帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第7話「帰り道」

 

 

空が、駅舎の輪郭の上だけ白み始めていた。

 

東口のロータリーには、まだ車が二台しかいなかった。客待ちのタクシーと、エンジンをかけたままの配送のトラック。シャッターの下りた店の前を、鳩が三羽、歩いて横切っていく。

 

一番電車が、頭の上の高架を渡っていった。

 

音が遠ざかると、駅舎の中から、改札の電子音がぽつぽつと聞こえ始めた。まだ間遠い。一つ鳴って、しばらく空いて、また一つ。

 

五人は、ロータリーの端のバス停の屋根の下にいた。

 

「……開いてる」

 

スバルが、帽子の縁の下から顎で示した。

 

駅舎の東の角。硝子の庇の下に、下りの階段が口を開けている。照明は点いていて、手すりの向こうで、白い床が折れ曲がって消えていた。案内板の矢印が、下を指している。

 

「掃除の人が、さっき一人降りていきました。まだ上がってきていません」

 

レムが言った。視線は階段の口から動かない。

 

ベアトリスは、ベンチの端に座っていた。背筋は伸びている。伸ばしている、とスバルには分かった。

 

「ベア子。無理なら今日は」

 

「無理じゃないのよ」

 

「……顔色」

 

「朝の色なのよ。スバルのほうが、よっぽど死人の顔かしら」

 

言い返そうとして、スバルはやめた。一晩、橋脚の陰で座ったまま目を閉じていただけだ。眠れたとは言えない。

 

エミリアが、ベンチの前にしゃがんで、ベアトリスと目の高さを合わせた。

 

「確かめるだけ。三分」

 

「覚えているのよ。子ども扱いは無しかしら」

 

エミリアは頷いて、立ち上がった。駅舎の壁の高いところを見上げる。

 

硝子の庇の奥に、丸い大時計が掛かっている。長い針が、ちょうど一目盛り進んだ。

 

五時十二分。

 

「あの針が三つ進んだら、三分よね。私はあれを見てる」

 

ラムが、バス停の柱から背を離した。

 

「バルスは、ラムの隣。前へ出ないこと」

 

「分かってるって」

 

「分かっている人間の足の位置ではないわね」

 

スバルは、自分の爪先を見た。いつの間にか、屋根の影から半歩出ていた。

 

引っ込めた。

 

「……行ってくるのよ」

 

ベアトリスが、ベンチから降りた。レムがその手を取る。

 

二人は、ロータリーの縁を歩いて、階段の口へ向かった。途中で一度だけ、レムが振り返った。

 

エミリアが、小さく手を上げた。

 

二つの背中が、階段の下へ沈んでいった。

 

---

 

階段を下りきると、空気が変わった。

 

外より、少し暖かい。乾いていて、埃と洗剤の匂いがした。

 

通路は、思っていたより広かった。白い床がまっすぐ奥へ延びている。天井は低い。同じ形の灯りが等間隔に並び、壁には色の褪せた大きな絵が、硝子の枠に入って何枚も掛かっていた。

 

遠くで、背広の男が一人、早足で去っていく。その手前で、灰色の作業着の女が、柄の長い道具で床を拭いていた。

 

天井の角に、黒い目が一つ。少し先に、もう一つ。

 

レムは、ベアトリスを壁側に入れて歩いた。自分の身体で、黒い目とのあいだを半分塞ぐ位置だった。塞ぎきれないことは、分かっていた。

 

歩数を数える。

 

昨夜、スバルが板の上で指を広げていた。上の門から、この通路の階段まで。東の端の三台は、だいたいこの辺りの真上。

 

「このあたりです」

 

レムが足を緩めた。

 

ベアトリスは、答えなかった。

 

小さな手が、レムの指の中で、一度だけ強張った。

 

「……ベアトリス様?」

 

ベアトリスは、手を離した。

 

離して、一人で三歩、前へ出た。通路の真ん中だった。床の模様にも、壁の絵にも、変わったところは何もない。天井の灯りも、他と同じ白さで灯っている。

 

そこで、止まった。

 

「ここなのよ」

 

声が、低かった。

 

ベアトリスは、右の掌を前へ出した。床ではなかった。壁でもなかった。胸の高さの、何もない空中だった。

 

指先が、そこで止まった。

 

触れているようには見えなかった。けれど、それ以上は進めないという止まり方だった。薄い布の、ほつれた縁に指がかかったような。

 

レムには、何も見えなかった。

 

見えないのに、首の後ろの産毛が、ゆっくりと立っていった。

 

「床でも、壁でもないのよ。この場所そのものが……ずれてるかしら。縫い目を、ほどいたまま放ってあるみたいに」

 

ベアトリスは、振り返らなかった。

 

