帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第8話「ただいま」

 

 

坂は、覚えていたより短かった。

 

登りきったところで、スバルの足が止まった。

 

左から三軒目。灰色の塀と、胸の高さの門扉。門柱の上に、小さな表札が埋めてある。

 

菜月。

 

四人は、スバルの一歩後ろで止まった。

 

ベアトリスは、レムの背中で目を閉じていた。眠ってはいない、とレムには分かった。首の後ろに当たる息が、浅くて、数えられる速さだった。

 

家の前には、誰もいなかった。

 

車も停まっていない。板を構えた人影もない。塀の前の道には朝の日が斜めに差して、アスファルトが乾いていた。

 

「誰もいないわね」

 

ラムが言った。

 

それから、少しだけ目を細めた。

 

「……いた跡は、あるけれど」

 

門柱の足元に、ちりとりが一つ立てかけてあった。その横に、口を固く縛った袋が二つ。薄い膜の向こうに、潰れた空き缶と、煙草の吸い殻と、何かの包み紙が透けていた。

 

この家の人間が捨てたものではない。見れば分かった。

 

門柱には、紙が一枚、透明なテープで貼ってあった。

 

スバルは、それを読んだ。

 

取材・撮影はご遠慮ください。近隣の方のご迷惑になります。

 

角張った、右上がりの字だった。

 

「……父さんの字だ」

 

テープの端が波打っていた。雨を一度吸って、また乾いた波だった。昨日今日貼ったものではなかった。

 

巻き込まないために、離れた。

 

その間に、この家は、とっくに巻き込まれていた。誰かがここに立って、誰かが板を向けて、誰かが吸い殻を捨てていった。それを、毎朝、ちりとりで集めていた人がいる。

 

スバルは、袋から目を逸らした。

 

門扉を押す。蝶番が、昔と同じ音で鳴った。

 

玄関までは、五歩だった。

 

---

 

インターホンの前で、指が止まった。

 

ボタンの縁は、日に焼けて黄ばんでいた。その上に、自分の指先が浮いている。

 

四人は、門の内側で待っていた。

 

エミリアは何も言わなかった。レムが、背中のベアトリスを一度だけ背負い直した。ラムは、玄関脇の植木鉢を見ていた。土が、今朝のうちに湿らされていた。

 

電話は、もうしてある。今から帰る、と言った。

 

言ったのに、指が動かなかった。

 

先週は、どうやって入ったんだっけ、と思った。思い出せなかった。気がついたら台所にいて、母さんが飯をよそっていた。

 

今日は、自分で押さなければ開かない。

 

スバルは、押した。

 

チャイムが、家の中で鳴った。

 

鳴り終わるより先に、戸の向こうで、何かが床板を擦った。立ち上がる音だった。ずっとそこに座っていた人が、立ち上がる音だった。

 

鍵が回った。

 

戸が、開いた。

 

母さんが立っていた。

 

寝間着の上に、毛玉の浮いたカーディガンを羽織っていた。髪を後ろで適当に括って、右手に板を握っている。

 

少し吊った目が、スバルを見た。

 

「……スバル?」

 

喉が、塞がった。

 

言うことは決めてあった。坂の途中で、何度も口の中で転がしてきた。それが、出てこなかった。

 

「…………ただいま」

 

母さんは、数秒、動かなかった。

 

板を握った手だけが、胸の前から、ゆっくり下がった。

 

「おかえり」

 

それだけだった。

 

それから、母さんの目が、スバルの肩越しに後ろへ移った。

 

帽子の縁から零れた銀の髪。フードの影の、青い髪と桃色の髪。背負われた小さな身体の、金の巻き毛。

 

目が、一人ずつ、順番に止まって、また動いた。

 

「……で、その子たちは?」

 

---

 

「えっと」

 

スバルは、振り返った。振り返って、何から言えばいいのか分からなくなった。

 

「お友達?」

 

「友達っていうか……いや、友達なんだけど」

 

「外国の方?」

 

「外国っていうか、もっと遠いっていうか」

 

「その、背中の子は? 寝てるの?」

 

「寝てないのよ」

 

