太平洋の夢 第二巻 「海洋国家宣言」   作:水野 純也

13 / 14
第十三章 ユダヤの都市

第十三章 ユダヤの都市

 

  東京・豊原 一九四〇年(昭和十五年)十二月〜一九四一年(昭和十六年)八月

 

 

 十二月、黒瀬は条約局長に就いた。

 四十二歳。辞令は、一枚の紙だった。

 外務省の廊下を歩く時、すれ違う顔が変わった。頭を下げる角度が変わった。同じ廊下だった。

 石射が新しい執務室に来た。窓が広かった。

「動く幅が、広がりますね」

「広がります」と黒瀬は言った。

「次の仕事が、本番です」

「分かっています」

 

  *

 

 一月、黒瀬は豊原に向かった。

 稚内から船に乗ると、出港してすぐ、海の色が変わった。灰色の中に、白が混じり始めた。流氷だった。

 船は速度を落とした。氷の塊が船腹に当たった。鈍く、重い音だった。一度ではなかった。繰り返した。その度に、船体が微かに揺れた。

 水平線がなかった。白と灰色が溶け合って、どこが海でどこが空か、分からなかった。船室には石炭ストーブがあり、石炭の匂いと海水の匂いが混ざっていた。

 樺太の島影は、七時間以上たってから見えた。最初は灰色の線だった。近づくにつれて、白になった。山が白く、丘が白く、浜も白かった。松の黒だけが、その白の中に立っていた。

 大泊の桟橋に降りると、冷気が顔を打った。肺の奥まで入った。息をすると白い煙が出て、消えても、また出た。

 桟橋も倉庫も、延びたレールも、雪の下にあった。しかし、動いていた。荷が動き、人が動いていた。この寒さの中でも、港は止まっていなかった。

 豊原への道を、馬橇で進んだ。圧した雪を踏む蹄の音がした。固い、乾いた音だった。

 町に入ると、煙があった。

 一本ではなかった。あちこちから煙が上がり、石炭の青い煙が、白い冬空に溶けていた。

 三四年に初めて来た時、豊原の煙は少なかった。三八年には、増えていた。今は、煙が町の上を覆っていた。

 煙の数が、建物の数だった。建物の数が、人の数だった。

 石造りの建物があった。煉瓦造りの建物があった。三八年に土台だったものが、屋根になっていた。どの窓からも灯りが漏れ、冬の白い午後の中で、その灯りの方が明るかった。

 通りの人は、厚い外套で足を速めていた。立ち止まれば、寒さに負ける。だから急ぐ。急ぐ理由のある人間が、この町にいた。

「局長、お出迎えが」と後ろから声がした。

 振り返らなかった。この煙を、もう少し見ていたかった。

 

  *

 

 ミリアムは、新しい庁舎にいた。

 石造りで、入口の両脇に日章旗と樺太イスラエル国旗が並んでいた。

 外壁に、文字が刻んであった。黒瀬はその前で立ち止まった。ヘブライ語だった。

 ——散らされた民を、四方より集める。

 三七年頃から、少しずつ学んでいた。ミリアムに言われたからではない。必要だと思ったからだ。七年前、仮設住居の庭で子供が二人、泥の中で遊んでいた。その記憶と、この石の建物が、同じ場所にあった。

 部屋に入ると、ミリアムは書類の山の向こうにいた。

「局長になったのね」

「はい」

「おめでとう、とは言わない。仕事が増えただけでしょう」

「その通りです」

 ミリアムは紅茶を出した。それから、黒瀬を見た。

「入り口で、立ち止まってたでしょう」

「読みました」と黒瀬は言った。

「読めるようになったの」

「ほぼ」

「一九三三年の三月です」と黒瀬は続けた。「ジュネーブで、あなたが置いていった紙に、同じ言葉が書いてあった」

 ミリアムは少し間を置いた。

「覚えていたの」

「読めなくても、形は覚えていました」

 部屋が静かになった。

「あの碑文は、あなたが選びましたか」

「選んだわ」

「なぜ、その言葉を」

「あなたが読める日が来ると思ったから」とミリアムは言った。「読めるまでに、八年もかかったけど」

 黒瀬は答えなかった。

「港を見た?」とミリアムは言った。

「見ました。随分、大きくなった」

「ロスチャイルドの建設資本が動き始めたの。去年の夏から。あなたの省が送ってくれた重機隊が加わった」

 八月に要請した案件だった。重機十二台、技術者三十二名、建材の優先供給。書類が現実になるまで三ヶ月、現実が音になるまで、さらに三ヶ月。今、それを見ていた。

「アメリカからも来てる。ニューヨークのユダヤ系財団から、病院の増設資金と学校の運営費。それから——」少し間を置いた。「アントワープのダイヤモンド業者の組合が、事務所をここに置くことを決めたわ」

「アントワープが」

「ベルギーが戦場になったから。世界のダイヤモンド取引の中心が動いてる。どこへ行くか、まだ決まっていない。ここは、候補の一つ」

 窓の外に、白い豊原があった。

「北樺太が、また動いてるわね」とミリアムは言った。窓を見たままだった。「私が凍らせた商談。解け始めた水の匂いくらいは、分かるの」

「窓口は替わりました」と黒瀬は言った。「モスクワに出入りしているのは、ヴァイツマンの代理人たちです。しかし机の上にあるのは、あなたの三本の柱のままだ。文言は、一字も変わっていません」

「あの時は、答えもしなかったのに」

「あの時は、あなたをあの国に近づけたくなかった」

 ミリアムは少し黙った。

 

