太平洋の夢 第二巻 「海洋国家宣言」   作:水野 純也

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第十八章 太平洋平和協定

第十八章 太平洋平和協定

 

  ワシントン・ホノルル・東京 一九四一年(昭和十六年)十一月十八日〜十二月八日

 

 

 ワシントンに着いた翌日、黒瀬はグルーと会った。

 大使館ではなかった。記録に残せない話のための場所だった。グルーはコートを脱いでいなかった。

「着きましたね」とグルーは英語で言った。「時間がない。残り時間がどれだけあるか、私にも分からない」

「ハルに、話を持っていけますか」

「持っていきます。しかし、ハルは硬い人間です。硬くなる理由が、彼にはある。——中国です。アメリカは、中国での日本の行動を許容できない。その前提を崩さない限り、ハルは動かない。ルーズベルトが動いても、ハルが止める」

「動かせるものがあります」と黒瀬は言った。

 グルーは、コートのままで聞いた。

 翌日も、その翌日も会った。黒瀬が話し、グルーが聞いた。質問が増え、質問の角度が日ごとに鋭くなった。三日目の夜、グルーは言った。

「ハルに話します。保証は、しません」

 その夜、二人は遅い食事をした。ジョージタウンの、テーブルの間隔が広い店だった。

 食事の終わりに、黒瀬は聞いた。

「東京で、血の話として聞くかもしれない、と言われました。あの言葉の意味を、まだ教わっていません」

 グルーはナプキンを畳んだ。畳み終わるまで、答えなかった。

「私の口からは、言いません」とグルーは言った。「大統領は昔、南部の地方紙に文章を書いていた時期があります。一九二五年頃の、ジョージアの新聞です。——読むなら、御自分で」

 それだけだった。

 翌日、黒瀬は議会図書館に行った。

 新聞の綴じ込みを申請し、閲覧室の広い机で、十六年前のジョージアの地方紙を繰った。埃と古い紙の匂いがした。神田の店の匂いに、少しだけ似ていた。似ていることが、その日は嫌だった。

 コラムは、見つかった。

 日本人移民の帰化と土地所有への反対。そして、一つの文があった。アジア人の血とヨーロッパ人あるいはアメリカ人の血の混交は、十中八九、最も不幸な結果を生む——。

 黒瀬は頭の中で、その一文を三つの言語に訳した。どの言語でも、柔らかくならなかった。

 署名は、いま執務室の車椅子に座っている男のものだった。

 綴じ込みを閉じ、係員に返した。返す手つきは、いつも通りにできた。

 閲覧票に書いた名前だけが、いつもより少し、硬い字になった。

 

  *

 

 正面のテーブルは、その間も動いていた。

 野村と来栖は国務省に通い続け、東京は最後の持ち駒——乙案を訓令していた。南部仏印から兵を引く。引き換えに、石油の禁輸を解く。戦争を九十日、買い戻す案だった。

 ハルの側にも、対になる紙があった。暫定協定案。最終条件を、九十日の時間に変える紙だった。

 十一月二十四日の夜、二つの紙は、ほとんど重なった。

 来栖からの電話は、久しぶりに速い声だった。骨子は合う。文言も詰まる。ハルは前向きだ。あとは大統領の裁可だけだ——。

 重なった二枚の紙を、一本の電話が裂いた。

 ホワイトハウスからだった。理由は、伝えられなかった。

 十一月二十六日、暫定協定案の代わりに、ハル・ノートが手渡された。

 文書は長く、要求は明確で、余地はなかった。中国からの完全撤退。仏印からの完全撤退。蒋介石政権のみの承認。独伊との同盟の永久否定。最後通牒に、近かった。

 その夜、来栖は黒瀬の部屋に来た。上着を着たままだった。

「合意の寸前まで、行きました」と来栖は言った。「指の先が、触れていた。それを、上から引き剥がされた」

 誰が、とは言わなかった。言う必要が、なかった。

「正面は、ここまでです」と来栖は言った。「ここからは、あなたの道だ。歩いてください」

 黒瀬は設計図を取り出し、グルーに電話をした。

 その頃、太平洋の北では、艦隊が錨を上げていた。

 択捉島、単冠湾。空母六隻——赤城、加賀、蒼龍、飛龍、翔鶴、瑞鶴。戦艦が続き、巡洋艦が続き、駆逐艦が続き、潜水艦が潜った。無線封止のまま、艦隊は南東へ向かった。

 ハル・ノートがワシントンで手渡された時、艦隊はすでに海の上にいた。

 外交が最後の文書を読む前に、作戦の時計は動き始めていた。

 

