一塁側から見た景色 1
「そいや小春ってさ」
昼休みの教室で、弁当を広げていた友人が小春に話しかけた。
「なにー?」
「底ノ尾くんといつから付き合ってんの?」
「いつから? ……うーん、いつからだろ……」
小春は口に運んだ箸を止めて、天井を仰いだ。思い返してみても、これといった区切りが無いように思えた。
「わかんないかも」
「えっ? マジ~? どっちから告白したとかないワケ?」
「んー……」
友人に問われて、小春は困ってしまった。二人で出かけたことならいくらでも思い出せるのに、『はい、今日から二人は恋人です!』なんて記憶は全くない。強いて言うなら、初めて手を繋いだ日? それだっていつか分からない。あるいは、キ――。
そんなことをずっと考えていたら、あっという間に時間は過ぎて下校時刻。午後の授業が終わっても答えは出ず、小春は野球部の練習が終わるのを待って、真英と一緒に学校を出た。
その帰り道、すっかり日の沈んだ通学路を、小春は真英と並んで、自転車を押しながら歩いていた。12月の空気は冷たくて、二人は息遣いを感じる距離まで肩を寄せ合った。真英はマフラーに顔を埋め、「さみ〜」と何度も呻いている。
小春はその様子に小さく笑い、ふと昼休みに友人から聞かれたことを思い出した。それを、隣の幼馴染にもそのまま聞いてみることにした。
「私たちって、いつから付き合ってた?」
「小学生からじゃない? いや、その前だっけ」
真英の言いたいことが、小春には手を取るように分かった。単に付き合う、関わりがあるという意味では、小学生どころか、その前からだ。たまたま家が近所で、いつの間にか公園で遊び始めて。正確な始まりなんて、お互いに覚えていないくらい。――というか、そういうことを言いたいわけじゃない。
「もー、そうじゃなくて」
すっとぼけたような返答をする真英の肩を叩いて、小春は口をとがらせた。
「――恋人同士ってこと!」
「あー、……いつだろ?」
彼も首をひねったのを見て、小春は安心した。ああ、まさくんも同じだったんだ。結局、いつからなのかは分からないまま、話は明日の練習が何時に終わるかに移っていた。小春も待っている間に済ませる宿題のことを考えながら、真英と帰る時間を決めていた。
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――でも、ずっとそういうわけにはいかないかもしれない。
小春がそれを初めて認識したのは、自身の進路を迷っているときだった。小春には、3つの進路希望があった。大阪、京都、そして東京の大学である。
京都、大阪なら地元・滋賀に近い。親元から通うことだって出来るだろう。でも、東京はどうだろう。小春には、そこはあまりにも遠い異国のように思えてしまった。そしてふと、まさくんはどうするんだろう、という考えが頭に浮かんだ。次にそれは、言いようのない不安に変わった。
その不安は日に日に、大きくなっていった。大きいといっても、心の中が少しモヤモヤする程度。寝られないほどではなかった。そして、高校最後の夏に向けて頑張る彼に向けて、大会が終わったあとのことを聞くなんてことは、小春にはできなかった。
聞けないままでも、日は勝手に過ぎ去る。小春は机に大学の案内を並べ、学部の紹介や授業の内容を読み比べるようになった。東京の大学についても、最初は遠いということばかり気にしていたのに、読んでいるうちに受けてみたい授業がいくつも見つかり、付箋の数が増えていった。
それから、京都と大阪の大学案内をもう一度開いた。こちらなら家から通えるかもしれないし、真英とも会いやすいだろうと考えたところで、小春はページをめくる手を止めた。自分が地元に残ったところで、彼までそうするとは限らない。このとき、小さなモヤモヤが、ついに現実味を持って小春の心の中をかき乱した。そして、居ても立っても居られなくなって、真英の部屋へ押しかけた。
押しかけたはいいが、彼の顔を見るとうまく言葉が口を突いて出てこない。支離滅裂に単語を並べ立てるだけで、彼にはほとんど何も伝わらなかった。いつの間にか、小春は彼の腕の中で泣いていた。そして、それ以降のことは定かでない。ただ泣き疲れて眠って、次に目が覚めたときには、彼のベッドの上だった。
身体を起こすと、机に向かっていた真英が振り返った。小春は自分に掛けられていた薄い布団と、彼の手元に開かれた野球雑誌を順に見て、どのくらい眠っていたのかを考えた。窓の外はもう暗い。小春は寝起きの気だるさを感じつつ、不安そうに口を開いた。
「……私、何か言った?」
「東京が遠いって」
それは確かに言った気がするが、そこへ来るまでに考えていたことを、どこまで話したのかは分からなかった。「うー」とうめいた小春は、彼のシャツの胸元に、いくつもの濡れたシミを見つけて、なんだか申し訳ない気持ちになった。ずいぶん困らせてしまったのだと思った。
「まさくん、卒業したらどうするの」
「うーん、決めてない。でも、大学でも野球したいな」
彼は手元の雑誌を掲げた。ふと、その表紙を見ると、全て英語で書かれている。表紙は投手の躍動感溢れるピッチングフォームを正面から写したもので、野球雑誌とすぐに分かる。小春の意識はなぜか、全部そっちに持っていかれてしまった。
「それ、英語の本?」
「これ? 父さんのやつ」
