崩壊:ゾーン:ゼロ   作:全自動式発条雀

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第二話 春支度

目を覚ましたホタルは、まだ重い瞼を閉じたまま、隣の枕へ手を伸ばした。

 

 指に触れた布には、僅かな温もりがある。彼はもう起きているらしい。寝返りを打つと腕の付け根が少し痛み、昨日、階段を何度も往復したことを思い出した。目を開ければ、窓の形も天井の木目も、まだ見慣れていない。それでも廊下の向こうから聞こえてきた包丁の音で、どこにいるのか、すとんと分かった。

 

「……早いなぁ」

 

 毛布を畳み、開け残した箱の間を抜けて居間へ向かう。途中から香ばしい匂いがして、ホタルは昨日の夕飯の片づけまで思い出した。あのあと、自分が知らない間に何か準備をしていたのだろうか。

 

 台所には、部屋着の上から前掛けを着けたセツナがいた。いつもより額へ落ちた黒髪を、物を持っていない手の甲で軽く払っている。鍋の脇には切り揃えた根菜が並び、小鍋の蓋は湯気にかすかに揺れていた。顔を洗うより先に眺めていると、振り向かないまま声が来る。

 

「顔を洗ってこい。あと少しでできる」

 

「おはよう、セツナ」

 

 彼はそこで顔を向けた。

 

「……おはよう」

 

 順番を間違えたような間がおかしくて、ホタルは笑った。

 

「朝からそんなに作ってるの?」

 

「昼の分もある。診療が長引いても、温めれば食えるように」

 

「何だか、あたしだけゆっくり寝てたみたい」

 

「昨日は疲れただろ。皿を出してもらえるか」

 

 ホタルは手と顔を洗って戻り、戸棚を開けた。昨夜しまった場所を思い出し、少し深い白い皿を二枚出す。

 

「これで合ってる?」

 

「ああ。そっちの小皿も」

 

 小皿を渡そうとして、鍋を避けた彼の肘に触れた。二人で一度手を止め、セツナが半歩ずれたところへホタルが入る。昨日は荷物で狭く見えた台所も、片づけば十分だと思っていたのだが、こうして並ぶとお互いの行き先を考えなければならなかった。

 

 彼が水を使う間に、空いた場所へ皿を置く。今度は自分の手を洗おうとして、その背中へ声を掛けた。

 

「右、通るね」

 

「ああ」

 

「お鍋の蓋、どこへ置く?」

 

「そこは熱い。こっちへ」

 

 セツナが寄せた鍋敷きへ蓋を載せると、湯気で眼前が白くなった。その向こうで彼が卵を皿へ移している。どの鍋が熱いのか、次に何を運ぶのか。尋ねなければ分からないことばかりで、ホタルは台所を出入りするたび彼の名前を呼んだ。

 

 戦場では言葉を待たずに動けることが大切だった。ここでは、声を掛ければ返事があり、間に合わなければ皿を持って少し待てばいい。その緩さに慣れてくる頃、二人の前にようやく朝食が揃った。セツナが最後のスープを注ぎながら、こちらを見る。

 

「昨日の注文には、合ってるか」

 

「温かいもの、だったよね」

 

 ホタルは椅子を引き、彼が向かいへ座るのを待った。

 

「うん。ぴったり」

 

     *

 

 匙で押した根菜が、ふわりと崩れた。湯気を吹いて口へ運ぶと、見た目よりずっと甘い。ホタルはもう一口食べ、それからセツナの真似をしてパンの端を浸してみた。底に沈んでいた香草が浮き、朝の冷たい空気に慣れていた鼻へ、温かな香りが抜けていく。

 

「美味しい」

 

 セツナはパンをちぎりながら頷いた。

 

「塩、薄くないか」

 

「このくらいが好き。卵と一緒に食べると、ちょうどいいよ」

 

「そうか」

 

 セツナは自分のスープも一口飲み、もう塩を取りには立たなかった。そんな小さなことが目に留まる。顔を洗いに行けば湯が使え、探しかけた布は乾く場所へ干されていた。昨日二人で決めたことも、彼が先にしてくれたこともあって、使うたびに見つけている。

 

 これが毎朝になったら、今、驚いていることまで当たり前になるのだろうか。匙を持ったままそんなことを考えていて、言葉の方が先に出た。

 

「セツナって、いい夫になりそうだね」

 

 口にした言葉を聞き直したのは、自分の方が先だった。匙を戻すことも忘れて顔を上げると、セツナもパンをちぎりかけたままこちらを見ている。湯気だけが、いつもどおり二人の間を通っていった。

