせただけかしら」
その指が、地面の埃に線を一本引く。
「……戻ってこなかったのよ。吸われた」
「吸って、何に使った」
「分からないのよ」
「そこは分かってくれよ」
「分からないものを分かったと言えば、次に死ぬのはスバルかしら」
線が、途中で消された。
「……言えるのは、あれが転移に関わっているらしい、ということだけなのよ」
電車が通った。
音が屋根を叩き、柱を震わせて、遠ざかる。
「なら、同じ気配がした場所は」
「一度だけ匂ったのよ。落ちてきた日、人混みの中で」
「そのあと、人の流れに乗って駅まで歩きました」
レムが言い添える。袋の口を折り畳みながら、目だけは道の方に向けていた。
「濃くなったのは、あの低い門の向こうだったかしら」
ベアトリスが、顔を上げる。
「……そこで掴めなくなったのよ。この世界は薄すぎるかしら」
スバルは、柱から背を離した。
「門の向こうで何か起きたんなら、こっちの世界にも何か出たはずだ」
爪先で、地面の小石を転がす。
「……あの街のもんは、だいたい電気で動いてる。灯りも、板も、門も」
「でんき」
レムが、その音をそのまま返した。
「で、駅みてえなでかい設備なら、調子が悪くなった時に記録を付けてるかもしれねえ。時刻とか、場所とか」
「かもしれない、ね」
ラムが、柱にもたれていた。立っているというより、寄りかかって体を支えている。
「かもしれない」
スバルは、否定しなかった。
「当たる保証はねえよ。ただ、今持ってる札はそれ一枚だ」
ベアトリスが、膝から顔を上げた。
「……ベティーに読めない紙に、ベティーの見たものが書いてあるかしら」
「あるといい」
エミリアが、二人のあいだに立った。
「それ、あの駅なのよね。今朝、切符で抜けたところ」
「そう。戻ることになる」
「私は戻る。自分で決めたことだもの」
言い切ってから、エミリアは自分の手を見た。それから、袋の中の帽子へ目を移す。
「レムも」
レムが、袋を持ち上げた。
「ただし条件が三つ。日が落ちてから動く。駅の中では走らない。レムが退けと言ったら、必ず退く」
「……三つ目、重くない?」
「重いです。スバルくんは、調べ始めると前しか見ないので」
反論の言葉が、途中で止まった。
「……了解」
「ラムは反対しないわ」
柱から、ラムが体を起こす。ほんの一瞬、肩が壁に戻りかけて、また離れた。
「ただし、ラムの脚は今朝より遅いことは覚えておきなさい」
「ベティーはあの街の空気が嫌いなのよ」
ベアトリスが立ち上がる。スカートの埃を払う手が、途中で止まって、そのまま下ろされた。
「……行くのよ」
「よし。これ被れ。帽子とフード」
スバルが袋を裏返すと、布がまとめて出てきた。
エミリアが、帽子を両手で受け取る。
「私、そんなに目立つ?」
「銀髪も桃色も青も、全部だよ。服も」
「千九百八十円でした」
レムが、値札を畳んでポケットに入れた。
「往復の切符と合わせて、四日が三日半になります」
「……安いのか高いのか分からねえな」
前髪を帽子の中へ押し込むエミリアを見ながら、スバルが言った。
「スバルくん」
「ん」
レムが、道のほうを見ていた。声の高さは、さっきと同じだった。
「さっきの店の前にいた人が、この道にもいます。大きな荷物を背負った人です」
スバルは、振り向かなかった。
視線だけを、柱の陰からずらす。
五十メートルほど先の電柱の横に、男が一人立っていた。背中に、四角く膨らんだ荷物。顔は、こちらを向いていない。板を覗き込んでいる。
「……警察じゃねえな。警察はあんな待ち方しねえ」
「追ってきますか」
「分かんねえ」
帽子の縁を引き下げる。
「ただ、俺たちを探してんのは警察だけじゃねえってことだ。……歩け。走るな、目立つ」
五人は、柱の列に沿って歩き出した。
高架の上を、また電車が通った。
音が途切れたとき、電柱の横に男はいなかった。
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夜の北改札は、中央だけが明るかった。
改札機の列の上に、白い光の帯が伸びている。その下を、傘を持った人や、鞄を胸に抱えた人が、途切れずに流れていった。
