崩壊:ゾーン:ゼロ   作:全自動式発条雀

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第三話 制服デート

卵を焼く匂いがする。ホタルは毛布の中で一度そう思い、今度こそ目を開けた。

 

 隣の枕には、浅い窪みだけが残っている。昨日は手伝うと言ったのに、また先に起きられてしまった。寝室の扉を開けると、ちょうどセツナが卵焼きをまな板へ移すところだった。台所の窓から光が差し、立ち昇る湯気が白くほどけている。

 

「おはよう。もう作ってたの?」

 

「おはよう。もう少し掛かる。顔を洗ってこい」

 

「昨日、一緒に起きるって言ったのに」

 

「起こしたぞ。あと五分って言われた」

 

 覚えがあった。何か返事をして、彼の袖を引いた気もする。ホタルが口を閉じると、セツナは包丁を置き、端の小さな一切れを皿へ寄せた。

 

「味見の分は残してある」

 

 それなら、と急いで洗面所へ向かう。戻る頃には、弁当箱の底に冷ましたご飯が詰められていた。鶏肉の照り焼きと、彩りの違う野菜。昨日買った果物は別の容器に入るらしい。

 

 端の卵焼きを食べると、まだ温かかった。

 

「これ、好き。お昼の分もこの味?」

 

「ああ。甘すぎないか」

 

「ちょうどいいよ。昨日、あたしが言ったから?」

 

「味の好みは聞いた方が早いだろ。次はホタルのも食ってみたい」

 

「あたしのは、こんなに綺麗には巻けないかも」

 

「切れば分からない。弁当箱には収まる」

 

「それ、慰めてる?」

 

「楽しみにしてる」

 

 彼はもう弁当箱へ目を戻していたが、最後の返事は聞き逃さなかった。ホタルは小皿を洗い、隣へ戻って果物の容器に蓋をする。次はこの場所に自分の焼いた卵が入るのかもしれない。少し崩れてしまっても、彼と切り分けるところを思えば、教わるのが楽しみになった。

 

 朝食は軽く済ませ、いつもの薬を飲んでから、二人分の水筒を用意した。それから寝室へ戻り、昨日掛けた制服を手に取る。青緑のリボンを結んで鏡に向かうと、白いブラウスまで昨日と違って見えた。今日はこれで外へ出る。襟を直し始めたところで、廊下の足音が止まった。

 

「まだ掛かるか?」

 

「あと少し。セツナは?」

 

「俺はできた」

 

 鏡では、直すたび別のところが気になってしまう。もう十分だと自分に言い聞かせて扉を開けたら、今度は待っていたセツナの服が目に入った。

 

 濃い色のシャツに、灰色の上着を合わせている。いつもの黒い服よりも肩の線が柔らかく見え、その手で弁当の袋を提げているのが、また嬉しかった。自分だけが今日のために服を考えていたのではないのだと分かり、ホタルは戸口で立ち止まった。

 

「……その服、持ってたんだ」

 

「奥にあった。変か?」

 

「ううん。すごくいい」

 

 彼もホタルを見た。顔から足元へ目を移し、もう一度顔へ戻す。その短い間が、昨日の試着室よりずっと長く感じられる。

 

「リボン、曲がってる?」

 

「曲がってない。似合ってる」

 

「昨日も言ってくれたね」

 

「今日もそう思った」

 

 昨日と同じ服なのに、今日も見て、今日も言ってくれる。うまく返事が出ず、ホタルは笑ってから彼の隣へ行った。

 

 階下で戸締まりを済ませて外へ出ると、風にスカートの裾が揺れた。寝室の鏡の前では気にならなかった感触だ。通りを行く人には、制服を着た誰かが家から出てきただけに見えるのだろう。それでもホタルには、初めてこの道を歩くような気がした。

 

「お弁当、あたしが持とうか」

 

「花を見る時に邪魔だろ。帰りに頼む」

 

「じゃあ、帰りはあたしね」

 

