坂は、覚えていたより短かった。
登りきったところで、スバルの足が止まった。
左から三軒目。灰色の塀と、胸の高さの門扉。門柱の上に、小さな表札が埋めてある。
菜月。
四人は、スバルの一歩後ろで止まった。
ベアトリスは、レムの背中で目を閉じていた。眠ってはいない、とレムには分かった。首の後ろに当たる息が、浅くて、数えられる速さだった。
家の前には、誰もいなかった。
車も停まっていない。板を構えた人影もない。塀の前の道には朝の日が斜めに差して、アスファルトが乾いていた。
「誰もいないわね」
ラムが言った。
それから、少しだけ目を細めた。
「……いた跡は、あるけれど」
門柱の足元に、ちりとりが一つ立てかけてあった。その横に、口を固く縛った袋が二つ。薄い膜の向こうに、潰れた空き缶と、煙草の吸い殻と、何かの包み紙が透けていた。
この家の人間が捨てたものではない。見れば分かった。
門柱には、紙が一枚、透明なテープで貼ってあった。
スバルは、それを読んだ。
取材・撮影はご遠慮ください。近隣の方のご迷惑になります。
角張った、右上がりの字だった。
「……父さんの字だ」
テープの端が波打っていた。雨を一度吸って、また乾いた波だった。昨日今日貼ったものではなかった。
巻き込まないために、離れた。
その間に、この家は、とっくに巻き込まれていた。誰かがここに立って、誰かが板を向けて、誰かが吸い殻を捨てていった。それを、毎朝、ちりとりで集めていた人がいる。
スバルは、袋から目を逸らした。
門扉を押す。蝶番が、昔と同じ音で鳴った。
玄関までは、五歩だった。
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インターホンの前で、指が止まった。
ボタンの縁は、日に焼けて黄ばんでいた。その上に、自分の指先が浮いている。
四人は、門の内側で待っていた。
エミリアは何も言わなかった。レムが、背中のベアトリスを一度だけ背負い直した。ラムは、玄関脇の植木鉢を見ていた。土が、今朝のうちに湿らされていた。
電話は、もうしてある。今から帰る、と言った。
言ったのに、指が動かなかった。
先週は、どうやって入ったんだっけ、と思った。思い出せなかった。気がついたら台所にいて、母さんが飯をよそっていた。
今日は、自分で押さなければ開かない。
スバルは、押した。
チャイムが、家の中で鳴った。
鳴り終わるより先に、戸の向こうで、何かが床板を擦った。立ち上がる音だった。ずっとそこに座っていた人が、立ち上がる音だった。
鍵が回った。
戸が、開いた。
母さんが立っていた。
寝間着の上に、毛玉の浮いたカーディガンを羽織っていた。髪を後ろで適当に括って、右手に板を握っている。
少し吊った目が、スバルを見た。
「……スバル?」
喉が、塞がった。
言うことは決めてあった。坂の途中で、何度も口の中で転がしてきた。それが、出てこなかった。
「…………ただいま」
母さんは、数秒、動かなかった。
板を握った手だけが、胸の前から、ゆっくり下がった。
「おかえり」
それだけだった。
それから、母さんの目が、スバルの肩越しに後ろへ移った。
帽子の縁から零れた銀の髪。フードの影の、青い髪と桃色の髪。背負われた小さな身体の、金の巻き毛。
目が、一人ずつ、順番に止まって、また動いた。
「……で、その子たちは?」
---
「えっと」
スバルは、振り返った。振り返って、何から言えばいいのか分からなくなった。
「お友達?」
「友達っていうか……いや、友達なんだけど」
「外国の方?」
「外国っていうか、もっと遠いっていうか」
「その、背中の子は? 寝てるの?」
「寝てないのよ」
レムの背中から、声だけが返ってきた。
母さんの眉が、少しだけ上がった。
目が、フードつきの上着の裾に下りた。その下から覗いている、黒い布と白いフリル。膝までの長い裾。
「……その下、何着てるの?」
「それは、あの、話すと長い」
スバルが言い淀んでいるあいだに、レムが一歩前へ出た。
ベアトリスを背負ったまま、深く頭を下げる。
「突然お邪魔して、申し訳ありません。レムと申します」
「……傾けるんじゃないのよ」
背中から、小さな抗議が上がった。レムは下げた頭を、少しだけ浅くした。
エミリアが、その隣に並んだ。帽子を取る。銀の髪が、朝の光に零れた。
「エミリアです。スバルを、探しに来ました」
母さんは、エミリアの顔を見た。
見て、何か言いかけて、やめた。
ラムは、頭を下げる角度を浅く保ったまま、名乗った。
「ラムです。妹ともども、しばらくバル……スバルの面倒を見ておりました」
「面倒を」
「見ておりました」
ラムの目は、名乗るあいだも、母さんの肩の向こうの玄関を見ていた。
上がり框の前に、スリッパが並んでいた。
一足だけ色の褪せた、青いもの。その隣に、同じ形の来客用が、四足。
揃えて置かれていた。
スバルの電話は、今から帰る、とだけ言った。何人で、とは言っていない。
ラムは、何も言わなかった。
レムの背中から、小さな手が伸びた。
伸びて、スバルの上着の裾を掴んだ。いつもの位置だった。
母さんは、その手を見ていた。
見ていた目を、それから、スバルの顔へ戻した。
「とりあえず、ご飯食べる?」
スバルは、何も答えられなかった。
板の中に、一行だけ挟まっていた文字を思い出していた。
ちゃんと食べてる?
