日本が異世界転移しました。そして国家分裂しました。 作:適当でいいです
2050年 2月 シュクシュラ国 ハースン市
シュクシュラ国に足を踏み入れてから、気づけばもう1ヶ月が経とうとしていた。肝心の本社からの決裁や回答はいまだに降りてこない。
もっとも、動かずに待機しているだけでしっかりと現地の特別手当込みの給料が口座に振り込まれてくるのだから、私としては特に文句はなかった。
「主任、そういえばここに来てから一ヶ月になりますけど、結局モンスターも魔法もまだお目にかかってませんね。獣人や亜人は毎日のように見かけますけど」
私がホテルのデスクから顔を上げてそうぼうっと呟くと、主任はノートパソコンの画面から目を離さずにフッと笑った。
「仕方ないだろ。北海道の周辺に現れるようなデカいのは、大概向こうの帝国軍が先回りして追い払っちまうんだからな」
その言葉通り、北海道の領空と領域を固める現・日本政府と自衛隊であっても、未だにワイバーン1匹すら満足に自力迎撃できていないのが現実だった。
その最大の理由は、単にモンスターが強力だからというわけではない。このワイバーン、野良の個体であればまだ対空兵器の的で済むが、ケースバイケースで『人間が騎乗している』可能性がゼロではないのだ。
もちろん、そんな命知らずな超高空での騎乗戦闘なんて芸当ができるのは、現地の国家でも片手で数えるほどの歴戦の猛者たちだけだろう。
空を飛ぶということは騎乗主に猛烈な風が真正面から吹き付けるし、少し進路を変えようとすればバイクなんて目じゃない程のバンク(傾き)を付ける。
人間の足腰でしがみつくといっても馬やロバとは次元が違うのだ。
安全紐が付いていると言えど、強化繊維などあるわけがなく大抵は麻縄だろう。騎士が持つ鎧や武装によっては振り落とされれば簡単に千切れて無常に地面とキス・・・
これを制御できるスキルを持つ者などそうそう居て堪るかって話だ。
そして、だからこそやっかいだった。
万が一、その数少ない「要人(あるいは現地の英雄)」を自衛隊の最新鋭ミサイルなどで誤って撃ち落としてしまおうものなら、外交的・軍事的な大パンドラの箱が開くことになる。
そもそも、超音速で空を切り裂くジェット戦闘機の迎撃そのものが、この世界ではリスクの塊だった。
音速の衝撃波ですれ違うだけでも生身のドラゴンや騎手には致命的だし、ジェットエンジンの激烈な排熱はワイバーンの敏感な肉体を焼きかねない。おまけに、現代の戦闘機が放つ強烈な電子機器の電磁パルスやレーダー波が、ワイバーン固有の磁気感知器官を狂わせでもすれば、制御を失ってそのまま墜落する危険すらあった。
その結果として、日本側はこれまで、合衆帝国製の安価で手荒なレシプロ戦闘機『F-R-1』の運用を丸ごと帝国に頼り切りにせざるを得なかったのだ。
日本もようやく、ここ最近になってその『F-R-1』の自国導入を本格化させ始めたところだった。
先日、この街の工場で出荷待ちで待機していたあの機体だ。
これまでは自慢のジェット戦闘機の維持費と近代化改修に防衛予算の大部分が食われていたが、老朽化した最古参の旧式個体がいよいよ構造的なガタをきたして次々と廃棄期を迎え、ようやく現実に即した装備体系への転換が進み始めたというわけだ。
「……まあ、ハイテクのプライドを捨ててレトロなレシプロ機に乗り換えるのが、今の日本の現実ってわけですか」
私は冷めかけた現地産の紅茶を啜りながら、窓の外でパタパタと軽快な音を響かせて飛んでいく帝国製の小型プロペラ機を見送る。
「いや、現実に適応するようになり出した、とも言えるだろう?」
主任は帝国の現地新聞を見ながら答える。
話は戻って、私たちがこの一ヶ月間、現地で「魔法」の片鱗すら目撃できていない理由――それもまた、帝国による徹底的な情報遮断の賜物だった。
もっとも、その状況をわざわざお膳立てし、こじらせた最大の元凶は他ならぬ日本政府自身なのだが。
『クーデター国家かつ戦争犯罪国家の現地調査記録など、非人道的な手段で収集されたデータの可能性が高い。ゆえに、一切の公的受け入れは認めない』