 

「……朝から、ずいぶん先の話だな」

 

「ごめん。料理が美味しかったから、つい」

 

「美味い飯を作る奴は、ほかにもいるだろ」

 

「料理だけならね」

 

 ホタルはスープへ視線を落とした。自分で始めた話なのに、続けるには少し勇気が要った。

 

「一緒に暮らしたら、何が好きか少しずつ分かって、その人の分も考えてくれるでしょう。そういうのが、いいなって」

 

 セツナはすぐには口を開かなかった。窓の外で荷車が通り、車輪が石畳を叩いていく。

 

「まだ、二日目だぞ」

 

「うん。だから、今日決めてって話じゃないよ」

 

 言い終えて彼の顔を見ると、耳の辺りが僅かに赤かった。それで自分の頬も熱いことに気づき、ホタルは卵を小さく切り分けた。

 

 次の任務や治療なら、予定を確かめて待つことができた。何年も先となると、自分の身体のことが先に浮かび、考えるのをやめてしまうことも多い。今朝はスープを飲んでいるうちに、ずっと先にも彼の向かいに座っている自分を思い浮かべていた。そんなに自然に欲しくなったことが、嬉しくもあり、まだ口にした場所の分からない気恥ずかしさもあった。

 

「それに、あたしが何もしないつもりでもないからね」

 

「それは助かる」

 

「返事が早い」

 

「これから全部俺がやるって言われたら、さすがに困る」

 

「じゃあ、今日は洗い物をする。明日は料理も教えて」

 

「明日は少し早くなる。外へ持っていけるものを作ろうかと思ってた」

 

 ホタルが顔を上げると、彼はスープを飲んだ。

 

「休みにするんだろ。公園へ行くなら、弁当が要る」

 

「……もう考えてたんだ」

 

「ああ」

 

 明日は公園で食べる。その言葉を聞いたら、聞きたいことが次々に出てきた。卵は入るのか、甘いものも少し持っていけるのか。ホタルが尋ねるたび、セツナは食べる手を休めて答えてくれる。ただ、敷物をどの箱へ入れたかと聞かれた時には、二人とも黙った。

 

 昨夜、後回しにした荷物が、もう必要になっていた。食べ終えたら一緒に探そうと決める頃には、ホタルもようやく、冷めかけたスープの残りへ匙を伸ばせた。

 

     *

 

 午前の診療を終え、セツナが入口へ午後休診の札を掛けると、ホタルは受付に残った紙を揃え始めた。開院したばかりの今日は、予約と近所からの相談が中心だったが、初めて座る受付では一つひとつに時間が掛かった。

 

 昨日訪ねてきた女性の名前だけは、呼ばれる前に思い出せた。帰りに会釈してくれた顔が浮かび、ホタルは思わず笑みをこぼす。緊張していた時間ごと拭き取るように台を磨くと、出したばかりの木の色が昼の光を返した。

 

「出られるか」

 

「あと、ここだけ」

 

 彼は扉の傍で待った。急かされないので、置き忘れた筆記具まできちんと戻せる。

 

 二階で上着を着ている間に、セツナは買うものを紙へ書き出していた。保存容器、洗剤、布巾、食材。診療所で足りなかった備品も少しある。

 

 ホタルは肩越しに覗き、空いている一行へ指を置いた。

 

「服も見たい」

 

「何か足りなかったか」

 

「あたしのだけじゃなくて、セツナのも」

 

 彼が自分の上着を見る。今日も黒い服だった。

 

「これはまだ着られる」

 

「分かってる。でも、明日着るものを選ぶの、楽しいと思うよ」

 

「俺はこれで困ってないんだが」

 

「じゃあ、見るだけでも。一緒に歩いて、似合いそうなのがあったら聞くから」

 

 セツナは紙を畳みかけたまま止まった。それから末尾に『衣類』と書き足す。

 

「食材は最後な。持って歩く時間が長くなる」

 

「うん。じゃあ、日用品から」

 

 ホタルは自分の鍵を取った。昨夜考えていたとおり、紐の端へ小さな結び目を作ってある。彼も気づいたらしく、自分の鍵と一瞬並べてからポケットへ入れた。

 

     *

 

 市場へ向かう通りでは、窓から見えなかったものに何度も足を止めた。店先に出された反物は日なたと日陰で色を変え、屋根の下に残る氷を、子供が助走までつけて跨いでいく。ホタルもつられて足元を見たあと、少し先でセツナが待っていることに気づいた。

