日本が異世界転移しました。そして国家分裂しました。 作:適当でいいです
翌日 シュクシュラ国 ズーン市
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝の陽ざしで目が覚めた。
「墓標の地」「危険地帯」などと散々脅し文句を聞かされて身構えていたものの、いざ朝を迎えてみれば、ズーン市の北側エリアは綺麗に区画整理された帝国式の近代的な街並みが広がっており、拍子抜けするほど平穏だった。どうやら緊迫しているのはもっぱら南側の国境や未開拓の湿地帯の方らしい。昨日の今日では、まだ肌を刺すような危険の気配は感じられなかった。
「準備はいいか、田中。出発するぞ」
「はい、今行きます」
身支度を整えてマンションのエントランスを出ると、目の前には一台のマイクロバスがアイドリング音を響かせて停まっていた。
それは、市と帝国が共同で運営している現地の路線バスだった。私たちはそれに揺られて市内をひととおり巡回した後、いよいよ本日の目的地である南の湿地帯へと向かうことになっている。
要するに、ここでの「開拓」という名の過酷な職場へ向かう、毎朝の通勤バスというわけだ。
車内に乗り込むと、そこには私たち日本人だけでなく、現地のシュクシュラ人たちの姿もちらほらと見受けられた。
今回の農地開拓にあたって、帝国側は相変わらず現地の農奴や農民たちを徹底的に動員して数で押していくスタイルをとっている。だが、日本側は前回の一件で発覚した「奴隷・強制労働リスク」を完全に嫌い、それらのシステムをきっぱりと跳ねのけた。結果として、日本エリアの開拓はすべて日本人だけで人員を回して進める方針に決まったらしい。
後々には日本側も奴隷ではない現地民を雇用していく予定だが、まだまだその準備には時間がかかる。
そのため、開拓エリアそのものも帝国が管轄する区画と、日本が管轄する区画で綺麗に東西へと分断されていた。
当然、それぞれの作業場や労働者たちを守るための防衛・警備についても、それぞれの派遣部隊――帝国自衛軍と、派遣された自衛隊が各自で受け持つ形となる。
(……奴隷を使わないのはクリーンで結構だけどよ。その分、こっちの労働負荷が跳ね上がったり、万が一のときの防衛が自前頼みになったりしないだろうな……)
マイクロバスが市街地を抜けて南の湿地帯へと向かう舗装路に入ると、車窓の景色は徐々に緑濃い鬱蒼とした未開の風景へと変わり始めていく。
人種も思想も、そして背負うリスクも異なるフロンティアの朝が、こうして静かに動き出していた。
マイクロバスが市街地を離れ、南の湿地帯へと進むにつれて、沿道の建物はみるみるうちにまばらになっていった。
中間地点あたりに差し掛かると、広大な水田が広がっているのが見えてくる。おそらく、この湿潤な気候を利用して稲を育てているのだろう。
のどかで平和な田園風景――が広がる光景なのに、バスに揺られる私たちの息は自然と詰まっていた。
「……おい」
慣れ切っているのか、同乗している帝国人やシュクシュラ人たちは窓の外を一瞥もしない。だが、昨日の今日でこの地にやってきたばかりの日本人は、誰もがガラス窓に張り付くようにして外を凝視していた。
道路の脇、およそ「のどか」という言葉とはかけ離れた異物が鎮座している。
それは、空に向けて2本の銃身を傲然と掲げる、無骨な灰色の戦闘車両だった。
しかも1両や2両ではない。バスが数分走るごとに、全く同じシルエットの対空戦闘車両が一定間隔で姿を現すのだ。
ここが「墓標の地」と呼ばれる理由の一つ。それは、この一帯が凶悪な『ワイバーン』の一大群生地であるという事実だった。
一年を通して温暖な熱帯・湿地帯は爬虫類系モンスターの生息に最適であり、背後に険しい山岳地帯が迫るこの地形は、空を飛んで移動する巨大生物にとって最高の狩り場だった。
彼らは上空から音もなく舞い降り、この地に住む先住民族や旅人たちを文字通り「家畜」のように襲い、その爪に引っかけて巣へと連れ去っていくという。
