帰る場所は、ひとつじゃない   作:藤原康政

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第9話「行ってきます」

 

 

台所の灯りだけが、点いていた。

 

窓の外は、まだ黒かった。時計の短い針が、四と五のあいだにいた。

 

スバルが階段を降りると、母さんは流しの前に立っていた。寝間着の上に、昨日と同じカーディガン。手のひらに白い飯を載せて、両手で、三角に握っていた。

 

「……早くね?」

 

「あんたが早いんでしょ。おはよう」

 

調理台の上に、握り飯が並んでいた。銀色の紙に包まれて、八つ。九つ目が、今、母さんの手の中にあった。

 

「多いって」

 

「何人で食べるか分からないもの」

 

昨日と、同じ答えだった。

 

スバルは、何も言い返さなかった。

 

---

 

食卓には、父さんがいた。

 

ワイシャツは着ていなかった。毛玉の浮いたトレーナーで、新聞も広げず、湯呑みを両手で包んでいた。

 

「座れ」

 

スバルは座った。

 

食卓の上に、四角い紙が一枚、置いてあった。

 

名刺だった。字の並びの端に、桜の形の印が刷ってある。

 

「昨日、引き出しから出した」

 

父さんは、湯呑みから目を上げなかった。

 

「お前らが出てったら、昼まで待つ。昼になって、お前から何も連絡がなかったら、ここに電話する」

 

スバルは、名刺を見た。

 

「……うん」

 

「止めるためじゃねえぞ。もう止まらんのは、分かってる」

 

父さんは、湯呑みを置いた。

 

「ただ、息子がまたいなくなったのに、父親が誰にも何も言わねえってのは、俺にはできん。昨日も今日も、それは同じだ」

 

「分かってる」

 

「分かってるなら、いい」

 

それだけだった。

 

スバルは、ポケットから板を出した。

 

右上の数字は、百のままだった。一晩、母さんの充電器に挿してあった。

 

画面を点けずに、名刺の隣に置いた。

 

「これ、置いてく」

 

父さんが、初めて顔を上げた。

 

「向こうじゃ、たぶん繋がんねえから。……持ってくと、たぶん、ずっと見ちまう」

 

流しの水音が、止まっていた。

 

母さんが、濡れた手をタオルで拭きながら、食卓のそばに来た。板を見下ろして、それから、何でもないように取り上げた。

 

壁際のコンセントまで歩いていって、白いコードを挿した。

 

画面が一度だけ光って、また暗くなった。

 

「充電は、しとくから」

 

それだけ言って、母さんは流しへ戻った。

 

---

 

四人は、もう起きていた。

 

一階の奥の和室で、布団は四組とも畳まれて、押入れの前に積んであった。一番上に、使った枕が並べて載せてある。

 

ラムがやったのだろうとスバルは思った。角が、全部揃っていた。

 

着ているものは、四人とも自分の服だった。母さんが夜のうちに洗って、乾かしておいたらしい。その上に、それぞれ、昨日借りた上着を羽織っていた。

 

ベアトリスだけは、スバルの小学生の頃のトレーナーを、ドレスの上から被っていた。裾が膝まで垂れて、ドレスの縁だけがその下から覗いていた。

 

「……それ、着てくの?」

 

「返せと言うのかしら」

 

「言わねえけど」

 

「なら黙るのよ」

 

ベアトリスは、トレーナーの袖口を一度引っ張って、手の甲まで隠した。

 

顔色は、昨日の朝よりましだった。ましになった、という程度だった。

 

「行けるか」

 

「行くのよ」

 

それは、答えになっていなかった。スバルは、それ以上訊かなかった。

 

---

 

玄関に、靴が並んでいた。

 

昨日エミリアがしたのと同じように、爪先を揃えて、五足。

 

誰が並べたのか、スバルは知らなかった。

 

上がり框で、母さんが、銀色の包みの入った袋をレムに渡した。

 

「重いけど、平気?」

 

「はい」

 

「お昼にでも、食べて」

 

レムは、袋を両手で受け取った。受け取って、深く頭を下げた。下げたまま、なかなか上げなかった。

 

「……あの」

 

「なに?」

 

レムは、顔を上げた。

 

喉のところまで来ていたものが、昨日と同じ場所で止まっているのが、スバルには分かった。

 

母さんは、待っていた。

 

「……お世話に、なりました」

 

レムは、それだけ言った。

 

「どういたしまして」

 