 

 隣へ追いつくと、今度は彼の袖が気になる。台所ではぶつかりそうになるほど近くにいたのに、人の行き交う道で腕を寄せるのは、どうして少し難しいのだろう。手を伸ばすきっかけを探しているうちに、彼の方から顔を覗き込まれた。

 

「寒いか」

 

「少しだけ」

 

 差し出された手を見てから握るまで、少し間が空いた。温かい掌に指が収まると、寒かったという答えのほかに、もっと正直な理由があったことまで伝わった気がする。

 

「手袋、持ってくればよかったな」

 

「今はこれでいいよ」

 

 そう答えると、セツナの指が握り直してきた。歩き始めた彼に合わせるため、半歩だけ近づく。それからは店の窓へ目をやっても、さっきほど遅れずについていけた。

 

 日用品の店では、二人で籠を持ち替えながら棚を回った。

 

 セツナが深い保存容器を選び、ホタルは同じ形の小さいものも一つ加える。薬をしまうためかと聞かれ、彼女は首を振った。

 

「お弁当の果物。大きい方と一緒だと、潰れちゃいそう」

 

「それなら、この大きさでいい」

 

「あと、台所の布は色を分けたいな。昨日、洗面所のと迷ったから」

 

 ホタルは淡い色を二枚選び、セツナが持っていた白い布と並べた。彼は一度見て頷き、籠へ入れる。

 

 別々なら選ばなかったものが、同じ籠へ収まっていく。

 

 値札を見比べる時は真剣なのに、ホタルが木製の卵立てを指先で回すと、セツナも少し覗き込んだ。

 

「それ、要るか」

 

「毎日は使わないかも。でも、可愛い」

 

「置く場所は?」

 

 ホタルはしばらく考えた。

 

 まだ箱も片づいていない台所を思い浮かべ、卵立てを棚へ戻す。

 

「今日はやめとく。お皿の場所を決めてから、また見に来たい」

 

「覚えておく」

 

 店を出てから、ホタルは入口の看板を端末へ残した。買わなかった卵立ての形を、まだ指が覚えている。あれを置く棚を考えてから、また来よう。今日通り過ぎた場所に、自分たちの次の用事ができるのが嬉しかった。

 

     *

 

 商店街では、買い物の紙に書かれていないものがホタルの足を遅くした。焼き菓子が包まれる手元を眺めていれば、隣の窓では小さな時計が鳴る。セツナも立ち止まってくれるので、ついもう少しと覗いてしまう。

 

 ブティックの前では、そのまま動けなくなった。

 

 白い上着を濃色の縁取りが引き締め、胸元には青緑のリボンが結ばれている。灰色のプリーツスカートの下には、白い靴下と一足の靴。すべて揃って並んでいるのが、今にも誰かが着て出かけそうに見えた。

 

 学生服だった。気づいた時にはセツナも横にいて、同じ窓を見ていた。

 

「これか?」

 

「……うん」

 

 ホタルは頷いた。ガラスに自分の顔が映っている。展示された制服へ重なるように立ってみて、すぐに恥ずかしくなって位置を戻した。

 

「学校の帰りって、みんなこんなふうに寄り道するのかな」

 

「買い物か」

 

「何も買わなくても。友達とお店を覗いて、明日は何の授業だっけって話して」

 

 そう話す子たちを見たことはある。けれど自分には、明日の授業を思い出したり、友達の席へ振り向いたりする記憶がない。窓へ映った顔と白い上着が重なるほど、これを着てみたい気持ちが強くなり、同時に、着た自分がどこへ行くのか分からなくなった。

 

 ホタルがリボンを見つめている間に、セツナは入口に出ている案内を読んでいた。

 

「試着、できるみたいだぞ」

 

「でも、学校へ行くわけじゃないよ」

 

「うん」

 

「買っても、着る日を自分で考えなきゃ」

 

「明日は?」

 

 ホタルが彼を見た。

 

「公園、行くんだろ」

 

 その予定なら、さっき朝食の席で話したばかりだった。ホタルは窓へ目を戻す。学校の廊下に立つ自分はうまく浮かばなくても、公園の花の下なら想像できた。青緑のリボンが風に揺れ、隣には弁当を持った彼がいる。そこまで考えてから、ようやく言えた。

 

「……着てみたい」

 

「じゃあ、入ろう」

 

「似合うか、一緒に見てね」

 

「俺でいいのか」

 