レムの背中から、声だけが返ってきた。

 

母さんの眉が、少しだけ上がった。

 

目が、フードつきの上着の裾に下りた。その下から覗いている、黒い布と白いフリル。膝までの長い裾。

 

「……その下、何着てるの?」

 

「それは、あの、話すと長い」

 

スバルが言い淀んでいるあいだに、レムが一歩前へ出た。

 

ベアトリスを背負ったまま、深く頭を下げる。

 

「突然お邪魔して、申し訳ありません。レムと申します」

 

「……傾けるんじゃないのよ」

 

背中から、小さな抗議が上がった。レムは下げた頭を、少しだけ浅くした。

 

エミリアが、その隣に並んだ。帽子を取る。銀の髪が、朝の光に零れた。

 

「エミリアです。スバルを、探しに来ました」

 

母さんは、エミリアの顔を見た。

 

見て、何か言いかけて、やめた。

 

ラムは、頭を下げる角度を浅く保ったまま、名乗った。

 

「ラムです。妹ともども、しばらくバル……スバルの面倒を見ておりました」

 

「面倒を」

 

「見ておりました」

 

ラムの目は、名乗るあいだも、母さんの肩の向こうの玄関を見ていた。

 

上がり框の前に、スリッパが並んでいた。

 

一足だけ色の褪せた、青いもの。その隣に、同じ形の来客用が、四足。

 

揃えて置かれていた。

 

スバルの電話は、今から帰る、とだけ言った。何人で、とは言っていない。

 

ラムは、何も言わなかった。

 

レムの背中から、小さな手が伸びた。

 

伸びて、スバルの上着の裾を掴んだ。いつもの位置だった。

 

母さんは、その手を見ていた。

 

見ていた目を、それから、スバルの顔へ戻した。

 

「とりあえず、ご飯食べる?」

 

スバルは、何も答えられなかった。

 

板の中に、一行だけ挟まっていた文字を思い出していた。

 

ちゃんと食べてる?

 

答えられなかった問いの、続きだった。

 

「……お味噌汁、ちょっと冷めちゃったけど」

 

母さんは、そう言って、戸を大きく開けた。

 

---

 

ラムが、玄関に入る前に、ほんの一瞬だけ足を止めた。

 

スバルが三和土で靴を脱ぐのを見て、母さんの足元のスリッパを見て、それからレムの背中へ小さく言った。

 

「レム。靴」

 

「はい、姉様」

 

エミリアが、脱いだ靴をどこに置くか迷って、スバルの靴の隣に、爪先を揃えて並べた。

 

母さんが、それを見て、少しだけ笑った。

 

廊下の奥で、階段が軋んだ。

 

降りてきたのは、ワイシャツにネクタイを首から垂らしただけの男だった。片手に、結びかけの端を握っている。

 

階段の途中で、男の足が止まった。

 

「……おう」

 

それから、残りの段を、一段飛ばしで降りてきた。

 

スバルが何か言うより先に、両手が伸びた。スバルの頭を掴む。掴んで、髪を、ぐしゃぐしゃにかき回した。帽子が落ちた。

 

「お前な」

 

かき回しながら、言った。

 

「お前なあ」

 

その先は、続かなかった。

 

手が、止まった。スバルの頭の上に乗ったまま、しばらく動かなかった。

 

「……父さん、首。首がもげる」

 

「もげとけ」

 

手が離れた。

 

父さんは、玄関に並んだ四人を見た。一人ずつ、ゆっくり。最後に、レムの背中から伸びた手が、スバルの裾を掴んでいるのを見た。

 

それから、ワイシャツの胸ポケットから板を出した。

 

耳に当てる。

 

「あ、もしもし。菜月です。朝早くにすみません。……今日、休みます。……はい、家の事情で。……いえ、大丈夫です。むしろ、大丈夫になったんで」

 

エミリアは、その背中を見ていた。

 

仕事に行こうとしていた人が、電話一本で、行かないことを決めた。

 

誰にも訊かずに。訊かれる前に。

 

父さんは電話を切って、ネクタイを首から抜いた。丸めて、階段の手すりに引っかけた。

 