答えられなかった問いの、続きだった。
「……お味噌汁、ちょっと冷めちゃったけど」
母さんは、そう言って、戸を大きく開けた。
---
ラムが、玄関に入る前に、ほんの一瞬だけ足を止めた。
スバルが三和土で靴を脱ぐのを見て、母さんの足元のスリッパを見て、それからレムの背中へ小さく言った。
「レム。靴」
「はい、姉様」
エミリアが、脱いだ靴をどこに置くか迷って、スバルの靴の隣に、爪先を揃えて並べた。
母さんが、それを見て、少しだけ笑った。
廊下の奥で、階段が軋んだ。
降りてきたのは、ワイシャツにネクタイを首から垂らしただけの男だった。片手に、結びかけの端を握っている。
階段の途中で、男の足が止まった。
「……おう」
それから、残りの段を、一段飛ばしで降りてきた。
スバルが何か言うより先に、両手が伸びた。スバルの頭を掴む。掴んで、髪を、ぐしゃぐしゃにかき回した。帽子が落ちた。
「お前な」
かき回しながら、言った。
「お前なあ」
その先は、続かなかった。
手が、止まった。スバルの頭の上に乗ったまま、しばらく動かなかった。
「……父さん、首。首がもげる」
「もげとけ」
手が離れた。
父さんは、玄関に並んだ四人を見た。一人ずつ、ゆっくり。最後に、レムの背中から伸びた手が、スバルの裾を掴んでいるのを見た。
それから、ワイシャツの胸ポケットから板を出した。
耳に当てる。
「あ、もしもし。菜月です。朝早くにすみません。……今日、休みます。……はい、家の事情で。……いえ、大丈夫です。むしろ、大丈夫になったんで」
エミリアは、その背中を見ていた。
仕事に行こうとしていた人が、電話一本で、行かないことを決めた。
誰にも訊かずに。訊かれる前に。
父さんは電話を切って、ネクタイを首から抜いた。丸めて、階段の手すりに引っかけた。
「飯だろ。入れ入れ。……その格好で、うちの椅子座れるか?」
---
飯が炊けるまでのあいだに、四人は順番に風呂を使わされた。
断る隙はなかった。母さんが、タオルと着替えを腕に積んで、廊下に立っていたからだ。
エミリアは、母さんのセーターを着て出てきた。袖が指の先まで余っていた。ベアトリスは、スバルが小学生の頃に着ていたというトレーナーを、裾を膝まで垂らして着ていた。本人は何も言わなかった。言う元気が、まだ戻っていなかった。
レムは、風呂から出るとまっすぐ台所へ行った。
「お手伝いします」
母さんは、一度だけレムの顔を見て、卵のパックを渡した。
レムは、片手で卵を割った。一つ、二つ、三つ。殻が一欠片も落ちなかった。
「上手ねえ」
「……毎朝、作っていましたので。お屋敷で」
「お屋敷」
母さんは、それ以上訊かなかった。菜箸を、レムの手元へ置いた。
---
ラムは、居間にいた。
座れと言われた場所に座らず、壁際の棚の前に立っていた。
家族の写真が、いくつか並んでいた。額の硝子に、朝の光が白く乗っている。小さな子どもが、今と同じ目つきで、何かに不満そうにこちらを見ていた。
その隣に、紙の束があった。
輪ゴムで留めて、写真立ての陰に押し込まれていた。一番上の一枚が、少しだけ覗いていた。
少し若い、バルスの顔だった。
その下にも、同じ顔があった。束の厚みのぶんだけ、同じ顔が重なっていた。
字は、読めなかった。
読めなくても、何のための紙かは分かった。同じ顔を、これだけの数、刷る理由は、一つしかない。
紙の角が、どれも少しずつ擦り切れていた。一度刷って仕舞ったものではない。何度も持ち出して、何度も持ち帰ってきた束だった。
ラムは、束に触れなかった。
写真立ての陰から覗いていた角を、指先で一度だけ押して、見えない位置まで戻した。
それから、言われた場所に座った。
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食卓には、椅子が四つしかなかった。
父さんが物置から折り畳みの椅子を二つ出してきて、ベアトリスはスバルの膝の横に、座布団を重ねて座った。
