さて、底ノ尾という投手を語るうえで、避けては通れない話題がある。
『10勝しても10敗する投手へ、エース級の契約は出せない』
底ノ尾の海外移籍の発端となったとされる、当時の編成本部長の発言である。これが『10勝しても10敗する投手はいらない』と報じられて、大きな批判を浴びた。
『エース級の契約は出せない』と『いらない』では意味が違う、発言の一部を切り取った報道だ、本部長の真意とは異なる、という説明には一定の理解を示せる。しかし、発言が元の表現のまま報じられていたとして、その後の残留交渉に及ぼす影響は、それほど変わっただろうか。底ノ尾サイドやファンに生じる不信に、大差はないのではないか。どちらにせよ炎上していたと思う。
ただ、私はこの一件を、彼一人の失敗として片づけることには違和感がある。擁護したいわけではない。当然、彼自身の責任は大きい。あの発言はあまりにも脇が甘く、底ノ尾が海外FA権を取得した直後という時期を考えても、編成の責任者として不用意だったと言わざるをえない。
さて、本題は彼への批判ではない。ここで考えたいのは、球団のありかたそのものについてだ。球団文化と言い換えても良い。
彼はもともと球界の外から招かれた人間だった。長く低迷していたブルーウェーブズを変えるために親会社が連れてきた改革者であり、球団内に長年の人脈や後ろ盾があったわけではない。そうした人物に大きな権限を与えるのであれば、支えるのは本来、彼を招いた側の役目だったはずだ。
まして問題の発言は、親会社の幹部も交えた会議の中で出たものだ。彼が酒席で記者に漏らした失言ではない。底ノ尾がこの球団にとってどういう選手なのか。九年間、休むことなく投げ続けてきた選手と、どのような形で別れるべきなのか。そこを考えるべき人間は、編成本部長のほかにもいたはずである。
底ノ尾の流出そのものは、ある程度まで既定路線だったのだと思う。当時の底ノ尾の推定年俸は、ブルーウェーブズ内の上位三人には入っていたとされる(7年目オフに結んだ、推定二年総額三億円+出来高の契約)。
契約当時は前年からの大幅増として報じられたが、それでも稼働実績に対して安いという声は少なくなかった。しかもその後、底ノ尾は浮き沈みなく二年間を投げきったため、さらに割安感が強まっていた。
編成は難しい舵取りを強いられたはずである。年俸二億〜三億円の複数年契約を提示する余力が、当時の球団にどれほどあったかは分からない。かといって再建と戦力維持の両天秤で、現状維持か僅かな上積みで残すとなれば、大きな批判に曝される可能性がある。何もせずに他球団へ流出ともなれば、目も当てられない事態だ。少なくとも、契約の打診によって引き止める意思を見せる必要はあった。
だが、例の発言が表に出たことで、問題は契約条件だけでは済まなくなった。球団に出せる金額の限界があることと、9年間の貢献をどう評価しているかは、別の話である。条件が折り合わずに別れるのであれば、互いに感謝を伝える余地はあったはずだが、あの発言は、その余地まで狭めてしまった。
私が言いたいのは、もっと円満な別れはあったはずだということである。球団にも編成上の事情があり、底ノ尾の希望する条件をすべて受け入れることは難しかったのかもしれない。それでも、9年間チームを支えた働きを認め、退団が決まれば新天地での活躍を願って送り出すことはできたはずだ。ファンにとっても、球団への怒りや失望を抱えたまま見送るより、別れを惜しみながら、その挑戦を応援できる方がよかっただろう。
それができなかったところに、当時のブルーウェーブズという球団の問題が如実に表れていたように思う。そして、その編成本部長による改革も、二年を待たずして頓挫することになる。
「改革に必要なサポートを十分に受けられなかった」
更迭後、彼は新聞記者の取材にそう語っている。当時、この発言は凄まじい批判を浴びた。結果を残せなかった責任者が、自らの失敗を組織のせいにしている――そう受け取られたのである。
私も、それを額面通りに受け取るつもりはない。彼自身の判断に問題がなかったわけではないし、改革が失敗した責任をすべて親会社に押しつけることはできないだろう。この発言からもお分かり頂けると思うが、例の失言は出るべくして出たものだったようだ。
しかし一方で、当時のブルーウェーブズには、誰かに改革を任せたあと、その改革を組織として支える仕組みがなかったのではないか。実際、この球団では長い低迷の間に、何度も改革が繰り返された。監督が代わり、編成の責任者が代わり、そのたびに新しい方針が掲げられた。長期的な編成よりも、目の前の不足への対応が優先されていたように見える場面もあった。
