台所の灯りだけが、点いていた。
窓の外は、まだ黒かった。時計の短い針が、四と五のあいだにいた。
スバルが階段を降りると、母さんは流しの前に立っていた。寝間着の上に、昨日と同じカーディガン。手のひらに白い飯を載せて、両手で、三角に握っていた。
「……早くね?」
「あんたが早いんでしょ。おはよう」
調理台の上に、握り飯が並んでいた。銀色の紙に包まれて、八つ。九つ目が、今、母さんの手の中にあった。
「多いって」
「何人で食べるか分からないもの」
昨日と、同じ答えだった。
スバルは、何も言い返さなかった。
---
食卓には、父さんがいた。
ワイシャツは着ていなかった。毛玉の浮いたトレーナーで、新聞も広げず、湯呑みを両手で包んでいた。
「座れ」
スバルは座った。
食卓の上に、四角い紙が一枚、置いてあった。
名刺だった。字の並びの端に、桜の形の印が刷ってある。
「昨日、引き出しから出した」
父さんは、湯呑みから目を上げなかった。
「お前らが出てったら、昼まで待つ。昼になって、お前から何も連絡がなかったら、ここに電話する」
スバルは、名刺を見た。
「……うん」
「止めるためじゃねえぞ。もう止まらんのは、分かってる」
父さんは、湯呑みを置いた。
「ただ、息子がまたいなくなったのに、父親が誰にも何も言わねえってのは、俺にはできん。昨日も今日も、それは同じだ」
「分かってる」
「分かってるなら、いい」
それだけだった。
スバルは、ポケットから板を出した。
右上の数字は、百のままだった。一晩、母さんの充電器に挿してあった。
画面を点けずに、名刺の隣に置いた。
「これ、置いてく」
父さんが、初めて顔を上げた。
「向こうじゃ、たぶん繋がんねえから。……持ってくと、たぶん、ずっと見ちまう」
流しの水音が、止まっていた。
母さんが、濡れた手をタオルで拭きながら、食卓のそばに来た。板を見下ろして、それから、何でもないように取り上げた。
壁際のコンセントまで歩いていって、白いコードを挿した。
画面が一度だけ光って、また暗くなった。
「充電は、しとくから」
それだけ言って、母さんは流しへ戻った。
---
四人は、もう起きていた。
一階の奥の和室で、布団は四組とも畳まれて、押入れの前に積んであった。一番上に、使った枕が並べて載せてある。
ラムがやったのだろうとスバルは思った。角が、全部揃っていた。
着ているものは、四人とも自分の服だった。母さんが夜のうちに洗って、乾かしておいたらしい。その上に、それぞれ、昨日借りた上着を羽織っていた。
ベアトリスだけは、スバルの小学生の頃のトレーナーを、ドレスの上から被っていた。裾が膝まで垂れて、ドレスの縁だけがその下から覗いていた。
「……それ、着てくの?」
「返せと言うのかしら」
「言わねえけど」
「なら黙るのよ」
ベアトリスは、トレーナーの袖口を一度引っ張って、手の甲まで隠した。
顔色は、昨日の朝よりましだった。ましになった、という程度だった。
「行けるか」
「行くのよ」
それは、答えになっていなかった。スバルは、それ以上訊かなかった。
---
玄関に、靴が並んでいた。
昨日エミリアがしたのと同じように、爪先を揃えて、五足。
誰が並べたのか、スバルは知らなかった。
上がり框で、母さんが、銀色の包みの入った袋をレムに渡した。
「重いけど、平気?」
「はい」
「お昼にでも、食べて」
レムは、袋を両手で受け取った。受け取って、深く頭を下げた。下げたまま、なかなか上げなかった。
「……あの」
「なに?」
レムは、顔を上げた。
喉のところまで来ていたものが、昨日と同じ場所で止まっているのが、スバルには分かった。
母さんは、待っていた。
「……お世話に、なりました」
レムは、それだけ言った。
「どういたしまして」
母さんは、少しだけ笑った。それから、袋を持ったレムの手の甲を、軽く二回叩いた。
