第一話 君と過ごす日々・春
窓を開けた途端、雑巾の端がホタルの手を離れ、外へ向かってひらめいた。
慌てて窓枠へ押さえつけると、濡れた指を風が冷やしていく。つい肩をすくめたものの、すぐに閉めてしまうのは惜しかった。向かいの屋根にはまだ雪が残っている。けれど、軒先から落ちる雫の音は朝よりも賑やかで、その下の石畳には、小さな緑が顔を出していた。昨日ここへ来た時には、荷物ばかり見ていて気づかなかった色だ。
「……春なんだね」
口にしてみると、もう少し外の空気を吸っていたくなる。ホタルは窓枠を端から拭き、埃の下から現れた明るい木肌へ指を滑らせた。手を入れたところから、少しずつ自分たちの住まいになっていく。
ベロブルグへ来てから、街の人々が天気の話をよくする理由が、少し分かってきた。凍らずに流れた水のこと。店先へ苗を出せたこと。冬の上着をしまうには、まだ早いかもしれないこと。どれも昨日までは確かでなかったから、誰かに話したくなるのだろう。
窓の下では、買い物籠を抱えた人がまだ看板のない入口を振り返っていた。明日には、そこから患者が入ってくる。その上のこの部屋には、自分とセツナが暮らすのだと思うと、見知らぬ人の背中まで少し気になった。
何の店ができるのか、と思っているのかもしれない。声を掛けようか迷ったところで、背後から木板のぶつかる音がした。
「そこ、少し右へ」
「こちら?」
「俺から見て右だ」
「それだと、私からは左ね」
「ああ。悪い」
声の方へ振り返ると、受付に置く棚の部材を抱えたセツナと、反対側を支えるナターシャがいた。大きい板を一度二階へ運び込んでしまい、置き場所を確かめてから下ろそうとしているところだった。
セツナが向きを変え、戸口を通す。もう少しで抜けるというところで、ナターシャの袖が金具へ引っかかった。
「止まって」
ホタルは二人の間へ入った。袖を傷めないよう布をつまみ、金具の角から外す。
「もう大丈夫。あたしが後ろを見るから、そのまま進んで」
「助かる」
板はようやく廊下へ出た。セツナが息をつくのを見て、ホタルは笑った。
「今日、何回この階段を通るかな」
「その箱で最後にしたい」
「それ、あたしのじゃないよ。セツナの本」
彼は床の箱を見た。側面には、自分の筆跡で『診察室』と書いてある。
「……こいつも一階か」
「開ける前に気づいてよかったね」
ナターシャが肩を揺らした。セツナも否定するのを諦めたらしく、板を壁へ預け、箱の取っ手を持ち直した。
*
ナターシャにこの建物を紹介された日も、窓を開けると冷たい風が入ってきた。
長く閉め切られていた室内には木と埃の匂いがあり、歩くたびに床がかすかに鳴ったが、柱はしっかりしていた。セツナはすぐに一階の廊下を行き来し始めた。入口から担架を入れ、角を曲がり、奥の処置室へ運ぶ。まだ何も置かれていない床に、彼にはその動きが見えていたらしい。窓辺に立つ時も、風が診察台へ直接当たらない場所を探していた。
その間、ホタルは二階を歩いていた。台所から居間を覗き、寝室へ入り、また戻る。洗濯物を干すなら、朝の光が入るあの窓だろうか。裏庭の土を耕したら、何か育つだろうか。階下で彼の足音がすると、ここから呼べば聞こえそうだと思った。仕事が長引いた日に、食事ができたと呼ぶ自分の声まで、何となく想像できた。
あとで話してみれば、セツナは居間の窓から見える景色を覚えておらず、ホタルは一階に椅子を何脚置けるか考えていなかった。二人でもう一度回ると、初めて見る場所が増えた。