東の端だけが違った。
三台分を囲うように、灰色の仮囲いが立っている。通路はそのぶん細くなり、人は自然と中央側へ寄って歩いていた。
囲いの内側で、作業着が二人、開けた機械の前に座り込んでいる。工具箱の蓋が開き、青いシートの上に部品が並んでいた。
「……こっち側だけ人がいねえな。工事で細くしてんのか」
スバルは、柱の陰から囲いを見ていた。帽子の縁を、指で押さえている。
「中央は混んでいます。ここだけ、囲いの内側です」
レムが、人の流れの速さを目で追った。
「スバル」
袖が引かれた。
ベアトリスの手だった。指の力が、昼より強い。
「なんだ」
「……匂うかしら。途切れ途切れなのよ」
息が浅かった。それを隠すように、ベアトリスは背を伸ばした。
「昼の場所では、何も言いませんでしたね」
「言うことが無かったのよ。ここは、在る」
「近いってことでいいのか」
「近いとまでは言っていないのよ」
「バルス」
ラムが、顎で示した。
「作業着が二人。座り込んでいるわ」
エミリアが、帽子の下から囲いを見た。
それから、一歩前に出た。
「……私が先に行く」
「エミリアたん?」
「今度は私が話す。戻るって決めたのは、私もだから」
スバルの口が開いて、閉じた。
「では、レムが半歩後ろにつきます」
五人は、囲いの切れ目から中へ入った。
靴の下で、養生テープの継ぎ目が鳴った。
若いほうの作業着が顔を上げ、腰を浮かせる。
「あ、すみません。こちら通れません、南側へ回って——」
言葉が、途中で止まった。
視線が、エミリアの帽子からこぼれた銀の髪へ移り、それからレムへ動く。
「……真壁さん」
「あ?」
年かさの男が、機械の中から手を抜いた。
「昨日の動画の人たちです。……銀髪の子と、青い髪の子」
日向が、胸元の無線に手をかけた。
背を向け、口元を襟に近づける。
「駅務室。北改札東側です。朝の連絡の人たち、来てます。……はい、五人」
無線が、短く鳴って切れた。
「……早いな」
「規則です。見かけたら連絡するように、今朝言われてます」
日向は、無線から手を離さなかった。
「連絡したなら、来るまでのあいだだけ、聞いて」
エミリアが言った。両手は、体の横に下ろしたままだった。
「三十秒もかかりません」
「じゃあ、三十秒で言います」
スバルが、エミリアの隣に並んだ。
「……昨日の昼、この改札、停電しませんでしたか」
「していません」
即答だった。
「え」
「電源も通信も、正常でした。制御だけが一斉に落ちて、数秒で勝手に戻りました」
日向の視線が、開いたままの機械へ落ちる。
「……ログに、落ちた理由が書いてありません」
スバルの喉が、小さく鳴った。
「……外したか」
「二十年やってるが、理由の書いてねえ落ち方は初めてだ」
真壁が、工具を布の上に置いた。置いてから、膝に手をついて立ち上がる。
「時刻、教えてもらえませんか」
「言えません。あなたたちが何なのかも分からないのに」
「日向」
「真壁さん。今日は庇わないでください」
そのときだった。
改札機の表示が、一斉に消えた。
読取部の緑の光が、端から端まで落ちる。頭上の照明は点いたままだった。囲いの中の作業灯も、白いまま光っている。
止まったのは、音だった。
通過音の電子音が、二十二台分、同時に途切れた。
中央側で、鞄を抱えた男が足を止めた。扉に肩を挟みかけた学生が、後ろへ下がる。改札の向こうから、駅員の声が飛んだ。
数秒。
表示が、端から順に戻った。電子音がまた鳴り始め、人の流れは、何事もなかったように前へ動き出す。
「……おい」
「……今、落ちました。二十二台。また同時に」
日向の指が、端末の画面を滑った。
「三度目だ」
真壁が、囲いの外を見て、それから五人を見た。
「日向。人が来るまで、こいつらの話を聞く。俺の判断だ」
「……三分です。それ以上は、私の立場が持ちません」
「十分です」
スバルが、半歩前に出た。
「……時刻」
日向は、画面を見たまま言った。
「昨日は十四時三十七分。二十二台、同時です。今朝も、同じ出方で、同じ二十二台」
「今朝、俺たち、ここにいました。走って、改札抜けて、電車に乗った」
日向の顔が、上がった。
「……自分たちのせいだと言ってるんですか」