「ああ……。でもまさくん、読めるの?」
「ぜんぜん。雰囲気で読んでる」
真英はパラパラとページをめくり、目を落とした。小春は呆れたように笑い、立ち上がって一緒に雑誌を覗き込んだ。写真の脇にある短い説明なら、知っている単語を拾っておおよその意味は分かった。真英に聞かれて訳しているうちに、泣いたあとの気まずさも少しずつ薄れていった。
話しているうちに、二人はいつもの調子、距離感に戻っていった。そうして小春も、自然と切り出すことができた。東京の大学が面白そう、こういう分野に興味がある、等々。説明はところどころ曖昧になったが、話しているうちに、やはり遠いという理由だけで候補から外すのは惜しいと思った。
「――でも、今みたいには会えなくなるかも」
そこまで言って、小春は彼の胸元に残ったシミへ目を落とした。起きてからは普通に話せていた気がするのに、口にするとまた鼻の奥がつんとした。
「俺もそれはやだなぁ」
真英がそう答えたので、小春は顔を上げた。彼も困ったような顔をしていて、それを見たら、もう少しちゃんと話せそうな気がした。
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真英の高校最後の夏は、あまりにも早く終わってしまった。小春も悔しかった。彼がどれだけ努力をしていたかを、知っていたから。でも、時間は感傷や余韻にいつまでも浸るのを許してはくれなかった。本格的に、卒業後の進路を具体化するときが来たのである。
小春も彼の進路相談に付き合っていた。その中で真英が言い出したのは、関東圏の大学で自分も野球を続けられないかということだった。それを念頭に、真英は野球部の監督に、進学先として考えられる大学がないか相談してもいた。
「中村センセって、そういう相談にちゃんと答えてくれるの?」
「うん、実は。監督、大学は千葉なんだって。色々教えてくれたよ。雰囲気とか、強さとか」
「もっとテキトーな人だと思ってた」
「普段はね」
進学先には、千葉や埼玉の大学が候補に上がっていた。所謂有名私学からは一段落ちるが、大学野球としての環境は整っているそう。しかしそれから、候補を絞っていこうという夏休みのある日、真英から思いがけない話を聞かされた。
「えっ!? まさくんプロになるの」
「そういう気があるかって聞かれただけだよ」
最後の試合を見ていたプロ野球のスカウトから、監督に問い合わせがあったのだという。大学への進学を決めているのか、指名された場合には入団する意思があるのか。真英も、そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。指名されると決まったわけではない、と念を押されたが、小春には、彼がプロの候補として調べられているというだけで十分な衝撃だった。
「ま、まさくんってそんな凄かったんだ……!?」
「ひどいなぁ」
目をまん丸に見開く小春を見て、真英は笑みを浮かべた。
小春もつられて笑いかけたが、プロに入るのなら、自分の進学先の近くで野球を続けるという話は、どうなるのだろう。
「まさくんどこ行っちゃうの……?」
「聞いてるのは神奈川だけかな」
「神奈川……」
あ、近い。東京の大学からなら、いつでも会いに行けるかもしれない。そう思うと、小春はすとんと安堵したが、真英がプロになるかもしれないという話を、会いに行けるかどうかだけで受け止めていたことに気づいて、慌てて言い足した。
「あ! でもでも、ちゃんとお父さんたちや先生と相談しないと!」
「そうだね」
相変わらず真英がのほほんとしている一方で、小春はプロに行くかもしれない本人よりも浮足立ってしまっていた。この日から、真英が実際にドラフト指名を受ける10月までの間、小春の情緒はとんでもない乱高下を描くことになった。
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ドラフト会議の目玉は二巡目程度までで、あとは地上波で放映しないらしい。
そのことに小春はなんとも言えない憤りを感じたが、幸いなことにそれ以降はインターネット中継がある。底ノ尾家のリビングには、真英とその両親の他には、小春しかいなかった。
中継に映っていた、会見場まで用意されているらしいドラフト上位候補と比べると寂しいものがあったが、当の真英は相変わらずマイペースで、全然緊張していないみたいだった。父親はガチガチに緊張して、椅子に縫い付けられたみたいに動かない一方、母親は電話でママ友らしき相手と朗らかにお喋りしている。
まさくんはちょっとお母さん似だよね、なんて考えながら、小春は本人以上に緊張していた。いつ呼ばれるんだろう。本当に呼ばれるんだよね? 隣に座る彼の手をギュッと握りながら、そわそわと落ち着かない。
どれくらい経っただろう。待ち疲れて意識が遠のき始めた頃、不意に真英の名前が呼ばれた。
「うおおっ!」
「ひゃあっ」
叫び声を上げたのは父親だった。飛び上がるように立ち上がって両手を突き上げる。
それにビックリして、小春は思わず真英に抱きついていた。キッチンの方にいた母親が、雄叫びを聞いて顔を出す。
「あら、呼ばれたの?」
おかしなテンションになっている父親に困惑している真英。そして、慌てて真英から離れて取り繕う小春。その二人を見た母親は、おかしそうに微笑んだ。