あの時、台所の前で彼が立ち止まっていたことを、今も覚えている。食卓を置く場所を尋ねたら、料理を運びやすいからと窓際を指した。今日、その場所へ二人分の皿を並べることになる。
荷物の運び込みが一段落すると、セツナは受付の床へ説明書を広げた。ホタルは洗った布を持って隣へ座る。ナターシャは奥の診察室で、運び込んだ器具を確認してくれていた。
「手順、どこまで進んだ?」
「三つ目。先に側板を留める」
「これ?」
ホタルが渡した板を、セツナは膝で支えてねじを入れた。二本目まで締めたところで、彼の手が止まる。
板の穴が、図の反対側に並んでいた。
「逆だった?」
「ああ。棚板が付かない」
「まだ二本でよかったね」
「今のうちに外す」
外したねじが、小皿の中で乾いた音を立てる。手当てをしている時なら迷わず動く指が、今は板の表と裏を行き来していた。ホタルにも一見では違いが分からず、二人で説明書へ顔を寄せる。彼と同じ向きへ紙を回してみて、ようやく穴の並びが図と重なった。
いつもなら何かを尋ねるのは自分の方が多い。それが今日は、同じところで困っている。横顔を覗くと眉間に薄く皺が寄っていて、ホタルは笑うのを少しだけ我慢した。
「いつも先が分かってるような顔をしてるのに」
「分からないものは分からない」
「それでも先に組み始めたでしょう」
「棚くらいなら、と思った」
「棚に聞かれたら怒られそう」
ホタルは側板が傾かないよう両手で支えた。セツナが小さく鼻で笑う。
診察室から戻ってきたナターシャは、二人を見て一度足を止めた。それから説明書の隅に指を置く。
「その補強板は、立てる前に入れるようね」
「……危なかった」
「間に合ってよかったわ。器具の方は問題ないから、あとはここが片づけば使えそう」
セツナの目が、棚の向こうの白い扉へ向いた。明日からあの部屋で診る人のことを考えているのだろうか。ねじをつまんだまま止まっていた指が、やがて補強板を引き寄せる。ホタルも支えていた板を持ち直した。ここへ座り、彼の名前を呼ぶ自分の場所を、早く形にしたかった。
「持ってるよ。続き、やろう」
*
昼を回る頃には、棚が壁際に立った。
壁へ固定してからナターシャが軽く手を掛ける。ぐらつかないのを確かめ、空の引き出しを一つ開けた。
「ここなら、受付に座ったまま手が届くわね」
促されて座ってみると、立ったまま眺めていた受付台が急に高く感じられた。膝の前には十分な余裕がある。奥へ置いた札にだけ指が届かず、椅子を前へ寄せようとして、ホタルは札の方を手前へ動かした。何度も立ったり座ったりするうちに、明日の自分がここで何を探すのか、少しずつ分かってくる。
「これでよさそう」
セツナは棚の上に物を置こうとして、ホタルの手を見た。
「毎日使うものは、その辺りへ置いてくれ。上は予備にする」
「セツナなら、上でも届くのに?」
「俺だけが使うわけじゃないだろ」
彼は抱えていた箱を下ろし、ホタルの隣で中身を分けた。
受付用の紙と筆記具。布巾。封筒。診察室で使うものは、入口から手の届かない奥の棚へ運んでいく。ホタルが薬瓶を一本持ち上げると、セツナは受け取り、同じ箱の隣へ並べ直した。
「薬は俺がやる。あとで場所を教えるから、今は待合の方を頼んでもいいか」
「うん。椅子は何列にする?」
「二列だと狭いな」
ホタルは二脚を少し離して置いた。座ってみると、入口の人と正面から目が合う。向きを変えて窓側へ寄せれば、隣の椅子とも近すぎない。
「こっちの方が落ち着くかも。呼ばれるまでずっと、扉を見てなくて済むから」
セツナも向かいへ座った。膝がぶつからないか見てから、椅子を床の傷に沿って僅かに引く。