「一回だけ、流すのよ。ほんの糸一本。……レム。ベティーに触るんじゃないのよ」

 

レムの喉が、鳴った。

 

食堂のテーブル。黒い石。倒れかけた小さな身体を、エミリア様が抱きとめて、自分が背中に回って、姉様が肩を掴んだ。

 

四人が触れ合った瞬間に、全部が弾けた。

 

「……はい」

 

レムは、半歩下がった。手は、下ろさなかった。ベアトリスの肩の後ろ、指三本ぶんの距離で止めた。

 

床を拭いていた女が、手を止めて、こちらを見ていた。

 

子どもが、何もないところに手をかざしている。それだけに見えるはずだった。

 

ベアトリスの指先から、何かが出ていった。

 

レムには見えなかった。ただ、ベアトリスの肩がほんのわずかに前へ傾いたのが分かった。

 

傾いたまま、戻らなかった。

 

「——っ」

 

「ベアトリス様」

 

「……戻って、こないのよ」

 

ベアトリスの声が、震えていた。

 

「吸われてるかしら。あの石と、同じ……同じ吸い方なのよ」

 

肩が、もう一つ前へ傾いた。小さな踵が、床から浮きかける。

 

レムの指が、跳ねた。

 

届く。今なら届く。掴んで、引けば——

 

指三本ぶん手前で、止めた。

 

止めた自分の手が、信じられないくらい重かった。

 

「——切るのよ」

 

ベアトリスが、歯のあいだから言った。

 

掌が、握られた。

 

糸を、自分の指で千切るような握り方だった。

 

ベアトリスの身体が、後ろへ跳ね返った。

 

今度は、レムは迷わなかった。両腕で受け止める。軽かった。屋敷で抱えたときより、ずっと軽かった。

 

「……大丈夫、なのよ」

 

大丈夫な声ではなかった。

 

「あの、大丈夫ですか」

 

作業着の女が、道具を壁に立てかけて、こちらへ歩いてきていた。

 

レムは、ベアトリスの顔を自分の肩の側へ向けさせた。

 

「眠いだけです。朝が早かったので」

 

頭を下げる。下げたまま、女と黒い目のあいだから一歩ずれて、入口のほうへ向き直った。

 

背中に、女の視線が残っていた。

 

---

 

大時計の長い針が、二つ目を進んだ。

 

「二分」

 

エミリアが言った。

 

スバルは、駅舎の硝子越しに、北改札を見ていた。

 

バス停からは、斜めにしか見えない。それでも、東の端の灰色の仮囲いは見えた。

 

囲いの中に、人影が一つあった。背中の丸い作業着が、開けた機械の前に座り込んで、膝の上の端末を覗き込んでいる。

 

「……真壁さんだ」

 

明日もここにいる。そう言っていた。

 

囲いの中の三台だけ、読取部に緑が灯っていた。修理の途中で、試しに電気を通しているのかもしれない。

 

その三台の緑が、消えた。

 

スバルの息が、止まった。

 

一拍。

 

中央の列で、通過音が途切れた。残りの十九台分の緑が、端から端まで、ほとんど同時に落ちた。

 

改札の手前で、朝一番の背広が二人、同時に足を止めた。

 

足が、勝手に出ていた。

 

屋根の影から、一歩。二歩。

 

「止まりなさい」

 

スバルの踵が、アスファルトに縫い付けられたように止まった。

 

ラムは、それ以上何も言わなかった。スバルのほうを見てもいなかった。

 

スバルは、握った拳を身体の横に下ろし、屋根の影へ戻った。

 

改札の緑が、端から灯り始めた。中央から。西から。東の三台が、最後だった。

 

囲いの中で、真壁が顔を上げていた。

 

膝の上の端末を見て、機械を見て、それから、硝子の外を見た。

 

目が、合った。

 

合った、とスバルは思った。距離がありすぎて、本当のところは分からない。

 

真壁は、しばらく動かなかった。

 

それから、胸元に手をやった。無線だった。

 

「三分」

 

エミリアが言った。

 

階段の口から、青い髪が上がってきた。

 

レムは、ベアトリスを胸の前に抱えていた。抱えたまま、他の客と同じ速さで、一段ずつ上がってきた。

 

---

 

ロータリーの反対側、歩道橋の階段の裏に、自転車置き場の屋根があった。

 

レムはそこで、ベアトリスを下ろした。エミリアが引き取って、しゃがんだ自分の膝に寄りかからせる。

 

「平気?」

 

「……平気、なのよ」

 

声は、いつもの形をしていた。中身が、少し足りなかった。

 

ベアトリスは、エミリアの膝から顔を上げた。

 

「道は、あそこにあるのよ。でも、今は開かない。閉じてる。跡だけが残ってるかしら」

 

