帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第6話「帰り道を探して」

 

 

仮囲いの外の歩道で、五人は足を止めたままだった。

 

街灯の手前に、二人。フードを深くかぶった男と、大きなリュックを背負った男。どちらも、板の光を顔の下に灯している。

 

背後から、足音が三つ。

 

振り返らなくても分かった。懐中電灯の丸い光が、五人の足元の少し手前で、アスファルトを探っている。制服が三人、歩道をこちらへ近づいてきていた。

 

前に二人。後ろに三人。

 

「……右」

 

スバルが、ほとんど唇だけで言った。

 

右手に、駅舎の壁に沿って細い通路が延びていた。自転車がびっしりと並び、その先に西口の明かりが滲んでいる。

 

五人は、走らずにそこへ入った。並んだ自転車のサドルが、背後の懐中電灯から五人の腰を隠す。レムがベアトリスの手を引き、ラムが最後尾についた。

 

通路の半ばで、ラムが一度だけ振り返った。

 

「制服は、囲いの前で立ち止まっているわ。こちらは見ていない」

 

「あの二人は」

 

「ついてきている。自転車の向こう側を」

 

「……だろうな」

 

通路を抜けると、西口の広場だった。

 

二人は、自転車の列の反対側を回って、先に広場の出口へ出ていた。

 

フードの男が、先に一歩出た。

 

駅前の広場には、まだ人がいた。終電を待つ背広、コンビニの袋を提げた学生、客待ちの車の列。それぞれが自分の用事に向かって歩いていて、五人と二人のあいだに足を止める者はいない。

 

距離、六メートル。

 

リュックの男が、板を胸の高さに構えていた。画面の光が、下から顎を白く照らしている。

 

「あ、やっぱそうだ。青い髪の人」

 

声は明るかった。道で知り合いを見つけたときの声だった。

 

スバルが、四人の前へ半歩出た。

 

「……人違いじゃないですか」

 

「いや、違わないでしょ。『あの駅にまたいる』って、さっき上がってたから。来てみたら、ほんとにいた。囲いから出てくるとこ、見てたよ」

 

「……上がってた」

 

「俺ら、最初から追ってんだよ。お前らが乗った電車、ホームで見送ったの俺らだから」

 

フードの男は、それを自慢のように言った。

 

スバルは、後ろ手で四人に合図を送った。下がれ、の形に指を振る。レムが、ベアトリスの肩へ手を置いた。

 

「何の用ですか。取材とかなら、お断りします」

 

「取材じゃないって。個人。ただの個人」

 

「個人が、ここまで追いかけて?」

 

「だって先に見つけたの俺らだし。他の奴らより先に」

 

リュックの男が、画面をこちらへ向けた。

 

見覚えのある数秒が流れていた。青い髪の女が腕を払い、制服が後ろへ跳ぶ。

 

「これ。これさ、何回見てもおかしいんだよ。加工だって言う奴いっぱいいるけど、俺は違うと思ってて」

 

「……」

 

「だから確かめたいだけ。一回でいいから」

 

画面の向きが、スバルからレムへ移った。

 

レムの目が、その画面を見た。自分の腕を見るときと同じ目だった。

 

---

 

「行くぞ」

 

スバルは、男たちの横を抜けるほうへ顎を向けた。広場の出口は二つ。一つは男たちの背中側、もう一つは客待ちの車の列の向こう。

 

五人が、車の列の側へ動く。

 

男たちも、同じだけ動いた。

 

「待って待って。逃げなくていいじゃん。別に通報とかしないし」

 

「してくれたほうが、まだ話が早いです」

 

「え、なにそれ」

 

フードの男が笑った。笑いながら、レムの斜め前へ回り込む。距離が四メートルになる。

 

「ねえ、お姉さん。ほんとに強いの?」

 

レムは答えなかった。

 

「そこのガードレール、曲げられたりする? いや、曲げなくていいか。持ち上げるとか。腕相撲とかでもいい。俺、ちょっと鍛えてるから」

 