  *

 

 それから毎晩、三人が会った。野村吉三郎駐米大使。来栖三郎特命全権大使。黒瀬誠一郎外務大臣特使。

 野村は六十代の、海軍出身の武人だった。ワシントンで一年以上、交渉が空転するのを見てきた。疲れた目をしていた。しかし、諦めた目ではなかった。

「ハルは、こちらの手の内を知っている」と来栖が言った。「こちらが言う前に、分かっている」

「暗号かもしれません」と野村は言った。

 部屋が静かになった。言えることは、何もなかった。

 三人は電文を書き、暗号に変え、東京へ打電した。

 その電文を、アメリカ側が読んでいた。ハルの手元に英訳が届く速さは、東京の暗号班が解読する速さより、速かった。三人は、それを知らなかった。

 

  *

 

 ハルに会ったのは、十一月二十八日だった。

 コーデル・ハル。長身、白髪、テネシーの政治家。疑い深く、原則を曲げず、妥協は外交術ではなく失敗だと考えている男の目をしていた。

「あなたが、黒瀬さんですか。グルーから聞きました。樺太にユダヤ人の国を作った外交官だと。日本政府の公式な立場ではない、と」

「そうです」

「では、あなたは何者として来たのですか」

「設計図を持っている人間として、来ました」

 ハルは長い間、黒瀬を見た。

「話してください」

 黒瀬は話した。一九三三年から。ジュネーブから。樺太から。ハルは何も言わず、メモも取らず、しかし聞いていた。

「東京は、石油の確保を最優先と考えていると聞きました」とハルは言った。

 誰かが教えたのか。それとも——。

「その通りです」と黒瀬は言った。「仏印と中国から手を引く代わりに、石油を確保できる仕組みを作る。その話を持ってきました」

 設計図を、机の上に広げた。

「蘭印です。オランダはドイツに占領され、蘭印は宙に浮いている。日本が委任統治を引き受ける。国際監視委員会の設置を条件とする。石油の問題が、戦争なしに解決できます」

「ハワイとフィリピンは」

「日米共同統治の枠組みです。太平洋に、どちら側でもない管理の場を作る。蘭印が軌道に乗れば、これが次の段階になる」

「戦争なしに、太平洋に足場を持てるということですね」とハルは言った。「そしてアメリカは、太平洋の憂いなしに欧州に集中できる」

「二正面は、アメリカにも重い。大西洋は米英が守り、太平洋は米日で守る」

「うまく、出来ています」とハルは言った。「しかし、うまく出来ていることと、実現することは、別の話です。日本の軍部がこれを呑むとは、私には思えない。東京が割れる。軍が止める。時間が足りなくなる。そのどれかが、必ず来る」

「それでも、やります」

 ハルは少し間を置いた。

「大統領に見せましょう。結果は、保証しません」

 

  *

 

 東京から返電が来た。来栖が読み、顔が変わった。

「陸軍が反対しています。中国からの撤退は論外。蘭印の国際監視は主権侵害だ、受け入れられない、一字も変えるな、と」

「東郷大臣は」

「抑えようとしています。しかし、固まっていない」

 野村は壁の時計を見た。

「時間は、ない。これはもう外交の話ではなく、軍の作戦の話になっている。作戦には期限がある。期限が来れば、外交は終わる」

 黒瀬は電文を書いた。東郷大臣へ——蘭印の産出量。現在の備蓄量。開戦した場合の消費速度と、枯渇までの試算。委任統治が成立した場合の、十八ヶ月後の比較。そして、夏の机上演習の数字——青国の二本の曲線を、そのまま陸海軍に見せてほしい。感情ではなく、数字で。

 口外無用とされた数字だった。出せる人間は、大臣しかいなかった。

 打電した。夜が、深かった。

 

  *

 

 十二月一日、グルーから連絡が来た。

「大統領が読みました。明日の午後、会えると言っています」

 受話器を置くと、来栖が言った。

「ルーズベルトが、動いた」

「会うと言っただけです。まだ、動いていない」

 

  *

 