皿が、多かった。
焼いた魚と、卵焼きと、青菜の和え物と、煮物と、漬物。味噌汁の鍋。炊飯器の蓋を開けると、湯気が天井まで上がった。
「……多いって」
「何人か分からなかったもの。多めにしといた」
母さんは、茶碗に白い飯を盛って、順番に回した。一杯目は、スバルの前に置いた。
四人は、スバルの手元を見ていた。
スバルが手を合わせる。
四人が、同じ形で手を合わせた。
「いただきます」
声が、五つ揃った。父さんが、少しだけ噴き出しかけて、飲み込んだ。
エミリアが、箸を持った指を、スバルの指と見比べながら動かした。二度、魚を落とした。三度目で、白い身が口に入った。
「……おいしい」
「そう? よかった」
「スバルが、屋敷でたまに作ってくれたのと、似てるの。卵の、甘いの」
母さんの箸が、止まった。
「この子が? 料理?」
「作ってくれたわ。ちょっと焦げてたけど」
「へえ」
母さんは、スバルを見た。スバルは、味噌汁の椀に顔を沈めていた。
「この子、昔から、台所に入るときだけは妙にやる気出すのよね。で、途中で飽きて――」
「母さんストップ! それ以上は俺の社会的死亡が始まる!」
「聞きたい」
エミリアが、箸を置いた。
「レムもぜひ」
レムが、身を乗り出した。
「ようやく、バルスの弱点について有益な情報が得られそうね」
ラムが、茶碗を持ったまま言った。
「全部話すのよ」
スバルの膝の横で、ベアトリスが、今朝から一番はっきりした声を出した。
「お前ら……!」
父さんが、今度は堪えきれずに笑った。
---
母さんが話したのは、一つだけだった。
スバルが小学校の二年生のとき、家出をした話だった。
理由は、もう誰も覚えていない。リュックに漫画とお菓子を詰めて、朝、黙って出ていった。向かったのは、駅だった。
「切符の買い方が分からなかったのか、お金が足りなかったのか。改札の前でね、ずーっと立ってたんだって。お昼過ぎまで」
エミリアの箸が、止まった。
レムも、ラムも、止まった。
「駅員さんが見つけてくれて、うちに電話くれて。迎えに行こうとしたら、先に自分で帰ってきたの。夕方。玄関開けて、ただいまって。何にもなかった顔して」
母さんは、漬物を一切れ、口に入れた。
「で、晩ご飯、三回おかわりした」
「……覚えてねえよ、そんなの」
スバルは、茶碗を置いた。
四人の視線が、自分に集まっているのが分かった。笑っている目ではなかった。
改札の前で、ずっと立っていた。
誰の話をしているのか、一瞬、分からなくなるような話だった。
「……なんだよ」
「なんでもないわ」
エミリアは、そう言って、卵焼きを一切れ、自分の皿に取った。
取ってから、少しだけ笑った。
---
「それで」
父さんが、湯呑みを置いた。
大きな声ではなかった。さっきまでと、同じ声だった。
「今度は、いつまでいるんだ?」
食卓の音が、消えた。
スバルの箸が、茶碗の縁で止まった。
答えは、なかった。
「今度は」と、父さんは言った。先週のことを言っていた。黙って出ていった朝のことを、言っていた。
母さんは、何も言わなかった。スバルのほうも見ていなかった。空いた皿を、一枚ずつ重ねていた。
重ねる手が、少しだけ遅かった。
レムは、茶碗を両手で持ったまま、動けなくなっていた。
この人たちは、知っている。
帰ってきた息子が、前と同じ息子ではないことを。いつまでいるのか、訊かなければならない息子であることを。
レムたちが知らない何年かのあいだ、この食卓には、ずっと一つ、空いた椅子があった。
ロズワール邸の食堂と、同じだった。
「……あとで、ちゃんと話す」
スバルが、ようやく言った。
「おう」
父さんは、それ以上、何も訊かなかった。
---
ベアトリスは、食卓でスバルの腕に寄りかかったまま、眠ってしまった。
スバルが二階の自分の部屋へ運んで、ベッドに寝かせた。戻ってくると、食卓は片付いていて、湯呑みが七つ並んでいた。