母さんは、少しだけ笑った。それから、袋を持ったレムの手の甲を、軽く二回叩いた。

 

ラムが、頭を下げた。昨日より深かった。

 

エミリアは、帽子を胸に抱えたまま、父さんと母さんを順番に見た。

 

「ご飯、ありがとう。とっても、おいしかった」

 

「また——」

 

母さんは言いかけて、そこで止めた。

 

止めたまま、エミリアを見ていた。

 

「……ううん。気をつけてね」

 

エミリアは、頷いた。

 

---

 

スバルは、靴を履いた。

 

紐を結ぶあいだ、誰も喋らなかった。上がり框の上に、父さんと母さんが並んで立っていた。

 

紐を結び終えても、スバルは立たなかった。

 

しゃがんだまま、結び目を見ていた。

 

「……昨日の夜さ」

 

声が、膝のあいだに落ちた。

 

「行ってきますって言うって、言っただろ」

 

「うん」

 

「それ、言うんだけど」

 

スバルは、立ち上がった。振り返った。

 

母さんの目が、少し吊っていた。昔から、こういう顔で待つ人だった。

 

「帰ってくるって、約束できねえんだ」

 

言ってしまうと、喉の奥が、少しだけ軽くなった。

 

「ベア子は、たぶんもう一回しか開かないって言ってる。開いて、俺が向こうに行ったら、それで塞がるかもしれない。分かんねえ。誰にも分かんねえ」

 

ベアトリスの指が、スバルの裾を掴んでいた。

 

「だから、行ってきますって言っても、それ、嘘になるかもしれない。……嘘になるかもしれねえのに、言っていいのか、分かんなくて」

 

先週は、黙って出ていった。黙っていれば、嘘はつかずに済んだ。

 

母さんは、しばらく何も言わなかった。

 

父さんが、一度だけ母さんの横顔を見た。

 

「スバル」

 

母さんが言った。

 

「あんた、小学校のとき、駅から自分で帰ってきたでしょう」

 

「……覚えてねえって」

 

「お母さんは覚えてるの」

 

母さんは、上がり框の縁まで出てきた。

 

「あのとき、あんたが帰ってくるなんて、誰も約束してくれなかったわよ。駅員さんも、警察の人も。それでも、お母さんは晩ご飯作って待ってた」

 

「……」

 

「約束なんか、なくていいの。行ってきますって言ったら、ここが、行ってきますって言った場所になるの。それだけ」

 

母さんは、そこで息を吸った。

 

吸って、吐いた。

 

「それは、あんたがどこにいても、変わらないから」

 

父さんは、何も足さなかった。腕を組んだまま、壁に肩を預けていた。

 

スバルは、口を開いた。

 

すぐには、出なかった。

 

坂の途中で口の中で転がしてきたのとは、違う言葉だった。転がさなくても、そこにあった。

 

「……行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

母さんの声は、震えていなかった。

 

父さんが、壁から肩を離した。手が伸びて、スバルの頭を一度だけ、乱暴に掴んで揺すった。

 

「おう」

 

戸を開けた。

 

外の空気が、まだ冷たかった。

 

---

 

門扉が、昔と同じ音で鳴った。

 

坂の上で、スバルは一度だけ振り返った。

 

門の内側に、母さんが立っていた。手は、カーディガンの前で組まれていた。父さんは、玄関の戸口に寄りかかっていた。

 

スバルが手を上げると、母さんは、少し遅れて手を上げた。

 

振らなかった。上げたまま、そこにいた。

 

角を曲がると、見えなくなった。

 

---

 

駅までは、二十分だった。

 

誰も急がなかった。走らなかった。

 

一番電車が、高架の上を渡っていった。新聞を積んだ原付が、昨日と同じ角で、五人を追い越していった。

 

「エミリア様」

 

ラムが言った。

 

「何?」

 

「バルスの家の柱の線。あれは、背の高さだったのね」

 

「……うん。お母さんが、教えてくれたの。毎年、誕生日に測ったって」

 

「途中で止まっていたわ」

 

「うん」

 

エミリアは、それ以上言わなかった。ラムも、それ以上は訊かなかった。

 

スバルは、前を向いて歩いていた。

 

背中で、その話を聞いていた。

 

四つ目の角の、自販機の前を通った。

 

並んでいる缶の絵は、昨日見たときと同じだった。半分も知らない絵だった。昨日は、それが怖かった。今朝は、怖くなかった。知らないまま、通り過ぎた。

 