 歩き出した彼の隣へ並ぶ。空いている方の手に指を触れさせると、セツナは袋を反対側へ持ち替えた。

 

*

 

 公園の門をくぐると、その先だけが淡く明るかった。

 

 道の両側から伸びた枝が重なり、薄い桃色の向こうに空が透けている。ホタルが見上げたところへ風が通り、花の一部がほどけるように降ってきた。肩に落ちた一枚をつまんでみる。あまりに軽く、指を開いたらすぐ飛んでしまいそうで、もう片方の手で受けた。

 

「こんなに咲いてるんだ」

 

「今年は見頃が早かったらしい」

 

 案内板には、別の土地から運んだ木を、この街でも育つよう何度も植え直してきたとあった。写真では数本しか咲いていなかった枝が、今は道の先まで続いている。ホタルは実際の幹と古い写真を見比べてから、もう一度顔を上げた。

 

 杖をつく人が枝の下で立ち止まり、その先では子供が敷物の場所を決めかねて走っていた。自分たちも、好きなところで止まっていい。少し先に日当たりのよいベンチを見つけ、そこまでゆっくり歩こうと思いながら、胸元のリボンに触れた。

 

「あたし、こういうところへ学校帰りに寄ってみたかったのかも」

 

「この格好で?」

 

「うん。授業が終わって、友達と歩いて。明日までに何をしなきゃいけないとか、そんなことを話すの」

 

 セツナは彼女の言葉を聞きながら、通り道へ張り出した枝を避けた。繋いだ手が少し引かれ、ホタルも彼の方へ寄る。

 

「今日は、その後の寄り道ってことにするか」

 

「授業は?」

 

「もう終わった」

 

「何の授業だったの?」

 

「それは……ホタルが決めてくれ。俺は弁当しか用意してない」

 

 そこまで決めていない、という顔がおかしくて、ホタルは笑った。架空の授業の続きを考えているうちにベンチへ着き、座ってもまだ口元が緩んでいる。

 

 ここからなら低い枝までよく見える。けれど見上げ通しの首が少し疲れて、ホタルはそっと彼の肩へ寄り掛かった。途端にセツナの手が顔のそばへ来る。

 

「動くな」

 

「何?」

 

 髪に付いた花びらだった。指先に載せて差し出され、ホタルはそれを受け取る。薄い一枚の向こうに、黒と緑の瞳が見えた。

 

「雪とは違うね」

 

「溶けないからな」

 

「それもそうだけど」

 

 彼はもう一度、降ってくる花びらへ目を向けた。

 

「……こっちの方が暖かい」

 

 ホタルは頷いた。花びらを手のひらに乗せたまま、しばらく二人で枝の隙間を見上げた。

 

 写真を撮ろうと言い出したのは、ホタルだった。

 

 セツナは端末を向けられると、急に背筋を伸ばした。さっきまで自然に座っていたのに、口元まで固くなる。

 

「そんなに構えなくてもいいよ。さっきみたいにして」

 

「さっきって、何をしてた」

 

「お花を見てた」

 

「なら、顔は写らないぞ」

 

「横顔も撮りたいの」

 

 まだ口を開きかけているところを撮ってしまった。画面では、セツナが少し困ったようにこちらを見ている。ホタルには、さっきのやり取りまで聞こえる一枚だった。気に入ったと伝えて端末を見せると、彼は同じ顔をして覗き込み、それがまた可笑しかった。

 

「俺にも貸してくれ」

 

 立ち位置を替え、今度はホタルが花の下へ行く。風が髪を持ち上げたので片手で押さえると、すぐに撮影音がした。

 

「今? 髪、変じゃなかった?」

 

「大丈夫だ。見てみろ」

 

 画面には、リボンと髪を押さえながら笑っている自分がいた。用意していた表情とは違ったけれど、後ろの花も、白いブラウスに落ちる光も綺麗だった。

 

 セツナはその写真を見たまま、少し指を止めていた。

 

「それ、セツナにも送るね」

 

