とあるジャーナリストのスポーツコラム
甲子園出場なし、全国的にはほぼ無名。ドラフトでも指名されたのは7巡目だった。その高校生が、のちに海を渡り、メジャーを代表する投手になると誰が想像しただろうか? まだ誰も底ノ尾真英の名前を知らなかった頃、偶然その投球を見ることになった筆者が、稀代の左腕の出発点を振り返る。
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私が
当時、柏田は中学時代から県内では知られた選手で、1年生で既にショートのレギュラーとして夏の大会を戦っていた。甲子園出場はならなかったが、夏を終えてじわじわと全国区にも名前が広まり始めた頃だ。私が滋賀県の
その時点で、既に守備の評判が特に高く、打撃にも非凡なものがある。ドラフト候補というには少々気が早いが、一度見ておいて損はない選手だと聞き、私は滋賀まで足を運んだのだった。
取材を終えたあと、雑談のつもりで聞いた。
「このへんで、いい選手はいる?」
柏田は考える素振りも見せず、逆に質問してきた。
「底ノ尾って知ってはります?」
「そこのお? 知らないなぁ。どこの高校だい?」
「
その時点では、底ノ尾が前田高校にいることを、柏田は人づてに聞いた程度だったらしい。あいにくと、私はその高校の名前にもピンとこなかった。ただ、あえて名前を挙げるからには何かあるのだろう。そう思って質問を続けたが、柏田の答えは「とにかく打ちにくい」という、なんとも反応に困るものだった。
もっと詳しく聞いてみると、中学時代の練習試合で何度か対戦したことがあるのだという。球速が特別あるわけではない。大きく曲がる変化球を持っているわけでもない。それなのに、どうもうまく打てなかったらしい。こちらが「フォームが見づらいのか」「制球がいいのか」と理由を並べても、柏田はどれにもはっきりとは頷かなかった。
「ええピッチャーやと思います」
打者の感覚というものは厄介だ。記者がバックネット裏から百球眺めても分からないことを、打席に立った選手は一球で感じ取ることがある。反対に、単にその打者だけが苦手にしているということもある。その時の私は、後者ではないかと思った。
だが、一応は気にしておこうと思ったのだろう。当時の取材ノートには、片隅に『そこの、まえだ』と小さく走り書きのメモが残っている。ご覧の通り、恥ずかしい話だが、この時点の私は名前すらちゃんと把握できていなかった。
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せっかく滋賀まで足を運んだのだから、柏田一人を取材して帰るのももったいない。私は地元の記者に連絡し、面白そうな学校や選手はいないかと聞いて回った。
その中で、前田高校の名前が出てきた。県立の、ごく普通の野球部だという。ただし、2年生に140キロを超える球を投げる選手が二人いるらしい。
十分に目を引く数字だった。当時は今以上に、高校生の140キロという数字にニュース性があったし、それが同じ学校に二人もいるとなればなおさらである。私はてっきり、そのどちらかが柏田の言っていた『そこの』なのだろうと思った。
翌日、私は前田高校を訪れた。
ところが、この日の取材で一番記憶に残っているのは、底ノ尾でも、140キロを投げる二人でもない。当時、野球部の顧問をしていた中村監督のことである。
私が東京から来たと知ると、中村監督は「こんなところまで?」と大げさなくらい驚き、わざわざお茶を出してくれた。浅黒く焼けた顔には細かな皺が刻まれていて、話し始めるとよく笑う。最初は選手について二、三質問するだけのつもりだったのだが、気づけば私はグラウンド脇で、中村監督と並んでずいぶん長いこと練習を眺めていた。
そこで気になったのが、守備練習の長さだった。特別に守備のうまいチームには見えなかった。ノックを受ければトンネルをしたり、正面に近い打球を弾く選手もいる。だが中村監督は、ミスをしたからといって練習を止めて何かを言うわけでもなかった。時折「腰を下げろ」「目を切るな」などと声を飛ばすくらいで、根気よくノックを続けていた。
「守備練習が多いですね」
ベンチに座って休憩している中村監督に、私がそう言うと、中村監督は「そりゃね。守備はやればうまくなるんだから」と当然のように答えた。
「打つほうは?」
「そっちは難しいですよ。打てない奴は、なかなか打てない」
ずいぶん身も蓋もない言い方をする人だと思ったが、その点については私にも異論がなかった。長く高校野球を取材していれば、同じだけ練習しても、選手が同じように伸びるわけではないことくらい嫌でも分かる。いくら振り込んでも、誰もが長打を打てる身体になるわけではない。投手なら、努力した全員が140キロや150キロの真っ直ぐを投げられるようになるわけでもない。
その点、守備は繰り返したぶんだけうまくなる――それが中村監督の考えだった。捕球から送球までの一連の流れを体に染み付かせる。今は下手な一年生でも、三年続ければ目に見えて変わるという。
「それにね、エラーひとつで人生変わることもありますからね」
中村監督は、少しだけ真面目な顔になった。
「最後の夏だったら、それで終わることもあるんですから」
言いたいことは分かる。最後の夏、一つのエラーで試合が終われば、その先にあったはずのものまで全部なくなる。だから、少しでもエラーを減らすために守備を繰り返すのだろう。私はそう受け取った。
だが、中村監督の言いたいことは少し違ったようだ。
「大事なところでエラーしたときにね、もっと練習しとけばよかったって思うより、あれだけやって駄目だったなら仕方ないって思えるほうがいいじゃないですか。終わったあとにね」
私はその言葉が妙に気に入ってしまった。
