空が、駅舎の輪郭の上だけ白み始めていた。
東口のロータリーには、まだ車が二台しかいなかった。客待ちのタクシーと、エンジンをかけたままの配送のトラック。シャッターの下りた店の前を、鳩が三羽、歩いて横切っていく。
一番電車が、頭の上の高架を渡っていった。
音が遠ざかると、駅舎の中から、改札の電子音がぽつぽつと聞こえ始めた。まだ間遠い。一つ鳴って、しばらく空いて、また一つ。
五人は、ロータリーの端のバス停の屋根の下にいた。
「……開いてる」
スバルが、帽子の縁の下から顎で示した。
駅舎の東の角。硝子の庇の下に、下りの階段が口を開けている。照明は点いていて、手すりの向こうで、白い床が折れ曲がって消えていた。案内板の矢印が、下を指している。
「掃除の人が、さっき一人降りていきました。まだ上がってきていません」
レムが言った。視線は階段の口から動かない。
ベアトリスは、ベンチの端に座っていた。背筋は伸びている。伸ばしている、とスバルには分かった。
「ベア子。無理なら今日は」
「無理じゃないのよ」
「……顔色」
「朝の色なのよ。スバルのほうが、よっぽど死人の顔かしら」
言い返そうとして、スバルはやめた。一晩、橋脚の陰で座ったまま目を閉じていただけだ。眠れたとは言えない。
エミリアが、ベンチの前にしゃがんで、ベアトリスと目の高さを合わせた。
「確かめるだけ。三分」
「覚えているのよ。子ども扱いは無しかしら」
エミリアは頷いて、立ち上がった。駅舎の壁の高いところを見上げる。
硝子の庇の奥に、丸い大時計が掛かっている。長い針が、ちょうど一目盛り進んだ。
五時十二分。
「あの針が三つ進んだら、三分よね。私はあれを見てる」
ラムが、バス停の柱から背を離した。
「バルスは、ラムの隣。前へ出ないこと」
「分かってるって」
「分かっている人間の足の位置ではないわね」
スバルは、自分の爪先を見た。いつの間にか、屋根の影から半歩出ていた。
引っ込めた。
「……行ってくるのよ」
ベアトリスが、ベンチから降りた。レムがその手を取る。
二人は、ロータリーの縁を歩いて、階段の口へ向かった。途中で一度だけ、レムが振り返った。
エミリアが、小さく手を上げた。
二つの背中が、階段の下へ沈んでいった。
---
階段を下りきると、空気が変わった。
外より、少し暖かい。乾いていて、埃と洗剤の匂いがした。
通路は、思っていたより広かった。白い床がまっすぐ奥へ延びている。天井は低い。同じ形の灯りが等間隔に並び、壁には色の褪せた大きな絵が、硝子の枠に入って何枚も掛かっていた。
遠くで、背広の男が一人、早足で去っていく。その手前で、灰色の作業着の女が、柄の長い道具で床を拭いていた。
天井の角に、黒い目が一つ。少し先に、もう一つ。
レムは、ベアトリスを壁側に入れて歩いた。自分の身体で、黒い目とのあいだを半分塞ぐ位置だった。塞ぎきれないことは、分かっていた。
歩数を数える。
昨夜、スバルが板の上で指を広げていた。上の門から、この通路の階段まで。東の端の三台は、だいたいこの辺りの真上。
「このあたりです」
レムが足を緩めた。
ベアトリスは、答えなかった。
小さな手が、レムの指の中で、一度だけ強張った。
「……ベアトリス様?」
ベアトリスは、手を離した。
離して、一人で三歩、前へ出た。通路の真ん中だった。床の模様にも、壁の絵にも、変わったところは何もない。天井の灯りも、他と同じ白さで灯っている。
そこで、止まった。
「ここなのよ」
声が、低かった。
ベアトリスは、右の掌を前へ出した。床ではなかった。壁でもなかった。胸の高さの、何もない空中だった。
指先が、そこで止まった。
触れているようには見えなかった。けれど、それ以上は進めないという止まり方だった。薄い布の、ほつれた縁に指がかかったような。
レムには、何も見えなかった。
見えないのに、首の後ろの産毛が、ゆっくりと立っていった。
「床でも、壁でもないのよ。この場所そのものが……ずれてるかしら。縫い目を、ほどいたまま放ってあるみたいに」
ベアトリスは、振り返らなかった。
