仮囲いの外の歩道で、五人は足を止めたままだった。
街灯の手前に、二人。フードを深くかぶった男と、大きなリュックを背負った男。どちらも、板の光を顔の下に灯している。
背後から、足音が三つ。
振り返らなくても分かった。懐中電灯の丸い光が、五人の足元の少し手前で、アスファルトを探っている。制服が三人、歩道をこちらへ近づいてきていた。
前に二人。後ろに三人。
「……右」
スバルが、ほとんど唇だけで言った。
右手に、駅舎の壁に沿って細い通路が延びていた。自転車がびっしりと並び、その先に西口の明かりが滲んでいる。
五人は、走らずにそこへ入った。並んだ自転車のサドルが、背後の懐中電灯から五人の腰を隠す。レムがベアトリスの手を引き、ラムが最後尾についた。
通路の半ばで、ラムが一度だけ振り返った。
「制服は、囲いの前で立ち止まっているわ。こちらは見ていない」
「あの二人は」
「ついてきている。自転車の向こう側を」
「……だろうな」
通路を抜けると、西口の広場だった。
二人は、自転車の列の反対側を回って、先に広場の出口へ出ていた。
フードの男が、先に一歩出た。
駅前の広場には、まだ人がいた。終電を待つ背広、コンビニの袋を提げた学生、客待ちの車の列。それぞれが自分の用事に向かって歩いていて、五人と二人のあいだに足を止める者はいない。
距離、六メートル。
リュックの男が、板を胸の高さに構えていた。画面の光が、下から顎を白く照らしている。
「あ、やっぱそうだ。青い髪の人」
声は明るかった。道で知り合いを見つけたときの声だった。
スバルが、四人の前へ半歩出た。
「……人違いじゃないですか」
「いや、違わないでしょ。『あの駅にまたいる』って、さっき上がってたから。来てみたら、ほんとにいた。囲いから出てくるとこ、見てたよ」
「……上がってた」
「俺ら、最初から追ってんだよ。お前らが乗った電車、ホームで見送ったの俺らだから」
フードの男は、それを自慢のように言った。
スバルは、後ろ手で四人に合図を送った。下がれ、の形に指を振る。レムが、ベアトリスの肩へ手を置いた。
「何の用ですか。取材とかなら、お断りします」
「取材じゃないって。個人。ただの個人」
「個人が、ここまで追いかけて?」
「だって先に見つけたの俺らだし。他の奴らより先に」
リュックの男が、画面をこちらへ向けた。
見覚えのある数秒が流れていた。青い髪の女が腕を払い、制服が後ろへ跳ぶ。
「これ。これさ、何回見てもおかしいんだよ。加工だって言う奴いっぱいいるけど、俺は違うと思ってて」
「……」
「だから確かめたいだけ。一回でいいから」
画面の向きが、スバルからレムへ移った。
レムの目が、その画面を見た。自分の腕を見るときと同じ目だった。
---
「行くぞ」
スバルは、男たちの横を抜けるほうへ顎を向けた。広場の出口は二つ。一つは男たちの背中側、もう一つは客待ちの車の列の向こう。
五人が、車の列の側へ動く。
男たちも、同じだけ動いた。
「待って待って。逃げなくていいじゃん。別に通報とかしないし」
「してくれたほうが、まだ話が早いです」
「え、なにそれ」
フードの男が笑った。笑いながら、レムの斜め前へ回り込む。距離が四メートルになる。
「ねえ、お姉さん。ほんとに強いの?」
レムは答えなかった。
「そこのガードレール、曲げられたりする? いや、曲げなくていいか。持ち上げるとか。腕相撲とかでもいい。俺、ちょっと鍛えてるから」
「……」
「一回だけ。一回見せてくれたら、ちゃんと帰るから。な?」
リュックの男の画面の端に、赤い点が灯っていた。
撮っている。
レムの足が、半歩、前へ滑った。エミリアとベアトリスの前に、身体を差し込む位置だった。
肩の力が抜ける。重心が落ちる。構えではなかった。構えより前の、身体が勝手に選ぶ形だった。
「レム」
ラムの声だった。
大きくはない。けれど、それだけでレムの踵が止まった。
「下がりなさい」
「姉様。この人たちは、エミリア様の前を塞いでいます」