「それでいこう」
「患者さんとしては、どう?」
「まだ座っただけだ」
「待ち時間も診察のうちでしょう?」
「厳しいな」
入口でナターシャが笑った。その腕には、三人分のパンを入れた袋がある。
「では、最初の待合室は休憩に使わせてもらおうかしら」
袋を見た途端、ホタルの腹が小さく鳴った。
聞こえなかったふりをしようとしたが、セツナがこちらを見る。ホタルは彼より先に袋を受け取った。
「今日は三人とも、よく動いたから」
「ああ。俺も腹が減った」
彼はそう答え、道具をまとめて手を洗いに行った。
まだ食卓を広げていなかったので、二階から小さな台を一つ持ってきた。ホタルが湯を注ぎ、ナターシャが包み紙を開く。焼き色のついた表面を割ると、中から柔らかな香りが出た。
セツナは二口ほど食べてから、窓際の椅子を見た。
「子供が座るなら、低いのもあった方がいいか」
「踏み台なら、余っているものがあるわ。今度持ってくる」
「買うつもりだった」
「まだ使えるのよ。置いておくより、ここで役に立つ方がいいでしょう」
ナターシャはパンを小さくちぎった。
「その代わり、こちらで手が足りない時は頼りにするわね」
「分かった。予定を送ってくれ」
セツナが空いた包み紙を畳むと、ナターシャは二つ目のパンを勧めた。ホタルも残りを口へ運びながら、窓の外を見た。さっきまで荷物の行き来するだけだった部屋で、三人が食べ、話し、次に会う日のことを決めている。ナターシャの診療所から来る踏み台には、どんな子が座るのだろう。そう考えると、通りで聞こえた子供の声へ自然と耳が向いた。
*
午後、入口から控えめな声がした。
「あの、もう開いてる?」
ホタルが振り返ると、買い物籠を提げた女性が立っていた。首元に厚い布を巻き、扉の内側を覗いている。
「診察は明日からです。ご用でしたら、先生を呼んできます」
「急ぎじゃないの。ナターシャ先生から、この辺りにも診療所ができるって聞いてね」
女性は手元の籠を持ち替えた。定期的に診てもらいたいことがあるらしく、何時ならよいかと尋ねる。
ホタルは受付台へ置いた紙を見た。書いてあるはずの時間が、箱の下へ隠れている。持ち上げようとすると、別の紙まで滑り出た。
「朝は、九時からだ」
奥からセツナが来た。ホタルは安堵して紙を揃える。
彼は女性の話を聞き、今使っている薬があれば明日持ってきてほしいと伝えた。それから長く待たせずに済みそうな時間を選び、紙へ書いて渡す。女性はそれを丁寧に畳んだ。
「近くに来てくれて助かるわ。ここ、冬は道が滑るでしょう。何度も遠くへ行くのが、少し大変だったの」
「雪が残る日は、無理に急がなくていい。遅れるなら連絡をくれれば待てるから」
女性が礼を言って向きを変えると、籠が入口の枠に触れそうになった。ホタルは扉をもう少し開き、靴先が段差を越えるのを見届ける。自分なら一歩で跨いでしまう高さを、その人は確かめるように踏んでいた。
荷物を運んだ時には、通れるかどうかしか見ていなかった。雪の日にもここへ来るのだという声を思い返し、彼女の濡れた足跡へ目を落とす。
女性を見送ったあと、ホタルは布で床の水気を拭いた。滑り止めを敷く場所をセツナと決め、開院時間を書いた紙を、扉の外から読める高さへ貼る。
「さっき、ごめんね。すぐ出せなかった」
「まだ荷解き中だろ」
「明日は、そう言っていられないから」
ホタルは受付台へ戻り、紙を用途ごとに分けた。何を聞かれたのか、どこへ案内するのか。自分が迷ったところだけ、小さな紙へ書いて引き出しに入れる。