ラムが、頭を下げた。昨日より深かった。
エミリアは、帽子を胸に抱えたまま、父さんと母さんを順番に見た。
「ご飯、ありがとう。とっても、おいしかった」
「また——」
母さんは言いかけて、そこで止めた。
止めたまま、エミリアを見ていた。
「……ううん。気をつけてね」
エミリアは、頷いた。
---
スバルは、靴を履いた。
紐を結ぶあいだ、誰も喋らなかった。上がり框の上に、父さんと母さんが並んで立っていた。
紐を結び終えても、スバルは立たなかった。
しゃがんだまま、結び目を見ていた。
「……昨日の夜さ」
声が、膝のあいだに落ちた。
「行ってきますって言うって、言っただろ」
「うん」
「それ、言うんだけど」
スバルは、立ち上がった。振り返った。
母さんの目が、少し吊っていた。昔から、こういう顔で待つ人だった。
「帰ってくるって、約束できねえんだ」
言ってしまうと、喉の奥が、少しだけ軽くなった。
「ベア子は、たぶんもう一回しか開かないって言ってる。開いて、俺が向こうに行ったら、それで塞がるかもしれない。分かんねえ。誰にも分かんねえ」
ベアトリスの指が、スバルの裾を掴んでいた。
「だから、行ってきますって言っても、それ、嘘になるかもしれない。……嘘になるかもしれねえのに、言っていいのか、分かんなくて」
先週は、黙って出ていった。黙っていれば、嘘はつかずに済んだ。
母さんは、しばらく何も言わなかった。
父さんが、一度だけ母さんの横顔を見た。
「スバル」
母さんが言った。
「あんた、小学校のとき、駅から自分で帰ってきたでしょう」
「……覚えてねえって」
「お母さんは覚えてるの」
母さんは、上がり框の縁まで出てきた。
「あのとき、あんたが帰ってくるなんて、誰も約束してくれなかったわよ。駅員さんも、警察の人も。それでも、お母さんは晩ご飯作って待ってた」
「……」
「約束なんか、なくていいの。行ってきますって言ったら、ここが、行ってきますって言った場所になるの。それだけ」
母さんは、そこで息を吸った。
吸って、吐いた。
「それは、あんたがどこにいても、変わらないから」
父さんは、何も足さなかった。腕を組んだまま、壁に肩を預けていた。
スバルは、口を開いた。
すぐには、出なかった。
坂の途中で口の中で転がしてきたのとは、違う言葉だった。転がさなくても、そこにあった。
「……行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母さんの声は、震えていなかった。
父さんが、壁から肩を離した。手が伸びて、スバルの頭を一度だけ、乱暴に掴んで揺すった。
「おう」
戸を開けた。
外の空気が、まだ冷たかった。
---
門扉が、昔と同じ音で鳴った。
坂の上で、スバルは一度だけ振り返った。
門の内側に、母さんが立っていた。手は、カーディガンの前で組まれていた。父さんは、玄関の戸口に寄りかかっていた。
スバルが手を上げると、母さんは、少し遅れて手を上げた。
振らなかった。上げたまま、そこにいた。
角を曲がると、見えなくなった。
---
駅までは、二十分だった。
誰も急がなかった。走らなかった。
一番電車が、高架の上を渡っていった。新聞を積んだ原付が、昨日と同じ角で、五人を追い越していった。
「エミリア様」
ラムが言った。
「何?」
「バルスの家の柱の線。あれは、背の高さだったのね」
「……うん。お母さんが、教えてくれたの。毎年、誕生日に測ったって」
「途中で止まっていたわ」
「うん」
エミリアは、それ以上言わなかった。ラムも、それ以上は訊かなかった。
スバルは、前を向いて歩いていた。
背中で、その話を聞いていた。
四つ目の角の、自販機の前を通った。
並んでいる缶の絵は、昨日見たときと同じだった。半分も知らない絵だった。昨日は、それが怖かった。今朝は、怖くなかった。知らないまま、通り過ぎた。
