大学に入ってから、新しい生活に慣れようと毎日を過ごしているうちに、気づけば夏になっていた。
三月末、入学前に観に行った開幕戦で、思いがけず真英の登板に立ち会えたことは、小春にとって心強い出来事だった。大勢の観客の前で投げる彼の姿を思い出すと、自分も新しい場所で頑張っていこうという気になれたのだ。
ただ、思い描いていたほど二人の時間は取れなかった。真英の入団したブルーウェーブズの本拠地は神奈川にあっても、遠征で留守にすることが多く、小春にも授業や課題がある。とはいえ、予定さえ合えば会いに行ける距離にいることは、やはり安心につながっていた。
初めは心細かった一人暮らしにも少しずつ慣れ、授業のあとに食事をしたり、他愛のない話をしたりする友人もできた。真英の話になったのも、そんな友人たちと大学構内のカフェで、次の授業までの時間を過ごしていたときだった。
「そいやコハルって彼ピいるんだっけ」
向かいに座る茶髪ギャルの
「いるよー」
「何してるひとぉ?」
「野球選手」
「え、すごっ!」
千早が目を丸くする。小春が頷くと、隣で話を聞いていた
「も、もしかして、ぷ、プロだったり……」
大きな眼鏡の奥から、おずおずと小春の顔を窺っている。
「うん、まあ、一応?」
「ひょわっ」
妙な声が漏れ、夏海は自分の口を押さえた。小春と千早が顔を見合わせる間にも、何か聞きたそうに身を乗り出してくる。
「さ、さしつかえなければ、誰か教えてもらったりとかぁ……」
「えーとね、神奈川の底ノ尾っていうんだけど……」
「ひょわあ~~~~」
今度は口を押さえるのも忘れたらしく、近くの席から視線が飛んできてしまう。千早が夏海の顔を覗き込んだ。
「どしたん、なっつん」
「あのですねえ……底ノ尾選手は神奈川の救世主でぇ……高卒ドラ7にも関わらず開幕一軍かと思えば開幕戦で好投してそれ以降一軍に定着してて、それからなんと後半戦からは先発ローテーションに入ったんですよぉ……これはすごいことなんですよぉ……」
口を挟む隙もない。夏海はテーブルに両手と胸を置き、二人の顔を交互に見ながら、それがいかにすごいことなのかを懸命に伝えようとしている。千早はしばらくぽかんと聞いていたが、やがて納得したように頷いた。
「なっつんって野球ファンだったんだ??」
「アッ!」
夏海は急に背筋を伸ばすと、乗り出していた身体を引っ込めた。そのまましおしおと俯き、カップに添えた指でふちをなぞり始めたが、千早は気にする様子もなく続けた。
「えー、いいじゃん! もっと早く言ってくれたらよかったのに! せっかくだし小春の彼ピが投げるところ狙って見に行こーよ!」
「えっ?」
今度は小春が驚く番だった。千早はもう鞄からスマートフォンを取り出していて、夏海も顔を上げている。二人とも小春の返事を待っているので、こくこくと頷いた。
そんなわけで、三人は神奈川で行われる試合を見に行くことになった。
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「負けちゃいましたねえ……」
「うん……」
試合後の帰り道、三人は球場から駅へ向かう人の流れに交じって歩いていた。今日の神奈川対神戸の一戦は、0対10で神戸の勝利に終わった。先発の真英は神戸打線を7回2失点に抑えたものの、打線の援護はなく、降板後にリリーフが大炎上するというお決まりの展開で、隣を歩く夏海は、応援に使っていたタオルを手に乾いた笑いを浮かべている。
「ノーアウト満塁……点が入るはずもなく……」
「……あれは酷かったね」
「ンキイイイィーーー!」
「気を確かに……!」
試合前と比べると心なしげっそりと見える夏海の肩を、小春はさすってやった。小春自身も、最後に見たスコアボードを思い出してため息をついたが、初観戦の千早は、二人とはまるで違う感想を抱いたらしかった。
「はー! ありえん! カッシーかっこよすぎか?」
球場を出てからというもの、千早は何度もスマートフォンで撮った写真を見返していた。差し出された画面を小春が覗くと、守備位置についている柏田が、小さいながらもしっかり真ん中に収まっている。真英を応援しに来たはずが、すっかり柏田ファンになっていた。
「んへ、千早ちゃんが楽しかったならよかったですよぉ……」
試合には負けたが、千早の反応を見て夏海の機嫌が戻ってきた。まったく野球を知らなかった友人を、こちらの世界へ引き込めそうだからだろう。
「それで、どこがよかったですかぁ?」
「守備! バシってとってシュバッ!ってとこってゆーか?」
千早はスマートフォンを持つ手を下げ、空いた手をグラブのように広げた。腰をかがめて打球を拾う真似まで始めた。しゅっ、と口でいいながら、スマートフォンを持つ手をサイドスロー。試合中、柏田が幾度もこなした動作だった。ちょっと目の付け所が玄人だな、なんて、友人の新しい一面を見て小春は笑う。
「あ、それわかりますよぉ」
夏海も顔をほころばせ、千早の隣から画面を覗き込んだ。敵チームの選手でも、あの守備に華があるのは文句のつけようがない。タオルを鞄へ押し込みながら何度も頷いていた。