セツナが横から覗いた。
「分からない時は、呼んでくれ。患者の前で急いで答えなくていい」
「うん。でも、少しずつ覚えたい」
「頼りにしてる」
何か続けて言おうとしていたのに、その一言で忘れてしまった。閉めたつもりの引き出しが途中で引っかかり、ホタルは慌てて押し直す。セツナが奥へ戻ってから、こらえていた笑みがようやく出た。
もう一度引き出しを開け、自分で書いた小さな紙を取り出してみる。迷わず指が届いた。それだけのことが嬉しくて、開院時間も声に出さずに読んだ。明日はあの女性に、自分から挨拶をしたい。
*
夕方になって、ようやく看板を出した。
木の板には『きんたクリニック』と刻まれている。セツナが脚立の上で金具を留め、ホタルが下から角度を見た。
「もう少し、こっちが上」
「これくらいか」
「うん。そこでいい」
脚立を下りた彼と並び、少し離れたところから見上げる。
外から見ると、窓の向こうの棚は思っていたより小さい。あれほど苦労したねじも補強板も、通りを歩く人には見えないのだろう。代わりに、入口の札と頭上の看板がよく見えた。ホタルは文字を目で辿り、明日あの女性がここへ来た時のことを考えるうちに、以前から聞きたかったことを思い出した。
「ねえ、前から聞きたかったんだけど」
「名前か」
「分かるなら教えてよ」
ホタルは文字を指さした。
「きんたって、何?」
セツナは看板を見たまま、少し考える素振りをした。
「昔から使ってた名前だ」
「それは聞いたことある。どうして、その名前にしたの?」
「長い説明になるような由来はない」
「短くてもいいよ」
彼が返事をしないので、ホタルはナターシャを見る。彼女も同じ疑問を持っていたらしく、楽しそうに首を傾けた。
「私にも、それ以上は教えてくれなかったの」
「そんなに気になるか」
「毎日ここに帰ってくるんだもの。看板を見るたび、少し気になると思う」
セツナは何か言いかけ、結局、脚立を畳んだ。
「そのうち気にならなくなる」
「気にならなくなる方へ任せるんだ」
ホタルが笑うと、ナターシャも吹き出した。
由来は分からないままだった。それでもホタルは、看板の文字をもう一度眺めた。彼が選び、今日二人で掛けた名前だ。街の誰かがそれを呼ぶところを、早く聞いてみたかった。
片づけを終えたナターシャは、戸口で手袋をはめた。暗くなると風が冷たい。ホタルが上着を渡すと、彼女は礼を言って袖を通した。
「明日は様子を見に来るわ。忙しそうなら、そのまま手伝うから」
「助かる。でも、そっちの診療所は?」
「こちらへ来られるように、話してあるの」
セツナはまだ何か確かめたそうだったが、ナターシャが先に微笑んだ。
「あなたに仕事を渡す時も、ちゃんと頼むわ。だから、その時はよろしくね」
「……ああ」
「二人とも、今日はもう休んで。箱は明日も逃げないから」
彼女はホタルへ片目をつむり、通りへ出ていった。
角を曲がる直前、一度だけこちらへ手を振る。ホタルとセツナは並んでそれを見送った。靴音が遠ざかると、急に建物の中が静かになった。
*
鍵を掛け、二階へ上がる。
階段の途中で、ホタルはふと足を止めた。セツナの靴音が上へ続き、踊り場の灯りに背中が入る。そのまま見送っていると、彼が振り返った。
「どうした」
「……ううん」
用事が済んで別れる時、もう少し一緒にいたくても、彼の行く方をいつまでも見ているわけにはいかなかった。自分も振り返り、歩きだす。その時の癖が、こんなところで出たらしい。
今日は、この階段の上にも一緒に行ける。ホタルは空き箱を抱え直し、待っている彼へ追いついた。