  *

 

 四月十三日、モスクワで条約が結ばれた。

 日ソ中立条約。表の条文は四条。互いを攻撃しない。一方が第三国と交戦した場合、他方は中立を守る。有効五年、自動延長。

 その紙が生まれるまでに、三つの流れがあった。

 一つ目は、スターリンの計算だった。ドイツが西で動いている。東の国境を固めなければ、二正面になる。日本と結べば、極東の兵力を西に回せる。

 二つ目は、松岡だった。欧州を歴訪し、ベルリンでヒトラーに会い、ローマでムッソリーニに会い、モスクワでスターリンと会った。帰りの駅に、スターリンが見送りに来た。異例のことだった。モスクワが何を求めているかを、示していた。ジュネーブの演壇から八年、松岡洋右が、また地図の中心に戻っていた。

 三つ目は、見えない流れだった。

 ヴァイツマンが、モスクワを動かした。ユダヤ資本の網を通じて、外貨に飢えたソ連に利益を示した。動いた金はヴァイツマンのものだった。しかし金が流れ込む水路は、ミリアムが五年前に掘り終えていた。粛清が奪ったのは署名する手だけで、書類は豊原の金庫で無傷のまま、冬を越していた。

 蒔いたのはミリアムで、刈り入れたのはヴァイツマンだった。

 北樺太の主権移転は、表の条約には書かれなかった。同日の秘密議定書の中にあった。ソ連は北樺太の主権を樺太イスラエル国に移譲する。対価はヴァイツマンの資金。日本の石油権益は維持される。

 交渉の卓で、ソ連側は一度だけ言ったという。主権は、売り物ではない——。

 代理人は、用意された一枚の紙を出した。一八六七年、ロシア帝国がアラスカをアメリカに売った時の、条約の写しだった。

 前例は、ある。貴国の前身が、作った前例だ。

 卓は、それで進んだ。

 黒瀬は議定書の日本側条文を書いた。石射と何度も書き直した。日本が署名できる形にする——それが仕事だった。モスクワの実務はヴァイツマンの代理人が担い、台本は、ミリアムが五年前に書き上げたものだった。

 署名の日、黒瀬は東京にいた。ミリアムは豊原にいた。

 夜、電報が届いた。ヘブライ語で、一語だった。

 ——受け取った。

 それだけだった。それだけの向こうに何があるか、黒瀬には分かった。

 一九三三年三月の四点提案。第二点が国家になるまで、一年。その国家が全島を得るまで、八年。

 八年は長かった。長かったが、今日が来た。

 机の抽斗は、開けなかった。今夜は、素面でいる夜だった。祝いは、素面でするものだ。

 

  *

 

 六月二十二日、ドイツがソ連に侵攻した。

 黒瀬は深夜の外務省で電報を受け取った。三百万の兵が、東に向かった。二年前に世界を驚かせた独ソ不可侵条約が、その朝、反故になった。

 新聞は、待っていたように北を向いた。

 好機、の二字が一面に立った。社説は三日で勇ましくなり、南京で「聖戦」を組んだ活字が、今度は北へ向けて組まれた。売れる方角が、変わっただけだった。

 陸軍からも文書が来た。北進の好機です——署名は田中ではなかった。別の名前で、同じ論理だった。陸軍は「演習」の名で、七十万を満洲に集め始めた。演習という言葉が、一番大きな部隊名だった。

 黒瀬は地図を出した。

 ソ連が西を向いた。豊原への圧力が、今日から変わった。ミリアムが言い続けた「紙の向こう」が、別の形になった。北進はしない。しなくても、今のソ連に紙を破る余裕はない。

 豊原は、安全になった。それで十分だった。

 石射が来た。

「御前会議が開かれます。南進か、北進か」

「南進になります」と黒瀬は言った。

「なぜ分かるのですか」

「海軍が南を選ぶからです。石油がある。海軍は海で動く。海は、南にある」

「その後は」

「その後に、アメリカが来ます」

「期限が、決まりましたね」と石射は言った。

「決まりました。急ぎます」

 七月、御前会議は南進を決めた。その夜、黒瀬はワシントンとの交渉準備を始めた。

 翌朝、豊原から電報が届いた。

 ——八月、東京に行きます。

 それだけだった。

 窓の外に七月の東京があった。蒸していて、蝉の声がした。パリが落ちた夏と、同じ音がした。

 一年で、何が変わったか。一年で、何が変わっていないか。

 設計図は、動いていた。

 

  *

 

 七月二十八日、日本軍が南部仏印に入った。

 北部の時と違い、ワシントンは三日で答えた。在米日本資産の凍結。八月一日、石油の全面禁輸。

 蛇口が、閉まった。

 黒瀬は海軍から回ってきた数字を机に並べた。石油の備蓄、平時の消費で二年分。戦時なら一年半。艦隊が全力で動けば、もっと短い。

 期限が、数字になった。

 これまで期限は言葉だった。いずれ、そのうち、遠からず。八月一日から、期限は石油缶の数になった。石油缶は毎日減る。増える道は、二つしかない。アメリカと話がつくか、南の油田を取るか。

 話すか、奪うか。

 国の選択肢が、二つまで減った夏だった。

 街では木炭バスが白い煙を吐き、隣組の回覧板が金属の供出を求めていた。寺の鐘が、供出で消えた町があると新聞の隅にあった。鐘の音の消えた町で、回覧板だけが回り続けた。

 

 

 

火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)

 

n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート

https://note.com/hal_miz/m/me316d0840b0b

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。