「一回だけ、流すのよ。ほんの糸一本。……レム。ベティーに触るんじゃないのよ」
レムの喉が、鳴った。
食堂のテーブル。黒い石。倒れかけた小さな身体を、エミリア様が抱きとめて、自分が背中に回って、姉様が肩を掴んだ。
四人が触れ合った瞬間に、全部が弾けた。
「……はい」
レムは、半歩下がった。手は、下ろさなかった。ベアトリスの肩の後ろ、指三本ぶんの距離で止めた。
床を拭いていた女が、手を止めて、こちらを見ていた。
子どもが、何もないところに手をかざしている。それだけに見えるはずだった。
ベアトリスの指先から、何かが出ていった。
レムには見えなかった。ただ、ベアトリスの肩がほんのわずかに前へ傾いたのが分かった。
傾いたまま、戻らなかった。
「——っ」
「ベアトリス様」
「……戻って、こないのよ」
ベアトリスの声が、震えていた。
「吸われてるかしら。あの石と、同じ……同じ吸い方なのよ」
肩が、もう一つ前へ傾いた。小さな踵が、床から浮きかける。
レムの指が、跳ねた。
届く。今なら届く。掴んで、引けば——
指三本ぶん手前で、止めた。
止めた自分の手が、信じられないくらい重かった。
「——切るのよ」
ベアトリスが、歯のあいだから言った。
掌が、握られた。
糸を、自分の指で千切るような握り方だった。
ベアトリスの身体が、後ろへ跳ね返った。
今度は、レムは迷わなかった。両腕で受け止める。軽かった。屋敷で抱えたときより、ずっと軽かった。
「……大丈夫、なのよ」
大丈夫な声ではなかった。
「あの、大丈夫ですか」
作業着の女が、道具を壁に立てかけて、こちらへ歩いてきていた。
レムは、ベアトリスの顔を自分の肩の側へ向けさせた。
「眠いだけです。朝が早かったので」
頭を下げる。下げたまま、女と黒い目のあいだから一歩ずれて、入口のほうへ向き直った。
背中に、女の視線が残っていた。
---
大時計の長い針が、二つ目を進んだ。
「二分」
エミリアが言った。
スバルは、駅舎の硝子越しに、北改札を見ていた。
バス停からは、斜めにしか見えない。それでも、東の端の灰色の仮囲いは見えた。
囲いの中に、人影が一つあった。背中の丸い作業着が、開けた機械の前に座り込んで、膝の上の端末を覗き込んでいる。
「……真壁さんだ」
明日もここにいる。そう言っていた。
囲いの中の三台だけ、読取部に緑が灯っていた。修理の途中で、試しに電気を通しているのかもしれない。
その三台の緑が、消えた。
スバルの息が、止まった。
一拍。
中央の列で、通過音が途切れた。残りの十九台分の緑が、端から端まで、ほとんど同時に落ちた。
改札の手前で、朝一番の背広が二人、同時に足を止めた。
足が、勝手に出ていた。
屋根の影から、一歩。二歩。
「止まりなさい」
スバルの踵が、アスファルトに縫い付けられたように止まった。
ラムは、それ以上何も言わなかった。スバルのほうを見てもいなかった。
スバルは、握った拳を身体の横に下ろし、屋根の影へ戻った。
改札の緑が、端から灯り始めた。中央から。西から。東の三台が、最後だった。
囲いの中で、真壁が顔を上げていた。
膝の上の端末を見て、機械を見て、それから、硝子の外を見た。
目が、合った。
合った、とスバルは思った。距離がありすぎて、本当のところは分からない。
真壁は、しばらく動かなかった。
それから、胸元に手をやった。無線だった。
「三分」
エミリアが言った。
階段の口から、青い髪が上がってきた。
レムは、ベアトリスを胸の前に抱えていた。抱えたまま、他の客と同じ速さで、一段ずつ上がってきた。
---
ロータリーの反対側、歩道橋の階段の裏に、自転車置き場の屋根があった。
レムはそこで、ベアトリスを下ろした。エミリアが引き取って、しゃがんだ自分の膝に寄りかからせる。
「平気?」
「……平気、なのよ」
声は、いつもの形をしていた。中身が、少し足りなかった。
ベアトリスは、エミリアの膝から顔を上げた。
「道は、あそこにあるのよ。でも、今は開かない。閉じてる。跡だけが残ってるかしら」
四人は、黙って聞いた。
