日本が異世界転移しました。そして国家分裂しました。 作:適当でいいです
同日 シュクシュラ国 バーシェン市
前哨基地の外でセセトさんと無事に合流し、私たちは今度こそ本来の目的地である宮殿庁舎へと向かった。
ここから先は歴史ある首都の中心部ということで、これまでのタクシーを降り、小型の馬車へと乗り換えることになる。
理由は単純で、道の幅が狭く、おまけに直角コーナーがやたらと多いため車では入れないからだ。だが、それ以上に厄介なのが――人通りの多いエリアを抜ける際に付きまとう、交通事故のリスクと、それ以上に恐ろしい「強盗・ひったくり」の危険だった。
もちろん馬車に変えたところで治安が劇的に良くなるわけではない。しかし、今回私たちが乗る馬車はただの乗り物ではなかった。農政卿がわざわざ手配してくれた、『本物の貴族の紋章』が掲げられた馬車である。
これを襲う馬鹿者がいるとすれば、それはよほど命知らずか、あるいは首都の権力構造を完全に無視した犯罪者だけだ。なにせ、相手の逆鱗に触れればタダで済むはずがなかった。
皮肉なものだと思う。
あれほど恐れられている侵略者の帝国軍は、経済合理性で動いているため、基本的に民間人を無駄に傷つけたりはしない。怒り狂った農民や一部の騎士、あるいは冒険者崩れがトラブルを起こすことはあっても、軍そのものは秩序を重んじている。
一方で、この国の支配階級である貴族たちはどうだ。
彼らは自分たちの権力を維持するためなら、平民相手に処刑や拷問のカードを何の躊躇もなく切る。泥臭い暴力と恐怖による支配において、この国では今なお「貴族」の方が圧倒的に格上なのだ。
「――乗ってください、旦那様。ここから先は、いわゆる『お上の世界』ですからね」
セセトさんの控えめな声に促され、私は軋む車体に足を踏み入れた。
経済の暴力に支配された帝国エリアを抜け、今度は剥き出しの身分制度と恐怖が支配する首都の中心へ。
窓の外でざわめく人々の熱気を感じながら、私は冷や汗を拭いつつ、いよいよ始まる「別種の権力者たち」との顔合わせに向けて身を引き締めるのだった。
馬車を降りた私たちの目の前にそびえていたのは、かつての巨大な遺跡を思わせる、石造りの重厚な建物だった。それが、このシュクシュラ国の心臓部である『宮殿庁舎』だった。
周囲にも同じような意匠の建造物が立ち並んでいるが、セセトさんの小声によれば、その中にはこの国で最高ランクに位置する大貴族たちの邸宅も含まれているらしい。
面白いことに、どの建物にも表札の類いは一切かかっていなかった。
『こんな豪奢な屋敷の主を覚えていない者などいない』――そんな、旧き特権階級の傲慢な感覚がそのまま形になったかのようだ。
緊張に息を呑む私たちの前に、純白の布を幾重にも纏った、まるで古代ローマの貴族を思わせる衣装の男が姿を現した。
傍らに控えたセセトさんが、青い顔のままごくりと喉を鳴らし、私たちに通訳を伝えてくれる。
「お二人とも……。農政卿様からのご指示で、面倒な礼儀作法は一切気にしなくていいとのことです」
「そ、そうですか……助かる……のか?」
正直なところ、こちらの世界の貴族が好む作法なんて微塵も分からない。下手な動きをして不興を買うよりはよほどありがたかったが、もしかすると「どうせ平民や異国の商人にまともな作法など期待していない」あるいは「こちらの無知を笑う気構えすら面倒くさい」という、冷徹な計算の上の配慮なのかもしれない。
建物自体は硬質な大理石や石灰石を切り出して作られているが、扉や窓枠などの可動部分にはしっかりと木材が使われていた。
もっとも、使われているのはどれも厳選された高級素材らしく、ただそこにあるだけで周囲を圧倒するような重厚感を漂わせている。
歴史と権力の匂いがむせ返るような石の回廊を抜け、私たちはついに、その最高権力者たちが待つ部屋の扉の前に足を踏み入れるのだった。
重厚な木製の扉を押し開けると、広大な部屋の中央に置かれた大理石の椅子に、ふんぞり返るように腰を掛ける一人の男性がいた。
贅沢の限りを尽くしてきたのだろう、その体形は一目でそれと分かるほど見事な肥満体だった。
「――ようこそいらっしゃった。我が国の農政局で農政卿を務めておる、グージュルと言う」
低く響く声でそう言いながら、グージュルは巨体をよいしょと持ち上げ、私たちを迎え入れるように手を差し出し、自ら握手を求めてきた。
「ご丁寧にありがとうございます。日本国の如月商事から参りました、平内です。こちらは部下の田中です」
主任が恭しく頭を下げ、私もそれに倣って挨拶をする。差し出された太い手と握手を交わしながら、しかし――私の視線はどうしても、彼の背後にある椅子へと釘付けになってしまっていた。
なぜなら、グージュルが立ち上がったことで、それまで隠されていた「あるもの」が丸見えになってしまったからだ。
……確かになんとも荘厳で重厚な大理石の椅子だった。
しかし、その広大な座面には、どう見てもこの古代ローマ風の宮殿には似つかわしくない、フカフカとした『低反発のクッション』がポツンと敷かれていたのだ。
色といい、キルティングの縫製といい、あれは間違いなく日本や合衆帝国のインテリアチェーンで大量生産されている実用性重視の安価な大衆品だ……!