「飯だろ。入れ入れ。……その格好で、うちの椅子座れるか?」

 

---

 

飯が炊けるまでのあいだに、四人は順番に風呂を使わされた。

 

断る隙はなかった。母さんが、タオルと着替えを腕に積んで、廊下に立っていたからだ。

 

エミリアは、母さんのセーターを着て出てきた。袖が指の先まで余っていた。ベアトリスは、スバルが小学生の頃に着ていたというトレーナーを、裾を膝まで垂らして着ていた。本人は何も言わなかった。言う元気が、まだ戻っていなかった。

 

レムは、風呂から出るとまっすぐ台所へ行った。

 

「お手伝いします」

 

母さんは、一度だけレムの顔を見て、卵のパックを渡した。

 

レムは、片手で卵を割った。一つ、二つ、三つ。殻が一欠片も落ちなかった。

 

「上手ねえ」

 

「……毎朝、作っていましたので。お屋敷で」

 

「お屋敷」

 

母さんは、それ以上訊かなかった。菜箸を、レムの手元へ置いた。

 

---

 

ラムは、居間にいた。

 

座れと言われた場所に座らず、壁際の棚の前に立っていた。

 

家族の写真が、いくつか並んでいた。額の硝子に、朝の光が白く乗っている。小さな子どもが、今と同じ目つきで、何かに不満そうにこちらを見ていた。

 

その隣に、紙の束があった。

 

輪ゴムで留めて、写真立ての陰に押し込まれていた。一番上の一枚が、少しだけ覗いていた。

 

少し若い、バルスの顔だった。

 

その下にも、同じ顔があった。束の厚みのぶんだけ、同じ顔が重なっていた。

 

字は、読めなかった。

 

読めなくても、何のための紙かは分かった。同じ顔を、これだけの数、刷る理由は、一つしかない。

 

紙の角が、どれも少しずつ擦り切れていた。一度刷って仕舞ったものではない。何度も持ち出して、何度も持ち帰ってきた束だった。

 

ラムは、束に触れなかった。

 

写真立ての陰から覗いていた角を、指先で一度だけ押して、見えない位置まで戻した。

 

それから、言われた場所に座った。

 

---

 

食卓には、椅子が四つしかなかった。

 

父さんが物置から折り畳みの椅子を二つ出してきて、ベアトリスはスバルの膝の横に、座布団を重ねて座った。

 

皿が、多かった。

 

焼いた魚と、卵焼きと、青菜の和え物と、煮物と、漬物。味噌汁の鍋。炊飯器の蓋を開けると、湯気が天井まで上がった。

 

「……多いって」

 

「何人か分からなかったもの。多めにしといた」

 

母さんは、茶碗に白い飯を盛って、順番に回した。一杯目は、スバルの前に置いた。

 

四人は、スバルの手元を見ていた。

 

スバルが手を合わせる。

 

四人が、同じ形で手を合わせた。

 

「いただきます」

 

声が、五つ揃った。父さんが、少しだけ噴き出しかけて、飲み込んだ。

 

エミリアが、箸を持った指を、スバルの指と見比べながら動かした。二度、魚を落とした。三度目で、白い身が口に入った。

 

「……おいしい」

 

「そう? よかった」

 

「スバルが、屋敷でたまに作ってくれたのと、似てるの。卵の、甘いの」

 

母さんの箸が、止まった。

 

「この子が? 料理?」

 

「作ってくれたわ。ちょっと焦げてたけど」

 

「へえ」

 

母さんは、スバルを見た。スバルは、味噌汁の椀に顔を沈めていた。

 

「この子、昔から、台所に入るときだけは妙にやる気出すのよね。で、途中で飽きて――」

 

「母さんストップ! それ以上は俺の社会的死亡が始まる!」

 

「聞きたい」

 

エミリアが、箸を置いた。

 

「レムもぜひ」

 

レムが、身を乗り出した。

 

「ようやく、バルスの弱点について有益な情報が得られそうね」

 

ラムが、茶碗を持ったまま言った。

 

「全部話すのよ」

 

スバルの膝の横で、ベアトリスが、今朝から一番はっきりした声を出した。

 