「分かっているわ。だから下がりなさい」
ラムはレムの横へ並び、男たちのほうを見ないまま言った。
「一人飛ばしたでしょう。この街では、それだけでここまで来たのよ」
レムの指が、握られて、開いた。
「二人目を飛ばせば、明日はもっと遠くまで来るわ」
「……はい」
レムが下がった。下がったぶん、男たちが一歩詰めた。
「え、なに。今の何語? 日本語だよね?」
「なあ、別に喧嘩売ってるわけじゃないんだって」
スバルは、奥歯を噛んだ。
言い返す言葉はいくらでもあった。肖像権。迷惑防止条例。つきまとい。どれも口に出せば、それらしく聞こえる。
そして、どれを口に出しても、最後は「じゃあ警察呼べば?」で終わる。
呼べないのは、こっちのほうだった。
---
「ごめんなさい」
声は、スバルの後ろから来た。
エミリアが、スバルの横を抜けて前へ出た。レムが伸ばしかけた手を、エミリアは振り返らずに、掌で軽く押し戻した。
フードの男と、三メートル。
「え、あ、はい」
男の声が、半音上ずった。
エミリアは男の顔を見た。それから、リュックの男の手元の、赤い点を見た。
「その子の力は、見せないわ」
「え」
「あなたたちが見たいのは分かったの。でも、見せない。それと、撮るのもやめてほしいの。この街に来てから、ずっと撮られてて、もう嫌なの」
言い方に、飾りはなかった。
怒ってもいなかった。
だから、男たちのほうが一瞬言葉に詰まった。
「……いや、でも、もう拡散されてるし。今さら一本増えたって」
「増えたら、嫌なの」
「減るもんじゃないでしょ」
「減るわ」
エミリアは、少しだけ首を傾げた。
「私たちが、歩ける道が」
リュックの男が、画面から目を上げた。
フードの男は、それでも一歩踏み出した。
「じゃあさ、撮らない。撮らないから、見せてくれるだけでいいって。それならいいでしょ」
エミリアは、答えなかった。
答えないまま、身体の向きを変えた。
男たちにではなく、駅のほうへ。
「エミリア?」
「スバル。あそこ、人がいるわよね」
エミリアの視線の先に、西口の改札の横の、小さな窓口があった。明かりが灯っていて、制服の駅員が一人、窓の内側で書類をめくっている。
スバルの顔から、血の気が引いた。
「待て。駅員は駄目だ。さっき通報されたばっかだぞ」
「東にいた人とは、別の人よ」
「同じ駅の人間だ。話は、すぐ回る」
「分かってる」
「分かってるなら」
「逃げても、この人たちはついてくるわ」
エミリアは、もう歩き出していた。
「走れば撒けるかもしれない。でも走ったら、また誰かが撮る。レムが力を使わなくても、走ってる私たちは、それだけで何かに見えるの。ずっと、そうだったもの」
「……」
「だから、歩いて行く」
スバルは、何か言おうとして、やめた。
やめて、エミリアの半歩後ろについた。レムがベアトリスの手を引き、ラムが最後尾に入る。
男たちは、ついてきた。
---
窓口の前で、エミリアは止まった。
硝子を、指の背で二度叩く。
駅員が顔を上げた。四十を過ぎたくらいの男だった。眼鏡の奥の目が、エミリアの髪で一度止まり、それから後ろの四人へ移った。
硝子の横の扉が、内側から開いた。
「はい。どうされました」
「すみません。後ろの人たちに、ずっとついてこられていて。撮られていて、やめてって言っても、やめてもらえないの」
駅員の目が、エミリアの肩越しに男たちを見た。
リュックの男の手元で、赤い点が灯ったままだった。
駅員は、扉から一歩外へ出た。
「そちらの方」
声は穏やかだった。穏やかなまま、広場の端まで届く大きさだった。
「駅構内での、他のお客様の撮影はご遠慮いただいています。お連れの方でないのでしたら、離れていただけますか」
「いや、ここ構内じゃないでしょ。外じゃん」
「では、構内に入られる前に、お願いしています」
「……別に何もしてないし」
「何もされていないのでしたら、なおさら、お願いできますね」
改札の向こうで、ホームへ下りようとしていた数人が、足を緩めてこちらを見た。