「セツナに見てほしいんだよ」

 

 彼は一度だけ頷き、店の扉を開けた。

 

     *

 

 試着室の幕を閉めると、店の話し声が少し遠くなった。用意してもらった上着に腕を通し、リボンを結ぶ。肩にも袖にも窮屈なところはなく、スカートの襞を整えて鏡へ向かうと、窓越しに眺めていた服を自分が着ていた。

 

 嬉しそうな顔だった。それを確かめた途端に、外へ出るのが少し恥ずかしくなる。リボンを直し、裾を見て、また顔を上げる。似合っていると言ってもらいたい。でも、こんなに嬉しいことまで分かってしまう。幕へ手を伸ばしかけたところで、彼の声がした。

 

「ホタル。何か手伝ってもらうか」

 

 幕へ掛けた手が止まった。

 

「大丈夫。着られたよ」

 

「そうか」

 

 彼はそれ以上、急かさなかった。

 

 ホタルはリボンの左右を最後に一度整え、幕を開いた。

 

 椅子へ座っていたセツナが顔を上げる。膝に置いていた紙を畳み、こちらを見たまま、すぐには何も言わなかった。

 

「……どう?」

 

「似合ってる」

 

 短い返事だったが、目を逸らされなかった。ホタルは少し安心して、裾をつまむ。

 

「歩きにくくもないし、生地も思ったより柔らかいの」

 

 鏡へ向きを変える。彼の姿が後ろに映った。

 

「可愛いよ」

 

 ホタルは鏡越しに目を合わせた。

 

「今、もう一回言ってくれた?」

 

「違うことを言った」

 

「うん。聞こえた」

 

 もう一度言ってほしくて聞き返したのに、彼が真面目に答えるので笑ってしまった。鏡には、椅子の背へ少し逃げるように凭れたセツナまで映っている。ホタルはその姿も一緒に見ていたくて、袖の具合を尋ねに来た店員へ答える時にも、すぐには向きを戻せなかった。

 

 腕を上げても、肩はつっぱらない。歩くと襞が揺れる。明日、これで彼の隣を歩くところが、もうはっきり浮かんでいた。

 

「これにします」

 

 言い終えてから、ホタルはセツナを振り返った。

 

「決めちゃった」

 

「自分の服だろ」

 

「一応、今日の予算があるから」

 

「ほかに必要なものは買えてる。食材の分も残してある」

 

 今日買うものを、彼もちゃんと考えてくれていた。ホタルは頷き、もう一度、自分で選んだ服を鏡に映した。

 

 着替えて出ると、制服は薄い紙に包まれて箱へ収まっていた。つい先ほどまで身につけていたのに、受け取る時には両腕を出してしまう。店へ入る前にはなかった重みが、自分のものになっていた。

 

「セツナの服も、見ようか」

 

「ここは女性物だろ」

 

「あ、そうだった」

 

 店員まで笑った。

 

 外へ出ると風が強くなっていて、セツナが箱の取っ手を持った。

 

「紐、肩に食い込んでる」

 

「自分で持てるよ」

 

「分かってる。俺の袋と交換するか」

 

 ホタルは迷ってから、軽い日用品の袋を受け取った。箱を抱えている時は空かなかった手を、また彼へ伸ばす。

 

 セツナはそれを見て、空いている方の手を出した。

 

     *

 

 食料品の市場へ入ると、セツナが足を止める場所の方が増えた。店先を見渡してから店主へ声を掛け、手に取った袋を戻して、隣の小さいものに替える。大きい方が安いのにと覗くと、使い切るまでに傷むと言われた。まだ自分の目は値札と見た目の大きさばかり追っているらしい。

 

 そこで、色のよい果実を一つ手に取った。隣にもよく似たものがある。さっきなら大きい方を選んだだろうが、別の籠へ分けられているのが気になり、ホタルは店主を見た。

 

「これと、そっち。何が違うの?」

 

「そちらは今日食べ頃だね。こっちはもう少し置けるよ」

 

 店主の説明を聞いてから、セツナがそれぞれを一つずつ選んだ。

 

「両方?」

 

「味の違いも気になるだろ」

 

「今日食べる分は、一つでいいよ。半分ずつにしよう」

 

「ああ。明日の弁当には、こっちを入れる」

 

 今日の分と明日の分が同じ袋へ入るのを、ホタルは覗き込んだ。半分ずつなら、気になった味を彼にも食べてもらえる。次に野菜を選ぶ時には、自分から二つ持ち比べてみた。

 