(見た目はどこまでも偉大な権力者なのに、お尻の優しさには勝てなかったわけか……)
必死に笑いをこらえながら、私は真面目な顔を維持するのに全力を注ぐ。
権威と実利がねじれにねじれたこの世界で、私たちの新しい商談がいよいよ幕を開けようとしていた。
交渉は、私たちの想像以上に和やかなムードで進んでいた。
私たちが一番最初に求めたのは『カカオ』だった。北海道の気候ではどれほど農業技術を駆使しても栽培は不可能だが、この世界にはカカオに相当する特産品が存在するという事前情報が、すでに帝国経由で入っていたからだ。
「なるほど、では事前に提示した関税や各種の諸税についても、そちらとしては問題ないという認識でよろしいか?」
「はい、左様でございます。その他、現地からの輸送につきましても当社の方で責任を持って手配いたします。詳細なプランはこちらの書類に――」
主任が淀みなく流暢な営業トークを繰り出し、私は隣でタイミングよく資料を取り出して差し出す。役割分担は完璧だった。
(……おいおい、拍子抜けするくらい順調じゃないか。これなら今日の夜は首都の美味いものでも……)
そんな風に油断した瞬間こそが、ビジネスにおいて最もフラグが立ちやすいタイミングだということを、私は身をもって思い知る羽目になる。
「ふむ……。では、カカオの生産にかかる人手や管理は、現地の『ボーゼル商会』に任せれば良いですな」
「……ほう。ボーゼル商会様でございますか。少々聞き慣れないお名前ですので、いったん社に持ち帰りまして、与信も含めて精査を――」
主任が営業スマイルを崩さずにそう返すが、おそらくは目の前にいるグージュル卿とズブズブに癒着している現地ブローカーなのだろう。だが、その程度の利権の絡みなら日本の商社でも日常茶飯事だ。問題は、その後に続いたグージュルの一言だった。
「うむ。あそこは『カカオ農奴』の扱いにかけては手際が良いからな。安心するといい。ちなみに、そちらがコーヒー豆も欲しがるなら、別の『農奴商会』の伝手を紹介することもできますぞ」
主任の笑顔が、わずかに硬直した。私も持っていた資料を落としそうになる。
「……失礼ですが、農政卿閣下。今、何とおっしゃいましたか?」
「ん? 農奴だが?」
のうど――文字通りの『農業奴隷』。中世や異世界を舞台にしたフィクションではおなじみの言葉だが、現代を生きる私たちにとって、それは実感を伴わない残酷な単語だった。
――そうだ。
合衆帝国は、あくまで「経済とインフラ」を支配しているのであって、現地の政治体制には基本的にノータッチを貫いている。
つまり、この国に根付いた奴隷制度を、帝国がわざわざ解体するなどおせっかいな真似をするはずがなかった。
日本の社内では、「帝国がインフラを整えたのだから、労働環境もそれなりに近代化されているだろう」という、極めて大雑把で都合の良い推測をベースに今回の買い付け計画が立てられていた。
(……日本政府の役人ども、事前調査をサボって大雑把な報告書だけ出しやがったな……っ!)
綺麗事のビジネスプランの裏で、ガリガリの人件費削減と搾取の構造が当たり前のように牙を剥く。
順調だった商談のテーブルは、一瞬にして冷や汗の滲む地雷原へと変わってしまったのだった。