日本が異世界転移しました。そして国家分裂しました。 作:適当でいいです
2050年 8月 シュクシュラ国 ズーン市
如月商事が身銭を切って契約した帝国軍ヘリの有償哨戒により、上空におけるワイバーンの目撃件数は着実に減少していった。そしてそれに比例するように、農作物への壊滅的な被害はそれ以上のスピードで劇的に収まっていったのだ。
――だが、これで一件落着とはいかないのが、異世界開拓の恐ろしいところだった。
8月に入ると気温は一気に上昇。さらに6月から7月にかけてこの地を覆っていた雨季の「暴力的なまでの湿度」が重なり、湿地帯における昆虫の発生密度はとんでもない勢いに跳ね上がったのだ。
マラリアや赤痢といった危険な感染症自体は、開拓が始まって1週間もしないうちに日本人作業員の間でも発生していた。
しかしこれまでは、自衛隊の救護班が本国から持ち込んだ先進的な医療設備と、潤沢な抗体・医薬品によってなんとか抑え込めていたのだ。
だが――その命綱である医療体制が、いまや風前の灯火となっていた。
人類にとって、異世界への進出など完全に未知の領域だ。
本国の防衛省や厚労省が弾き出した医薬品の需要量は、あくまで「地球の熱帯地域(東南アジアやアフリカなど)」の過去データをベースに算出したものに過ぎない。そんな机上のデータが、この未知の惑星環境、未知の生態系にそのまま綺麗に合致するかどうかなど、誰にも分かるはずがなかったのだ。
そして――その甘い予測は、見事に大きく外れることとなった。
現場の人間を絶望の淵へと叩き落とす、最悪の方向へと……。
「まずいな……抗生物質の在庫が足りん。……それと次は、注射と点滴のセットか」
ズーン市に駐屯する自衛隊員だけでなく、本国から開拓のために送り込まれてきた一般人300名の医療を一身に背負っている井上一佐は、端末に表示された棚卸データを睨みつけながら低く呟いた。
すべての医療物資が底を突いたわけではない。地球のデータ(机上の計算)を過信したツケにより、特定の消耗資材だけが局所的かつ異常なペースで消費され、バランスを欠いているという状況だった。
だが――その表情に、パニックや焦りの色は一切見られなかった。
井上一佐には、頼りになる確実なパートナーが存在していたからだ。
それは本国の自衛隊本部でも、防衛省の背広組でもない。ましてや「5%の補助金」で仕事を終えた気になっている本国政府など、最も当てにならない選択肢だった。
その頼れるパートナーとは――他でもない『合衆帝国自衛軍』である。
ワイバーンに日本側の農作物が荒らされようが、帝国としては経済的・軍事的に痛くも痒くもない。
だが――もしこの沼地でマラリアや未知の感染症が爆発的に蔓延すれば、風下や隣接エリアに陣取る帝国軍兵士や帝国国民にまで容赦なく飛び火することになる。だからこそ帝国は、物流インフラだけでなく、医療体制と感染症データの共有ラインだけは早期から自衛隊との間にバッチリと構築していたのだ。
『――では、バーター取引(物々交換)としゃれ込みませんか?』
通信画面の向こうで、帝国軍の現地医療指揮官である軍医が、親しみやすい笑みを浮かべて提案してくる。
『そちらにはまだ、潤沢な輸血パックの在庫がありますよね? それを我が方の保有する抗生物質、ならびに注射・点滴キットと等価で交換する――というのはいかがでしょう?』
自衛隊が開拓地の外縁(沼地)までの防衛に留まっているのに対し、帝国軍は山々の上の暫定防衛線、あるいは状況によってはそのさらに奥深くの危険地帯まで足を踏み込んでいる。必然的に負傷者の数も多く、輸血パックはいくらあっても足りないのだ。
帝国軍の抱えるリスクはただの山岳事故だけではない。ワイバーンという巨獣との戦闘リスクや実弾や爆薬などを大量に扱うリスクもある。必然とけが人が輸血を求める状況も多い。
その上、帝国軍が守る帝国の開拓住民と軍人の数は日本側の比ではない。
補給体制が万全であるからこそ、現地調達で不足分を補助し合えるなら柔軟に対応する――まさに「持てる者」の余裕に満ちた合理的な発想だった。
(……いや、待てよ?)
画面越しの帝国軍医の穏やかな表情を見つめながら、井上一佐の背筋に冷たいものが走った。
(帝国軍も、最初からこちらの医療在庫の偏りを異常なほど神経質に聞き出してきていた……。もしかして奴らは、我が国(日本)のこれまでの後手後手な泥縄対応を見越し、最初から“助け舟”を出す準備を整えていたのか……?)
自衛隊側(ほぼ日本政府)のプライドを傷つけないよう、対等で正当な『現場の物々交換』という体裁を整え、日本側に過剰な負担を背負わせることなく、ズーン市全体の医療崩壊を未然に防ぐ――。
もし、この取引自体がそこまで計算し尽くされた帝国の意図的な誘導なのだとすれば……。
(完全に我々は……帝国の掌の上で踊らされているというわけか……)
井上一佐は深く息を吐き出すと、己の無力感と帝国の底知れぬ手腕に対する恐怖を飲み込み、画面の中の軍医に向けてゆっくりと頷いて見せるのだった。
――だが、その危機管理の芽を摘み取ったのは、またしても本国(日本)だった。
横槍を入れてきたのは、防衛省でも外務省でもなく――厚生労働省である。
『帝国側が融通を提示している該当医薬品は「下川製薬」製であり、同社製品は厚労省の不認可ならびに未監査企業に該当する。また、医療器具を扱う「プログレス株式会社」製の器具に関しても同様である。よって、本取引による物資を隊員ならびに現地邦人に使用することは一切許可できない』
「……嘘だろ。本国は、ここまで頭が狂っているのか……!?」
届いた電文を凝視しながら、井上一佐は絶句した。
確かに、臨床現場で扱う医薬品や医療機器が安全基準を満たしているか確認することは重要だ。だが、地球時代のアフガニスタンや国連PKO活動の現場において、多国籍軍同士が互いの医療物資を泥縄で融通し合うことなど日常茶飯事の常識であった。
厚労省の言い分はこうだ。
『確かに両社とも、23年前までは厚労省の定期監査を受けた履歴が存在する。しかし、それ以降の監査実績が存在しない』
(――日本側が勝手に合衆帝国を戦争犯罪国家に指定し、国交を断絶して監査官を送らなかったくせに、この言い草である)
『また、該当薬品が旧世界の国際規格ならびにFDA(米国食品医薬品局)の承認を受けた製品である事実は認める。しかし、その後の帝国体制下においてどのような製造工程の変更がなされたかが一切不明であるため、使用許可は下せない』
「バカだ……大アホだ……!」
井上一佐はデスクを激しく叩きつけた。
「ここで抗生物質や点滴が底を突き、感染症を抑え込めなくなったらどうなる!? 感染した日本人作業員が本国へ帰国した時、国内で大規模なパンデミックが引き起こされるかもしれないんだぞ!?」
現場の命と、本国の安全保障。
その双方を脅かしているのが『味方の本国省庁』という皮肉すぎる現実に、井上一佐は血の涙を流さんばかりの憤りを覚えるのだった。