 小さい方がずっしり重い、と分かると少し得意になる。ところが別の野菜で同じ選び方をしたら、店主から品種が違うのだと教えられた。持ち上げたまま見比べるホタルの横で、セツナも説明を聞いている。

 

「全部、同じにはできないんだね」

 

「俺も知らないものは聞く」

 

 セツナは店主へ保存の仕方を尋ねていた。ホタルも紙の隅へ短く書き足す。

 

 市場を出た時には、買い物の紙が随分くたびれていた。セツナの字の間に自分の字が入り、表と裏が埋まっている。

 

「持って帰っていい?」

 

「紙か。捨てるつもりだったが」

 

「また同じものを買う時に使えるでしょう」

 

「値段は変わるぞ」

 

「じゃあ、次のも残して比べる」

 

 ホタルは畳んだ紙を自分の鞄へ入れた。きれいな記念写真とは違うが、今日二人で歩いた道が並んでいるようだった。

 

 その先の花屋で、白い花が風に揺れていた。

 

 大きく開いた花より、隣にある蕾の多い鉢へ目が行く。しゃがんで見ていると、セツナも足を止めた。

 

「窓辺に置けそうだな」

 

「うん。まだ、何もないから」

 

 店主は置き場所の日当たりを聞き、土の乾き方を見て水をやるよう教えてくれた。ホタルは蕾へ触れないよう、葉の下を覗く。

 

「毎日たくさんあげればいい、ってわけじゃないんだ」

 

「昨日も窓は開けてたから、風は通る。帰ったら場所を決めよう」

 

「あたしが忘れてたら、教えてね」

 

「その時は、水が要るか一緒に見る」

 

 荷物を持ち直したセツナから、鉢だけを受け取った。両手に収まる土の重みがあり、葉の下から湿った匂いがする。店員に巻いてもらった紙の中で、蕾が一つ揺れた。

 

 明日、朝食を作る時に、これが開いているかもしれない。開いていなかったら、もう一日待ってみればいい。薬や仕事の予定とも違う、待ち遠しさを窓辺へ置いて帰りたかった。

 

     *

 

 家へ戻ると、セツナは先に食材を台所へ運んだ。

 

 ホタルはその隣で保存容器を洗い、拭いたものから渡した。彼が肉を分ける間に、野菜の置き場所を教えてもらう。朝には分からなかった引き出しが、少しずつ手に馴染んだ。

 

 制服の箱は、水の届かない居間へ置いた。

 

 白い花は窓辺。最初に選んだ場所はカーテンが当たるので、二人で鉢を少し動かした。ホタルが外へ出ていた蕾を内側へ向けると、セツナが窓を閉めてみる。

 

「ぶつからないな」

 

「ここがいいね」

 

 鉢の下へ小皿を敷いた。今朝は空いていた場所へ、白い色が増える。

 

 台所では、昼に食べた煮込みの残りが温まり始めていた。ホタルは少しずつ香りが変わるのを感じて、台所へ戻った。

 

「それ、あたしにも作れるかな」

 

「作れる。火にかけたら、あとは時間をかければいい」

 

「それだけで、この味になる?」

 

「最初の下ごしらえはある。次に作る時、一緒にやろう」

 

「約束ね」

 

 セツナは頷き、味見の匙を渡した。熱いので少し待ち、口へ運ぶ。朝より味が馴染んでいる気がしたが、理由まではうまく言えなかった。

 

「美味しい。さっきより、こう……まとまってる?」

 

「冷める間に味が入ったんだ。明日はまた少し違う」

 

「料理も、待つのが大事なんだね」

 

 ホタルは匙を洗い、食卓へ皿を並べた。

 

 夕飯を食べながら、二人は今日買わなかったものの話をした。卵立ては棚の寸法を測ってから。セツナの春服は、急いで探すより本人が着てみたいと思うものを見つけた時に。

 

「明日はいつもの服?」

 

 ホタルが聞くと、彼は少しだけ目を逸らした。

 

「まだ決めてない」

 

「決まったら、あたしにも見せてね」

 

「朝には分かるだろ」

 

「じゃあ、楽しみにしてる」

 

 セツナはその答えに何か言いかけ、煮込みを口へ運んだ。

 

 ホタルも、それ以上は聞かなかった。

 

     *

 

 食後に制服を掛けると、セツナの濃い色の服の間へ、白い袖がすとんと下りた。ホタルは一歩離れて眺め、また近づいて裾を直す。部屋の灯りで見るリボンは、店で見た時より落ち着いた色をしていた。