「流したものは、戻ってこなかったのよ。屋敷の食堂で、あの石に吸われたのと、同じ吸い方だったかしら」
ベアトリスは、自分の掌を見た。握って、開いた。
「あの石があれば。……開けられる、かもしれないのよ。そこから先は、ベティーにも分からないかしら」
言い切ってから、目を閉じた。エミリアの膝の上で、身体の重みが少しだけ増えた。
スバルは、ポケットに手を入れた。
指先に、紙の端が触れた。昨夜から何度も折って、開いて、また折ったせいで、角が丸くなっている。
十四時三十七分、二十二台。
日向の字だった。
弾けた石。落ちてきた四人。同じ時刻に止まった二十二台。先に落ちる東の三台。その真下の、ほどけた縫い目。今朝、同じ吸われ方をして、同じ止まり方をした改札。
「……全部、一本だ」
誰も、何も足さなかった。
「でも、スバル」
エミリアが言った。
「あの石は、屋敷で弾けたのよ。テーブルの上で、音もしないで」
「……だよな」
エミリアの膝の上で、ベアトリスの指が、スカートの布を小さく握った。目は、開けなかった。
スバルは、紙を畳んだ。
「……次は、石だ」
口に出してから、その重さに気づいた。
どこを。誰に聞いて。何を使って。
---
ロータリーに、白と黒の車が一台、音もなく滑り込んだ。制服が二人、降りて、まっすぐ駅舎の東の入口へ入っていく。入れ替わりに出てきた駅員が、ロータリーを見渡し、それから地下への階段を覗き込んだ。
「……移動する」
スバルが、帽子の縁を下げて立ち上がった。
「南から線路沿いに出て、川のほうまで戻れば——」
レムが、ベアトリスを抱き上げようと腕を回しかけた。ラムが、柱から背を離した。
エミリアだけが、動かなかった。
「また逃げるの?」
スバルの足が、止まった。
エミリアは、ベアトリスの頭を膝に乗せたまま、スバルを見上げていた。怒ってはいなかった。
「逃げて、それからどうするの?」
「どうって。川まで戻って、それから」
「それから?」
スバルは、答えようとした。
川。高架の下。橋脚の陰。昨夜と、同じ場所。
その次の朝は。
ラムが、柱から離したはずの肩を、また柱へ戻していた。本人は、それに気づいていないように見えた。エミリアの膝の上で、ベアトリスは目を開けなかった。スバルのポケットの中で、電源を切ったままの板が、手のひらに固かった。最後に見た数字は、九だった。
「どこにあるかも分からない石を、橋の下から探すの?」
スバルは、口を開いた。
閉じた。
探すなら、誰かに聞くしかない。誰かに聞くなら、顔を見せるしかない。この世界の側へ手を伸ばすたびに、見つかって、逃げてきた。
「……一周してんだよな、俺ら」
声が、自分の足元に落ちた。
「逃げるたびに、帰り道から遠くなってる。分かってて、走るほうが楽だったんだ。走ってるあいだは、何も決めなくて済むから」
エミリアは、黙って聞いていた。
聞き終えてから、言った。
「だったら、一度ちゃんと帰りましょう」
「……どこに」
「スバルのお家」
自転車置き場の屋根を、風が一度だけ鳴らした。
---
「……駄目だ」
スバルは、首を横に振った。
「家の前には、今ごろ人が立ってる。警察か、カメラか、ネットの奴か。俺が五人で帰ったら、母さんちが見世物になる。……これ以上、巻き込みたくねえんだよ」
「今ごろ、と言ったわね」
ラムだった。柱に肩を預けたまま、目だけをスバルへ向けていた。
「今ごろ立っているなら、あの家はもう、とっくに巻き込まれているわ。バルスが帰っても、帰らなくても」
「……」
「巻き込まないために離れて、それで何を守れたのかしら。バルスが守っているのは、自分が見なくて済むことだけよ」
言い方は、平らだった。
言い終えてから、ラムは駅と反対の空へ目をやった。その方角のどこにも、屋敷はない。
それ以上は、何も言わなかった。
エミリアは、ベアトリスの髪を、指で一度梳いた。
「スバルには、帰れる家があるでしょう」
それだけだった。
---
スバルは、ポケットの中で板を握った。
画面を点けなくても、分かっていた。
