第十七章 クリッパー
横須賀〜ワシントン 一九四一年(昭和十六年)十一月
横須賀から台湾まで、海軍の爆撃機が飛んだ。
機体は冷たかった。金属の匂いと、航空燃料の匂いがした。座席は固く、窓は小さく、床は絶えず振動した。プロペラの轟音が、すべてを飲み込んだ。
黒瀬は窓の外を見た。海が見えた。
一月に宗谷海峡で見た海ではなかった。あの時は白と灰色だった。今の海は、青かった。深い、本物の青だった。太平洋の青は、他の海の青と光の量が違った。
来栖三郎は目を閉じていた。眠っているようには見えなかった。指が、わずかに動いていた。数えているのか、祈っているのか、分からなかった。
ハーバードで学び、ベルギーとドイツに赴任し、アメリカ人の妻を持つ男の顔だった。国境を何度も越えた人間には、独特の静けさがある。どこにも完全には属していない人間の、静けさだった。
平和に向かっているのか、戦争に向かっているのか。この爆撃機の中にいる間は、どちらとも思えなかった。
*
台湾で海軍の水上機に乗り換え、マカオへ飛んだ。
水上機は低く飛び、海面が近かった。南シナ海の色は、太平洋の青より緑に近かった。暖流の色、浅い海の色だった。
マカオで一夜を明かした。ポルトガル人が建てた街だった。石畳と教会。アジアの熱気の中に、ヨーロッパの石が立っていた。誰かがここに来て、自分の建物を建て、自分の神を持ち込んだ。建物は残り、神は忘れられた。
夜の路地は、線香と揚げ物と潮の匂いがした。何十年も、同じ匂いがここにあったのかもしれなかった。
翌朝、フェリーで香港へ渡った。港に靄がかかり、英国の船と英国の旗が見えた。
「英国が見ています」と来栖は言った。
「見えていないふりをしている」と黒瀬は言った。
「それが英国のやり方です。自分が見ていることを相手に知らせない。知らせないことで、摩擦を生まない」来栖は港を見ていた。「今のイギリスには、その余裕がなくなっている。だから、今がある」
「今が」
「日本が動ける今が、ということです。どう動くかは、別の話ですが」
香港からマニラへは、アメリカの小型機だった。操縦士は三十代のアメリカ人で、笑顔が多かった。来栖が英語で話しかけた。
来栖の英語は、特別だった。文法が正確なだけではない。息継ぎの位置がアメリカ人のそれで、言葉が出る前に、思考がすでにアメリカ語で動いていた。操縦士が笑い、来栖も笑った。
来栖にとって、アメリカ人は敵ではなかった。家族の側の人間だった。
*
マニラで、チャイナ・クリッパーに乗り換えた。
ボーイング三一四型飛行艇。全長三十二メートル、翼幅四十六メートル。水上に浮かぶ姿は、船に近かった。銀色の塗装が午後の光を跳ね返し、四つのエンジンのカバーは、人の背丈を超えていた。
パンアメリカン航空。乗組員の制服は軍服に似て、軍服ではなかった。ここから先は、アメリカの管轄だった。
乗り込む前に、来栖が隣に立った。
「ここからが本番です。グアム、ウェーク、ミッドウェー、ホノルル、サンフランシスコ。ワシントンまで、十日以上かかります」
「着いた日から、動きます」
来栖はしばらく機体を見た。
「私は、日本とアメリカが戦争をするとは、今も信じていません。どちらも望んでいない。望んでいない二つの国が戦争になるとしたら、それは、設計の失敗です」
「設計の失敗です」と黒瀬は言った。
「設計し直せますか」
「それを、しにいきます」
四つのエンジンが順に唸り、機体全体が一つの震動体になった。船体が波を切り、しぶきが窓を叩き、機体が浮いた。波の音が消え、風とエンジンの音が残った。
マニラ湾が眼下に広がり、港の船が小さくなり、人が見えなくなった。
太平洋が、始まった。
*
グアムまで、七時間。海だけがあった。
水平線の先に、また水平線があった。丸い地球の上で、国境は線だった。その線を越えるために、人間は何千年も争ってきた。
途中、エンジンの一つが数秒、音を乱した。乗客の誰も、声を出さなかった。来栖も目を開けなかった。落ちたら、助からない。それだけのことだった。数秒後、音は戻った。
何も言わないことが、この旅の正しい作法だった。言葉にすると、言葉は現実を引き寄せる。だから言わない。それでも、海はそこにあった。
グアムで燃料を入れ、また飛んだ。
*
ウェーク島に着いたのは、夕方だった。
珊瑚礁の、かろうじての陸地だった。飛行艇が着水し、エンジンが止まると、静寂が体に響いた。空が橙色に染まり、海が橙色を吸って、橙色を返した。
夜、黒瀬は島の縁に立った。波の音が、一定のリズムで止まなかった。この波は、ここにいる人間が生まれる前からあり、いなくなった後も、あるだろう。
来栖が隣に来た。珊瑚砂を踏む靴音がした。
「太平洋の真ん中です」と来栖は言った。「東京からもワシントンからも、同じくらい遠い。どちら側にも、属していない」
波が来て、引いた。
「妻は、アメリカ人です」と来栖は言った。
「知っています」
「私の子供は、日本人でもあり、アメリカ人でもある。どちらにも属している。どちらも、本物です」
波が来て、引いた。
「もし、この交渉が失敗したら」と来栖は言った。「二つの国が戦争をしている時、その両方の血を持って生まれた人間は、どこに立てばいいか」