エミリアが、椅子から腰を浮かせた。
「私たち、外したほうがいい?」
「いてくれ」
スバルは、座った。
「いてくれないと、たぶん話せない」
---
話したのは、長い話ではなかった。
ある日、コンビニの帰りに、気がついたら知らない場所にいたこと。そこで、この人たちに会ったこと。屋敷で、下働きみたいなことをして暮らしていたこと。何度も危ない目に遭って、そのたびに、この人たちに助けられたこと。
そして、ある朝、気がついたら、またこっちにいたこと。
四人が、自分を追って、ここまで来たこと。
今、四人が帰る方法を探していること。
話せないことは、話さなかった。話せることだけ並べても、自分の耳にさえ、作り話のように聞こえた。
父さんは、腕を組んで、最後まで黙って聞いていた。
聞き終えて、しばらく天井を見ていた。
「……正直な」
「うん」
「全部信じろって言われても、無理だ」
「……だよな」
エミリアが、膝の上で指を組み直した。
「あの。見せたほうが、いい?」
父さんが、エミリアを見た。
「見せられるのか」
「少しなら」
レムの肩が、わずかに強張った。ラムは、エミリアの手元へ一度だけ目を落とした。
父さんは、少し考えて、首を横に振った。
「いや。いい」
「……」
「見たら、たぶん、俺はそれしか考えられなくなる。今日は、こいつの話を聞きたい」
それから、湯呑みを取って、一口飲んだ。
「信じるとか信じないとかは、正直、分からん。でも、あんたらが、こいつを探してたのは分かる」
エミリアは、目を瞬いた。
「玄関で、見たからな。その子の手」
父さんは、二階のほうへ顎をしゃくった。
「探してたんでもなきゃ、あんな掴み方しねえよ」
---
「警察の人は、二回来た」
湯呑みを置いて、父さんが言った。
「お前が、四人と一緒にいるって。連絡があったら教えてくれって、名刺置いてった。記者みたいなのは、三日くらい表にいたな。昨日の昼からは来てない。どっかの駅の話で、そっちに行ったんだろ」
スバルは、何も言えなかった。
どっかの駅。
たぶん、今朝の駅だった。
「あの」
レムが、椅子から立ち上がった。
立ち上がって、深く頭を下げた。
「映像の、あの人を。怪我をさせたのは、レムです。申し訳ありませんでした」
父さんは、レムの下げた頭を見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
「……それは、俺に謝ることじゃねえな」
責める声ではなかった。けれど、許す声でもなかった。
レムは、頭を下げたまま、小さく「はい」と言った。
「名刺は、そこの引き出しに入ってる」
父さんは、それだけ言った。
電話をかけるとも、かけないとも言わなかった。
---
昼を過ぎて、レムは母さんと並んで流しに立っていた。
母さんが洗って、レムが拭いた。皿の数は多かった。拭いても拭いても、水切りの籠が空かなかった。
窓の外で、どこかの家の布団を叩く音がしていた。
「ねえ」
母さんが、蛇口を止めずに言った。
「あの子、向こうで、ちゃんと食べてた?」
レムの手が、布巾の中で止まった。
「……はい。レムが、作っていましたから」
「そう」
母さんは、泡のついた茶碗を、水の下でくるりと回した。
「ならいいの」
レムは、次の皿を受け取った。
訊きたいことが、喉のところまで来ていた。
レムたちは、あの人を、ここから連れていきに来たんでしょうか。
訊けば、この人は答えてくれる気がした。答えてくれる気がしたから、訊けなかった。
母さんが、次の皿を差し出した。
レムは、黙ってそれを拭いた。
---
スバルが部屋の戸を開けると、ベアトリスは起きていた。
ベッドの上に座って、膝の上に本を一冊広げていた。棚から勝手に抜いたらしい。古い漫画だった。背が割れて、表紙の角が丸くなっている。
「起きたか。……それ、俺の」
「知ってるのよ」
ベアトリスは、本を閉じた。
閉じて、膝の上に背を立てて、手を離した。