見ている目が増えた。
フードの男が、その目を一つずつ数えるように見回した。さっきまでの明るさが、顔から抜けていく。
「……行こうぜ」
リュックの男が、先に画面を下ろした。赤い点が消える。
「だっる。つまんね」
「おい」
「もういいって。どうせ誰かがまた上げるよ。俺らじゃなくても」
リュックの男が歩き出した。フードの男は、最後にもう一度だけレムを見た。
見ただけだった。
二つの背中が、広場の出口へ小さくなっていく。
エミリアの肩が、目に見えるほど下がった。
---
「ありがとうございます」
エミリアが頭を下げた。後ろで、レムとベアトリスも同じ角度で下げた。
「いえ。最近、多いんですよ。ああいうの」
駅員は、そう言って少し笑った。
笑ったまま、目がエミリアの髪に戻った。
「……失礼ですが」
スバルの背中に、汗が一筋落ちた。
「どちらまで行かれますか。終電、あと二本ですけど」
「あ、いや。今日はもう、乗らないんで」
「ご自宅はお近くで?」
「近いです」
「そうですか」
駅員は頷いた。頷いて、それから窓口の内側へ一度目をやった。机の上に、紙が一枚貼ってある。こちらからは文字が読めない。
「念のため、お名前だけ伺ってもいいですか。ああいう方が、また戻ってくることもあるので。何かあったときに」
親切だった。
親切だから、断りにくかった。
「……ええと」
スバルが口を開きかけたとき、エミリアが先に言った。
「ごめんなさい。名前は、言えないの」
駅員の眉が、わずかに動いた。
「言えない、ですか」
「助けてもらったのに、ごめんなさい。でも、言ったら、あなたにもっと迷惑がかかると思うから」
駅員は、しばらくエミリアを見ていた。
責める目ではなかった。何かを量る目だった。量って、どちらに傾けるかを決めかねている目だった。
「……分かりました」
やがて、駅員は言った。
「気をつけて、お帰りください。夜は、ああいう人のほかにも色々いますから」
「はい。ありがとうございます」
五人は窓口を離れた。
広場の出口で、ラムが一度だけ振り返った。
駅員は窓口の中へ戻っていた。戻って、机の上の紙を見下ろし、それから壁の受話器へ手を伸ばすところだった。
ラムは何も言わずに前を向いた。
「……姉様」
「歩きなさい。急がずに」
---
線路から三筋離れたところで、スバルがようやく口を開いた。
「エミリア」
「うん」
「あそこで名前、言わなかったの、正解だった」
「うん」
「……でも、あの人、たぶんどこかに電話した」
「うん。見てた」
エミリアは、前を向いたまま頷いた。
「ラムが振り返ったとき、私も見てたの」
「分かってて、行ったのか」
「あの二人に、ずっとついてこられるより、ましだと思ったの」
エミリアの声が、少しだけ細くなった。
「……ましだと思ったけど、どっちがましかは、正直まだ分からない」
スバルは、何か気の利いたことを言おうとして、何も思いつかなかった。
「レムがやれば、一瞬でした」
レムが、低い声で言った。責める響きではなかった。自分の手の置き場を確かめるような声だった。
「一瞬で、終わってたな」
スバルが言った。
「終わって、明日の朝には二本目の動画だ。今度は『警官だけじゃなかった』ってタイトルで」
「……はい」
「だから、今日のが正解。……ってことにしとく。俺は」
ベアトリスが、スバルの袖を引いた。
「あの男たちは、もう来ないのかしら」
「たぶんな。あいつらは、面白いものが見たかっただけだ。見せてもらえないなら、他所を探す」
「他所を探す人間は、他にもいるのよ」
「……いるな」
あの二人は帰った。
けれど、あの二人に動画を見せた誰かは、帰らない。あの数秒は、今もどこかの板の上で、何度でも腕を払い続けている。
---
川沿いの道を下り、高架の下へ入った。
車の音が頭の上を渡っていく。河川敷の芝は夜露で湿っていて、コンクリートの橋脚の根元だけが乾いていた。街灯の光は、土手の上で止まっている。