「……」

 

「一回だけ。一回見せてくれたら、ちゃんと帰るから。な?」

 

リュックの男の画面の端に、赤い点が灯っていた。

 

撮っている。

 

レムの足が、半歩、前へ滑った。エミリアとベアトリスの前に、身体を差し込む位置だった。

 

肩の力が抜ける。重心が落ちる。構えではなかった。構えより前の、身体が勝手に選ぶ形だった。

 

「レム」

 

ラムの声だった。

 

大きくはない。けれど、それだけでレムの踵が止まった。

 

「下がりなさい」

 

「姉様。この人たちは、エミリア様の前を塞いでいます」

 

「分かっているわ。だから下がりなさい」

 

ラムはレムの横へ並び、男たちのほうを見ないまま言った。

 

「一人飛ばしたでしょう。この街では、それだけでここまで来たのよ」

 

レムの指が、握られて、開いた。

 

「二人目を飛ばせば、明日はもっと遠くまで来るわ」

 

「……はい」

 

レムが下がった。下がったぶん、男たちが一歩詰めた。

 

「え、なに。今の何語? 日本語だよね?」

 

「なあ、別に喧嘩売ってるわけじゃないんだって」

 

スバルは、奥歯を噛んだ。

 

言い返す言葉はいくらでもあった。肖像権。迷惑防止条例。つきまとい。どれも口に出せば、それらしく聞こえる。

 

そして、どれを口に出しても、最後は「じゃあ警察呼べば?」で終わる。

 

呼べないのは、こっちのほうだった。

 

---

 

「ごめんなさい」

 

声は、スバルの後ろから来た。

 

エミリアが、スバルの横を抜けて前へ出た。レムが伸ばしかけた手を、エミリアは振り返らずに、掌で軽く押し戻した。

 

フードの男と、三メートル。

 

「え、あ、はい」

 

男の声が、半音上ずった。

 

エミリアは男の顔を見た。それから、リュックの男の手元の、赤い点を見た。

 

「その子の力は、見せないわ」

 

「え」

 

「あなたたちが見たいのは分かったの。でも、見せない。それと、撮るのもやめてほしいの。この街に来てから、ずっと撮られてて、もう嫌なの」

 

言い方に、飾りはなかった。

 

怒ってもいなかった。

 

だから、男たちのほうが一瞬言葉に詰まった。

 

「……いや、でも、もう拡散されてるし。今さら一本増えたって」

 

「増えたら、嫌なの」

 

「減るもんじゃないでしょ」

 

「減るわ」

 

エミリアは、少しだけ首を傾げた。

 

「私たちが、歩ける道が」

 

リュックの男が、画面から目を上げた。

 

フードの男は、それでも一歩踏み出した。

 

「じゃあさ、撮らない。撮らないから、見せてくれるだけでいいって。それならいいでしょ」

 

エミリアは、答えなかった。

 

答えないまま、身体の向きを変えた。

 

男たちにではなく、駅のほうへ。

 

「エミリア?」

 

「スバル。あそこ、人がいるわよね」

 

エミリアの視線の先に、西口の改札の横の、小さな窓口があった。明かりが灯っていて、制服の駅員が一人、窓の内側で書類をめくっている。

 

スバルの顔から、血の気が引いた。

 

「待て。駅員は駄目だ。さっき通報されたばっかだぞ」

 

「東にいた人とは、別の人よ」

 

「同じ駅の人間だ。話は、すぐ回る」

 

「分かってる」

 

「分かってるなら」

 

「逃げても、この人たちはついてくるわ」

 

エミリアは、もう歩き出していた。

 

「走れば撒けるかもしれない。でも走ったら、また誰かが撮る。レムが力を使わなくても、走ってる私たちは、それだけで何かに見えるの。ずっと、そうだったもの」

 

「……」

 

「だから、歩いて行く」

 

スバルは、何か言おうとして、やめた。

 