本が、ひとりでに開いた。
同じページだった。
もう一度閉じて、離す。また、同じところで開いた。
「さっきから、何回やっても、ここで開くのよ」
「……そこ、ガキの頃、何百回も読んだとこだ。主人公が、一回負けて、立ち上がるとこ」
「開き癖、というのよ」
ベアトリスは、開いたページに指を置いた。
「何度も同じところを開いた本は、背がそこで割れるのよ。手を離しても、そこで開くかしら。禁書庫の本にも、そういうのが何冊かあるのよ」
スバルは、戸口に立ったまま、黙っていた。
ベアトリスは、しばらく、指の下のページを見ていた。
「……違うかしら」
小さな声だった。
「スバル。みんなを呼ぶのよ。二回は話さないかしら」
---
五人が入ると、部屋は狭かった。
エミリアとレムが床に座り、ラムは戸口の柱に肩を預けた。スバルは、机の椅子を引いて、逆向きに跨った。
ベアトリスは、ベッドの上から、四人を順に見た。
「確かなことだけ並べるのよ」
指を一本ずつ、折っていく。
「屋敷の石は、ベティーのマナを吸った。今朝の、駅の下のほつれも、同じ吸い方をした。ベティーたちが落ちてきた日、門が止まった。今朝、ベティーがほつれに触れたときも、門が止まった。……石は、屋敷で砕けた」
「そこまでは、知ってる」
「そこからなのよ」
ベアトリスは、膝の上の本を持ち上げた。閉じて、離す。
本が、同じページで開いた。
「石は、扉じゃなかったのよ」
誰も、口を挟まなかった。
「石には、マナも術式も、何もなかった。あったのは、一度開いた道の跡だけ。向こうには、ほつれがなかったから、跡を覚えてる石が要ったのよ。……でも、こっちには」
ベアトリスの指が、開いたページを叩いた。
「こっちには、開いたところそのものが残ってるかしら。ベティーたちが、落ちてきた場所に」
「……開き癖」
スバルが言った。
「石を、こっちで探す必要なんて、ないのよ」
---
ラムが、柱から背を離した。
「なら、どうして今朝は開かなかったのかしら」
「足りなかったのよ」
ベアトリスは、即座に答えた。
「屋敷では、ベティーのマナを、石が契約の糸ごと引いたのよ。スバルのほうへ。今朝は、ベティーひとりで流した。この世界は、マナが薄すぎるかしら。ベティーの中身だけじゃ、吸われて終わりなのよ」
「だったら」
「スバルから、借りるのよ」
スバルが、椅子の背から顔を上げた。
「俺? 俺のなんか、あってないようなもんだぞ」
「あってないようなものでも、ないよりはあるのよ。契約は、そのためにあるかしら」
ベアトリスは、そこで一度、言葉を切った。
「ほつれと、ベティーと、スバル。……それで、もう一回だけ、開けられるかもしれないのよ」
「もう一回だけ?」
エミリアが訊いた。
「開いたら、たぶん閉じるかしら。縫い目をほどいたまま放っておいたのは、あの石なのよ。今度、道を通したら、そのまま塞がるかもしれない。……分からないのよ」
ベアトリスは、本を閉じた。
「できる、とは言ってないのよ」
スバルは、ベアトリスを見た。
「可能性は?」
長い間があった。
ベアトリスは、閉じた本の表紙を、指で撫でた。
「……あるかしら」
---
誰も、すぐには喋らなかった。
窓の外で、布団を叩く音が止んでいた。
「明日ね」
ラムが言った。
「今朝、門をまた止めたわ。あの囲いの男は、無線を取った。駅は、今日のうちに昨日より固くなる。明後日は、明日より固い。それに、ほどけた縫い目がいつまでほどけたままでいるかも、分からないのでしょう」
「……分からないのよ」
「なら、明日よ」
言い方は、平らだった。
「ラムたちは、帰るわ」
エミリアが、膝の上で手を握った。
「うん。……私たちは、帰る」
そこまでだった。
その先を、誰も言わなかった。
スバルは、四人の顔を順に見た。
エミリアも、レムも、ラムも、ベアトリスも、スバルを見ていなかった。見ないようにしているのが、スバルには分かった。