「頼む」

 

 短い返事が嬉しくて、ホタルはその場ですぐに送った。

 

*

 

 昼が近づくと、木陰で過ごしていた二人のところへも、温まった土と食べ物の匂いが流れてきた。芝生の端に敷物を広げ、ホタルはようやく弁当箱を膝へ載せる。

 

 蓋を開けるところも撮っておけばよかった。そう思うほど、おかずは朝見たまま綺麗に並んでいた。どこを歩いている間も、袋の中ではこれが待っていたのだ。食べる前にと端末を構えたら、向かいから声がした。

 

「冷めるぞ」

 

「もう冷ましてあるでしょう?」

 

「腹が減った」

 

「ごめん。どうぞ」

 

 手を合わせ、同じ卵焼きを一つずつ取る。朝の味見とはまた違う気がした。花の下で食べているからかもしれない。

 

 ホタルがそう言うと、セツナは自分の箸を止めて周囲を見渡した。

 

「家でも窓を開ければ変わるか」

 

「今度、試してみよう。でも、お弁当箱に入ってるのも大事なんだと思う」

 

「皿と何が違うんだ」

 

「開けるまで分からないところ」

 

「今朝、詰めてるのを見てただろ」

 

「それでも楽しみだったよ」

 

 セツナは鶏肉を頬張り、もう一度、開いた弁当箱を見た。ホタルもつられて覗く。食べたところだけ少しずつご飯が見えて、あんなに待ち遠しかった昼が、もう終わりに近づいていた。

 

 容器を重ねて果物を取り出すと、昨日の市場の店先まで思い出す。教えてもらったとおりによく熟れていて、甘いと言ったホタルの方へ、彼が最後の一切れを寄せてきた。

 

「セツナの分だよ」

 

「一つ食った。気に入ったなら食べていい」

 

 半分にしようとして、果汁が指に付いた。セツナが笑いながら布を渡す。綺麗に二つにできなかった大きい方を彼へ渡して、ホタルはようやく自分の分を食べた。

 

 食べ終えても、すぐ立つのは惜しかった。敷物を通して地面の硬さが分かり、風が来るたびに葉の影が手の上を動く。セツナは上着を畳んで脇へ置いたまま、さっきよりゆっくり瞬きをしていた。

 

 何か尋ねると、返事の前に少し間が空く。朝も早かったのだと思い、ホタルは膝の上に置いていた荷物をどけた。

 

「ここ、使う?」

 

「重いぞ」

 

「少しなら平気。お弁当のお礼」

 

「礼をもらうほどのことはしてない」

 

「じゃあ、あたしがそうしてみたいから」

 

 彼はこちらを見た。それから周りに人がいないことを確かめるように目を動かし、身体を横たえた。

 

 頭の重みが腿に載る。こんなに近くから顔を見下ろすのは不思議だった。髪を一房よけると、セツナの目がこちらを向く。

 

「痛くないか?」

 

「うん。……落ち着かない?」

 

「ホタルがずっと見てる」

 

「見ちゃ駄目?」

 

「駄目じゃないが」

 

 セツナは口を閉じ、やがて瞼も下ろした。まだ起きているのかと思って髪に触れると、額の力がわずかに抜ける。近くで見る頬の傷は同じでも、いつもこちらの様子を見てくれる目が閉じているだけで、ひどく無防備に感じられた。

 

 膝を動かすと起こしてしまいそうで、ホタルは姿勢を落ち着けた。二人きりになると話したいことを考えていたのに、今は眠っていてほしい。髪を指で梳きながら、その両方が自分の望みなのを不思議に思っていた。

 

 遠くで子供が笑い、彼の睫毛は動かなかった。

 

 花びらを追っていた子が、両手を上げて跳ねている。見上げる枝は少し高く、駆け寄った大人が抱き上げると、ようやく指が届いた。掴めたかどうかより、上へ行けたことが嬉しそうな笑い声だった。

 