やめて、エミリアの半歩後ろについた。レムがベアトリスの手を引き、ラムが最後尾に入る。

 

男たちは、ついてきた。

 

---

 

窓口の前で、エミリアは止まった。

 

硝子を、指の背で二度叩く。

 

駅員が顔を上げた。四十を過ぎたくらいの男だった。眼鏡の奥の目が、エミリアの髪で一度止まり、それから後ろの四人へ移った。

 

硝子の横の扉が、内側から開いた。

 

「はい。どうされました」

 

「すみません。後ろの人たちに、ずっとついてこられていて。撮られていて、やめてって言っても、やめてもらえないの」

 

駅員の目が、エミリアの肩越しに男たちを見た。

 

リュックの男の手元で、赤い点が灯ったままだった。

 

駅員は、扉から一歩外へ出た。

 

「そちらの方」

 

声は穏やかだった。穏やかなまま、広場の端まで届く大きさだった。

 

「駅構内での、他のお客様の撮影はご遠慮いただいています。お連れの方でないのでしたら、離れていただけますか」

 

「いや、ここ構内じゃないでしょ。外じゃん」

 

「では、構内に入られる前に、お願いしています」

 

「……別に何もしてないし」

 

「何もされていないのでしたら、なおさら、お願いできますね」

 

改札の向こうで、ホームへ下りようとしていた数人が、足を緩めてこちらを見た。

 

見ている目が増えた。

 

フードの男が、その目を一つずつ数えるように見回した。さっきまでの明るさが、顔から抜けていく。

 

「……行こうぜ」

 

リュックの男が、先に画面を下ろした。赤い点が消える。

 

「だっる。つまんね」

 

「おい」

 

「もういいって。どうせ誰かがまた上げるよ。俺らじゃなくても」

 

リュックの男が歩き出した。フードの男は、最後にもう一度だけレムを見た。

 

見ただけだった。

 

二つの背中が、広場の出口へ小さくなっていく。

 

エミリアの肩が、目に見えるほど下がった。

 

---

 

「ありがとうございます」

 

エミリアが頭を下げた。後ろで、レムとベアトリスも同じ角度で下げた。

 

「いえ。最近、多いんですよ。ああいうの」

 

駅員は、そう言って少し笑った。

 

笑ったまま、目がエミリアの髪に戻った。

 

「……失礼ですが」

 

スバルの背中に、汗が一筋落ちた。

 

「どちらまで行かれますか。終電、あと二本ですけど」

 

「あ、いや。今日はもう、乗らないんで」

 

「ご自宅はお近くで?」

 

「近いです」

 

「そうですか」

 

駅員は頷いた。頷いて、それから窓口の内側へ一度目をやった。机の上に、紙が一枚貼ってある。こちらからは文字が読めない。

 

「念のため、お名前だけ伺ってもいいですか。ああいう方が、また戻ってくることもあるので。何かあったときに」

 

親切だった。

 

親切だから、断りにくかった。

 

「……ええと」

 

スバルが口を開きかけたとき、エミリアが先に言った。

 

「ごめんなさい。名前は、言えないの」

 

駅員の眉が、わずかに動いた。

 

「言えない、ですか」

 

「助けてもらったのに、ごめんなさい。でも、言ったら、あなたにもっと迷惑がかかると思うから」

 

駅員は、しばらくエミリアを見ていた。

 

責める目ではなかった。何かを量る目だった。量って、どちらに傾けるかを決めかねている目だった。

 

「……分かりました」

 

やがて、駅員は言った。

 

「気をつけて、お帰りください。夜は、ああいう人のほかにも色々いますから」

 

「はい。ありがとうございます」

 

五人は窓口を離れた。

 

広場の出口で、ラムが一度だけ振り返った。

 

駅員は窓口の中へ戻っていた。戻って、机の上の紙を見下ろし、それから壁の受話器へ手を伸ばすところだった。

 

ラムは何も言わずに前を向いた。

 