セツナはホタルの手元を見て、まだ抱えていた空き箱を半分受け取った。そのまま二階へ運び、壁際に積む。
「夕飯、買ってきたものでいいか。明日からは作れる」
「うん。あたし、お皿を出すね」
包んでもらった温かな料理を二人で分けた。台所の引き出しはまだ決まりきっておらず、匙を探すだけで二か所開ける。セツナが塩を取ろうとして洗剤の箱を見つけ、ホタルがそっと別の棚を指した。
「さっき、そっちへ移したの」
「そうか。あとで覚える」
「一緒に置いたら、早かったね」
言いながら二人とも笑ってしまった。
窓際に寄せた食卓は少し狭い。皿を三つ置くと、向かいの手が近くなる。セツナは大きな包みを椅子へ移し、ホタルの前へ場所を作った。
食べ始めると、思っていたよりお腹が空いていた。湯の沸く音に交じって、匙の触れる音が二人分響く。セツナは温かいうちにと料理を勧め、自分もよく食べた。先ほどまでは明日の診療のことを考えていた人が、口の中のものを飲み込むまで返事を待たせる。その間にホタルも一口食べ、彼が話し始めると今度は自分が頷くだけになった。
急いで話しきらなくても、片づけが終わっても、まだ一緒にいられる。時計を見ないまま夕飯が進んでいくことを、ホタルは少しずつ味わっていた。
「明日の朝は、何が食べたい」
食事の途中で聞かれ、ホタルは匙を止めた。
「セツナが作るの?」
「早く目が覚めた方がやればいい。材料は少しある」
「じゃあ、温かいもの。今日みたいに、二人で座って食べたい」
「料理名じゃないな」
「あとはお任せします」
「一番難しい注文だ」
彼が台所へ目を向けたので、ホタルもつられて見た。置いたばかりの鍋と、まだ開けていない食材の袋がある。明日の朝もあそこへ立つ人を、こうして座って待つのだろうか。それとも先に起きて、少し驚かせられるだろうか。夕飯の残りを掬いながら考えるうちに、朝にまで楽しみが一つできた。
片づけは二人で行った。洗った皿をセツナが渡し、ホタルが拭く。最後の一枚を棚へ戻した時、二人分の食器が並んだ。
薬を飲むための水を用意し、ホタルが自分の荷物から小箱を出すと、セツナは台所の隅を空けた。今日の分を確かめて飲み終えるまで、湯を足しながら待っている。
「ここに置いていい?」
「ああ。濡れない方へ寄せよう」
彼が小箱の下へ乾いた布を敷いた。
彼が手を離しても、小箱はそこに残っている。泊まりに来た時のように、飲み終えるたび荷物へ戻さなくていい。ホタルは蓋を閉め、その隣へ自分の杯を置いた。
*
寝室へ入ると、開け残した箱が壁際に影を作っていた。まだこれだけあるのかと蓋へ手を掛けたところで、『冬物』の文字が目に入る。ナターシャの、箱は逃げないという声を思い出し、ホタルはその上に置かれていた部屋着だけを取った。しゃがんでいた膝を伸ばすと、昼間の階段の上り下りが今になって響いた。
セツナは居間のソファで背を預けていた。片手に紙を持っているが、読むより先に目を閉じてしまいそうだった。
「それ、診療所の?」
「明日の準備だ。抜けがないかと思って」
「何か足りなかった?」
「今のところは」
ホタルは彼の隣へ座った。二人で腰掛けると、古いソファが中央へ僅かに沈む。肩が近づき、持っていた紙の端が彼女の膝へ触れた。
「だったら、今のところは終わりにしようよ」
セツナは紙をもう一度見て、畳んだ。
「そうするか」
卓上へ置かれた紙の向こうで、暖炉の火が小さく鳴った。
窓からは通りの灯りが見える。看板そのものはここから見えないが、きっと入口の上で風を受けているだろう。明日、あの下をくぐって人が来る。その人が帰ったあとも、二人はここにいる。