四人は、黙って聞いた。

 

「流したものは、戻ってこなかったのよ。屋敷の食堂で、あの石に吸われたのと、同じ吸い方だったかしら」

 

ベアトリスは、自分の掌を見た。握って、開いた。

 

「あの石があれば。……開けられる、かもしれないのよ。そこから先は、ベティーにも分からないかしら」

 

言い切ってから、目を閉じた。エミリアの膝の上で、身体の重みが少しだけ増えた。

 

スバルは、ポケットに手を入れた。

 

指先に、紙の端が触れた。昨夜から何度も折って、開いて、また折ったせいで、角が丸くなっている。

 

十四時三十七分、二十二台。

 

日向の字だった。

 

弾けた石。落ちてきた四人。同じ時刻に止まった二十二台。先に落ちる東の三台。その真下の、ほどけた縫い目。今朝、同じ吸われ方をして、同じ止まり方をした改札。

 

「……全部、一本だ」

 

誰も、何も足さなかった。

 

「でも、スバル」

 

エミリアが言った。

 

「あの石は、屋敷で弾けたのよ。テーブルの上で、音もしないで」

 

「……だよな」

 

エミリアの膝の上で、ベアトリスの指が、スカートの布を小さく握った。目は、開けなかった。

 

スバルは、紙を畳んだ。

 

「……次は、石だ」

 

口に出してから、その重さに気づいた。

 

どこを。誰に聞いて。何を使って。

 

---

 

ロータリーに、白と黒の車が一台、音もなく滑り込んだ。制服が二人、降りて、まっすぐ駅舎の東の入口へ入っていく。入れ替わりに出てきた駅員が、ロータリーを見渡し、それから地下への階段を覗き込んだ。

 

「……移動する」

 

スバルが、帽子の縁を下げて立ち上がった。

 

「南から線路沿いに出て、川のほうまで戻れば——」

 

レムが、ベアトリスを抱き上げようと腕を回しかけた。ラムが、柱から背を離した。

 

エミリアだけが、動かなかった。

 

「また逃げるの?」

 

スバルの足が、止まった。

 

エミリアは、ベアトリスの頭を膝に乗せたまま、スバルを見上げていた。怒ってはいなかった。

 

「逃げて、それからどうするの?」

 

「どうって。川まで戻って、それから」

 

「それから?」

 

スバルは、答えようとした。

 

川。高架の下。橋脚の陰。昨夜と、同じ場所。

 

その次の朝は。

 

ラムが、柱から離したはずの肩を、また柱へ戻していた。本人は、それに気づいていないように見えた。エミリアの膝の上で、ベアトリスは目を開けなかった。スバルのポケットの中で、電源を切ったままの板が、手のひらに固かった。最後に見た数字は、九だった。

 

「どこにあるかも分からない石を、橋の下から探すの?」

 

スバルは、口を開いた。

 

閉じた。

 

探すなら、誰かに聞くしかない。誰かに聞くなら、顔を見せるしかない。この世界の側へ手を伸ばすたびに、見つかって、逃げてきた。

 

「……一周してんだよな、俺ら」

 

声が、自分の足元に落ちた。

 

「逃げるたびに、帰り道から遠くなってる。分かってて、走るほうが楽だったんだ。走ってるあいだは、何も決めなくて済むから」

 

エミリアは、黙って聞いていた。

 

聞き終えてから、言った。

 

「だったら、一度ちゃんと帰りましょう」

 

「……どこに」

 

「スバルのお家」

 

自転車置き場の屋根を、風が一度だけ鳴らした。

 

---

 

「……駄目だ」

 

スバルは、首を横に振った。

 

「家の前には、今ごろ人が立ってる。警察か、カメラか、ネットの奴か。俺が五人で帰ったら、母さんちが見世物になる。……これ以上、巻き込みたくねえんだよ」

 

「今ごろ、と言ったわね」

 

ラムだった。柱に肩を預けたまま、目だけをスバルへ向けていた。

 

「今ごろ立っているなら、あの家はもう、とっくに巻き込まれているわ。バルスが帰っても、帰らなくても」

 

「……」

 

「巻き込まないために離れて、それで何を守れたのかしら。バルスが守っているのは、自分が見なくて済むことだけよ」

 

言い方は、平らだった。

 

言い終えてから、ラムは駅と反対の空へ目をやった。その方角のどこにも、屋敷はない。

 

それ以上は、何も言わなかった。

 

エミリアは、ベアトリスの髪を、指で一度梳いた。

 

「スバルには、帰れる家があるでしょう」

 

それだけだった。

 

---

 

スバルは、ポケットの中で板を握った。

 

画面を点けなくても、分かっていた。

 