「お前ら……!」

 

父さんが、今度は堪えきれずに笑った。

 

---

 

母さんが話したのは、一つだけだった。

 

スバルが小学校の二年生のとき、家出をした話だった。

 

理由は、もう誰も覚えていない。リュックに漫画とお菓子を詰めて、朝、黙って出ていった。向かったのは、駅だった。

 

「切符の買い方が分からなかったのか、お金が足りなかったのか。改札の前でね、ずーっと立ってたんだって。お昼過ぎまで」

 

エミリアの箸が、止まった。

 

レムも、ラムも、止まった。

 

「駅員さんが見つけてくれて、うちに電話くれて。迎えに行こうとしたら、先に自分で帰ってきたの。夕方。玄関開けて、ただいまって。何にもなかった顔して」

 

母さんは、漬物を一切れ、口に入れた。

 

「で、晩ご飯、三回おかわりした」

 

「……覚えてねえよ、そんなの」

 

スバルは、茶碗を置いた。

 

四人の視線が、自分に集まっているのが分かった。笑っている目ではなかった。

 

改札の前で、ずっと立っていた。

 

誰の話をしているのか、一瞬、分からなくなるような話だった。

 

「……なんだよ」

 

「なんでもないわ」

 

エミリアは、そう言って、卵焼きを一切れ、自分の皿に取った。

 

取ってから、少しだけ笑った。

 

---

 

「それで」

 

父さんが、湯呑みを置いた。

 

大きな声ではなかった。さっきまでと、同じ声だった。

 

「今度は、いつまでいるんだ?」

 

食卓の音が、消えた。

 

スバルの箸が、茶碗の縁で止まった。

 

答えは、なかった。

 

「今度は」と、父さんは言った。先週のことを言っていた。黙って出ていった朝のことを、言っていた。

 

母さんは、何も言わなかった。スバルのほうも見ていなかった。空いた皿を、一枚ずつ重ねていた。

 

重ねる手が、少しだけ遅かった。

 

レムは、茶碗を両手で持ったまま、動けなくなっていた。

 

この人たちは、知っている。

 

帰ってきた息子が、前と同じ息子ではないことを。いつまでいるのか、訊かなければならない息子であることを。

 

レムたちが知らない何年かのあいだ、この食卓には、ずっと一つ、空いた椅子があった。

 

ロズワール邸の食堂と、同じだった。

 

「……あとで、ちゃんと話す」

 

スバルが、ようやく言った。

 

「おう」

 

父さんは、それ以上、何も訊かなかった。

 

---

 

ベアトリスは、食卓でスバルの腕に寄りかかったまま、眠ってしまった。

 

スバルが二階の自分の部屋へ運んで、ベッドに寝かせた。戻ってくると、食卓は片付いていて、湯呑みが七つ並んでいた。

 

エミリアが、椅子から腰を浮かせた。

 

「私たち、外したほうがいい?」

 

「いてくれ」

 

スバルは、座った。

 

「いてくれないと、たぶん話せない」

 

---

 

話したのは、長い話ではなかった。

 

ある日、コンビニの帰りに、気がついたら知らない場所にいたこと。そこで、この人たちに会ったこと。屋敷で、下働きみたいなことをして暮らしていたこと。何度も危ない目に遭って、そのたびに、この人たちに助けられたこと。

 

そして、ある朝、気がついたら、またこっちにいたこと。

 

四人が、自分を追って、ここまで来たこと。

 

今、四人が帰る方法を探していること。

 

話せないことは、話さなかった。話せることだけ並べても、自分の耳にさえ、作り話のように聞こえた。

 

父さんは、腕を組んで、最後まで黙って聞いていた。

 

聞き終えて、しばらく天井を見ていた。

 

「……正直な」

 

「うん」

 

「全部信じろって言われても、無理だ」

 

「……だよな」

 

エミリアが、膝の上で指を組み直した。

 

「あの。見せたほうが、いい?」

 

父さんが、エミリアを見た。

 

「見せられるのか」

 

「少しなら」

 

レムの肩が、わずかに強張った。ラムは、エミリアの手元へ一度だけ目を落とした。

 