「……姉様」

 

「歩きなさい。急がずに」

 

---

 

線路から三筋離れたところで、スバルがようやく口を開いた。

 

「エミリア」

 

「うん」

 

「あそこで名前、言わなかったの、正解だった」

 

「うん」

 

「……でも、あの人、たぶんどこかに電話した」

 

「うん。見てた」

 

エミリアは、前を向いたまま頷いた。

 

「ラムが振り返ったとき、私も見てたの」

 

「分かってて、行ったのか」

 

「あの二人に、ずっとついてこられるより、ましだと思ったの」

 

エミリアの声が、少しだけ細くなった。

 

「……ましだと思ったけど、どっちがましかは、正直まだ分からない」

 

スバルは、何か気の利いたことを言おうとして、何も思いつかなかった。

 

「レムがやれば、一瞬でした」

 

レムが、低い声で言った。責める響きではなかった。自分の手の置き場を確かめるような声だった。

 

「一瞬で、終わってたな」

 

スバルが言った。

 

「終わって、明日の朝には二本目の動画だ。今度は『警官だけじゃなかった』ってタイトルで」

 

「……はい」

 

「だから、今日のが正解。……ってことにしとく。俺は」

 

ベアトリスが、スバルの袖を引いた。

 

「あの男たちは、もう来ないのかしら」

 

「たぶんな。あいつらは、面白いものが見たかっただけだ。見せてもらえないなら、他所を探す」

 

「他所を探す人間は、他にもいるのよ」

 

「……いるな」

 

あの二人は帰った。

 

けれど、あの二人に動画を見せた誰かは、帰らない。あの数秒は、今もどこかの板の上で、何度でも腕を払い続けている。

 

---

 

川沿いの道を下り、高架の下へ入った。

 

車の音が頭の上を渡っていく。河川敷の芝は夜露で湿っていて、コンクリートの橋脚の根元だけが乾いていた。街灯の光は、土手の上で止まっている。

 

レムが先に降りて、橋脚の陰を一周した。空き缶が一つ。人の気配はない。

 

「大丈夫です」

 

五人は、乾いた場所に腰を下ろした。

 

誰も、しばらく口をきかなかった。

 

最初に動いたのはレムだった。膝の上に、スバルから預かっていた財布と、コンビニの袋を広げる。

 

「残りは、二万五千円と少しです」

 

「思ったより残ってるな」

 

「思ったより、減っています。服と、二回分の切符と、食べ物で」

 

レムは、パンの袋の口を、指で丁寧に折り直した。

 

「食べるだけなら、何日かはもちます。でも、このお金は増えません。眠る場所にも、まだ一度も使えていません」

 

「……使えねぇんだよな、そこに」

 

「だから、早く考えてください」

 

「おう」

 

スバルは、ポケットから黒い板を出した。

 

親指を長く押し当てる。画面が白く灯った。

 

右上の小さな数字が、赤かった。

 

「十四パーか」

 

「何がですか」

 

「こいつの寿命。……ちょっとだけ使う」

 

画面を開いた途端、通知が、上から雪崩のように落ちてきた。

 

同じ二文字が、並んでいた。

 

不在着信。不在着信。不在着信。その間に一つだけ、文字の通知が挟まっている。

 

『ちゃんと食べてる?』

 

スバルの親指が、止まった。

 

止まったのは、一秒もなかった。親指はその通知を横へ払い、検索の画面を開いた。

 

エミリアは、スバルの隣に座っていた。

 

板の光が、スバルの顔を下から照らしていた。その顔を、エミリアは見ていた。

 

何も言わなかった。

 

---

 

「並べるのは、確かなことだけにするわ」

 

ラムが、膝を抱えたまま言った。

 

「門が止まったのは三回。ラムたちが落ちてきた日の十四時三十七分。これは記録がある。翌朝のは、駅員の話で聞いただけ。今夜のは、ラムたちが見た」

 

「東の三台がずれてたのは」

 