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法律を学ぶ、と一口に言っても、学生がみな法曹の世界を目指しているわけではない。小春自身を含め、卒業後の進路は様々だ。
では、自分はどうするのか。『大学で学んだ知識を活かせる職業』には就きたいが、まだ具体的には決まっていないのが現状であった。友人たちも似たようなもので、時折、雑談の中で、今学んでいることがどんな仕事に繋がるのかを話すことはある。
そんな中で、小春が興味を惹かれる出来事があった。冬になり、プロ野球はオフシーズンに入っていた。野球関連では、契約更改の話題がニュースを賑わせている。
「なっつん、何見てんの?」
熱心にスマートフォンの画面に目を落としている夏海を見て、千早が覗き込んだ。
「あ、カッシーだ」
「柏田選手の契約更改記事ですねえ」
「おー……すご、300%アップて」
「新人王ですからねぇ」
二人のやり取りを聞いていた小春は、そういえばまさくんはどうだったのかな?と、ふと思ったが、すぐに答えが返ってきた。
「お、コハルの彼ピは倍増だって!」
柏田の記事の下部に、小さく貼られていたリンクをタップしながら、千早が声を上げる。
「気前いいじゃん」
「元がひく……あ、なんでもないですう」
言いかけて、夏海は慌てて言葉を飲み込んだ。小動物みたいに小春の顔をうかがう。その様子がおかしくて、つい小春は吹き出してしまった。
「ふふ。いいよ、言っても」
「ごめんなさぁい……」
「なっつん?」
「えっとぉ、底ノ尾選手は下位指名入団だったので元の年俸も低いんですよぉ。だから、聞くほど増えた金額は大きくないっていうかぁ……」
「あーね?」
千早は納得したようにもう一度画面に目を落とした。
「これ交渉自分ですんの? 大変じゃね?」
「代理人を立てる人もいますねえ。記事でよく見るのは、揉めてるのばっかりですけどぉ……」
「アハハ。まーでも、それが代理人の仕事っしょ?」
「そうかも、ですねえ」
二人の会話を、小春は黙って聞いていた。代理人、つまり、契約のプロフェッショナル。選手が直接交渉するのではなく、彼らを立てて球団と交渉するのだという。
「契約のお話は、サッカーとか、あとはアメスポ全般も面白いですよぉ」
「へえ~なっつん、幅広いね」
千早と夏海の会話は、いつの間にか海外にまで飛躍していた。小春は、真英がいる世界と自分の学んでいるものが、重なった気がした。
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年末年始を過ごすために地元へ戻った小春は、真英がどれほどおかしなことをしているのか、東京にいるときよりもよく分かった。同級生や親戚、果ては近所の人にまで、真英のことを聞かれることが多いのだ。
真英と一緒に行った初詣では、地元の友人と再会し、寒空の下で話し込んでしまった。真英は野球部の友人たちに囲まれてプロ野球の話で盛り上がる一方、小春は東京の暮らしについて根掘り葉掘り聞かれていた。「渋谷ってどんなところ?」「新宿ってやっぱすごい?」なんて、小春自身大して詳しくもないことを聞かれて答えに窮する場面もあった。やがて互いの恋人の話題に移り、小春に至っては当たり前のように『いつ結婚するのか』を聞かれていた。
友人たちと別れ、真英と二人になった小春は、先ほどの話をした。
「いつ結婚するの~って聞かれちゃった」
「いつする?」
「卒業したらかなあ」
「おっけー」
気安い会話をしながら、二人は帰路を歩いた。家に帰ればおせち料理が待っていて、テレビでは駅伝を流しながら、しばらくだらだらと過ごすことになる。
「まさくんは、いつまでこっちにいるの?」
「二週間くらい。柏田くんに自主トレ誘われたから」
「へー、柏田くんと。……別チームなのにいいんだ?」
「うん。みんな、そういうの気にしてないみたい」
「そうなんだ」
「小春ちゃんは?」
「わたしは授業が始まっちゃうなあ……」
話しながら歩いていると、真英が不意に歩調を緩めた。
「そういえば、さっき聞きそびれちゃったけど」
「なあに?」
「弁護士以外の仕事って何?」
さっき、というのは、初詣の列に並んでいた時の会話のことらしい。小春が法律を学んでいることを、真英は彼女が弁護士になるのだと安直に考えていたのだ。
「今は契約の仕事に興味あるよ。まさくんもしてるでしょ、契約」
「してる。……説明されてもよくわからなかったけど」
「んもう」
小春は真英の肩を、てしてしと叩いた。
「しっかり見ときなー?」
「うーん……小春ちゃんに見てもらおうかなっ」
「まさくんはさあ」
小春は呆れたような声を出したが、真英と顔を見合わせ、笑いあった。
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小春の頭の片隅にはいつからか、真英に言われた何気ない一言が置かれるようになった。
『小春ちゃんに見てもらおうかな』