「スバル」

 

エミリアが、隣に並んだ。

 

「最初の日にね。私たち、駅の門の前に、ずっと立ってたの」

 

「……知ってる。動画で見た」

 

「そうじゃなくて」

 

エミリアは、自分の靴の先を見ながら歩いた。

 

「通れなかったから、立ってたんじゃないの。通れないのに、どこにも行けなかったの。戻る場所が、分からなかったから」

 

スバルは、黙って歩いた。

 

エミリアも、それ以上は言わなかった。

 

背中のほうで、ベアトリスが、レムの肩に顎を乗せ直す気配がした。

 

「……重たくないかしら」

 

「軽すぎます、ベアトリス様。帰ったら、ちゃんと召し上がってください」

 

「ベティーは、腹が減らないのよ」

 

「では、減らなくても召し上がってください」

 

ベアトリスは、何か言い返しかけて、やめた。レムの首の前で組んだ腕が、少しだけ締まった。

 

---

 

東口のロータリーは、昨日の朝より明るかった。地下への階段の口に、白い投光器が一基、置かれていた。

 

そして、その横に、職員が一人立っていた。

 

作業着の上に、蛍光色のベスト。胸元に、無線。

 

「……日向さんだ」

 

スバルの足が、半歩だけ鈍った。

 

ラムが、足を止めずに言った。

 

「昨日より固くなる、と言ったわね」

 

「言ってたな」

 

「当たって嬉しいことは、あまりないわ」

 

レムが、背中のベアトリスを下ろして、その手を握った。周りを見る。階段の上の黒い目。硝子の庇の奥の大時計。ロータリーに停まったタクシーが二台。白と黒の車は、まだいない。

 

「逃げ道は、南と西です」

 

レムが小声で言った。

 

「使わない」

 

エミリアが言った。

 

レムは、エミリアを見た。

 

「使わないって、決めてきたでしょう」

 

「……はい」

 

エミリアが、先に歩いた。

 

---

 

日向は、五人がロータリーを半分渡ったところで気づいた。

 

身体が、こちらを向いた。右手が、胸元の無線に上がった。

 

上がって、止まった。

 

押す前に、エミリアが言ったからだ。

 

「おはようございます」

 

日向の指は、ボタンの上に乗ったままだった。

 

「……おはようございます」

 

「話をしに来たの。逃げないわ」

 

エミリアは、日向の三歩手前で止まった。四人が、その後ろで止まった。スバルが、エミリアの隣に並んだ。

 

日向の目が、五人を一人ずつ数えた。最後に、ベアトリスの手元で止まった。

 

「昨日の朝。改札が全台、また止まりました」

 

「知ってます」

 

スバルが言った。

 

「この下に、この子がいたので」

 

日向の眉が、動いた。

 

「……自分たちのせいだと、言うんですか」

 

前にも、同じことを訊かれた。

 

「たぶん、そうです」

 

スバルは、目を逸らさなかった。

 

「全部は分かってないです。でも、この下の通路の真ん中に、何かがあって、こいつが触ると、上の改札が止まる。それは、昨日、確かめました」

 

「何か、って何ですか」

 

「……こいつらが、来た場所に繋がってるもの」

 

日向は、何も言わなかった。

 

信じた顔ではなかった。笑った顔でもなかった。

 

「今日は、それを使いに来ました」

 

スバルは、言った。

 

「使ったら、こいつらは帰れる。たぶん、それで、改札も止まらなくなる。……たぶんです。保証は、ないです」

 

---

 

日向の指が、無線のボタンを押した。

 

「駅務室。東口地下、日向です。例の五人、来てます。……はい。こちらから接触してきました。……逃げていません」

 

無線が、短く鳴った。

 

日向は、手を下ろさなかった。

 

「昨日の件で、東口地下通路は、改札に異常が出たら通行止めにすることになりました。原因が分かるまで、です」

 

「……」

 

「それと、この通路で不審な行動があったら、すぐ連絡するように言われています」

 

日向の声は、平らだった。

 

「私は、あなたたちを下に通せません」

 

「分かってる」

 

エミリアが言った。

 

「通してって、言いに来たんじゃないの。何をしに来たか、黙って行くのは嫌だったから」

 

日向の目が、エミリアの帽子の縁から、零れた銀の髪へ動いた。

 

「……下で何をするんですか。人に危険はあるんですか」

 