不在着信が、並んでいる。同じ名前が、上から下まで。その間に一つだけ挟まった、短い一行。
『ちゃんと食べてる?』
食べていなかった。昨夜はパンを半分。その前は、覚えていない。
先週、あの家に帰ったとき、母さんは何も訊かなかった。数年ぶんのことを一つも訊かずに、ただ、多すぎる量の飯を出した。
それを食べきらないうちに、自分は板の中に銀色の髪を見つけて、家を飛び出した。
行ってきます、も言わずに。
玄関の戸を閉めた音を、覚えていない。閉めたのかどうかも、覚えていない。
自転車置き場の屋根の端から、朝の光が一筋、アスファルトに落ちていた。その上を、鳩が一羽、首を振りながら横切っていった。
誰も、何も言わなかった。エミリアも、ラムも、もう言うことは言っていた。
スバルは、長く息を吐いた。
吐いて、帽子を脱いだ。握ったつばが、手の中で潰れた。
「……家に帰る」
レムの腕が、ベアトリスの背中の上で止まった。
スバルくんの帰る場所を、壊しに来たんでしょうか。
あのとき、自分でそう訊いた。答えは、まだ誰からももらっていない。
その場所へ、今から自分の足で行く。
「……レムも、行っていいんでしょうか」
声は、小さかった。
スバルは、帽子をかぶり直した。
「来てくれなきゃ困る。ベア子背負えるの、お前だけだ」
冗談の形をしていた。
レムは、それが答えではないことを分かっていた。スバルも、分かっていた。
「……はい」
レムは、ベアトリスを背負った。
---
駅員は、まだ階段の口にいた。
五人は、自転車置き場の裏から歩道へ出た。
ベアトリスは抵抗しなかった。小さな腕が、レムの首の前で一度組まれて、そのまま落ちなかった。
ラムは、自分で歩き出した。
三歩目で、エミリアがその腕を取った。
「エミリア様のお手を煩わせるほどでは」
「煩ってないわ。私が掴みたいの」
ラムは、腕を抜かなかった。
「走らないでね。逃げてるんじゃないんだから」
「……こっちだ」
スバルが、先に立った。
駅と反対の方角だった。線路沿いではなく、住宅の並ぶほうへ。昨日まで、一番近づかないようにしていた方角へ。
「近いのですか」
「歩いて二十分」
「近いわね」
「……近いから、ずっと行かなかったんだよ」
背中のほうで、改札の電子音が、何事もなかったように鳴り続けていた。
---
角を三つ曲がると、駅の音は聞こえなくなった。
低い塀と、植木鉢と、閉じた雨戸。新聞を積んだ原付が一台、五人を追い越していった。遠くで、どこかの家の犬が一度だけ吠えた。
四つ目の角に、自販機が二台並んでいた。
スバルは、歩きながらそれを見た。場所は、覚えている通りだった。並んでいる缶の絵は、半分も知らなかった。
「スバル?」
「……いや。変わってねえな、と思ったら、変わってた」
エミリアは、それ以上訊かなかった。ラムの腕を取ったまま、スバルの半歩後ろを歩いた。
スバルは、電柱の横で足を止めた。
ポケットから、黒い板を出す。
親指を、長く押し当てる。
画面が、白く灯った。右上の数字は、九だった。すぐに、八に変わった。
通知が、上から落ちてきた。
昨夜と同じだった。昨夜より、多かった。
不在着信。不在着信。不在着信。
同じ名前が、並んでいた。
お母さん。
登録したのは、母さん自身だった。先週、この板を渡されたとき、自分の番号だけ先に入れておいたから、と言っていた。「母さん」でも「母」でもなく、自分で「お母さん」と打ち込んで。
スバルは、その文字を見ていた。
四人は、少し離れたところで立ち止まっていた。エミリアが、何か言いかけたレムの前に、そっと手を出した。
画面が、節電の暗さに落ちかけた。
スバルの親指が、それより先に、名前に触れた。
板を、耳に当てる。
呼出音。
一回。
二回。
「――もしもし?」
母さんの声だった。
少し掠れていた。朝の声だった。きっと、ずっと板を枕元に置いて寝ていた声だった。
スバルは、すぐには何も言えなかった。
電柱の影が、アスファルトの上で、朝日の角度に少しずつ短くなっていった。
「……スバル?」
息を、一つ吸った。
「母さん。……今から帰る」