政府の高官たちは、安全で新たな霞が関となっている元・北海道庁の会議室でそう言い放った。
しかし、帝国側からすれば「ふーん、じゃあ別に日本が買わないっていうなら別にいいけど?」と鼻で笑うだけだ。商談なんて不要ならそのまま破談にするだけで、帝国が頭を下げるいわれなど微塵もない。
「欲しくなったら、またいつでも声をかけてください」
帝国側の担当者はそう言って、冷ややかに交渉のテーブルを片付けたという。
そんな経緯があるものだから、私たちは電波の傍受によって得られる微弱な漏洩情報以外、魔法に関する実態をほとんど何も知らなかった。
わずかに分かっているのは、「魔法を行使できる人材は全体のパイとしても極めて少なく、その威力も現代兵器やインフラの前では微弱すぎる」という情報だけだ。具体的にどんな属性や系統の種類があるのか、軍事や生活インフラのどこまでがその技術で成り立っているのかは一切が謎のベールに包まれている。
帝国がどこまでその技術の機微を掌握し、そしてこの異世界の住人たちがそれをどの程度「当たり前の常識」として国家システムに組み込んでいるのか――その全貌は、未だに闇の中だった。
翌日 シュクシュラ国 ハースン市
今滞在していた仮拠点のウィークリーアパートの契約満了が迫る中、ついに本社から本来の赴任地である『ズーン市』への移動指示が下った。
問題の「奴隷制度をどう処理するか」についての正式な決済は、いまだに降りてきていない。当然、例の一件が発覚した当日に日本の法務省や関連省庁へは緊急通報を入れているのだが、あちらの縦割り組織と前例主義のせいで「現在協議中」のステータスから一歩も動いておらず、現地にいる私たちとしてはどうしようもなかった。
とはいえ、動かないものは仕方がない。出発の直前、私たちは一度だけグージュル卿の邸宅に足を運び、今後の事情説明と赴任地変更の可能性について事前挨拶を済ませておいた。あちらとしても実務が滞りさえしなければ手続き上の文句はないらしく、表立ったトラブルには発展しないそうだ。
新天地となるズーン市は、ここハースン市からさらに南の、内陸深くへ進んだ場所にある。首都バーシェン市よりもさらに向こう側であり、実質的にシュクシュラ国の「国境付近」に位置していた。
「……マジですか?」
トランクに荷を詰めながら、私は思わず絶句した。
「ああ、そう帝国軍の担当者に言われたんだから仕方ない」
主任が苦い顔で肩をすくめる。
国境付近というエリアは、いつの時代、どんな世界であっても、地政学的な火種がくすぶれば真っ先に炎に包まれる危険地帯となり得る場所だ。
現地のシュクシュラ人たちでさえ、その土地を忌み嫌って『墓標の地』と呼んでいるほどだとこの現地にて初めて知らされた。合衆帝国の農業開発部門にとっても、大いなる見込みのある肥沃な土地ではあるはずなのだが、「だからこそ侵略や軍事工作の格好のターゲットにされやすく、自国民の安全保障の確約が取れない」という理由で、これまではずっと開発の優先順位を後回しにされてきたらしい。
「帝国インフラがある程度整っており、開拓もまだ完了していないようで、新農地契約の余地もあるようだから・・・」
そう言って私たちを送り出した元配属先の課長の言葉が頭の中でリフレインする。
(……聞いてねえよそんな危ない場所だなんて! 赴任手当の危険度ランク、さらに上乗せ交渉してやるからな……!)
心の中で毒づく私に、主任はトントンとデスクの上を軽く叩いて見せた。
「ほら、これが帝国軍から支給された『ビーコンの指輪』と『スマートウォッチ』だそうだ。指輪の方は一応ソーラー充電式らしいが、バッテリーの持続は最長でも16時間までだそうだ。切れたら終わりだから充電を忘れるなよ」
「……」
「一応、帝国の警備会社とは契約してある。その位置情報と連絡手段だ。」
目の前に置かれた無機質なセキュリティーデバイスを見つめながら、私たちはこれから足を踏み入れる「国境のフロンティア」が、これまでの比ではないほどきな臭い場所なのだという現実を、静かに噛み締めるのだった。