「スバル」
エミリアが、隣に並んだ。
「最初の日にね。私たち、駅の門の前に、ずっと立ってたの」
「……知ってる。動画で見た」
「そうじゃなくて」
エミリアは、自分の靴の先を見ながら歩いた。
「通れなかったから、立ってたんじゃないの。通れないのに、どこにも行けなかったの。戻る場所が、分からなかったから」
スバルは、黙って歩いた。
エミリアも、それ以上は言わなかった。
背中のほうで、ベアトリスが、レムの肩に顎を乗せ直す気配がした。
「……重たくないかしら」
「軽すぎます、ベアトリス様。帰ったら、ちゃんと召し上がってください」
「ベティーは、腹が減らないのよ」
「では、減らなくても召し上がってください」
ベアトリスは、何か言い返しかけて、やめた。レムの首の前で組んだ腕が、少しだけ締まった。
---
東口のロータリーは、昨日の朝より明るかった。地下への階段の口に、白い投光器が一基、置かれていた。
そして、その横に、職員が一人立っていた。
作業着の上に、蛍光色のベスト。胸元に、無線。
「……日向さんだ」
スバルの足が、半歩だけ鈍った。
ラムが、足を止めずに言った。
「昨日より固くなる、と言ったわね」
「言ってたな」
「当たって嬉しいことは、あまりないわ」
レムが、背中のベアトリスを下ろして、その手を握った。周りを見る。階段の上の黒い目。硝子の庇の奥の大時計。ロータリーに停まったタクシーが二台。白と黒の車は、まだいない。
「逃げ道は、南と西です」
レムが小声で言った。
「使わない」
エミリアが言った。
レムは、エミリアを見た。
「使わないって、決めてきたでしょう」
「……はい」
エミリアが、先に歩いた。
---
日向は、五人がロータリーを半分渡ったところで気づいた。
身体が、こちらを向いた。右手が、胸元の無線に上がった。
上がって、止まった。
押す前に、エミリアが言ったからだ。
「おはようございます」
日向の指は、ボタンの上に乗ったままだった。
「……おはようございます」
「話をしに来たの。逃げないわ」
エミリアは、日向の三歩手前で止まった。四人が、その後ろで止まった。スバルが、エミリアの隣に並んだ。
日向の目が、五人を一人ずつ数えた。最後に、ベアトリスの手元で止まった。
「昨日の朝。改札が全台、また止まりました」
「知ってます」
スバルが言った。
「この下に、この子がいたので」
日向の眉が、動いた。
「……自分たちのせいだと、言うんですか」
前にも、同じことを訊かれた。
「たぶん、そうです」
スバルは、目を逸らさなかった。
「全部は分かってないです。でも、この下の通路の真ん中に、何かがあって、こいつが触ると、上の改札が止まる。それは、昨日、確かめました」
「何か、って何ですか」
「……こいつらが、来た場所に繋がってるもの」
日向は、何も言わなかった。
信じた顔ではなかった。笑った顔でもなかった。
「今日は、それを使いに来ました」
スバルは、言った。
「使ったら、こいつらは帰れる。たぶん、それで、改札も止まらなくなる。……たぶんです。保証は、ないです」
---
日向の指が、無線のボタンを押した。
「駅務室。東口地下、日向です。例の五人、来てます。……はい。こちらから接触してきました。……逃げていません」
無線が、短く鳴った。
日向は、手を下ろさなかった。
「昨日の件で、東口地下通路は、改札に異常が出たら通行止めにすることになりました。原因が分かるまで、です」
「……」
「それと、この通路で不審な行動があったら、すぐ連絡するように言われています」
日向の声は、平らだった。
「私は、あなたたちを下に通せません」
「分かってる」
エミリアが言った。
「通してって、言いに来たんじゃないの。何をしに来たか、黙って行くのは嫌だったから」