「分かりません」
スバルは、目をそらさなかった。
「ただ、居ました。それは事実なんで、隠しても仕方ない」
「一つ聞くのよ」
ベアトリスが、スバルの袖を掴んだまま前に出た。
「その記録では、本当に完全に同じ時なのかしら」
日向の眉が寄った。
「……え」
「同時に見えるものが、同時とは限らんのよ。人の目では、そうでしょう」
真壁が、腰を折ってベアトリスの顔を覗き込む。
「……嬢ちゃん、何屋だ」
「屋ではないのよ」
日向が、その場に屈んだ。
端末を膝に載せ、指で画面をなぞる。指が、一度止まった。
「……東端の三台だけ、ほんの少し早いです。戻るのも、ここが最後」
スバルが、囲いの内側を見回した。三台の機械。その向こうの壁。
「東端」
「でも、私たちが落ちてきたのは、大きな道の真ん中のほうよ」
エミリアが、囲いの外へ目をやった。
「……ズレてる」
「ズレているのよ」
袖を掴む指の力が、少し強くなった。
「……そこから先は、分からないのよ」
日向が、立ち上がった。
「あの。……あなたたちは、結局なんなんですか」
「それは——」
「昨日のお昼に、ここじゃない場所から来たの」
エミリアだった。
「エミリアたん」
「言うわ」
帽子を、少しだけ押し上げる。銀の髪が、作業灯の白に触れた。
「気がついたら大きな道の真ん中にいて、車に轢かれかけて、それから駅に来た。門を通れなくて、ずっと外に立ってた」
日向は、何も言わなかった。
「信じてほしいとは言わない。でも、嘘は言いたくないの」
囲いの外を、人が通り過ぎていく。誰も、こちらを見ていない。
「……信じねえよ、そんな話」
真壁が言った。
「うん」
「信じねえけど、機械は直ってねえ。明日も俺はここにいる」
---
囲いの外へ出ると、空調の低い音が壁の向こうから漏れていた。
歩道には、街灯が等間隔に並んでいる。その手前、囲いの角の上に、四角い箱が一つ、外を向いて据えられていた。
「あー、ついでに一個言っとく」
真壁が、それを親指で示した。
「その囲いの真上、カメラがある」
スバルの足が、止まった。
「……え」
「駅の外向きのやつです」
日向が続けた。
「昨日の十四時三十七分も、位置的には映っているはずです。……中身は、私は見ていません」
「見せてください」
「私には開けられません。保安の担当か、警察の照会がないと出てきません」
「……警察」
「今朝、事情を聞かせてほしいと言われた時に、映像を消さないようにという話も出ていました」
日向は、カメラを見上げていた。
「……照会が入っていれば、私のところまでは下りてきません」
袖が、また引かれた。ベアトリスの指が、布を握り直している。
スバルは、カメラの黒い面を見上げた。そこに映っているものは、ここからは見えない。
「……俺たちが出てきた瞬間が、映ってるかもしれない。それを、俺たちだけが見られない」
「バルス」
ラムが、静かに言った。
「機械が二十二台止まった。ベアトリス様が匂うと言った。それだけよ。ここが帰り道だとは、まだ誰も言っていないわ」
「言っていないのよ」
「……だな」
「スバルくん」
レムが、囲いの切れ目を見ていた。
「人が来ます。三人。制服です」
スバルは、答えなかった。
「あと、手」
レムの視線が下がる。スバルの右手は、指が白くなるまで握られていた。
「ずっと握ったままです。行きましょう」
「……行く」
「これ」
日向だった。
差し出された指のあいだに、破った紙の端が挟まっている。
「……なんすか」
「時刻です。十四時三十七分、二十二台」
受け取る手を、日向は見なかった。
「……信じたわけじゃありません。ただ、数字は誰のものでもないので」
紙が、スバルの掌の中で一度だけ折れた。
五人は囲いの外へ抜け、歩道を歩き出した。
背後で、機械の蓋が閉じる音がした。
街灯の手前に、二人立っていた。
一人はフードを深くかぶり、もう一人は、大きなリュックを背負っている。
板の光が、フードの下の顔を下から照らしていた。
近づいてこない。ただ、そこに立っている。
「スバルくん」
「見た」
スバルは、帽子の縁を引き下げた。
「……走らない。振り向かない。そのまま歩け」