父さんは、少し考えて、首を横に振った。

 

「いや。いい」

 

「……」

 

「見たら、たぶん、俺はそれしか考えられなくなる。今日は、こいつの話を聞きたい」

 

それから、湯呑みを取って、一口飲んだ。

 

「信じるとか信じないとかは、正直、分からん。でも、あんたらが、こいつを探してたのは分かる」

 

エミリアは、目を瞬いた。

 

「玄関で、見たからな。その子の手」

 

父さんは、二階のほうへ顎をしゃくった。

 

「探してたんでもなきゃ、あんな掴み方しねえよ」

 

---

 

「警察の人は、二回来た」

 

湯呑みを置いて、父さんが言った。

 

「お前が、四人と一緒にいるって。連絡があったら教えてくれって、名刺置いてった。記者みたいなのは、三日くらい表にいたな。昨日の昼からは来てない。どっかの駅の話で、そっちに行ったんだろ」

 

スバルは、何も言えなかった。

 

どっかの駅。

 

たぶん、今朝の駅だった。

 

「あの」

 

レムが、椅子から立ち上がった。

 

立ち上がって、深く頭を下げた。

 

「映像の、あの人を。怪我をさせたのは、レムです。申し訳ありませんでした」

 

父さんは、レムの下げた頭を見ていた。

 

しばらく、何も言わなかった。

 

「……それは、俺に謝ることじゃねえな」

 

責める声ではなかった。けれど、許す声でもなかった。

 

レムは、頭を下げたまま、小さく「はい」と言った。

 

「名刺は、そこの引き出しに入ってる」

 

父さんは、それだけ言った。

 

電話をかけるとも、かけないとも言わなかった。

 

---

 

昼を過ぎて、レムは母さんと並んで流しに立っていた。

 

母さんが洗って、レムが拭いた。皿の数は多かった。拭いても拭いても、水切りの籠が空かなかった。

 

窓の外で、どこかの家の布団を叩く音がしていた。

 

「ねえ」

 

母さんが、蛇口を止めずに言った。

 

「あの子、向こうで、ちゃんと食べてた?」

 

レムの手が、布巾の中で止まった。

 

「……はい。レムが、作っていましたから」

 

「そう」

 

母さんは、泡のついた茶碗を、水の下でくるりと回した。

 

「ならいいの」

 

レムは、次の皿を受け取った。

 

訊きたいことが、喉のところまで来ていた。

 

レムたちは、あの人を、ここから連れていきに来たんでしょうか。

 

訊けば、この人は答えてくれる気がした。答えてくれる気がしたから、訊けなかった。

 

母さんが、次の皿を差し出した。

 

レムは、黙ってそれを拭いた。

 

---

 

スバルが部屋の戸を開けると、ベアトリスは起きていた。

 

ベッドの上に座って、膝の上に本を一冊広げていた。棚から勝手に抜いたらしい。古い漫画だった。背が割れて、表紙の角が丸くなっている。

 

「起きたか。……それ、俺の」

 

「知ってるのよ」

 

ベアトリスは、本を閉じた。

 

閉じて、膝の上に背を立てて、手を離した。

 

本が、ひとりでに開いた。

 

同じページだった。

 

もう一度閉じて、離す。また、同じところで開いた。

 

「さっきから、何回やっても、ここで開くのよ」

 

「……そこ、ガキの頃、何百回も読んだとこだ。主人公が、一回負けて、立ち上がるとこ」

 

「開き癖、というのよ」

 

ベアトリスは、開いたページに指を置いた。

 

「何度も同じところを開いた本は、背がそこで割れるのよ。手を離しても、そこで開くかしら。禁書庫の本にも、そういうのが何冊かあるのよ」

 

スバルは、戸口に立ったまま、黙っていた。

 

ベアトリスは、しばらく、指の下のページを見ていた。

 

「……違うかしら」

 

小さな声だった。

 

「スバル。みんなを呼ぶのよ。二回は話さないかしら」

 

---

 

五人が入ると、部屋は狭かった。

 