一緒に来て、と、誰も言わなかった。
言われなかったことで、スバルは初めて、自分だけが、まだどこにも立っていないことに気づいた。
四人には、帰る場所がある。
自分には、二つある。
一つは、明日の朝、駅の地下にある。
もう一つは、今、この床の下にある。
---
「スバル」
エミリアが、顔を上げた。
「前にも言ったわね。自分で決めて、って」
「……ああ」
「今日のは、前と同じじゃないの」
エミリアの目は、まっすぐだった。
「今日、お母さんと、お父さんに会ったわ。ご飯を食べて、お話を聞いたの。……だから、前より、ちゃんと言える」
一つずつ、置くように言った。
「スバルは、自分で決めて」
ベアトリスが、閉じた本を膝の上に置いた。
「開けるまでは、スバルが要るのよ。……でも、通るかどうかは、別の話かしら」
小さな指が、スバルの袖へ伸びかけて、途中で止まった。
「契約してるからって、ベティーが引きずって帰るわけには、いかないのよ」
言いながら、指を引っ込めた。膝の上で、本の表紙を握った。
あの石がしたみたいに。
いつかの夜、ベアトリスが誰にともなく訊いたことの、答えだった。
レムは、何も言わなかった。
言わずに、戸口の柱を見ていた。ラムが肩を預けていた、その少し下。
柱に、鉛筆の線が何本も引いてあった。横に、小さな字と数字。
レムには、字は読めなかった。
線は、下から上へ、少しずつ間を空けて昇っていた。ある高さで、止まっていた。
その上には、何も書かれていなかった。
「……ラムは、下で、布団の数を訊いてくるわ」
ラムが、柱から離れた。
誰の顔も見ずに、階段を降りていった。
---
夕飯の席で、スバルは両親に言った。
「明日の朝、こいつらを駅まで送ってく」
父さんは、「そうか」とだけ言った。母さんは、「朝ご飯、何時にする?」と訊いた。
送る、と言った。
帰る、とも、戻る、とも言わなかった。言わなかったことに、食卓の誰も触れなかった。
---
夜になった。
四人は、一階の奥の和室で眠った。母さんが押入れから布団を四組出して、ラムがそれを、戸口に一番近い一組だけ向きを変えて敷き直した。ベアトリスは、最後までスバルの部屋で寝ると言い張って、最後にはエミリアの布団に潜り込んだ。
スバルは、自分の部屋にいた。
久しぶりの、自分のベッドだった。
机も、棚も、カーテンも、覚えている場所にあった。机の上の埃だけが、覚えていなかった。誰かが一度拭いて、それからまた、何年分か積もりかけた埃だった。
棚の端に、ベアトリスが読んでいた漫画が、背を上にして戻してあった。
枕元で、板が光っていた。
右上の数字は、百だった。
家に帰れば、電気はいくらでもあった。それだけのことに、ここまで来るのに何日もかかった。
画面に、駅の名前を打ち込む。始発の時刻。東口の地下通路が開く時間。
今朝、五人で見上げた大時計の文字盤を、思い出していた。
明日、駅へ行く。
そこまでは、決まっている。
五人で戻るとは、まだ、決まっていなかった。
---
廊下で、床板が軋んだ。
戸の向こうから、母さんの声がした。
「スバル。起きてる?」
「……起きてる」
戸が、少しだけ開いた。廊下の灯りが、細く部屋に差し込んだ。母さんの顔は、半分だけ見えた。
「明日、何時に出るの?」
スバルは、答えようとした。
時刻は、画面の中にあった。言えば、それで済んだ。
口が、止まった。
「……母さん」
「なに?」
「明日さ」
廊下の灯りの中で、母さんは待っていた。
スバルは、板を伏せた。
「ちゃんと、行ってきますって言うから」
少しの間があった。
母さんは、それが何のことか、訊かなかった。
「うん」
戸が、閉じた。
足音が、廊下を遠ざかっていった。階段を降りて、どこかの戸が開いて、閉じた。
家の中が、静かになった。
一階の奥で、誰かが寝返りを打つ気配がした。四人分の寝息が、この家のどこかにあった。
スバルは、天井を見ていた。
子どもの頃から、同じ天井だった。