 ホタルは膝へ目を戻す。この人も、あんなふうに抱き上げるだろうか。浮かんだ姿が意外なほどはっきりしていて、髪を梳く手が止まった。口にすれば、ただの想像よりもずっと大きな願いになる気がした。

 

 まだ眠っている彼の髪へ、もう一度そっと触れた。

 

 セツナが目を開けた時には、花の影が少し動いていた。

 

「どのくらい寝た」

 

「二十分くらい。よく眠れた?」

 

「ああ。首も痛くない」

 

「それならよかった」

 

 起き上がろうとした彼が、一瞬ホタルを見上げたまま止まる。視線の行き先に気づき、ホタルがリボンの辺りへ手を置くと、彼はすぐ横を向いた。

 

「……ごめん」

 

「そんなに慌てなくてもいいのに」

 

「気づかなかったふりをしてくれ」

 

「ちょっと難しいかな」

 

 横を向いた彼の耳が赤いので、ホタルまで照れてしまった。昼寝の顔を見ていたのは自分だけれど、起きた彼も自分の近さに戸惑ったのだと思うと、笑いがなかなか引かなかった。

 

 身体を起こすのを手伝い、自分も立とうとして、今度は足の痺れに止められた。セツナはそれを見てすぐしゃがみ直す。少し前まで膝で眠っていた人が、もうこちらを支える場所へ来ていた。

 

「だから重いと言っただろ」

 

「もう少し座ってれば治るよ」

 

「帰るまで時間はある。急がなくていい」

 

 二人で足を投げ出したまま、しばらく待った。ホタルはその間に、端末を前へ掲げる。

 

「最後に、一緒の写真も欲しい」

 

 セツナが隣へ寄る。画面に二人の顔と桜の枝が入ったところで、ホタルは少し背伸びをして、彼の頬へ唇を触れさせた。

 

 撮影音の直後、端末が傾いた。

 

「ホタル」

 

「ごめん。今の顔、撮れたかな」

 

 確認すると、自分は目を閉じ、セツナは驚いてこちらを見ていた。彼はその写真をしばらく見つめ、消せとは言わなかった。

 

「これも送っていい?」

 

「……ああ。ただ、人には見せるなよ」

 

「うん。これは二人の分」

 

 ホタルは写真を送り、画面を閉じた。

 

*

 

 公園の出口へ向かいながら、ホタルは何度か後ろを振り返った。次の風でまた花が散る。そこへ戻れば、まだ今日の続きを過ごせそうだったが、商店街から賑やかな声が聞こえると、そちらにも行きたくなった。

 

 約束どおり弁当の袋を受け取り、もう片方の手でセツナの手を握る。中身が軽くなった袋を提げて歩く自分を店の窓に見つけたところで、その向こうの小さな鞄が目に入った。肩へ掛けたら、今着ている服に合いそうだ。昨日は服のことしか考えられなかったのに、今日は持って歩くものまで気になっていた。

 

「見ていくか」

 

「でも、昨日も買い物したよ」

 

「見るだけでもいいだろ」

 

 結局、店員に頼んで鏡の前へ持っていくことになった。長さを調整すると、両手を空けて歩ける。中には端末と財布、水の小さなボトルも入りそうだった。

 

 セツナは横から眺め、留め具を指した。

 

「片手で開けられるのか、それ」

 

「うん。こうするの」

 

「なら使いやすそうだな」

 

 実際に何度か開け閉めしてみると、留め具は片手でも扱いやすかった。可愛いかどうかを聞くつもりだったのに、言われた方を先に試している。彼にはもう、これを毎日使う自分が見えているらしい。

 

 ホタルは財布を出し、包みは要らないと店員へ伝えた。外へ出てすぐ肩に掛けると、鏡で見るより身体に馴染む。セツナに袋を持ってもらいながら、少しだけ向きを変えて見せた。

 

「よく合ってる」

 

「そっちも言ってくれるの、待ってた」

 

「店の中で言えばよかったか」

 