レムが先に降りて、橋脚の陰を一周した。空き缶が一つ。人の気配はない。
「大丈夫です」
五人は、乾いた場所に腰を下ろした。
誰も、しばらく口をきかなかった。
最初に動いたのはレムだった。膝の上に、スバルから預かっていた財布と、コンビニの袋を広げる。
「残りは、二万五千円と少しです」
「思ったより残ってるな」
「思ったより、減っています。服と、二回分の切符と、食べ物で」
レムは、パンの袋の口を、指で丁寧に折り直した。
「食べるだけなら、何日かはもちます。でも、このお金は増えません。眠る場所にも、まだ一度も使えていません」
「……使えねぇんだよな、そこに」
「だから、早く考えてください」
「おう」
スバルは、ポケットから黒い板を出した。
親指を長く押し当てる。画面が白く灯った。
右上の小さな数字が、赤かった。
「十四パーか」
「何がですか」
「こいつの寿命。……ちょっとだけ使う」
画面を開いた途端、通知が、上から雪崩のように落ちてきた。
同じ二文字が、並んでいた。
不在着信。不在着信。不在着信。その間に一つだけ、文字の通知が挟まっている。
『ちゃんと食べてる?』
スバルの親指が、止まった。
止まったのは、一秒もなかった。親指はその通知を横へ払い、検索の画面を開いた。
エミリアは、スバルの隣に座っていた。
板の光が、スバルの顔を下から照らしていた。その顔を、エミリアは見ていた。
何も言わなかった。
---
「並べるのは、確かなことだけにするわ」
ラムが、膝を抱えたまま言った。
「門が止まったのは三回。ラムたちが落ちてきた日の十四時三十七分。これは記録がある。翌朝のは、駅員の話で聞いただけ。今夜のは、ラムたちが見た」
「東の三台がずれてたのは」
「記録に残っているのは、最初の一回だけよ。先に止まって、最後に戻った。翌朝と今夜も同じ順番だったかどうかは、確かめていないわ」
「……今夜のも、止まったのを見ただけだしな」
スバルは、画面の上で指を止めた。
「一回目は、お前ら四人が落ちてきたときだ。俺はいなかった。二回目と三回目は、五人とも駅にいた」
「いた、というだけよ」
ラムの声は平らだった。
「駅には、いつでも大勢いるでしょう。あそこにいたのは、ラムたちだけではないわ」
スバルは、小さく頷いた。
「カメラの映像さえ見られりゃな。三回分」
「見られるの?」
エミリアが訊いた。
「無理だ。警察が正式に照会して、やっと出てくるやつだ。で、今夜照会されてるのは、たぶん俺たちのほう」
「それに、今夜は二度、顔を見られているわ」
ラムが言った。
「東の囲いで一度。西の窓口で一度。あの駅員が机の上の紙を見てから受話器を取ったのも、見ているわ」
「……あの紙、なんだったんだろうな」
「何であっても、明日の朝の駅員も、同じ紙を見るわ」
誰も、それを否定しなかった。
---
「ベアトリス。囲いの中で感じたもの、もう一度聞かせて」
エミリアが言った。
ベアトリスは、掌を下へ向けた。芝の上、指二本ぶんの高さで止める。
「石が弾けたときと、似た匂いだったのよ。……でも、門から来ていたんじゃないのよ。もっと下。足の裏のほうから滲んでいた気がするかしら。確かめる前に、人が来たのよ」
「下……」
スバルが顔を上げた。
「それと」
ベアトリスは、掌を握った。
「次に寄れても、確かめられるのは一回きりと思うのよ。あの女の痛みを和らげた分が、まだ膝の奥に残っているかしら」
スバルは、もう画面を操作していた。駅の構内図を開き、東の端を指で広げる。
改札の並び。その下に、点線で描かれた細い帯があった。
「……ある」
画面を、四人へ向ける。
「東口の、地下自由通路。改札を通らなくても誰でも入れる。駅の東と南を下で繋いでて、ちょうど、東の端の三台の真下あたりを通ってる」
「真下」
「囲いの中は、門と同じ高さだった。こっちはその下だ。ベア子の言う通り下から来てるなら、前より近い。始発の少し前から開いてる」
「門をくぐらずに、門の下へ行けるのね」