 フランクリン・ルーズベルト。

 車椅子だった。脚は動かなかった。しかし上半身は大きく、声は低く、目は明るかった。誰もいない廊下に、車椅子の音が響いた。

「黒瀬さん」とルーズベルトは言った。「文書を読んだ。樺太のことも聞いた」

 言葉に、温度がなかった。評価しているのか、試しているのか、分からなかった。

「あなたの国の軍部は、今どんな状態か」

「東郷大臣が抑えています。しかし、時間がありません」

「私も同じだ。日本が仏印にいる間、私が議会を抑えられる期間には限りがある」

 それから、一つ聞きたい、と大統領は言った。

「日本は、ドイツとどういう関係にあるのか」

「条約関係には、ありません」

「太平洋が落ち着いたら、日本は、どちらを向く」

「設計図に、まだ書いていない頁です」

 ルーズベルトは笑った。感じのいい、大きな笑いだった。温度だけが、なかった。

「設計図も見せてもらったよ。おもしろい。——だが、物事には時期というものがある。ハルと、話を続けてくれたまえ」

 会見は、十五分で終わった。

 廊下に出てから、黒瀬は気づいた。

 大統領は、一度も「ハワイ」と言わなかった。設計図の中心の言葉を、一度も口にしなかった。

 ホテルへ戻る車の中で、グルーの言葉が戻ってきた。血の話として、聞くかもしれない——。

 議会図書館の綴じ込みの一句が、車の中まで付いてきた。

 あの部屋で、大統領は提案を聞きながら、十六年前に自分が書いた文章の側から、テーブルの向こうの日本人の顔を見ていたのかもしれなかった。そして、二度口にしたドイツの名前——大統領は、何かを探しているように聞いた。

 確かめる方法は、なかった。確かめる方法のないものが、この交渉の一番深いところに、置かれていた。

 

  *

 

 十二月四日、東京から電文が来た。

 陸軍省が動いていた。中国撤退不可。国際監視の受け入れ不可。主権の侵害である。条件が変わらない限り、交渉の即時打ち切りを要求する——。

 三人は黙った。窓の外は、ワシントンの静かな冬の夜だった。

「東郷大臣に電話します」と黒瀬は言った。

「安全ですか」と野村が言った。

「安全な電話はありません。しかし今は、電話するしかない」

 符丁は決めてあった。回線が繋がるまで、時間がかかった。

「縁談の件です」と黒瀬は言った。「親族の反対が激しいと聞きました。しかし、先方にも動きがあります。結婚の見込みが、まだあります」

「どれくらい、時間が要りますか」と東郷は言った。

「三日です」

 沈黙があった。

「二日しかありません」と東郷は言った。「十二月七日、東京時間の正午。それ以上は、私が抑えられない」

「分かりました」

 電話が切れた。来栖が時計を見た。

「四十八時間を、切っています」

 太平洋の北を、大艦隊が静かに南下していた。

 

  *

 

 十二月五日の朝、二度目の会見が実現した。

 ハルとグルーが二日かけて大統領を押した——それは、後で知ったことだった。

 ルーズベルトは、前と同じ部屋で、前と違う目をしていた。

「太平洋の平和と、ナチスの敗北だ」と、前置きなしに言った。「この二つが同時に手に入るなら、私はハルも議会も動かせる。あなたの提案が通るだけの力を、私は使うだろう。条件は一つ——日本に、ドイツと戦ってもらいたい」

 部屋が静かになった。

 黒瀬は設計図を見た。余白が、あった。

「ハルと詰めます」と黒瀬は言った。

 同じ日の午後、ハルと向き合った。

「対ドイツ全面参戦です」とハルは言った。「宣戦布告、地上部隊の欧州派遣、海軍の大西洋展開。それが大統領の条件です」

「受け入れられません。仏印撤退、中国撤退、国際監視——これだけでも陸軍との摩擦は激しい。その上に地上部隊の欧州派遣を求めれば、東條内閣が倒れる。倒れた後に来る内閣は、交渉をしません」

「では、日本に何ができますか」

「宣戦布告です」と黒瀬は言った。「ドイツへの宣戦布告。海軍の一部をインド洋に展開し、護衛と補給と医療を担う。それが、今の日本にできる限界です」

「象徴に過ぎない」

「象徴から始めます。宣戦布告をすれば、日本はドイツの敵になる。後戻りはできない。段階的に拡大する枠組みを、文書に入れてください。それが担保になります」

「大統領が議会を動かすには、象徴だけでは足りません」

「ハワイとフィリピンの共同管理枠組みも、この協定に含みます」と黒瀬は言った。「太平洋の共同管理。これが示されれば、大統領は議会に、日本が本当に太平洋でアメリカの側に立つと示せる」