そこからは、野球の技術論よりも、どういうつもりで高校生を指導しているのかという話ばかり聞いていた。前田高校には毎年、野球のうまい子ばかりが入ってくるわけではない。それでも三年間やるのなら、何か一つくらいは入学した頃より上手くなって卒業してほしい――中村監督は、そんな話をしてくれた。
気づけば、私は取材に来たはずの選手たちをほったらかしにしていた。ようやく本来の目的を思い出したのは、練習も半ばを過ぎた頃だったと思う。
「そうだ。投手がいいって聞いてきたんですよ」
「ああ。まあ、球は速いですよ」
中村監督の返事は、妙にあっさりしていた。私は、もう少し自慢げな反応を想像していたのである。そこで実際に見せてもらえないかと頼むと、中村監督は二人をブルペンへ向かわせた。
ピッチングを見てみると、二人の球は確かに速く、地元記者の情報に誇張があったわけではなかった。ただ、何球か見ているうちに、中村監督の口ぶりの理由がわかってきた。
一人は躍動感があり、勢いよくキャッチャーミットを響かせるものの、毎回フォームがバラバラで、高めに浮いたり、手前でバウンドしたりと、コントロールが定まらない。聞けば本職は外野手だという。試合の途中で、外野から走ってきてマウンドに上がるタイプの選手であった。
そしてもう一人は本職のピッチャーで、エースであるという。確かに投げている球は速いが、どこかフォームがぎこちなく、私が見ている間に球がすっぽ抜けることも一度や二度ではなかった。私は彼が怪我を庇っているのではないかと直感し、思い切って中村監督に聞いてみたのだが、答えは半分あっていた。彼は中学時代に大怪我をして以来、あのような投げ方なのだという。なるほどと思うと同時に、彼が無名の県立校にいる理由も、取材をしていくと明らかになった。怪我を理由に、強豪校への進学を諦めたのだというのだ。
さて、実際に見てみると、事前に想像していたような二枚看板ではなかった。二人とも140キロを投げる、という話そのものに間違いはなかった。ただ、私は数字を聞いただけで、勝手に強力な投手が二人いるものと思い込んでいたのである。
しかし、私は二人の名前を中村監督に聞いて、簡単な特徴と一緒にノートに書き留めた。そして、そのどちらもが底ノ尾ではなかった。その日の記録を読み返して、記憶を辿ってみても、私は底ノ尾について何も聞いていなかったようだ。今思えば、『そこの』と間違えて記録していた私が中村監督に尋ねたところで、話が通じたかどうかも怪しい。失礼を承知で書くが、中村監督は選手を特徴で覚えるタイプで、顔は分かっても底ノ尾と『そこの』が一致しなかったかもしれない。
こうして私は、前田高校まで足を運んだのに、底ノ尾真英という後の大投手を見ることなく帰ってしまった。
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私が底ノ尾を『再発見』したのは、翌年の夏だった。別件で滋賀県大会の取材に訪れていた私は、その日たまたま、前田高校が試合をしている球場の外にいた。そこで場内アナウンスから『そこのお』という名前が聞こえてきたのである。確かその時の私は、「なんか聞き覚えがあるな」と妙に引っかかって、スタンドに足を運んだのだったと思う。
スコアボードを見れば、前田高校の名がある。そういえば以前に一度取材した学校だったと思い出し、ノートをめくった。攻守が代わり、前田高校の選手たちがグラウンドに出てくる。マウンド上にいるのは、当時取材した投手ではなかった。線の細い左ピッチャーが投げており、スイスイとテンポよく投げ、打たせて取るピッチングで白熱した投手戦を展開していた。
彼は誰だったか?と取材ノートを睨んでいたら、ようやく隅っこに『そこの』という記述を見つけ、同時に柏田の言葉も思い起こされた。私は走り書きの横に、今度はきちんと彼の名前を書き加えた。 取材ノートにはようやく『底ノ尾』という正式な名前が書き込まれたのである。
ただ、私はそこで底ノ尾に何か光るものを感じたわけではなかった。観戦もそこそこに、次の用事のために席を立ってしまった。だが面白いことに、この日の話には続きがある。私は移動先で、ある人物と会っている。当時、神奈川ブルーウェーブズでスカウトをしていた定原慎二だ。彼に、底ノ尾の話をしたのである。たしか、滋賀で注目している選手の話になり、私は柏田がやはり良い、という話をした。そのついでに、彼も知らないだろうと取材成果を披露するつもりで言ったのだと思う。
「そういえば、柏田が苦手なピッチャー、って名指しで挙げた選手がいましてね」
「へえ、名前は?」
「底ノ尾っていう。前田高校の左ピッチャーなんですがね」
彼は一度名前を口に出し、手帳に書き留めた。少なくとも、定原が底ノ尾という名前を知ったのは、このときだったはずである。このとき私が話したのは、ほとんど柏田から聞いた内容だった。それでも、のちに底ノ尾を指名する球団のスカウトの手帳に、偶然とはいえ彼の名前が書き込まれたことになる。こういうことがあるから、この仕事は面白い。
また、定原には、ドラフト後に話をする機会があって、底ノ尾の指名につながった経緯を尋ねたことがある。私から名前を知ったあと、すぐに調べたのかと聞けば、返ってきたのは「いや、実際に初めて目にしたのは3年の夏でした」と。
果たしてその時、彼は底ノ尾に何を感じたのだろうか? 私にもわからない。ただ、定原がどんなスカウトだったのかは、その後の仕事を見ればある程度わかる。
後にスカウト部長となった彼の指名歴を振り返れば、選手を見る目が確かだったことは疑いない。細田、宇田野ら、彼が編成の中心にいた時代に獲得した選手たちは、のちの神奈川スターナイツをリーグ上位へ押し上げる原動力になった。