日向の目が、エミリアの帽子の縁から、零れた銀の髪へ動いた。
「……下で何をするんですか。人に危険はあるんですか」
それは、職員の質問だった。
ベアトリスが、レムの手を握ったまま、半歩前に出た。
「分からないのよ」
日向が、ベアトリスを見下ろした。
「何が起きるか、全部は分からないかしら。ベティーたちが落ちてきた日に、怪我をした人は、いなかった。それしか、言えないのよ」
日向は、ベアトリスを見ていた。
見ていて、短く息を吐いた。
「……分からないなら、なおさら通せません」
正しかった。
この人は、毎朝ここに立って、何百人もの人間を下の通路に通している。その誰一人にも、分からないことを起こさせるわけにはいかない。
自分たちのほうが、正しくないのだった。
---
そのときだった。
頭の上の、駅舎の中で、音が途切れた。
改札の通過音だった。間遠く、ぽつぽつと鳴っていた電子音が、一つ鳴りかけて、そこで消えた。
日向の顔が、上がった。
一拍。
二拍。
戻らなかった。
「……日向。東口、北改札。全台落ちた」
無線から、知らない男の声がした。
「復帰しない。……繰り返す、復帰しない」
駅舎の硝子の向こうで、人の流れが止まっていた。改札の手前に、鞄を抱えた背広が溜まり始めていた。後ろから来た客が、前が止まっていることに気づかずに進んで、前の背中にぶつかった。
ベアトリスの手が、レムの指の中で、強張った。
「……ほどけてるのよ」
小さな声だった。
「下の、あれ。……ベティーは、何もしてないかしら。勝手に、ほどけていってるのよ」
スバルは、ベアトリスを見た。
「閉じるのか、開くのか」
「分からないのよ」
ベアトリスの唇が、白かった。
「でも、昨日と、違う。……長くは、このままじゃないかしら」
---
日向は、無線を口元に当てていた。
「了解。北改札、行きます。……地下通路は、通行止めにします。下にいる人を、上に上げます」
駅舎の中から、構内放送が流れ始めた。録音された、女の声だった。ただいま改札機の不具合により。お急ぎのところ。
人の声が、それに重なった。苛立った声と、笑う声と、誰かに電話する声。
日向は、階段の下へ一度だけ身を乗り出した。
「すみません、通路点検します! 上に上がってください!」
声が、地下に反響して返ってきた。
階段の下から、靴音が上がってきた。作業着の女。背広の男が二人。若い女が一人、板を耳に当てたまま。
その流れが、五人の横を抜けていった。
日向は、階段の口に、黄色と黒の縞の鎖を掛けた。
掛けて、五人を振り返った。
「ここから、動かないでください」
それだけ言って、駅舎の中へ走っていった。
改札の前の人だかりへ。押されて、詰まって、誰かの肩が誰かの肩にぶつかっている場所へ。
一度も、振り返らなかった。
---
階段の口には、鎖が一本。
投光器の白い光。
誰もいなかった。
「……動かないでください、って言われたわね」
エミリアが言った。
「言われたな」
スバルは、鎖を見ていた。
膝の高さだった。跨げば、それで終わる。
あの人は、自分たちを信用して置いていったのではなかった。改札の前で押されている何十人のほうが、大事だった。
正しかった。
「……これが、最後の悪いことだ」
スバルは、言った。
「たぶん、な」
「半分こよ」
エミリアが、帽子を被り直した。
「最初に、そう言ったでしょう」
ラムが、鎖を跨いだ。
何も言わなかった。言わないまま、階段を二段降りて、上を見上げた。来ないの、という目だった。
レムが、ベアトリスを抱き上げた。抱き上げて、鎖を跨いだ。
スバルは、最後に、天井の角の黒い目を見上げた。
見ているなら、見ていればいい。
鎖を跨いだ。
---
地下は、静かだった。
白い床。低い天井。等間隔の灯り。硝子の枠に入った、色の褪せた大きな絵。