ホタルは肩へ頭を預けた。
セツナの身体が、最初だけ少し硬くなる。彼がこちらを見るので、ホタルも顔を上げた。近すぎる距離に照れながら、それでも離れずにいると、彼の腕が背中へ回った。
「疲れたか」
「少し。でも、楽しかった」
「荷物を運んでただけだろ」
「棚も作ったよ」
「俺が間違えた」
「あたしも、台所にしまうはずのものを受付へ持っていっちゃった」
「気づいてなかった」
「だから、あとで回収したの」
ホタルが打ち明けると、セツナは喉の奥で笑った。笑い声が、触れている肩からも伝わってくる。
「今日、すごく楽しかったんだ」
もう一度言うと、今度は彼もすぐに返事をしなかった。ホタルの髪へ視線を落とし、背中に置いた手を少し動かす。
「ああ。俺も」
それが聞けて、ようやく一日が終わったような気がした。
ホタルは卓上にある鍵を見た。新しく受け取った同じ形の鍵が二本、紐も付けないまま並んでいる。明日は自分の方へ、見分けられる印を付けよう。
「これから、あたしの物があちこちに増えると思うけど」
「もう増えてる」
「まだ箱の中にもあるから」
「置く場所は、一緒に考える」
「セツナの物も、ちゃんと教えてね。動かしていいか迷いそう」
彼は頷き、暖炉へ目を戻した。
暖炉を眺める彼の横顔に、今日、説明書を覗いていた時の真剣な顔が重なる。明日は棚で困ることはもうないだろう。その代わりに、まだ知らない何かを二人で探したり、間違えたりする。そういう朝を、ここで迎えたかった。
「こういう日が続いたらいいな」
言ってから、ずっと荷物を運びたいという意味に聞こえたかもしれないと思った。けれど言い直す前に、セツナが伸ばしていた脚を引き、こちらへ身体を向ける。ふざけて返すつもりのない顔だったので、ホタルもその目を見た。
「続けよう」
短い答えを聞いて、ホタルは顔を上げた。頷いてから膝の手を持ち上げ、掌を差し出す。握り返してきた指の爪際には、よく洗ったはずの汚れが少し残っていた。自分の指にも同じものを見つけて、今はどちらからともなく笑った。
重ねた手を膝の上へ下ろし、暖炉へ目を戻す。火が弱まるにつれて部屋の隅は暗くなったが、隣に触れているところは温かかった。今日、別々にしていたことまで思い出される。自分が窓を拭いている間、彼は階下でどんな準備をしていたのだろう。それも聞きたいと思いながら、手は握ったまま、しばらく黙っていた。
通りの人声が遠のき、どこかの店が戸を閉める音がした。ホタルは眠気に目を細める。彼の手の力は変わらない。
「……もう寝ようか」
「ああ」
二人で立ち上がると、座っていたところだけが深く沈んだまま残った。壁際の箱を避けて寝室へ入り、セツナが窓の鍵を確かめている間に、ホタルは毛布を広げる。寝台の脇には室内履きが二つ並んだ。さっきまで居間にいた人を、今度はここで待っている。それがくすぐったくて、枕へ頬を寄せた。
廊下の灯りが消え、隣へ彼の重みが加わった。
「おやすみ、セツナ」
「おやすみ」
春の風が窓を小さく揺らした。
ホタルは今度、音のした方へ目を向けなかった。隣から伸びてきた手を、毛布の下で握り返した。
ヘルタ(人形)の次回予告
家を整えた次は、暮らしの中身ね。二人分の朝食から始まった一日が、どうして制服選びへ繋がるのかしら。次回、第二話「春支度」。必要な物を買うつもりだったセツナは、ホタルの「欲しい」をどこまで見つけられるのか。棚の説明書より、少し難しいかもしれないわね。