エミリアとレムが床に座り、ラムは戸口の柱に肩を預けた。スバルは、机の椅子を引いて、逆向きに跨った。

 

ベアトリスは、ベッドの上から、四人を順に見た。

 

「確かなことだけ並べるのよ」

 

指を一本ずつ、折っていく。

 

「屋敷の石は、ベティーのマナを吸った。今朝の、駅の下のほつれも、同じ吸い方をした。ベティーたちが落ちてきた日、門が止まった。今朝、ベティーがほつれに触れたときも、門が止まった。……石は、屋敷で砕けた」

 

「そこまでは、知ってる」

 

「そこからなのよ」

 

ベアトリスは、膝の上の本を持ち上げた。閉じて、離す。

 

本が、同じページで開いた。

 

「石は、扉じゃなかったのよ」

 

誰も、口を挟まなかった。

 

「石には、マナも術式も、何もなかった。あったのは、一度開いた道の跡だけ。向こうには、ほつれがなかったから、跡を覚えてる石が要ったのよ。……でも、こっちには」

 

ベアトリスの指が、開いたページを叩いた。

 

「こっちには、開いたところそのものが残ってるかしら。ベティーたちが、落ちてきた場所に」

 

「……開き癖」

 

スバルが言った。

 

「石を、こっちで探す必要なんて、ないのよ」

 

---

 

ラムが、柱から背を離した。

 

「なら、どうして今朝は開かなかったのかしら」

 

「足りなかったのよ」

 

ベアトリスは、即座に答えた。

 

「屋敷では、ベティーのマナを、石が契約の糸ごと引いたのよ。スバルのほうへ。今朝は、ベティーひとりで流した。この世界は、マナが薄すぎるかしら。ベティーの中身だけじゃ、吸われて終わりなのよ」

 

「だったら」

 

「スバルから、借りるのよ」

 

スバルが、椅子の背から顔を上げた。

 

「俺? 俺のなんか、あってないようなもんだぞ」

 

「あってないようなものでも、ないよりはあるのよ。契約は、そのためにあるかしら」

 

ベアトリスは、そこで一度、言葉を切った。

 

「ほつれと、ベティーと、スバル。……それで、もう一回だけ、開けられるかもしれないのよ」

 

「もう一回だけ?」

 

エミリアが訊いた。

 

「開いたら、たぶん閉じるかしら。縫い目をほどいたまま放っておいたのは、あの石なのよ。今度、道を通したら、そのまま塞がるかもしれない。……分からないのよ」

 

ベアトリスは、本を閉じた。

 

「できる、とは言ってないのよ」

 

スバルは、ベアトリスを見た。

 

「可能性は?」

 

長い間があった。

 

ベアトリスは、閉じた本の表紙を、指で撫でた。

 

「……あるかしら」

 

---

 

誰も、すぐには喋らなかった。

 

窓の外で、布団を叩く音が止んでいた。

 

「明日ね」

 

ラムが言った。

 

「今朝、門をまた止めたわ。あの囲いの男は、無線を取った。駅は、今日のうちに昨日より固くなる。明後日は、明日より固い。それに、ほどけた縫い目がいつまでほどけたままでいるかも、分からないのでしょう」

 

「……分からないのよ」

 

「なら、明日よ」

 

言い方は、平らだった。

 

「ラムたちは、帰るわ」

 

エミリアが、膝の上で手を握った。

 

「うん。……私たちは、帰る」

 

そこまでだった。

 

その先を、誰も言わなかった。

 

スバルは、四人の顔を順に見た。

 

エミリアも、レムも、ラムも、ベアトリスも、スバルを見ていなかった。見ないようにしているのが、スバルには分かった。

 

一緒に来て、と、誰も言わなかった。

 

言われなかったことで、スバルは初めて、自分だけが、まだどこにも立っていないことに気づいた。

 

四人には、帰る場所がある。

 

自分には、二つある。

 

一つは、明日の朝、駅の地下にある。

 

もう一つは、今、この床の下にある。

 

---

 

「スバル」

 

エミリアが、顔を上げた。

 

「前にも言ったわね。自分で決めて、って」

 

「……ああ」

 