 ハルは、長く黙った。

「大統領に確認します。今夜中に返事をする。それは、約束します」

 その夜、東京から電文が来た。来栖が読んだ。

「ハワイとフィリピンの枠組みを——海軍が、評価しています。戦争なしに太平洋に足場を持てる、と読んでいる。対ドイツ参戦は全員が反対。しかし東郷大臣が、蘭印と太平洋の枠組みが全部手に入るなら、象徴的な参戦を呑む可能性がある、と。ただし——陸軍が知らない状態で、文書を先に通してほしい、と」

 三人は黙った。

「ハルの返事を待ちます」と黒瀬は言った。

 

  *

 

 東京、十二月六日。

 東郷は首相官邸にいた。東條英機は、書類から顔を上げて言った。短い言葉で言う男だった。

 言う前に、胸の内ポケットに一度だけ、手を当てた。

「九月六日の決定は白紙に還す。組閣の時の御諚だ。陛下の御心はあの御歌にある。外交で纏まるなら、纏めよ。陸軍は、私が抑える」

 東郷は頭を下げた。

「一つ」と東條は言った。「統帥に関わる条項を、統帥部の外で通す。いつか、干犯と騒がれる。騒がれる時は、私が前に立つ」

 それだけ言って、書類に戻った。

 天皇の意思という一点で動く男だった。その一点が、いま、外交の側にあった。

 

  *

 

 返事は、来なかった。

 五日の夜が明け、六日になった。詰め終えた文書は、署名を待つだけになっていた。なっていたのに、日取りが来なかった。グルーへの電話は、秘書官の丁寧な声で止まった。大統領は、執務中です——。

 ホワイトハウスが、沈黙していた。

 執務室で、大統領は読んでいた。

 傍受された日本の外交電の英訳が、毎朝、机に載る。東京が大使館に打つ電報を、東京の暗号班が解くより速く、この机は読んでいた。期限は十二月七日、東京時間の正午。十二時間後だ。在米の日本公館に暗号機を処分せよという訓令が出たことも、机は知っていた。

 紙を、あと一日寝かせればいい。

 期限が切れる。切れれば、向こうが撃つ。最初の一発を向こうに撃たせる形——それが、閣議のテーブルで確かめてきた形だった。撃たせれば、議会は一つになる。裏口から、大西洋の戦争に入れる。

 机の上には、別の紙もあった。

 財務長官の覚書。ユダヤ系の諸団体が、対日開戦に強く反対している。樺太への航路と送金の線は、開戦で閉じる。あそこには、我々が送り出した十二万人がいる——書いた財務長官自身が、その「我々」の側の人間だった。

 陸軍参謀総長の覚書。フィリピンの増強には、まだ数ヶ月を要する。いま太平洋で戦端が開けば、最初の半年は守勢に立つ。

 そして、詰め終えた協定の文書。日本が、ドイツに宣戦する、と書いてある。

 大統領は何ヶ月も、東京とベルリンの間の見えない糸を探させていた。条約はなくても、裏の糸はあるはずだった。糸さえあれば、日本と戦えば、ベルリンは付いてくる。裏口の設計は、その糸の上に建っていた。

 あるはずの糸は、どの傍受電にもなかった。何ヶ月探しても、なかった。日本は、本当に、独りだった。

 撃たせて手に入るのは、日本との戦争だけかもしれなかった。日本は、ベルリンと条約を結んでいない。防共協定にも、三国同盟にも入らなかった。日本と戦っても、ヒトラーがアメリカに宣戦する義理は、どこにもない。裏口を開けたら、望んだ大西洋ではなく、太平洋だけの戦争が広がっているかもしれなかった。

 署名して手に入るのは、太平洋の静けさと、対独の同盟国だった。

 大統領は、長いホルダーで煙草を一本吸い、灰を落とした。

 計算は、最後の桁で、平和を指した。

 血の好悪は、計算に含めなかった。含めない訓練の、できた男だった。

 日が沈んで間もなく、国務長官に電話が行った。

 

  *

 

 十二月六日の夜、八時を回った頃、電話が鳴った。グルーだった。

「ハルが、受け入れます。対ドイツ宣戦布告とインド洋展開、段階的拡大の枠組み。ハワイとフィリピンの共同統治枠組みの明記。仏印と中国からの撤退、蘭印の委任統治。——大統領も、同意しました」