「今でも嬉しいよ」

 

 次に入った書店では、セツナが医療書の棚へ向かった。

 

 ホタルは少し離れた棚で物語の本を探した。表紙に惹かれて一冊を開く。出会った二人が、長い旅の途中で互いの気持ちに気づいていく話らしい。最初の数頁を読んでいるうちに、横から影が差した。

 

「決まったか?」

 

「この本にしようかな。セツナは?」

 

 彼の手には分厚い一冊があった。新しい知見をまとめたものらしく、目次に何枚も付箋の見本が挟まっている。

 

「難しそう」

 

「全部を一度に読むわけじゃない。使うところからだな」

 

「あたしも、読んで分からないところがあったら聞いていい?」

 

「いいぞ。ただ、こっちの方が先じゃないか」

 

 彼がホタルの持つ本へ目を落とす。

 

「うん。今日はこっち」

 

 本を一冊ずつ買い、外へ出ると、焼き菓子の甘い匂いがした。

 

 春の果物を使った二種類の菓子が並んでいた。どちらにするか迷っていると、セツナが一つずつ頼んだ。店の脇で半分に分け、違う味を順番に食べる。

 

「こっちの方が好きかも」

 

「俺はもう片方だな」

 

「じゃあ、交換しなくてもよかった?」

 

「食べたから分かった」

 

 もっともな返事だった。ホタルは笑って残りを口へ運んだ。

 

 帰り際、今度はセツナが香辛料の店で足を止めた。店員に試させてもらった香りが、今日の鶏肉に合いそうだという。次は少し変えてみるか、と呟くのを聞き、ホタルは空の弁当箱が入った袋を抱え直した。

 

 あの味も好きだったけれど、違う味も食べてみたい。次にどこへ持っていこうかと考えながら歩くうち、家の看板が見えてきた。足には疲れがある。それでも、ここで今日の外出が終わってしまうことが、少し名残惜しかった。

 

*

 

 階段を上がると、窓辺の白い花が目に入った。昨日二人で場所を決めた鉢だ。外であれほど花を眺めていたのに、小さな蕾を見つけただけで、帰ってきたという感じがした。

 

 居間へ鞄を置いて足を休める間に、台所から弁当箱を開ける音がする。セツナの方が休むのはあとになってしまう。ホタルは端末に並んだ写真を見てから、背中へ声を掛けた。

 

「あたしも洗う。先に写真だけ、保存していい?」

 

「ゆっくりでいい。割れ物はないから」

 

 端末を開くと、ちょうどカフカから着信が入った。

 

 ホタルが応答すると、画面の向こうに見慣れた微笑が現れる。カフカは一目で服に気づいたらしかった。

 

「あら。今日はお出掛けだったのね」

 

「うん。公園に行ってきたよ。お花、すごく綺麗だった」

 

「その服で?」

 

「昨日、買ったの」

 

「よく似合っているわ。セツナちゃんにもそう言ってもらえた?」

 

 ホタルが返事をする前に、台所から水音が止まった。

 

「聞こえてるぞ、カフカ」

 

「ええ。聞いてもらっているつもりだったもの」

 

 セツナは布で手を拭きながら近づいてきた。ホタルの隣へ座ると、カフカは楽しそうに二人を見比べた。

 

「写真はある?」

 

「見せられるのなら」

 

 ホタルは花の写真と、弁当の写真を選んで送った。自分の制服姿も一枚添える。最後に撮った二人の写真は、そのまま端末の中へ残した。

 

 カフカは順に眺め、弁当のところで指を止めた。

 

「まあ、綺麗に作るのね」

 

「普段の飯を詰めただけだ」

 

「二人分の卵焼きも?」

 

「あれは、ホタルが好きだと言ったから」

 

 言ってからセツナが黙る。カフカの笑みが深くなったので、余計なことを口にしたと思ったらしい。ホタルは隣で、鞄の紐をいじりながら笑いを堪えた。

 

「今日は疲れすぎなかった?」

 