「今日のは、前と同じじゃないの」

 

エミリアの目は、まっすぐだった。

 

「今日、お母さんと、お父さんに会ったわ。ご飯を食べて、お話を聞いたの。……だから、前より、ちゃんと言える」

 

一つずつ、置くように言った。

 

「スバルは、自分で決めて」

 

ベアトリスが、閉じた本を膝の上に置いた。

 

「開けるまでは、スバルが要るのよ。……でも、通るかどうかは、別の話かしら」

 

小さな指が、スバルの袖へ伸びかけて、途中で止まった。

 

「契約してるからって、ベティーが引きずって帰るわけには、いかないのよ」

 

言いながら、指を引っ込めた。膝の上で、本の表紙を握った。

 

あの石がしたみたいに。

 

いつかの夜、ベアトリスが誰にともなく訊いたことの、答えだった。

 

レムは、何も言わなかった。

 

言わずに、戸口の柱を見ていた。ラムが肩を預けていた、その少し下。

 

柱に、鉛筆の線が何本も引いてあった。横に、小さな字と数字。

 

レムには、字は読めなかった。

 

線は、下から上へ、少しずつ間を空けて昇っていた。ある高さで、止まっていた。

 

その上には、何も書かれていなかった。

 

「……ラムは、下で、布団の数を訊いてくるわ」

 

ラムが、柱から離れた。

 

誰の顔も見ずに、階段を降りていった。

 

---

 

夕飯の席で、スバルは両親に言った。

 

「明日の朝、こいつらを駅まで送ってく」

 

父さんは、「そうか」とだけ言った。母さんは、「朝ご飯、何時にする?」と訊いた。

 

送る、と言った。

 

帰る、とも、戻る、とも言わなかった。言わなかったことに、食卓の誰も触れなかった。

 

---

 

夜になった。

 

四人は、一階の奥の和室で眠った。母さんが押入れから布団を四組出して、ラムがそれを、戸口に一番近い一組だけ向きを変えて敷き直した。ベアトリスは、最後までスバルの部屋で寝ると言い張って、最後にはエミリアの布団に潜り込んだ。

 

スバルは、自分の部屋にいた。

 

久しぶりの、自分のベッドだった。

 

机も、棚も、カーテンも、覚えている場所にあった。机の上の埃だけが、覚えていなかった。誰かが一度拭いて、それからまた、何年分か積もりかけた埃だった。

 

棚の端に、ベアトリスが読んでいた漫画が、背を上にして戻してあった。

 

枕元で、板が光っていた。

 

右上の数字は、百だった。

 

家に帰れば、電気はいくらでもあった。それだけのことに、ここまで来るのに何日もかかった。

 

画面に、駅の名前を打ち込む。始発の時刻。東口の地下通路が開く時間。

 

今朝、五人で見上げた大時計の文字盤を、思い出していた。

 

明日、駅へ行く。

 

そこまでは、決まっている。

 

五人で戻るとは、まだ、決まっていなかった。

 

---

 

廊下で、床板が軋んだ。

 

戸の向こうから、母さんの声がした。

 

「スバル。起きてる?」

 

「……起きてる」

 

戸が、少しだけ開いた。廊下の灯りが、細く部屋に差し込んだ。母さんの顔は、半分だけ見えた。

 

「明日、何時に出るの?」

 

スバルは、答えようとした。

 

時刻は、画面の中にあった。言えば、それで済んだ。

 

口が、止まった。

 

「……母さん」

 

「なに?」

 

「明日さ」

 

廊下の灯りの中で、母さんは待っていた。

 

スバルは、板を伏せた。

 

「ちゃんと、行ってきますって言うから」

 

少しの間があった。

 

母さんは、それが何のことか、訊かなかった。

 

「うん」

 

戸が、閉じた。

 

足音が、廊下を遠ざかっていった。階段を降りて、どこかの戸が開いて、閉じた。

 

家の中が、静かになった。

 

一階の奥で、誰かが寝返りを打つ気配がした。四人分の寝息が、この家のどこかにあった。

 

スバルは、天井を見ていた。

 

子どもの頃から、同じ天井だった。

 

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