それは、職員の質問だった。

 

ベアトリスが、レムの手を握ったまま、半歩前に出た。

 

「分からないのよ」

 

日向が、ベアトリスを見下ろした。

 

「何が起きるか、全部は分からないかしら。ベティーたちが落ちてきた日に、怪我をした人は、いなかった。それしか、言えないのよ」

 

日向は、ベアトリスを見ていた。

 

見ていて、短く息を吐いた。

 

「……分からないなら、なおさら通せません」

 

正しかった。

 

この人は、毎朝ここに立って、何百人もの人間を下の通路に通している。その誰一人にも、分からないことを起こさせるわけにはいかない。

 

自分たちのほうが、正しくないのだった。

 

---

 

そのときだった。

 

頭の上の、駅舎の中で、音が途切れた。

 

改札の通過音だった。間遠く、ぽつぽつと鳴っていた電子音が、一つ鳴りかけて、そこで消えた。

 

日向の顔が、上がった。

 

一拍。

 

二拍。

 

戻らなかった。

 

「……日向。東口、北改札。全台落ちた」

 

無線から、知らない男の声がした。

 

「復帰しない。……繰り返す、復帰しない」

 

駅舎の硝子の向こうで、人の流れが止まっていた。改札の手前に、鞄を抱えた背広が溜まり始めていた。後ろから来た客が、前が止まっていることに気づかずに進んで、前の背中にぶつかった。

 

ベアトリスの手が、レムの指の中で、強張った。

 

「……ほどけてるのよ」

 

小さな声だった。

 

「下の、あれ。……ベティーは、何もしてないかしら。勝手に、ほどけていってるのよ」

 

スバルは、ベアトリスを見た。

 

「閉じるのか、開くのか」

 

「分からないのよ」

 

ベアトリスの唇が、白かった。

 

「でも、昨日と、違う。……長くは、このままじゃないかしら」

 

---

 

日向は、無線を口元に当てていた。

 

「了解。北改札、行きます。……地下通路は、通行止めにします。下にいる人を、上に上げます」

 

駅舎の中から、構内放送が流れ始めた。録音された、女の声だった。ただいま改札機の不具合により。お急ぎのところ。

 

人の声が、それに重なった。苛立った声と、笑う声と、誰かに電話する声。

 

日向は、階段の下へ一度だけ身を乗り出した。

 

「すみません、通路点検します! 上に上がってください!」

 

声が、地下に反響して返ってきた。

 

階段の下から、靴音が上がってきた。作業着の女。背広の男が二人。若い女が一人、板を耳に当てたまま。

 

その流れが、五人の横を抜けていった。

 

日向は、階段の口に、黄色と黒の縞の鎖を掛けた。

 

掛けて、五人を振り返った。

 

「ここから、動かないでください」

 

それだけ言って、駅舎の中へ走っていった。

 

改札の前の人だかりへ。押されて、詰まって、誰かの肩が誰かの肩にぶつかっている場所へ。

 

一度も、振り返らなかった。

 

---

 

階段の口には、鎖が一本。

 

投光器の白い光。

 

誰もいなかった。

 

「……動かないでください、って言われたわね」

 

エミリアが言った。

 

「言われたな」

 

スバルは、鎖を見ていた。

 

膝の高さだった。跨げば、それで終わる。

 

あの人は、自分たちを信用して置いていったのではなかった。改札の前で押されている何十人のほうが、大事だった。

 

正しかった。

 

「……これが、最後の悪いことだ」

 

スバルは、言った。

 

「たぶん、な」

 

「半分こよ」

 

エミリアが、帽子を被り直した。

 

「最初に、そう言ったでしょう」

 

ラムが、鎖を跨いだ。

 

何も言わなかった。言わないまま、階段を二段降りて、上を見上げた。来ないの、という目だった。

 

レムが、ベアトリスを抱き上げた。抱き上げて、鎖を跨いだ。

 

スバルは、最後に、天井の角の黒い目を見上げた。

 

見ているなら、見ていればいい。

 

鎖を跨いだ。

 

---

 

地下は、静かだった。

 

白い床。低い天井。等間隔の灯り。硝子の枠に入った、色の褪せた大きな絵。

 

人は、もう一人もいなかった。床を拭く道具が一本、壁に立てかけたまま残されていた。

 

五人は、真ん中へ歩いた。

 

レムが、途中で足を止めた。

 

「……スバルくん」

 

「どうした」

 