「記録に残っているのは、最初の一回だけよ。先に止まって、最後に戻った。翌朝と今夜も同じ順番だったかどうかは、確かめていないわ」

 

「……今夜のも、止まったのを見ただけだしな」

 

スバルは、画面の上で指を止めた。

 

「一回目は、お前ら四人が落ちてきたときだ。俺はいなかった。二回目と三回目は、五人とも駅にいた」

 

「いた、というだけよ」

 

ラムの声は平らだった。

 

「駅には、いつでも大勢いるでしょう。あそこにいたのは、ラムたちだけではないわ」

 

スバルは、小さく頷いた。

 

「カメラの映像さえ見られりゃな。三回分」

 

「見られるの?」

 

エミリアが訊いた。

 

「無理だ。警察が正式に照会して、やっと出てくるやつだ。で、今夜照会されてるのは、たぶん俺たちのほう」

 

「それに、今夜は二度、顔を見られているわ」

 

ラムが言った。

 

「東の囲いで一度。西の窓口で一度。あの駅員が机の上の紙を見てから受話器を取ったのも、見ているわ」

 

「……あの紙、なんだったんだろうな」

 

「何であっても、明日の朝の駅員も、同じ紙を見るわ」

 

誰も、それを否定しなかった。

 

---

 

「ベアトリス。囲いの中で感じたもの、もう一度聞かせて」

 

エミリアが言った。

 

ベアトリスは、掌を下へ向けた。芝の上、指二本ぶんの高さで止める。

 

「石が弾けたときと、似た匂いだったのよ。……でも、門から来ていたんじゃないのよ。もっと下。足の裏のほうから滲んでいた気がするかしら。確かめる前に、人が来たのよ」

 

「下……」

 

スバルが顔を上げた。

 

「それと」

 

ベアトリスは、掌を握った。

 

「次に寄れても、確かめられるのは一回きりと思うのよ。あの女の痛みを和らげた分が、まだ膝の奥に残っているかしら」

 

スバルは、もう画面を操作していた。駅の構内図を開き、東の端を指で広げる。

 

改札の並び。その下に、点線で描かれた細い帯があった。

 

「……ある」

 

画面を、四人へ向ける。

 

「東口の、地下自由通路。改札を通らなくても誰でも入れる。駅の東と南を下で繋いでて、ちょうど、東の端の三台の真下あたりを通ってる」

 

「真下」

 

「囲いの中は、門と同じ高さだった。こっちはその下だ。ベア子の言う通り下から来てるなら、前より近い。始発の少し前から開いてる」

 

「門をくぐらずに、門の下へ行けるのね」

 

画面の右上で、数字が十一に変わった。

 

---

 

「同じ駅です」

 

レムが言った。

 

「場所が下になっても、同じ駅です。前と同じやり方で行ったら、前と同じことになります」

 

「通路にも、黒い目はあるでしょうね」

 

ラムが続けた。

 

「それに、通路にいるあいだに、上の門がまた止まったら?」

 

「……上は大騒ぎになる。駅員が東の端に集まる」

 

「その真下に、今夜通報された五人組が立っているわけね」

 

スバルは、画面を見た。十一。

 

「……焦ってたな、俺」

 

「焦っているわね。数字が減るのを見ながら、見たいものだけ見ている顔よ」

 

エミリアが、膝を抱えていた腕をほどいた。

 

四人が、エミリアを見た。

 

「行くのは、明日。始発のすぐ後。通路には、全員じゃなくて、ベアトリスと、もう一人だけで降りる。残りは、上の出口で待つ」

 

「一人って、誰だ」

 

「レム。ベアトリスを抱えて走れるから」

 

レムが、背筋を伸ばした。

 

「確かめるだけよ。何かをするのは、無しかしら」

 

「うん。確かめるだけ。三分。三分経ったら、何も分からなくても戻る。それより前でも、レムが危ないと思ったら戻って」

 

「……三分って、短くねぇか。何か起きるかもしれない場所だぞ」

 