来栖は海を見ていた。
「だから、失敗できない。個人的な理由で、失敗できない」
黒瀬はしばらく海を見た。
「設計図に、そういう場所があります」と言った。「どちらの側でもない場所が、太平洋に必要だ、という発想が」
「見せてもらえますか」
黒瀬は内ポケットから紙を出した。八年分のインクが層になり、最初の文字と最後の文字は、別の人間が書いたように見えた。同じ人間が書いた。八年で、その人間が変わっただけだった。
来栖は長い間、読んだ。頭上に銀河があった。人間が地図を持つ前から、航海者はこの星を使っていた。
「ハワイ」と来栖は言った。
「はい」
「日米共同管理」
「提案です。まだ、案の段階です」
「ルーズベルトがこれを読んだら、どう思うか。想像しています」
「ハルに届けます。ハルが噛み合えば、大統領まで届く。グルーが橋を渡してくれます」
来栖は紙を折り返し、黒瀬に返した。
「一つだけ。あなたは、なぜこれを作ったのですか。一九三三年に、なぜ」
「設計図がなければ、何をしているか分からなくなります」と黒瀬は言った。「地図を先に書いてから歩く人間がいる。私は、そういう人間です」
「これが通ると、信じていますか」
「信じています。信じていなければ、ここには来ていません」
波が来た。引いた。また来た。それだけが、繰り返されていた。
*
ミッドウェーを、夜明け前に発った。
東の端が白くなり、飛行艇が浮いた瞬間、その白が広がった。水平線の向こうから光が来て、海の色が黒から紺に、紺から青に変わった。
太平洋の夜明けを空の上で見る人間は、多くない。このために生きてきたわけではなかった。しかし、見てしまった。
来栖も、窓を見ていた。それで、足りた。
*
ホノルルに着いたのは、十一月の中旬だった。
降下が始まると、窓の下にエメラルドと群青の間の海があった。珊瑚礁が透け、浅瀬の白が深海の青と隣り合っていた。
その青の中に、白い航跡があった。
軍艦だった。
ホノルルの沖に、アメリカ太平洋艦隊が停泊していた。空母は、海に浮かぶには大きすぎるように見えた。しかし、浮いていた。戦艦、巡洋艦、駆逐艦。整然と並んだ、軍港の秩序だった。
艦隊がハワイにいるのは、去年からだった。母港をカリフォルニアから、太平洋の真ん中へ進めた。日本への牽制だと、新聞は書いた。
牽制の的の一つが自分の紙であることを、黒瀬は知っていた。太平洋に秩序を、と八年書き続けた。秩序という言葉に、ワシントンの誰かが、艦隊で返事をした。
提案が、艦隊を呼んだ。
呼ばれた艦隊が、いま、静かに並んでいた。
着水して外に出ると、空気が温かく、花と海の匂いがした。十一月なのに、夏だった。
補給の間、黒瀬は港を見た。
真珠湾。設計図の中で何度も書いた名前の場所に、立っていた。
炎に包まれた戦艦を、想像した。想像してはならなかった。しかし、想像した。想像ではなく、見えた。存在するかもしれない現実が、透けて見えた。
目を閉じた。
来栖が隣に来た。
「間に合わせましょう」
「間に合わせます」
カリフォルニア・クリッパーが動き始め、真珠湾が遠くなった。
*
サンフランシスコ。シカゴ。ニューヨーク。大陸を横断した。
内陸には砂漠があり、山があり、川があった。端から端まで、日本列島をいくつも並べられる広さだった。その広さの中に人が散らばり、人と人の間に土地があった。日本は、逆だった。
日本は、この国と戦争をしようとしている。
三つの言語が、騒ぎ始めた。
黒瀬は、考えることをやめた。動くために、考えることをやめる。八年で身についた、体の癖だった。
小瓶は、東京の抽斗に置いてきた。置いてきたことを、いま初めて、確かめるように思い出した。
ニューヨークに入ったのは、夜だった。無数の灯りが、地上にあった。
「アリスは、ニューヨークの生まれです」と来栖は言った。目に、灯りが映っていた。「ここに来るたびに、妻のことを思います。今夜は、どうしているか。心配しているでしょう。それでも、待っています。そういう人間です」
窓の外に、ニューヨークの夜があった。
「行きましょう」と来栖は言った。
*
ワシントンに着いたのは、十一月十七日だった。
灰色の空に、冷たい風。東部の冬の始まりだった。雲が、権力の街を押さえていた。
「ここからは、別々に動きます」と黒瀬は言った。
「あなたが裏を使う。私が、正面を引き受ける」
「お願いします」
来栖は黒瀬を見た。
「信じて、いいですか」
職業的な確認ではなかった。妻の国に来た男が、個人として発した言葉だった。
「信じてください」と黒瀬は言った。「この設計図を、私は八年持ち歩いています。今日ここで、間違える気はありません」
来栖は小さく頷いた。
二人は、別の方向に歩いた。ワシントンの冬の街に、二人の日本人が入っていった。
時計は、動いていた。
火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)
n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート
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