「風が、あります」

 

スバルにも、分かった。

 

地下の通路に、風はないはずだった。それなのに、首の後ろを、何かが撫でていった。前から後ろへではない。後ろから前へ。通路の真ん中へ向かって、空気が少しずつ寄っていく。

 

壁の掲示物の端が、めくれていた。

 

全部、同じ向きだった。

 

通路の真ん中の一点のほうへ、紙の角が、ほんのわずかずつ持ち上がっていた。

 

「……昨日は、こんなことなかったのよ」

 

レムの腕の中で、ベアトリスが言った。

 

「下ろすのよ」

 

レムは、ベアトリスを床に下ろした。

 

ベアトリスは、一人で三歩、前へ出た。昨日と同じ場所だった。

 

右の掌を、胸の高さの空中へ出す。

 

指先が、止まった。

 

「……やっぱり、ほどけていってるかしら」

 

指が、空中の何かをなぞった。なぞる範囲が、昨日より広かった。

 

「閉じかけてるのか、開きかけてるのか、ベティーにも分からないのよ。でも、このまま放っておいたら、たぶん、どっちかに決まるかしら。勝手に」

 

ベアトリスは、振り返った。

 

「勝手に決まる前に、決めるのよ」

 

---

 

「並び方」

 

ラムが言った。

 

「ベアトリス様が、真ん中。ベアトリス様に、誰がどう触れるか」

 

「ベティーの左手は、エミリアなのよ」

 

ベアトリスが、左手を後ろへ出した。

 

エミリアが、それを握った。両手で包むように握って、それから、片手だけにした。

 

「エミリアの、もう片方の手が、レム。レムの手が、ラム」

 

レムが、エミリアの手を取った。ラムが、レムの手を取った。

 

姉妹の手が、繋がった。

 

ラムの指が、レムの指のあいだに入って、一度だけ、強く握った。

 

「……屋敷で、こうなったのね」

 

ラムが、小さく言った。

 

「食堂で。ベアトリス様が倒れかけて、エミリア様が抱きとめて、レムが背中に回って、ラムが肩を掴んだ」

 

「はい、姉様」

 

「今度は、ラムが自分で掴んでいるわ」

 

レムは、何も言わなかった。握られた指を、握り返した。

 

---

 

ベアトリスの右手は、空いていた。

 

空いた右手で、スバルの裾を掴んでいた。

 

いつもの位置だった。いつもの掴み方だった。

 

「……スバル」

 

「おう」

 

「契約で、スバルから借りるのよ。……ほんの少し。でも、スバルの中身は、もともと少ないかしら。たぶん、立っていられなくなる」

 

「上等だ」

 

「茶化すんじゃないのよ」

 

ベアトリスの声が、少しだけ高くなった。

 

それから、低くなった。

 

「始めるのよ」

 

ベアトリスが、空中の何かへ、左手を繋いだまま、肩を寄せた。

 

最初は、何も起きなかった。

 

次の瞬間、スバルの膝から、力が抜けた。

 

立ちくらみに似ていた。似ていたが、違った。頭からではなく、胸の奥から、何かが引かれていった。細い糸の先を、誰かに摘まれて、ゆっくり、ゆっくり、巻き取られていくような感じだった。

 

「——っ」

 

膝が、床についた。

 

「スバルくん!」

 

「来んな、レム。……手、離すな」

 

レムの身体が、跳ねかけて、止まった。エミリアの手を握ったまま、その場に縫い留まった。

 

裾を掴むベアトリスの指が、震えていた。

 

「……足りてるのよ」

 

ベアトリスの声も、震えていた。

 

「昨日は、吸われて終わりだった。今日は、戻ってくるかしら。ベティーとスバルで流したぶんが、向こうから……返ってきてるのよ」

 

壁の掲示物が、一斉に、真ん中へ向かってはためいた。

 

天井の灯りが、一つ、また一つ、白く膨らんだ。

 

通路の真ん中の、何もない空中が、揺れた。

 

---

 

揺れたのは、空気ではなかった。

 

空気の向こうに見えている通路の奥が、水の底を覗いたように、ゆらりと歪んだ。歪んだ奥に、白い床ではないものが見えた。

 

木目だった。

 

磨いた木の床と、白い布の掛かった、長いテーブルの脚。

 

匂いがした。

 

洗剤と埃の匂いの奥から、ほんの一筋。冷めかけた、スープの匂いだった。

 