 

 明日は自分がここへ手を伸ばして、これを着る。その手順まで思い浮かべたら、棚を閉めるのが惜しくなった。

 

「まだ見てるのか」

 

 振り返ると、セツナが寝室の入口にいた。

 

「うん。お店にあった時と違って見えるから」

 

「同じ服だぞ」

 

「分かってるよ。でも、ここにあるんだなって」

 

 彼は近くへ来て、衣装棚の空いている場所を見た。

 

「もう少し詰めれば、冬物も入るか」

 

「急がなくていいよ。今、これを眺めてたい」

 

 言われて、セツナも手を止めた。二人でただ服を見ているのが可笑しくなり、ホタルは小さく笑った。

 

「今日、学校の話を聞いてくれてありがとう」

 

「俺は、詳しいことを教えてやれないけどな」

 

「そういうことじゃないの」

 

 欲しいと言うまで、あんなに迷うとは思っていなかった。今、服を前にすれば、どうしてそこで立ち止まったのかも少し分かる。

 

「あたし、これを着ても、学校に通ってたことにはならないでしょう。それは分かってる。でも、だから欲しがっちゃいけないのかなって、ちょっと思ってた」

 

 セツナはホタルの話を聞き、棚へ目を戻した。

 

「明日着て、出かければいいんじゃないか」

 

「うん」

 

「その次に着たい日も、お前が決めればいい」

 

 ホタルはリボンの端を指に取った。明日だけでなく、その次も着ていい。公園から帰ったら、今日見つけた店へまた行くのもいいかもしれない。服を眺めるだけだった気持ちが、彼と歩く道の方へ広がっていった。

 

「セツナと、放課後みたいな寄り道もしてみたい」

 

「今日もしただろ」

 

「じゃあ、続き」

 

「分かった。歩き疲れないくらいにな」

 

 ホタルは笑い、彼の袖をつかんだ。

 

「学校へ行くなら、勉強もしてみたい。何ができるか、まだ分からないけど」

 

「興味があるものから探せばいい。医療なら、俺も教えられることはある」

 

「いきなり試験はしないでね」

 

「患者を前にするなら厳しくするぞ」

 

「まずは、話を聞くところから」

 

「ああ」

 

 セツナは棚を閉めず、横へ立っていた。ホタルがリボンから手を離しても、まだ動こうとしない。今朝、向かい合った食卓では、聞きたいことの大きさに自分が驚いてしまった。こうして隣にいると、さっき言いかけたことの続きを、もう少し尋ねられそうだった。

 

「朝の話、困らせた?」

 

「どれだ」

 

「夫になりそう、って言ったの」

 

 彼は分かっていたように、僅かに顎を引いた。

 

「驚いた。そんな先まで考えてたのかと思って」

 

「たまに、考えちゃうんだ。一緒に暮らしたら、もっと先もあるのかなって」

 

「俺も、何も考えてないわけじゃない」

 

 ホタルは袖をつかむ指を止めた。

 

「ただ、どう言えばいいのか、まだ分からない。今朝飯を作ったのは、お前と食べたかったからだ。それは言える」

 

 彼女は顔を上げ、頷いた。

 

「うん。それが聞けて嬉しい」

 

 袖から手を離すと、セツナの手がそこへ重なった。ホタルは握り返す。

 

「明日も、一緒に食べようね」

 

「ああ。今度は外だ」

 

 居間へ戻る途中で、ホタルは窓辺に寄った。蕾は昼とほとんど変わっていない。カーテンを少し避けて覗いてみても、白い先端はまだ閉じたままだ。それでも、ここへ来れば確かめられるものがあるのはよかった。

 

 明日は何時に起きれば間に合うのだろう。振り返ると、セツナが食卓へ弁当箱を並べていた。市場で買った果物のための、小さい容器もある。

 

「朝、手伝うから起こしてね」

 

「眠そうなら、先に作ってる」

 

「それだと間に合わないよ」

 

「じゃあ、卵を焼く前に呼ぶ」

 

 ホタルはその約束を受け取り、彼の向かいへ座った。

 




ヘルタ(人形)の次回予告

明日の服が決まると、今夜から落ち着かなくなるのね。次回、第三話「制服デート」。ホタルが選んだ白い制服に、セツナはどんな装いを合わせるのかしら。弁当を持って、春の公園へ。治療でも任務でもない一日の過ごし方を、二人で試してもらいましょう。
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