画面の右上で、数字が十一に変わった。
---
「同じ駅です」
レムが言った。
「場所が下になっても、同じ駅です。前と同じやり方で行ったら、前と同じことになります」
「通路にも、黒い目はあるでしょうね」
ラムが続けた。
「それに、通路にいるあいだに、上の門がまた止まったら?」
「……上は大騒ぎになる。駅員が東の端に集まる」
「その真下に、今夜通報された五人組が立っているわけね」
スバルは、画面を見た。十一。
「……焦ってたな、俺」
「焦っているわね。数字が減るのを見ながら、見たいものだけ見ている顔よ」
エミリアが、膝を抱えていた腕をほどいた。
四人が、エミリアを見た。
「行くのは、明日。始発のすぐ後。通路には、全員じゃなくて、ベアトリスと、もう一人だけで降りる。残りは、上の出口で待つ」
「一人って、誰だ」
「レム。ベアトリスを抱えて走れるから」
レムが、背筋を伸ばした。
「確かめるだけよ。何かをするのは、無しかしら」
「うん。確かめるだけ。三分。三分経ったら、何も分からなくても戻る。それより前でも、レムが危ないと思ったら戻って」
「……三分って、短くねぇか。何か起きるかもしれない場所だぞ」
「何か起きたら、一番人が集まるのもそこなんでしょう?」
スバルは、言い返さなかった。
「上で待つ私たちを止めるのはラム。ラムが止めたら、理由を聞かずに止まる。スバルもよ」
「俺もかよ」
「バルスが一番止まらないのよ」
「お金と食べ物は、レムが数えます。スバルくんに任せると、全部スバルくんの分から減らしそうなので」
「……よく見てんな」
「見ています」
「スバルは、朝までにその板で分かることを集めて。できる範囲で」
「十一パーの範囲でな。充電できる店はあるけど、入るのに身分証がいる。俺のは、家だ」
エミリアは、少しだけ目を伏せた。
四人が一つも答えられなかった問いを、今のスバルも、半分しか答えられない。
「……じゃあ、電気のことは、明るくなってから考えましょう」
エミリアは、四人を順に見た。
「今日までの私たちは、ずっと逃げてたわ。でも、明日からは、帰るために動くの。行くか戻るかは私が決める。間違ったら、私が間違えたことにする」
「エミリア様」
「半分こ、って言ったもの。あのとき」
橋脚の陰で、五人の影が一つに重なっていた。
---
「……帰れるかも、しれないのね」
レムが、小さく言った。
言ってから、自分の言葉に驚いたように、口元へ手をやった。
ベアトリスが、スバルの隣へ寄った。袖を掴む。いつもの場所だった。
「スバル。帰ったら、ベティーは禁書庫の本を全部ひっくり返すのよ。あの石のこと、一行くらいは書いてあるかしら」
「四百年分をか。手伝うよ。字はまだ怪しいけど」
「……ふん。期待しないで待っていてやるかしら」
エミリアが笑った。レムも、少しだけ笑った。
ラムは笑わなかった。笑わずに、スバルの横顔を見ていた。
電車の中で、ラムだけがスバルの横顔を見ていたときと、同じ目だった。
スバルの手の中で、画面が十に変わった。
通知の欄に、まだ同じ二文字が残っていた。
---
「ねえ、スバル」
エミリアの声は、さっきまでと同じ大きさだった。
同じ大きさなのに、四人とも、手を止めた。
「帰る方法が見つかったら、あなたも一緒に帰ってくれる?」
高架の上を、車が一台渡った。
音が遠ざかって、消えた。
スバルの口が、開いた。
開いて、そのまま、次の音が出てこなかった。
自分の喉が勝手に止まったことに、スバル自身が驚いた顔をした。
「……いや。答えは、あれだ。当たり前だろ、って」
「うん」
「当たり前、なんだけど」
親指が、画面の縁をなぞった。
不在着信。その間に挟まった、短い一行。
「……当たり前だって、今、すぐ言えなかった」
エミリアは、黙って頷いた。
驚いた顔は、していなかった。
---
袖を掴むベアトリスの指に、力がこもった。布が、小さな拳の中で皺になる。
「ベティーは、スバルと契約したのよ。スバルが、ベティーを選んだのよ。だから——」