エミリアが、息を呑んだ。

 

「……食堂」

 

レムの喉が、鳴った。ラムは、何も言わなかった。言わなかったが、握った妹の手に、指の跡がつくほど力が入っていた。

 

「どのくらい、もつ」

 

スバルが訊いた。膝をついたまま、顔だけを上げていた。

 

「分からないのよ」

 

ベアトリスは、即座に言った。

 

「長くないのだけは、分かるかしら」

 

---

 

上で、足音がした。

 

階段を降りてくる、靴音だった。一人ではなかった。

 

「——おい、そこ! 何してる!」

 

男の声だった。日向の声ではなかった。

 

スバルは、振り返らなかった。

 

振り返る前に、裾が、軽くなった。

 

ベアトリスの指が、離れていた。

 

スバルは、ベアトリスを見上げた。

 

ベアトリスは、スバルを見ていなかった。前の、揺れている空中を見ていた。

 

離した右手は、トレーナーの長すぎる袖の中で、握られていた。握っている、とスバルには分かった。袖の布が、そこだけ皺になっていた。

 

「契約で借りるのに、触ってる必要は、ないのよ」

 

ベアトリスは、前を向いたまま言った。

 

「……開けるまでは、スバルが要る。開いたから、もう、要らないかしら」

 

声が、途中で一度、裏返った。

 

「通るかどうかは、スバルが決めるのよ」

 

エミリアは、スバルを見ていた。

 

何も言わなかった。昨日、もう言っていた。

 

レムは、エミリアの手を握ったまま、床を見ていた。ラムは、揺れている空中だけを見ていた。

 

四人とも、一緒に来て、とは言わなかった。

 

最後まで、言わなかった。

 

---

 

スバルは、振り返った。

 

階段の下に、紺の上着が二人、立っていた。一人が無線に何か叫んでいた。もう一人は、こちらへ走りかけて、通路の真ん中の歪みに気づいて、足を止めていた。

 

その向こうに、階段があった。

 

階段の上に、四角い朝の光が見えた。

 

あの光の先に、ロータリーがあって、高架があって、角を四つ曲がった先に、坂がある。坂の上の、左から三軒目に、灰色の塀と、胸の高さの門扉がある。

 

食卓の壁際のコンセントで、板が、充電されている。

 

右上の数字が、百のまま、誰にも見られずに光っている。

 

行ってきます、と言った。

 

行ってらっしゃい、と言われた。

 

スバルは、膝に手をついた。

 

立ち上がった。

 

足が、震えた。胸の奥の、巻き取られた糸のあたりが、空っぽに冷たかった。それでも、立てた。

 

スバルは、前を向いた。

 

トレーナーの袖の中で握られている、小さな拳に、手を伸ばした。

 

袖ごと、掴んだ。

 

ベアトリスの肩が、跳ねた。

 

「……スバル」

 

「行くぞ、ベア子」

 

袖の中で、拳がほどけた。

 

ほどけた指が、スバルの指を、掴み返した。

 

痛いくらいの、強さだった。

 

「……遅いのよ」

 

「悪い」

 

「本当に、遅いのよ」

 

ベアトリスは、前を向いたまま、鼻を啜った。

 

---

 

五人が、繋がった。

 

スバル。ベアトリス。エミリア。レム。ラム。

 

「おい!」

 

背中で、靴音が近づいてきた。

 

近づいて、止まった。

 

止まった足音の向こうから、別の声がした。

 

「——待って!」

 

日向の声だった。

 

息が切れていた。改札の前から、走ってきたのだと分かった。

 

スバルは、一度だけ、肩越しに振り返った。

 

日向は、階段の一番下にいた。片手を壁について、もう片方の手で、前に出ようとした男の腕を掴んでいた。

 

日向の目が、通路の真ん中の歪みを見ていた。それから、五人を見た。

 

「すみません」

 

スバルは、言った。

 

聞こえたかどうかは、分からなかった。

 

「改札、たぶん、これで直ります」

 

それから、前を向いた。

 

「一緒に、一歩」

 

五人は、歩いた。

 

---

 

日向が、階段の一番下から見たものは、多くなかった。

 

五人の背中が、通路の真ん中で、水の中へ入っていくように白く滲んだ。

 

それで、終わりだった。

 

掲示物が、ぱたりと壁に戻った。通路の真ん中には、白い床と、色の褪せた絵があるだけだった。

 