 黒瀬は受話器を持ったまま、動かなかった。

「署名は」

「明朝です」

 受話器を置いた。来栖と野村が見ていた。

「合意しました」と黒瀬は言った。

 野村は、何も言わなかった。一年以上をこの交渉に費やした男が、長い間、何も言わなかった。

 黒瀬は電文を書いた。東郷大臣へ。

 ——縁談、成立セリ。

 それだけ、打電した。

 来栖が時計を見た。

「東京の期限——こちらの、今夜十時です。二時間を、切っています」

 

  *

 

 十二月七日、日曜日の午前。

 文書は、二枚に分かれていた。

 一枚目は、公表される協定。「太平洋平和協定」と名付けられた。中国と仏印からの段階的撤退。国際監視委員会の設置を条件とする、蘭印の委任統治。経済制裁の段階的解除。ハワイとフィリピンの日米共同統治枠組み。樺太イスラエル国の国際的地位への、アメリカの積極的関与。

 二枚目は、公表されない付属議定書だった。日本は連合国側に立ち、時期を自ら選んで、対ドイツ宣戦を布告する。海軍の一部をインド洋に展開し、作戦の範囲は段階的に拡大する——。

 二枚目は、表に出ない。表に出ない紙の方に、この協定の本当の重心があった。

 北の秘密議定書が北樺太を動かしたように、太平洋の秘密議定書が、大西洋を動かすことになる。

 来栖が日本側の署名をした。二度。ハルがアメリカ側の署名をした。二度。

 黒瀬は、部屋の端に立っていた。

 ペンが紙を擦る音が、四度した。それだけだった。

 部屋に記者はいなかった。写真を撮る人間もいなかった。窓の外は曇っていて、冬のワシントンの光が、薄く部屋に入っていた。

 来栖が振り返り、目が合った。何も言わなかった。言葉は、要らなかった。

 廊下で、来栖は立ち止まった。

「対ドイツ参戦。設計図に、書いていましたか」

「書いていませんでした」と黒瀬は言った。「ルーズベルトが書いた」

「東京の軍部は、後で何と言うでしょう」

「言う、では済まないでしょう」と黒瀬は言った。「統帥に関わる条項を、統帥部の頭越しに通した。干犯の二字が、一面に立ちます。辞めさせられる者が出る。もっと悪いことも、起きるかもしれない。とてつもない騒ぎになります」

「それでも」

「それでも、蘭印と石油と枠組みは、もう紙の上にある。怒りで沈めるには、実利が重すぎる——そうなるように、積みました。ただ、勘定が世間に見えるまでの間、誰かが的になる。的になる覚悟のある者だけで通した紙です。東郷大臣も、私も」

 来栖はしばらく黙って歩いた。

「その名簿に」と言った。「私の名前も、入れておいてください。署名したのは、私です」

 それから、少し間を置いて聞いた。

「あなたは、これが最初から見えていたのですか」

「見えていませんでした」と黒瀬は言った。「東京でグルーが、東條大臣が読んだ。ウェーク島の夜に、あなたが読んだ。ワシントンで、ハルが、ルーズベルトが読んだ。それぞれが、余白を埋めた。私一人が書いた設計図ではなくなりました」

 来栖は頷いた。二人は長い廊下を、出口まで歩いた。

 

 *

 

 ワシントンの夜、黒瀬は一人で外に出た。

 冷たい風が吹いていた。ポトマック川が近く、暗い水が静かに流れていた。

 設計図を取り出した。八年分のインクの跡だった。

 広げた。書かれている文字を見た。書かれていない余白を見た。

 余白は、まだあった。まだ、書いていないことがあった。しかし今夜は、ここまでだった。

 紙を折り畳み、内ポケットに入れた。

 ふと、思った。上海の店は、まだあるだろうか。

 それから、ミリアムのことを思った。豊原のことを思った。十二万の人間が、今夜も眠っている。その土地が、今日、少しだけ安全になった。

 散らされた民を、四方より集める。

 その言葉を、黒瀬は声に出さずに読んだ。ヘブライ語で、読めた。

 一九三三年のジュネーブで、ミリアムが置いていった紙を、黒瀬は読めなかった。今は、読める。

 八年かかった。八年目に、今日が来た。

 川の音だけが、あった。

 

 

 

 

火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)

 

n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート

https://note.com/hal_miz/m/me316d0840b0b

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