人は、もう一人もいなかった。床を拭く道具が一本、壁に立てかけたまま残されていた。
五人は、真ん中へ歩いた。
レムが、途中で足を止めた。
「……スバルくん」
「どうした」
「風が、あります」
スバルにも、分かった。
地下の通路に、風はないはずだった。それなのに、首の後ろを、何かが撫でていった。前から後ろへではない。後ろから前へ。通路の真ん中へ向かって、空気が少しずつ寄っていく。
壁の掲示物の端が、めくれていた。
全部、同じ向きだった。
通路の真ん中の一点のほうへ、紙の角が、ほんのわずかずつ持ち上がっていた。
「……昨日は、こんなことなかったのよ」
レムの腕の中で、ベアトリスが言った。
「下ろすのよ」
レムは、ベアトリスを床に下ろした。
ベアトリスは、一人で三歩、前へ出た。昨日と同じ場所だった。
右の掌を、胸の高さの空中へ出す。
指先が、止まった。
「……やっぱり、ほどけていってるかしら」
指が、空中の何かをなぞった。なぞる範囲が、昨日より広かった。
「閉じかけてるのか、開きかけてるのか、ベティーにも分からないのよ。でも、このまま放っておいたら、たぶん、どっちかに決まるかしら。勝手に」
ベアトリスは、振り返った。
「勝手に決まる前に、決めるのよ」
---
「並び方」
ラムが言った。
「ベアトリス様が、真ん中。ベアトリス様に、誰がどう触れるか」
「ベティーの左手は、エミリアなのよ」
ベアトリスが、左手を後ろへ出した。
エミリアが、それを握った。両手で包むように握って、それから、片手だけにした。
「エミリアの、もう片方の手が、レム。レムの手が、ラム」
レムが、エミリアの手を取った。ラムが、レムの手を取った。
姉妹の手が、繋がった。
ラムの指が、レムの指のあいだに入って、一度だけ、強く握った。
「……屋敷で、こうなったのね」
ラムが、小さく言った。
「食堂で。ベアトリス様が倒れかけて、エミリア様が抱きとめて、レムが背中に回って、ラムが肩を掴んだ」
「はい、姉様」
「今度は、ラムが自分で掴んでいるわ」
レムは、何も言わなかった。握られた指を、握り返した。
---
ベアトリスの右手は、空いていた。
空いた右手で、スバルの裾を掴んでいた。
いつもの位置だった。いつもの掴み方だった。
「……スバル」
「おう」
「契約で、スバルから借りるのよ。……ほんの少し。でも、スバルの中身は、もともと少ないかしら。たぶん、立っていられなくなる」
「上等だ」
「茶化すんじゃないのよ」
ベアトリスの声が、少しだけ高くなった。
それから、低くなった。
「始めるのよ」
ベアトリスが、空中の何かへ、左手を繋いだまま、肩を寄せた。
最初は、何も起きなかった。
次の瞬間、スバルの膝から、力が抜けた。
立ちくらみに似ていた。似ていたが、違った。頭からではなく、胸の奥から、何かが引かれていった。細い糸の先を、誰かに摘まれて、ゆっくり、ゆっくり、巻き取られていくような感じだった。
「——っ」
膝が、床についた。
「スバルくん!」
「来んな、レム。……手、離すな」
レムの身体が、跳ねかけて、止まった。エミリアの手を握ったまま、その場に縫い留まった。
裾を掴むベアトリスの指が、震えていた。
「……足りてるのよ」
ベアトリスの声も、震えていた。
「昨日は、吸われて終わりだった。今日は、戻ってくるかしら。ベティーとスバルで流したぶんが、向こうから……返ってきてるのよ」
壁の掲示物が、一斉に、真ん中へ向かってはためいた。
天井の灯りが、一つ、また一つ、白く膨らんだ。
通路の真ん中の、何もない空中が、揺れた。
---
揺れたのは、空気ではなかった。
空気の向こうに見えている通路の奥が、水の底を覗いたように、ゆらりと歪んだ。歪んだ奥に、白い床ではないものが見えた。
木目だった。
磨いた木の床と、白い布の掛かった、長いテーブルの脚。