上から、改札の通過音が降ってきた。一つ。二つ。それから、いつもの朝の速さで鳴り始めた。

 

日向は、掴んでいた同僚の腕を、ようやく離した。無線を口元に当てて、しばらく、何も言えなかった。

 

「……日向です。東口地下。五人、確認できません」

 

---

 

ロズワール邸の食堂は、朝だった。

 

窓から、斜めに光が差していた。等間隔に並んだ皿。白い布の掛かった、長いテーブル。湯気の落ちきったスープ。

 

磨いた木の床に、五人は、膝をついていた。

 

最初に立ち上がったのは、ラムだった。

 

立ち上がって、窓を見て、テーブルを見て、壁の燭台を見た。

 

それから、テーブルの縁を、指で一度なぞった。

 

指の腹を、見た。

 

「……埃が、積もっていないわね」

 

それだけ言った。

 

レムが、立ち上がった。母さんの袋を、胸に抱いたままだった。銀色の包みが、袋の口から覗いていた。

 

エミリアは、床に座ったまま、天井と窓とテーブルを、一つずつ確かめるように見回した。

 

それから、ゆっくり息を吐いた。

 

「……帰ってきた」

 

ベアトリスは、床にへたり込んだまま、動かなかった。

 

動かないまま、スバルの手を、まだ握っていた。

 

スバルも、まだ、離していなかった。

 

---

 

扉の向こうで、足音がした。

 

ラムが、扉のほうへ顔を向けた。

 

「ロズワール様には、ラムが後で」

 

「姉様」

 

「後で、と言ったのよ。今は、朝食の時間だわ」

 

ラムは、テーブルへ向き直った。

 

並んだ皿を見た。冷めたスープを見た。

 

それから、一つだけ、引かれたまま誰も座っていない椅子を見た。

 

---

 

スバルは、椅子の前に立っていた。

 

膝が、まだ少し笑っていた。胸の奥は、空っぽのままだった。

 

椅子の背に、手を置いた。

 

木の手触りが、覚えている通りだった。覚えていない傷が、一つあった。誰かが、何度も、引いては戻した跡だった。

 

「……座らないの?」

 

エミリアが、隣の椅子の前から言った。

 

「座るよ」

 

スバルは、座った。

 

椅子が、少しだけ軋んだ。

 

ベアトリスが、その椅子の横に、自分の椅子を引きずってきた。引きずる音がうるさかった。誰も咎めなかった。

 

レムが、母さんの袋をテーブルに置いた。

 

銀色の包みを、一つずつ取り出して、冷めたスープの皿の隣に並べた。

 

九つあった。

 

「スバルくんのお母様の、お昼の分ですが」

 

レムは、言った。

 

「朝ですので。……朝に、いただいてもいいでしょうか」

 

「いいだろ」

 

スバルは言った。

 

「たぶん、母さん、怒んねえよ」

 

レムが、厨房へ走った。湯を火にかけて、沸くのを待ちきれずに一度戻ってきて、カップだけを並べて、また走っていった。

 

ラムが、自分の席に着いた。

 

エミリアが、銀色の包みを一つ、手に取った。紙を剥がすのに、少し手間取った。中から、白い三角が出てきた。

 

---

 

五人が、手を合わせた。

 

誰が最初だったのか、誰も見ていなかった。スバルの手元を見る者は、もういなかった。

 

「いただきます」

 

声が、五つ揃った。

 

ロズワール邸の食堂で、その言葉が五人分揃ったのは、初めてだった。

 

スバルは、握り飯を齧った。

 

塩が、少し強かった。母さんの握り飯は、昔から、少し塩が強かった。

 

噛んで、飲み込んだ。

 

喉の奥が、熱くなった。

 

「スバル」

 

エミリアが、こちらを見ていた。

 

「おかえりなさい」

 

スバルは、握り飯を持ったまま、少しのあいだ、何も言えなかった。

 

「……ただいま」

 

エミリアが、笑った。

 

それから、自分の握り飯を、小さく齧った。

 

「……ちょっと、しょっぱいわね」

 

「だろ」

 

「でも、おいしい」

 

ベアトリスが、スバルの袖を掴んだ。

 

いつもの位置だった。

 

戻ってきたレムが、紅茶を注いだ。ラムが、それを一口飲んで、何も言わずに、もう一口飲んだ。

 

食堂の椅子は、全部、埋まっていた。

 

窓の外で、朝の鳥が鳴いていた。

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