「何か起きたら、一番人が集まるのもそこなんでしょう?」

 

スバルは、言い返さなかった。

 

「上で待つ私たちを止めるのはラム。ラムが止めたら、理由を聞かずに止まる。スバルもよ」

 

「俺もかよ」

 

「バルスが一番止まらないのよ」

 

「お金と食べ物は、レムが数えます。スバルくんに任せると、全部スバルくんの分から減らしそうなので」

 

「……よく見てんな」

 

「見ています」

 

「スバルは、朝までにその板で分かることを集めて。できる範囲で」

 

「十一パーの範囲でな。充電できる店はあるけど、入るのに身分証がいる。俺のは、家だ」

 

エミリアは、少しだけ目を伏せた。

 

四人が一つも答えられなかった問いを、今のスバルも、半分しか答えられない。

 

「……じゃあ、電気のことは、明るくなってから考えましょう」

 

エミリアは、四人を順に見た。

 

「今日までの私たちは、ずっと逃げてたわ。でも、明日からは、帰るために動くの。行くか戻るかは私が決める。間違ったら、私が間違えたことにする」

 

「エミリア様」

 

「半分こ、って言ったもの。あのとき」

 

橋脚の陰で、五人の影が一つに重なっていた。

 

---

 

「……帰れるかも、しれないのね」

 

レムが、小さく言った。

 

言ってから、自分の言葉に驚いたように、口元へ手をやった。

 

ベアトリスが、スバルの隣へ寄った。袖を掴む。いつもの場所だった。

 

「スバル。帰ったら、ベティーは禁書庫の本を全部ひっくり返すのよ。あの石のこと、一行くらいは書いてあるかしら」

 

「四百年分をか。手伝うよ。字はまだ怪しいけど」

 

「……ふん。期待しないで待っていてやるかしら」

 

エミリアが笑った。レムも、少しだけ笑った。

 

ラムは笑わなかった。笑わずに、スバルの横顔を見ていた。

 

電車の中で、ラムだけがスバルの横顔を見ていたときと、同じ目だった。

 

スバルの手の中で、画面が十に変わった。

 

通知の欄に、まだ同じ二文字が残っていた。

 

---

 

「ねえ、スバル」

 

エミリアの声は、さっきまでと同じ大きさだった。

 

同じ大きさなのに、四人とも、手を止めた。

 

「帰る方法が見つかったら、あなたも一緒に帰ってくれる?」

 

高架の上を、車が一台渡った。

 

音が遠ざかって、消えた。

 

スバルの口が、開いた。

 

開いて、そのまま、次の音が出てこなかった。

 

自分の喉が勝手に止まったことに、スバル自身が驚いた顔をした。

 

「……いや。答えは、あれだ。当たり前だろ、って」

 

「うん」

 

「当たり前、なんだけど」

 

親指が、画面の縁をなぞった。

 

不在着信。その間に挟まった、短い一行。

 

「……当たり前だって、今、すぐ言えなかった」

 

エミリアは、黙って頷いた。

 

驚いた顔は、していなかった。

 

---

 

袖を掴むベアトリスの指に、力がこもった。布が、小さな拳の中で皺になる。

 

「ベティーは、スバルと契約したのよ。スバルが、ベティーを選んだのよ。だから——」

 

そこで、止まった。

 

だから、の先が出てこなかった。ベアトリスは、スバルの顔を見上げて、それから自分の拳を見た。

 

「……無理やり連れて帰る、なんて。言えばいいのかしら。あの石がしたみたいに」

 

誰に訊いたのでもない声だった。

 

レムは、パンの袋を膝に置いたまま、動かなかった。

 

「スバルくん。レムたちが来なければ、スバルくんは今夜、あの家にいたんでしょうか」

 

スバルは、口を開いた。

 

違う、と言うつもりだった。

 

言えなかった。

 

「レム。それは、今考えても答えの出ないことよ」

 