彼からすると、高校以前からよくあったような、勉強でわからないところを教えて欲しいと言うような、気安いお願いなのかもしれない。そうやって気軽に甘えてくれることに、小春は嬉しさを感じた。
それからというもの、日々学んでいく中で、野球ではどうなんだろう、という考えが常にチラつくようになっていった。
プロ野球のシーズンが開幕すると、真英の成績が気になり始める。データフリークでもある夏海に、やけに充実している各種指標の意味を教わったりもした。数字を通して見る野球は新鮮で、小春は真英の凄さを再認識したが、結果は伴わなかった。神奈川ブルーウェーブズは開幕から負け続け、それに比例するように夏海の様子はおかしくなっていく。
「そろそろ打ち始めるはずですからぁ……」
「統計上?」
「願望ですぅ!」
「あは、あはは……」
小春も千早も、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。春先はまだ元気があった夏海も、ゴールデンウィーク頃には死んだ目をすることが多くなり、口から魂が抜けてしまうような有様だった。
「大丈夫ですぅ。いつものことですからぁ」
慣れているから、ともはや諦観の表情の夏海。夏が過ぎても状況は改善せず、チームの崩壊に巻き込まれるように、負けの数字が積み重なっていく真英を見るのは、小春も心苦しかった。チームのファンである夏海は、もっと苦しかったに違いない。
そんな状況もあって、真英と会う時は、野球の話になることは多くなかった。しかしチームが100敗、真英自身もシーズン最後の登板で15敗となった後に会った時は、さすがの彼も堪えたのか、いつもより甘えん坊だったことに小春はなんだかイケない感情が芽生えそうになってしまった。
「まさくん、大丈夫じゃなさそうだね」
「うん、しばらくこのままで」
黙って互いの体温を感じていると、真英が不意にぽつりとつぶやいた。
「もっと練習しないと」
「無理しちゃだめだよ?」
小春が思い出すのは高校時代だ。頑張りすぎだからと映画デートに連れ出したら、隣で爆睡していたことを今でも憶えている。
「大丈夫。ちゃんと寝れてるし」
「……そういうことじゃなくてね?」
「ん、でも他の人より練習しないと、勝てないから」
そう言われると、何も返せなかった。今の真英は野球が好きな高校生ではなく、プロの野球選手なのだ。以前のように、たまには休もうと遊びに連れ出すだけでは、彼の気持ちは楽にならないのかもしれない。頑張りたい気持ちは分かるし、応援もしたかったけれど、疲れた顔を見るたびに無理をしないでと繰り返すだけでは、小春自身ももどかしかった。こうして甘えてくれるのは嬉しいが、ほかにも何か、自分にできることはないだろうか。
「私、まさくんの役に立てる?」
「うん。ずっと側にいて」
「あはっ、いいよ」
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それから、小春には明確な目標ができた。真英の代理人として働けるようになりたいと思うようになったのだ。
調べてみると、知らなければならないことが、次から次へと出てきた。契約の知識に加えて、野球の制度や選手の評価についても学ばなければならない。大学を卒業したら、まずは法律事務所で実務を学び、いずれは公認代理人として登録することを目指す。そのために、どんなところで働けば経験を積めるのか、どんな資格が必要か、仕事と勉強をどう両立させるのか。卒業までにできることも含めて考え始めると、大学生活はまだ半分以上残っているのに、そうのんびりもしていられない。
真英の役に立てたら、という気持ちで調べ始めたはずが、気づけば彼には当面関係のなさそうな海外の事例まで調べており、小春自身、かなり没頭してしまっていた。同じ選手を評価するにも、球団と選手側では持ち出す数字が違い、契約金額だけでは条件の良し悪しも分からない。記事を読んで疑問が湧くたびに別の資料を探し、分からない言葉を書き留めていると、いつの間にか時間が過ぎていた。
将来の計画の中には、真英との暮らしも入っている。卒業したら結婚するという話はあっさり済んだのに、そのあとの仕事や勉強については、考えることが随分と多い。自分も忙しくなれば、彼が帰ってくる日に試験があったり、せっかく休みが合っても本を広げていたりするかもしれなかった。そんなときは、まさくんにも付き合ってもらおうと小春は思った。隣にいてほしいのは、こちらも同じなのだから。
小学生の頃からずっと、小春は一塁側で真英を見ていた。野球のことがよく分からないまま応援しはじめたけれど、彼が投げる度、そして目が合うたびに胸が高鳴った。今では、試合が終わったあとの彼に、自分の学んだことを役立てられるようになりたいと思っている。
そこまでには、まだ何年もかかるだろう。一塁側からずっと見てきた彼を、これからは隣でも支えていけるように、小春はまず、自分が学ぶべきことを一つずつ書き出していった。
〈一塁側から見た景色 了〉
次章は別の人物視点の話です