不在着信が、並んでいる。同じ名前が、上から下まで。その間に一つだけ挟まった、短い一行。

 

『ちゃんと食べてる?』

 

食べていなかった。昨夜はパンを半分。その前は、覚えていない。

 

先週、あの家に帰ったとき、母さんは何も訊かなかった。数年ぶんのことを一つも訊かずに、ただ、多すぎる量の飯を出した。

 

それを食べきらないうちに、自分は板の中に銀色の髪を見つけて、家を飛び出した。

 

行ってきます、も言わずに。

 

玄関の戸を閉めた音を、覚えていない。閉めたのかどうかも、覚えていない。

 

自転車置き場の屋根の端から、朝の光が一筋、アスファルトに落ちていた。その上を、鳩が一羽、首を振りながら横切っていった。

 

誰も、何も言わなかった。エミリアも、ラムも、もう言うことは言っていた。

 

スバルは、長く息を吐いた。

 

吐いて、帽子を脱いだ。握ったつばが、手の中で潰れた。

 

「……家に帰る」

 

レムの腕が、ベアトリスの背中の上で止まった。

 

スバルくんの帰る場所を、壊しに来たんでしょうか。

 

あのとき、自分でそう訊いた。答えは、まだ誰からももらっていない。

 

その場所へ、今から自分の足で行く。

 

「……レムも、行っていいんでしょうか」

 

声は、小さかった。

 

スバルは、帽子をかぶり直した。

 

「来てくれなきゃ困る。ベア子背負えるの、お前だけだ」

 

冗談の形をしていた。

 

レムは、それが答えではないことを分かっていた。スバルも、分かっていた。

 

「……はい」

 

レムは、ベアトリスを背負った。

 

---

 

駅員は、まだ階段の口にいた。

 

五人は、自転車置き場の裏から歩道へ出た。

 

ベアトリスは抵抗しなかった。小さな腕が、レムの首の前で一度組まれて、そのまま落ちなかった。

 

ラムは、自分で歩き出した。

 

三歩目で、エミリアがその腕を取った。

 

「エミリア様のお手を煩わせるほどでは」

 

「煩ってないわ。私が掴みたいの」

 

ラムは、腕を抜かなかった。

 

「走らないでね。逃げてるんじゃないんだから」

 

「……こっちだ」

 

スバルが、先に立った。

 

駅と反対の方角だった。線路沿いではなく、住宅の並ぶほうへ。昨日まで、一番近づかないようにしていた方角へ。

 

「近いのですか」

 

「歩いて二十分」

 

「近いわね」

 

「……近いから、ずっと行かなかったんだよ」

 

背中のほうで、改札の電子音が、何事もなかったように鳴り続けていた。

 

---

 

角を三つ曲がると、駅の音は聞こえなくなった。

 

低い塀と、植木鉢と、閉じた雨戸。新聞を積んだ原付が一台、五人を追い越していった。遠くで、どこかの家の犬が一度だけ吠えた。

 

四つ目の角に、自販機が二台並んでいた。

 

スバルは、歩きながらそれを見た。場所は、覚えている通りだった。並んでいる缶の絵は、半分も知らなかった。

 

「スバル?」

 

「……いや。変わってねえな、と思ったら、変わってた」

 

エミリアは、それ以上訊かなかった。ラムの腕を取ったまま、スバルの半歩後ろを歩いた。

 

スバルは、電柱の横で足を止めた。

 

ポケットから、黒い板を出す。

 

親指を、長く押し当てる。

 

画面が、白く灯った。右上の数字は、九だった。すぐに、八に変わった。

 

通知が、上から落ちてきた。

 

昨夜と同じだった。昨夜より、多かった。

 

不在着信。不在着信。不在着信。

 

同じ名前が、並んでいた。

 

お母さん。

 

登録したのは、母さん自身だった。先週、この板を渡されたとき、自分の番号だけ先に入れておいたから、と言っていた。「母さん」でも「母」でもなく、自分で「お母さん」と打ち込んで。

 

スバルは、その文字を見ていた。

 

四人は、少し離れたところで立ち止まっていた。エミリアが、何か言いかけたレムの前に、そっと手を出した。

 

画面が、節電の暗さに落ちかけた。

 

スバルの親指が、それより先に、名前に触れた。

 

板を、耳に当てる。

 

呼出音。

 

一回。

 

二回。

 

「――もしもし?」

 

母さんの声だった。

 

少し掠れていた。朝の声だった。きっと、ずっと板を枕元に置いて寝ていた声だった。

 

スバルは、すぐには何も言えなかった。

 

電柱の影が、アスファルトの上で、朝日の角度に少しずつ短くなっていった。

 

「……スバル?」

 

息を、一つ吸った。

 

「母さん。……今から帰る」

 

 

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