そこで、止まった。
だから、の先が出てこなかった。ベアトリスは、スバルの顔を見上げて、それから自分の拳を見た。
「……無理やり連れて帰る、なんて。言えばいいのかしら。あの石がしたみたいに」
誰に訊いたのでもない声だった。
レムは、パンの袋を膝に置いたまま、動かなかった。
「スバルくん。レムたちが来なければ、スバルくんは今夜、あの家にいたんでしょうか」
スバルは、口を開いた。
違う、と言うつもりだった。
言えなかった。
「レム。それは、今考えても答えの出ないことよ」
ラムが、誰の顔も見ずに言った。
「それと。バルスの答えが出るまで待つのは構わないわ。けれど、帰り方を探すのを止める理由にはならない。ラムたちには、ロズワール様の屋敷があるのよ。バルスが来ても来なくても、あそこは、ラムたちが帰らなければならない場所よ」
「……冷たいとは、思わねぇよ」
「思われても困るわ。正しいことを言っているのだから」
ラムはそれだけ言って、膝に顎を戻した。
その横顔が、ほんのわずかに、硬かった。
---
エミリアが、スバルのほうへ向き直った。
膝と膝のあいだが、拳一つぶんになる。
「スバル。私ね、スバルを探しに来たの」
言葉を、一つずつ置くように話した。
「最初は、石のせいで飛ばされただけだった。でも、門の前で困って、撮られて、追いかけられて。それでもこの街にいようって決めたのは、スバルがいるかもしれなかったから」
「……」
「一緒に帰りたい。屋敷の食堂で、またみんなで朝ごはんを食べたい。これは、本当の気持ち」
スバルの手の中で、画面の光が節電の暗さに落ちた。顔が半分、影に入る。
「でもね。スバルが、私たちのために、ここを捨てなきゃいけないとは思わない」
スバルが、顔を上げた。
「さっき、あの板を見て止まったの、見てた。電車で、スバルが自分で切ったところも、見てた。家にも帰らないで、お母さんの電話にも出ないで。……私たち、気づいてたのに、気づかないふりをしてたの」
レムが、小さく肩を震わせた。
「だから、今すぐ答えなくていい。スバルが、自分で決めて。私、待つから」
---
土手の上を、自転車が一台通り過ぎた。ライトの光が一瞬だけ芝を撫でて、消えた。
スバルは、手の中の画面を見下ろした。
九。
親指を、長く押し当てる。画面が暗くなり、それはまた、ただの黒い板になった。
「……帰り方を探すのは、手伝う」
声は、掠れていた。
「明日、あの駅へ行く。調べられることは、全部調べる。お前らが帰れるように、それは、絶対にやる」
「うん」
「でも」
スバルは、黒い板をポケットに入れた。入れた手を、そのまま出さなかった。
「俺が、実際に帰るかどうかは。……ごめん。今は、まだ言えない」
「うん。分かった」
「……怒らねぇの」
「怒らないわ。答えられないっていう答えを、ちゃんと出しただけだもの」
エミリアは、ラムのほうを一度だけ見た。
ラムは、膝に顎を乗せたまま、目を閉じていた。眠っているふりだった。
スバルは、何かを言いかけて、笑いそこねたような顔をした。
---
ベアトリスは、袖を離さなかった。離さないまま、スバルの腕に額を押し当てた。
「……ベア子」
「喋るんじゃないのよ。謝るのも、無しかしら」
布越しに、声がくぐもった。
「ちゃんと自分で決めるのよ。ベティーは、それまで、ここにいるかしら」
レムは、パンの袋を膝から下ろし、橋脚の外側へ移った。見張りの位置だった。
「レム。交代は」
「後で、姉様にお願いします」
「……ラム、起きてるだろ」
「寝ているわ」
目を閉じたまま、声だけが返ってきた。
エミリアは、膝を抱えて、高架の裏側を見上げた。コンクリートの継ぎ目が、暗がりの中で等間隔に並んでいる。
帰れるかもしれない。
今までは、それだけが遠かった。
今夜は、その先にもう一つ、遠いものが見えていた。
五人で帰れるかどうかは、まだ、誰にも分からない。
エミリアは、目を閉じた。
隣で、スバルがポケットの中の板を、握り直す音がした。