ラムが、誰の顔も見ずに言った。

 

「それと。バルスの答えが出るまで待つのは構わないわ。けれど、帰り方を探すのを止める理由にはならない。ラムたちには、ロズワール様の屋敷があるのよ。バルスが来ても来なくても、あそこは、ラムたちが帰らなければならない場所よ」

 

「……冷たいとは、思わねぇよ」

 

「思われても困るわ。正しいことを言っているのだから」

 

ラムはそれだけ言って、膝に顎を戻した。

 

その横顔が、ほんのわずかに、硬かった。

 

---

 

エミリアが、スバルのほうへ向き直った。

 

膝と膝のあいだが、拳一つぶんになる。

 

「スバル。私ね、スバルを探しに来たの」

 

言葉を、一つずつ置くように話した。

 

「最初は、石のせいで飛ばされただけだった。でも、門の前で困って、撮られて、追いかけられて。それでもこの街にいようって決めたのは、スバルがいるかもしれなかったから」

 

「……」

 

「一緒に帰りたい。屋敷の食堂で、またみんなで朝ごはんを食べたい。これは、本当の気持ち」

 

スバルの手の中で、画面の光が節電の暗さに落ちた。顔が半分、影に入る。

 

「でもね。スバルが、私たちのために、ここを捨てなきゃいけないとは思わない」

 

スバルが、顔を上げた。

 

「さっき、あの板を見て止まったの、見てた。電車で、スバルが自分で切ったところも、見てた。家にも帰らないで、お母さんの電話にも出ないで。……私たち、気づいてたのに、気づかないふりをしてたの」

 

レムが、小さく肩を震わせた。

 

「だから、今すぐ答えなくていい。スバルが、自分で決めて。私、待つから」

 

---

 

土手の上を、自転車が一台通り過ぎた。ライトの光が一瞬だけ芝を撫でて、消えた。

 

スバルは、手の中の画面を見下ろした。

 

九。

 

親指を、長く押し当てる。画面が暗くなり、それはまた、ただの黒い板になった。

 

「……帰り方を探すのは、手伝う」

 

声は、掠れていた。

 

「明日、あの駅へ行く。調べられることは、全部調べる。お前らが帰れるように、それは、絶対にやる」

 

「うん」

 

「でも」

 

スバルは、黒い板をポケットに入れた。入れた手を、そのまま出さなかった。

 

「俺が、実際に帰るかどうかは。……ごめん。今は、まだ言えない」

 

「うん。分かった」

 

「……怒らねぇの」

 

「怒らないわ。答えられないっていう答えを、ちゃんと出しただけだもの」

 

エミリアは、ラムのほうを一度だけ見た。

 

ラムは、膝に顎を乗せたまま、目を閉じていた。眠っているふりだった。

 

スバルは、何かを言いかけて、笑いそこねたような顔をした。

 

---

 

ベアトリスは、袖を離さなかった。離さないまま、スバルの腕に額を押し当てた。

 

「……ベア子」

 

「喋るんじゃないのよ。謝るのも、無しかしら」

 

布越しに、声がくぐもった。

 

「ちゃんと自分で決めるのよ。ベティーは、それまで、ここにいるかしら」

 

レムは、パンの袋を膝から下ろし、橋脚の外側へ移った。見張りの位置だった。

 

「レム。交代は」

 

「後で、姉様にお願いします」

 

「……ラム、起きてるだろ」

 

「寝ているわ」

 

目を閉じたまま、声だけが返ってきた。

 

エミリアは、膝を抱えて、高架の裏側を見上げた。コンクリートの継ぎ目が、暗がりの中で等間隔に並んでいる。

 

帰れるかもしれない。

 

今までは、それだけが遠かった。

 

今夜は、その先にもう一つ、遠いものが見えていた。

 

五人で帰れるかどうかは、まだ、誰にも分からない。

 

エミリアは、目を閉じた。

 

隣で、スバルがポケットの中の板を、握り直す音がした。

 

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