 カフカの問いに、ホタルは自分で答えた。

 

「少し歩いたけど、休みながらだったから。帰りにはお店も見られたよ」

 

「それはよかった。楽しかった?」

 

「すごく」

 

 迷わず答えると、カフカは一度、ゆっくり頷いた。

 

「そう。それが聞きたかったの」

 

 それが聞きたかったと言われて、ホタルはようやく、どれから話そうと迷わずに済んだ。花びらを髪から取ってもらったこと、同じおかずでも外で食べると違う味がしたこと。昼寝の話では隣のセツナが少し居心地悪そうに動いたので、そのことまで可笑しくなった。

 

 写真を撮る時に彼が固まってしまった話には、難しかったんだと本人も口を挟む。話していると、一度過ごした時間を彼やカフカともう一度楽しめる。ホタルが端末を少し持ち直したところで、カフカの視線が隣へ移った。

 

「セツナちゃん。これからも、そうして話を聞いてあげてね」

 

「聞いてる」

 

「今日の楽しかった話だけじゃなくて、泣きたくなった日の話も」

 

 セツナはすぐには答えなかった。ホタルも隣から彼を見る。やがて彼は、画面ではなくホタルへ一度目を移した。

 

「泣かせないとは言えないけどな。……そのまま、いなくなるつもりはない」

 

「ええ。それなら、あとは二人で話せるわね」

 

 カフカはそれ以上を求めなかった。今度は自分から連絡すると伝え、穏やかに手を振った。

 

 画面が暗くなる。ホタルは端末を膝へ置き、隣の手に指先を重ねた。

 

「さっきの、嬉しかった」

 

「簡単に言い切れることじゃないからな」

 

「うん。だから」

 

 セツナは重ねられた指へ目を落とし、しばらくそのままでいた。流しにはまだ弁当箱が残っている。ホタルはもう少しだけ座っていたかったが、彼の手を引いて立ち上がった。

 

「半分、あたしが洗うね」

 

「じゃあ、蓋を頼む」

 

 台所には二人で戻った。

 

*

 

 夕食を終えた頃には、外の花の色はもう見えなくなっていた。ホタルは制服を掛け直し、部屋着でソファへ座る。書店で選んだ本を開くと、隣でもセツナが分厚い本の頁をめくった。時々、どちらかの指が紙の端を離し損ねる音まで聞こえる。

 

 物語の二人は長い旅をしていた。ここまで一緒に歩いたなら分かりそうなものなのに、別れ際になっても肝心の言葉が出てこない。ホタルは次の行へ目を急がせ、そのまま場面が変わりそうになったところで、小さく息をついた。

 

「面白くなかったか?」

 

「違うの。言えばいいのにって思って」

 

「何を?」

 

「好きだって。ここまで一緒に来たのに、お別れするところで言わないんだよ」

 

 セツナは少し考えた。

 

「言ったら、別れるのが難しくなるからじゃないか」

 

 ホタルは本から顔を上げた。物語には、まだその理由が書かれていなかった。でも、そんな気もした。

 

「……セツナなら、どうする?」

 

「先を読んでから考えたい。今聞いたところだけじゃ、そいつが何をしに行くのか分からない」

 

「そっか」

 

 彼の答えが妙に真剣だったので、ホタルは頷いて本へ戻った。数頁先で、登場人物はようやく立ち止まる。待っていた言葉が出てきて、ホタルは無意識に彼の袖をつかんだ。

 

「言った?」

 

「うん」

 

「よかったな」

 

 セツナが本を閉じたので、ホタルも栞を挟んだ。時計を見ると、思っていたより遅い。昼の花の下と同じで、一緒に黙っている時間は、あまり長さを感じさせなかった。

 

 寝室へ行く前に窓辺へ寄ると、白い蕾が一つ開いていた。顔を近づけて覗いたところで、昼間、枝へ伸びていた子供の手を思い出す。膝の上の重みも、その時浮かんだ彼の姿も、花を見ただけで戻ってきた。