匂いがした。
洗剤と埃の匂いの奥から、ほんの一筋。冷めかけた、スープの匂いだった。
エミリアが、息を呑んだ。
「……食堂」
レムの喉が、鳴った。ラムは、何も言わなかった。言わなかったが、握った妹の手に、指の跡がつくほど力が入っていた。
「どのくらい、もつ」
スバルが訊いた。膝をついたまま、顔だけを上げていた。
「分からないのよ」
ベアトリスは、即座に言った。
「長くないのだけは、分かるかしら」
---
上で、足音がした。
階段を降りてくる、靴音だった。一人ではなかった。
「——おい、そこ! 何してる!」
男の声だった。日向の声ではなかった。
スバルは、振り返らなかった。
振り返る前に、裾が、軽くなった。
ベアトリスの指が、離れていた。
スバルは、ベアトリスを見上げた。
ベアトリスは、スバルを見ていなかった。前の、揺れている空中を見ていた。
離した右手は、トレーナーの長すぎる袖の中で、握られていた。握っている、とスバルには分かった。袖の布が、そこだけ皺になっていた。
「契約で借りるのに、触ってる必要は、ないのよ」
ベアトリスは、前を向いたまま言った。
「……開けるまでは、スバルが要る。開いたから、もう、要らないかしら」
声が、途中で一度、裏返った。
「通るかどうかは、スバルが決めるのよ」
エミリアは、スバルを見ていた。
何も言わなかった。昨日、もう言っていた。
レムは、エミリアの手を握ったまま、床を見ていた。ラムは、揺れている空中だけを見ていた。
四人とも、一緒に来て、とは言わなかった。
最後まで、言わなかった。
---
スバルは、振り返った。
階段の下に、紺の上着が二人、立っていた。一人が無線に何か叫んでいた。もう一人は、こちらへ走りかけて、通路の真ん中の歪みに気づいて、足を止めていた。
その向こうに、階段があった。
階段の上に、四角い朝の光が見えた。
あの光の先に、ロータリーがあって、高架があって、角を四つ曲がった先に、坂がある。坂の上の、左から三軒目に、灰色の塀と、胸の高さの門扉がある。
食卓の壁際のコンセントで、板が、充電されている。
右上の数字が、百のまま、誰にも見られずに光っている。
行ってきます、と言った。
行ってらっしゃい、と言われた。
スバルは、膝に手をついた。
立ち上がった。
足が、震えた。胸の奥の、巻き取られた糸のあたりが、空っぽに冷たかった。それでも、立てた。
スバルは、前を向いた。
トレーナーの袖の中で握られている、小さな拳に、手を伸ばした。
袖ごと、掴んだ。
ベアトリスの肩が、跳ねた。
「……スバル」
「行くぞ、ベア子」
袖の中で、拳がほどけた。
ほどけた指が、スバルの指を、掴み返した。
痛いくらいの、強さだった。
「……遅いのよ」
「悪い」
「本当に、遅いのよ」
ベアトリスは、前を向いたまま、鼻を啜った。
---
五人が、繋がった。
スバル。ベアトリス。エミリア。レム。ラム。
「おい!」
背中で、靴音が近づいてきた。
近づいて、止まった。
止まった足音の向こうから、別の声がした。
「——待って!」
日向の声だった。
息が切れていた。改札の前から、走ってきたのだと分かった。
スバルは、一度だけ、肩越しに振り返った。
日向は、階段の一番下にいた。片手を壁について、もう片方の手で、前に出ようとした男の腕を掴んでいた。
日向の目が、通路の真ん中の歪みを見ていた。それから、五人を見た。
「すみません」
スバルは、言った。
聞こえたかどうかは、分からなかった。
「改札、たぶん、これで直ります」
それから、前を向いた。
「一緒に、一歩」
五人は、歩いた。
---
日向が、階段の一番下から見たものは、多くなかった。
五人の背中が、通路の真ん中で、水の中へ入っていくように白く滲んだ。
それで、終わりだった。