底ノ尾が入団した当時のドラフトにしてもそうだ。彼が指名された年、ブルーウェーブズはドラフト1位から7位まで、すべて投手を指名している。当時の投手陣が壊滅的な状態にあったことを考えれば、その意図は分かる。とにかく投げられる人間が必要だったのだろう。そして結果だけを見れば、その7位から底ノ尾という投手を掘り当てたのだから、失敗だったと断じることもできない。
だが、そうした場当たり的な処方箋でやりくりすることを繰り返す球団が勝てるようになる道理など、プロ野球の世界にはないのだ。底ノ尾の流出、それに続く改革の失敗――とかくそれらが球団衰退の決定打として話題にあがるが、それだけではない。
私がとりわけ問題だったと考えるのは、当時のスカウト部長、定原の解任人事である。
定原慎二については、すでに触れた。私が高校時代の底ノ尾について話した相手であり、その後、実際に彼を視察し、ドラフト指名へとつなげたスカウトである。
当時の定原は、まだ球界で名前を知られた存在ではなかった。底ノ尾の指名は、そんな彼の評価を大きく変えるきっかけになった。その後も、他球団がほとんど注目していなかった高校生や大学生、社会人の中から、一軍で戦力となる選手を何人も見つけている。
定原の仕事が単なる一度の幸運ではなかったことは、その後の仕事が示している。彼はやがてスカウト部長にまで昇進した。派手な肩書きを持つ選手や、分かりやすい身体能力だけを追いかけるのではなく、その選手がプロで何を武器に生き残れるのかを見る。底ノ尾は、その考え方が最も極端な形で成功した例だったのだろう。
細田や宇田野も、定原が編成の中心にいた時代に獲得された代表的な選手たちである。細田に関しては、甲子園で活躍したとはいえ、即戦力候補を差し置いて一本釣りしたことには当時、懐疑的な見方もあった。しかし、結果は歴史が証明している。
一方の宇田野に関して言えば、高校を卒業後メキシコリーグでプレーし、帰国後は独立リーグでプレーするという異色の経歴である。彼がドラフト9位で指名された時、後に色々な意味でスタジアムを沸かすような選手になるとは、誰が予想できただろうか。
ほかにも定原の目に留まり、ブルーウェーブズの一軍へたどり着いた無名選手は少なくない。彼らの何人かは、ブルーウェーブズという名前が消えたあとまで現役を続け、神奈川スターナイツがリーグ上位へ進出する際の土台となった。
つまり、ブルーウェーブズにも何もなかったわけではない。長い低迷の中でも、時間をかけて選手を見つけ、育て、次の世代へつなげようとしていた人間はいた。定原は、その数少ない一人だったのである。その定原までが、改革の名のもとに球団を去ることになった。
外から改革者を呼んで大鉈を振るわせながら、その改革を支える責任は誰が負っていたのか。この球団は何を残し、何を積み上げようとしているのか。いったい、この球団をどこへ連れていきたいのか。当時の経営陣からは、それが全く見えなかった。さらに皮肉なのは、ブルーウェーブズ消滅後のことである。
吸収合併によって神奈川スターナイツが誕生し、新たな体制で球団を立て直すことになったとき、定原は再び神奈川へ呼び戻されている。新しい球団社長が頭を下げてまで戻ってもらったのだというから、少なくとも、新しい経営陣は、前の体制とは違う評価を定原に与えていたことになる。
後世の結果を知っているからこそ言える話ではある。定原を残していればブルーウェーブズが強くなった、などと単純なことを言うつもりもない。ただ、今振り返れば、この人事には、ブルーウェーブズという球団が長く低迷した理由の一端がよく表れているように思う。
何かを変えようとするたび、それまで積み上げてきたものまで一緒に捨ててしまう。新しい方針を掲げては、結果が出る前にまた別の方角へ舵を切る。その繰り返しだったのだ。
チームは低迷を続け、親会社はやがて球団保有そのものを見直すようになった。そして底ノ尾が海を渡ってから数年後、ブルーウェーブズは他球団との吸収合併によって姿を消し、神奈川スターナイツとして再出発することになる。
底ノ尾の流出も、編成本部長の改革失敗も、定原の解任も、それ一つで球団の行く末を決めたわけではない。編成本部長の発言を振り返るとき、私が彼一人への批判では足りないと考えるのは、その陰で球団自身の責任が軽んじられているからである。