 

 本の登場人物には、言えばいいのにと思った。自分は今日、このまま眠ってしまうのだろうか。ホタルは花から顔を上げた。

 

「セツナ」

 

「どうした」

 

 彼は本を棚へ戻すところだった。ホタルは窓辺から離れ、その前へ立つ。

 

「今日ね、公園で、小さな子がいたでしょう。花びらを追い掛けてた子」

 

「ああ。俺が起きた時にも、まだ走ってたな」

 

「セツナが、あんなふうに子供を抱っこしてるところ、見てみたいなって思ったの」

 

 セツナの手が棚から離れた。

 

 彼が手を止めたのを見て、自分の声が思いのほか真剣だったことに気づいた。もう少し軽く話し始めるつもりだったのかもしれない。けれど彼は笑わずに待っていてくれる。その目を見たまま、ホタルは先を続けた。

 

「いつか、子供も欲しい。……セツナと」

 

 言い終えると、通りの遠い音まで聞こえた。セツナは一度息を吐き、何か考えている。待つ間に、昼間は簡単に浮かんだ光景へ、自分の病や彼の抱えるものが重なってくる。それでも、もう冗談にして引っ込めたくはなかった。

 

「俺は、自分の中にいるものを、まだ抑えきれてない」

 

「うん」

 

「お前の身体のこともある。俺たちが望んだから、それだけで大丈夫になるとは思ってない」

 

「分かってるよ。今すぐ、何も考えずにって言いたいわけじゃないの」

 

 言いながら、少し声が細くなった。

 

「ただ、そう思ったことを、知っていてほしかった」

 

 セツナが近づいてきた。ホタルの手を取り、指の間へ自分の指を入れる。返事を急いでいない握り方だった。

 

「俺も、考えたい」

 

 顔を上げる。

 

「弁当を、二人分じゃなく作ることとか。帰ったら、もっと騒がしくなってる家とか。……すぐに想像できることばかりじゃないけどな」

 

 ホタルは笑おうとして、先に目の奥が熱くなった。

 

「お弁当からなんだ」

 

「今日、作ったからな」

 

「そっか」

 

 今朝も、彼は卵を切り分けていた。弁当箱がもう一つ、あるいはその先にも増えるところなら、自分にも想像できる。ホタルは笑ったまま目元を熱くして、セツナの上着をつかんだ。

 

 額を胸へ預けると、腕が背中に回る。返事を待つ間に強張っていた肩が、そこへ収まってから少しずつ下りた。すぐに叶うと言われたわけではない。それでも明日から、一人で隠して考えなくていい。彼の上着を握る指だけは、なかなか緩められなかった。

 

「好きだよ、セツナ」

 

「俺も、ホタルが好きだ」

 

 顔を上げたところへ、唇が触れた。

 

 一度離れ、また近づく。昼間、自分から頬へ触れた時とは違って、どこへ手を置けばいいのか少し迷った。セツナの肩へ腕を回すと、彼もゆっくり抱き直してくれた。

 

 唇が離れてからも、ホタルは肩へ回した手を残していた。顔を見れば何か言いたくなりそうで、けれど今夜はもう、大切なことを一つ聞いてもらえた。セツナが背中から手を下ろすのに合わせ、自分もそっと離れる。

 

 寝室へ向かう途中、椅子の新しい鞄に袖が触れた。台所では洗った弁当箱が乾いている。明日は診療があり、起きればまた、二人で朝食を食べる。その先のことまで少し話せた今日が、どこへ触れてもまだ残っていた。

 

 ホタルは彼の手を握り直し、一緒に寝室へ入った。

 




ヘルタ(人形)の次回予告

花を眺めた春が過ぎれば、窓を開けても暑い夏。よく知っているつもりの相手に、まだ知らない顔が見つかる頃ね。次回、第四話「夏・君の変化」。海へ誘う準備はできたみたいだけれど、その棚の奥の秘密まで見つからないように。
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