掲示物が、ぱたりと壁に戻った。通路の真ん中には、白い床と、色の褪せた絵があるだけだった。
上から、改札の通過音が降ってきた。一つ。二つ。それから、いつもの朝の速さで鳴り始めた。
日向は、掴んでいた同僚の腕を、ようやく離した。無線を口元に当てて、しばらく、何も言えなかった。
「……日向です。東口地下。五人、確認できません」
---
ロズワール邸の食堂は、朝だった。
窓から、斜めに光が差していた。等間隔に並んだ皿。白い布の掛かった、長いテーブル。湯気の落ちきったスープ。
磨いた木の床に、五人は、膝をついていた。
最初に立ち上がったのは、ラムだった。
立ち上がって、窓を見て、テーブルを見て、壁の燭台を見た。
それから、テーブルの縁を、指で一度なぞった。
指の腹を、見た。
「……埃が、積もっていないわね」
それだけ言った。
レムが、立ち上がった。母さんの袋を、胸に抱いたままだった。銀色の包みが、袋の口から覗いていた。
エミリアは、床に座ったまま、天井と窓とテーブルを、一つずつ確かめるように見回した。
それから、ゆっくり息を吐いた。
「……帰ってきた」
ベアトリスは、床にへたり込んだまま、動かなかった。
動かないまま、スバルの手を、まだ握っていた。
スバルも、まだ、離していなかった。
---
扉の向こうで、足音がした。
ラムが、扉のほうへ顔を向けた。
「ロズワール様には、ラムが後で」
「姉様」
「後で、と言ったのよ。今は、朝食の時間だわ」
ラムは、テーブルへ向き直った。
並んだ皿を見た。冷めたスープを見た。
それから、一つだけ、引かれたまま誰も座っていない椅子を見た。
---
スバルは、椅子の前に立っていた。
膝が、まだ少し笑っていた。胸の奥は、空っぽのままだった。
椅子の背に、手を置いた。
木の手触りが、覚えている通りだった。覚えていない傷が、一つあった。誰かが、何度も、引いては戻した跡だった。
「……座らないの?」
エミリアが、隣の椅子の前から言った。
「座るよ」
スバルは、座った。
椅子が、少しだけ軋んだ。
ベアトリスが、その椅子の横に、自分の椅子を引きずってきた。引きずる音がうるさかった。誰も咎めなかった。
レムが、母さんの袋をテーブルに置いた。
銀色の包みを、一つずつ取り出して、冷めたスープの皿の隣に並べた。
九つあった。
「スバルくんのお母様の、お昼の分ですが」
レムは、言った。
「朝ですので。……朝に、いただいてもいいでしょうか」
「いいだろ」
スバルは言った。
「たぶん、母さん、怒んねえよ」
レムが、厨房へ走った。湯を火にかけて、沸くのを待ちきれずに一度戻ってきて、カップだけを並べて、また走っていった。
ラムが、自分の席に着いた。
エミリアが、銀色の包みを一つ、手に取った。紙を剥がすのに、少し手間取った。中から、白い三角が出てきた。
---
五人が、手を合わせた。
誰が最初だったのか、誰も見ていなかった。スバルの手元を見る者は、もういなかった。
「いただきます」
声が、五つ揃った。
ロズワール邸の食堂で、その言葉が五人分揃ったのは、初めてだった。
スバルは、握り飯を齧った。
塩が、少し強かった。母さんの握り飯は、昔から、少し塩が強かった。
噛んで、飲み込んだ。
喉の奥が、熱くなった。
「スバル」
エミリアが、こちらを見ていた。
「おかえりなさい」
スバルは、握り飯を持ったまま、少しのあいだ、何も言えなかった。
「……ただいま」
エミリアが、笑った。
それから、自分の握り飯を、小さく齧った。
「……ちょっと、しょっぱいわね」
「だろ」
「でも、おいしい」
ベアトリスが、スバルの袖を掴んだ。
いつもの位置だった。
戻ってきたレムが、紅茶を注いだ。ラムが、それを一口飲んで、何も言わずに、もう一口飲んだ。
食堂の椅子は、全部、埋まっていた。
窓の外で、朝の鳥が鳴いていた。