だが、道路脇に並ぶ対空車両の群れを見ながら、私は冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
――恐ろしいのは、あの空の覇者たるワイバーンだけが、この地の脅威のすべてではないというのだ。
マイクロバスが目的地の手前でエンジンを止め、私たちは重い足取りで外へと降り立った。
ここからは陸路が途絶え、ボートに乗り換えての水上移動となる。私たちが所属する如月商事と懇意にしている農業系企業の作業員たちと一緒に、静まり返った沼のエリアへと小舟を進めていく。
カカオやコーヒーの原種と同じように、この世界で調達する「代用の作物」たちもまた、強い直射日光を嫌い、鬱蒼とした日陰を好む性質を持っていた。そのため、マングローブの鬱蒼とした林が天然の日陰を作ってくれそうなポイントを探しつつ、水底の泥をすくい上げて成分を測定し、苗を植え付ける最適な場所を細かく吟味していくのだ。
「加賀さーん、時間ですよ!」
ボートから、若い作業員の乾いた声が響く。
「お、おうっ!」
沼の水に腰まで浸かりながら泥のサンプルを採取していた作業員の加賀さんが、慌てた様子でびしょ濡れの体を持ち上げ、ボートへと急ぎ足で戻ってきた。
それも無理はない。私たちが今、足を踏み入れているこの沼地そのものが、一歩間違えば命を落とし兼ねないいくつもの危険を孕んだ「地獄の環境」だったからだ。
作業員たちが身にまとっている頑丈なゴム製の防水つなぎ――その腰のあたりには、不気味に青いランプを点滅させる「放電装置」がぐるりと巻きつけられている。
それは、水中に潜む肉食性の水棲モンスターたちに生きたまま食い殺されないための、最低限にして必須の自衛装置だった。幸いにも、人間を丸呑みにするような巨大な個体は生息していない。
しかし、地球で言うところの『カンディル』や『ピラニア』のような凶暴な小粒の肉食魚――いや、それ以上に牙の発達した異世界の群れが、この濁った水底に無数に潜んでいるのだ。
「放電のスイッチを入れて電流を流していれば、物珍しさで寄っては来るが……さすがに直接噛みつかれるまではいかない。……らしいな」
加賀さんは震える手で防水つなぎのスイッチを切り、濡れ鼠のままボートに這い上がると、乾いたタオルで乱暴に頭を拭きながら自嘲気味に笑った。
「らしい」という曖昧な帝国企業からの伝聞が、このフロンティアの過酷さと、私たちが背負っている命懸けの日常を何よりも雄弁に物語っていた。
さらに、熱帯かつ広大な沼地という環境がもたらす、もう一つの深刻な厄介者――それは「虫」だった。
特にマラリアなどの疫病を媒介する蚊や、肉を食らう吸血バエの類いは桁違いの密度で生息している。
その対策として、私たちが乗るボートには帝国から供与された特殊な「忌避剤のガス」を常時微量に散布する装置が載せられていた。
しかし、加賀さんのように腰まで水に浸かってボートから離れなければならない人間は、そんなシステムに頼ることはできない。肌の露出した部分に専用の強力なスプレーを幾重にも塗りたくって、どうにか命からがら虫の群れをやり過ごすしかなかった。
もっとも、これだけの重装備と最新の科学的対策を講じたところで、それが「万全」とは到底言えないのがこの現場の現実だった。
防護をすり抜けた蚊に刺されて高熱に倒れる帝国人やシュクシュラ人の作業員は後を絶たず、これまでにも数え切れないほどの犠牲者を出してきたという。
そして、その積み重ねられた無数の犠牲こそが、この地を『墓標の地』と呼ばせている真の由来だった。
見上げれば空からワイバーンが獲物を狙い、足元の沼では凶暴な肉食魚が牙を剥き、さらには空気中を疫病を運ぶ小さな悪魔たちが飛び交う。
――どれだけ文明の利器や現代技術を持ち込もうとも、自然の暴力の前では人間などあまりに無力。ここは、文字通りの意味で「難攻不落の死地」だった。