太平洋の夢 第二巻 「海洋国家宣言」   作:水野 純也

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第三章 海洋国家宣言

第三章 海洋国家宣言

 

  東京 一九三四年(昭和九年)一月〜七月

 

 

 一九三四年の東京には、「非常時」という言葉が根を下ろしていた。

 新聞が使い、ラジオが使い、小学校の訓話が使った。何が非常なのかを言える者は少なかったが、言えないことが、かえって言葉を強くした。景気は底を打ち、軍需で息を吹き返した町工場の煙突が、川沿いに煙を並べ始めていた。

 その東京で、四点提案の二年目が始まった。

 

  *

 

 一月の海軍省は静かだった。廊下を歩く将校たちの足音が、床の石に吸い込まれていった。

 堀悌吉は三階の小会議室に入った。先に来ていた二人が立ち上がった。座らせた。

 向かいの二人は、作戦課の大佐と、軍務局の中佐だった。どちらも四十代、どちらも頭が良く、どちらも慎重だった。堀はこの二人を信頼していた。信頼できる人間と話すときだけ、堀は一拍を置かなかった。

「黒瀬書記官の図面の話をする」と堀は言った。「石油から始める」

 大佐が書類を開いた。堀が事前に渡した一枚の紙——芝の会合を堀自身がまとめたものだった。海軍の書式ではなかった。堀個人の紙だった。

「北樺太の重油は帝国海軍の生命線だ。ソ連との操業条件は五年ごとの見直しで、次は昭和十二年に来る。そのときソ連が条件を変えれば、われわれに選択肢はない。呑むしかない」

 大佐が頷いた。知っている話だった。

「黒瀬の案は、土地を渡して採掘権を残す。相手はソ連ではなく、樺太に立つ新しい国だ。二国間協定に固定すれば、五年ごとに人質を取られる話が消える」

「その国が成立するという前提が——」と中佐が言いかけた。

「前提は今から作る」と堀は遮った。一拍を置かないときの堀は速かった。「ジュネーブで種は蒔かれた。連盟の樺太審議は今年が山だ。芽が出るまでに海軍が動かなければ、陸軍に潰される。だから、海軍が公式に、樺太石油権益の確保を外務省に要請する。記録に残る形で」

「公式に、ですか」

「公式に」と堀は繰り返した。「一人の書記官の図面を、海軍の要請文書に変える。紙になった要請は、私が消えても残る」

 窓の外に、冬の東京湾が見えた。灰色の海を、船が一隻、ゆっくり動いていた。

 あの船を走らせている重油がどこから来るか、乗組員の何人が知っているか——知らなくていい、と堀は思った。知らなくても船は動く。しかし自分は、知っていなければならない。

 年が明けても、堀は軍務局長の椅子に残っていた。海の上の職に出す、という内示が一度あって、消えた。消した力の出所を、堀は詮索しなかった。総理官邸の主が海軍の老提督であることと、無関係ではないだろうと思うだけにした。

 

  *

 

 松岡洋右は、冬の間に三つのことをした。

 一つ目。田中大佐と会った。外務省近くの料亭で、二人だけで。田中は最初から機嫌が悪かった。

「外務省は、ユダヤ人の女に官金を払い始めましたな」と田中は言った。

「樺太調査の嘱託です。金額も名前も、帳簿に載っています」と松岡は言った。「載っている金の、何が問題ですか」

「使い道が問題です」

「使い道は調査です。調査の報告書が上がれば、陸軍省にも回覧される。読んでから怒鳴りに来られたらいい」

 田中は盃を置いた。

「連盟は」と田中は言った。「脱退は、どうなりました」

「いずれ」と松岡は言った。

「いずれ、では困る」

「四点提案は、出口を良くするための時間です。連盟が四点を履行できなければ、今度は堂々と出られる。あの三月に出ていれば、喧嘩別れだった。次に出る時は、義理を果たした男の退場になる」

 松岡は田中の盃に酒を注いだ。注ぐ手つきだけが、丁寧だった。

「出る出ないは、その時の政府が決めることですがね」

 最後の一文にだけ、逃げ道が切ってあった。切ってあることに、田中は気づかなかった。

「黒瀬は使えますか」と田中は聞いた。

「使えます」と松岡は即座に言った。「ただし、使い方を間違えると危ない。樺太の件は、外務省が主導しなければならない。海軍でも、陸軍でもなく」

 田中はしばらく松岡を見て、分かりました、とだけ言った。

 松岡は料亭を出た。田中に何かを約束したわけではなかった。しかし田中は、何かを受け取ったと思っているだろう。それで十分だった。

 二つ目。近衛に連絡を取ろうとした。

 取れなかった。秘書を通し、今週は日程が、と言われた。翌週も同じだった。三度試みて、三度同じだった。三度続けば意味がある。松岡はそう判断した。

 近衛は、自分を使わないつもりだ。

 その判断が松岡の中に静かに落ちた。落ちて、沈んで、冷えた。

 三つ目。幣原の周辺に、さりげなく聞いた。幣原が最近、誰と会っているか。

 答えは二つだった。近衛と——黒瀬だった。

 夕暮れの廊下で、松岡は窓の外の丸の内を見た。ジュネーブで読み上げた四点提案。あれは自分の言葉だった。少なくとも、松岡はそう思っていた。しかしいま、あの提案が動いている回路の中に、自分はいなかった。幣原がいた。近衛がいた。海軍の堀がいた。黒瀬がいた。自分だけが、地図の外にいた。

 ジュネーブの夜に弾いた算盤が、合わなくなっていた。一年の拍手を捨てて、教科書の一行を買った——その一行を書くのは、回路の中にいる者たちだ。回路の外にいる男の名を、誰が書く。帳簿には、払いの欄だけが残っていた。

 ならば、と松岡は思った。俺は俺の聴衆を探す。

 松岡は年の暮れに衆議院の議席を捨てていた。政党を解消せよ、既成政党は国難の役に立たぬ——その運動の旗を、年が明けてから本格的に振り始めた。演説会は、どこも満員になった。ジュネーブの英雄の声は、議事堂よりも、講堂でよく通った。

 捨てた拍手を、松岡は講堂で買い戻していた。

 買い戻した拍手の中にいるとき、回路の外にいることを忘れられた。

 

  *

 

 赤坂の幣原邸。二月の夜。

 近衛文麿は、庭に面した応接間に座っていた。冬の庭は暗く、枯れた木が窓の外に立っていた。枝が一本も動かない。風がないのか、根が深いのか、近衛には分からなかった。

 幣原が茶を運んできた。日曜ではなかったが、家の者は出てこなかった。

「松岡君が、政党解消で人を集めています」と近衛は言った。

「知っています」

「放っておいて良いのですか。あの声は、大きくなる」

「大きくなった声は、いつか使い道ができる」と幣原は言った。「今の段階で松岡君に舞台を渡すと、舞台ごと大きくなりすぎる。いまは静かに動かねばならない」

 近衛は茶碗を置いた。

「海軍は」

「堀君が動いています。要請文書を作らせている。あの人は静かで速い」

「陸軍は」

「田中大佐が松岡君と会いました。松岡君は何かを渡したつもりになっている。田中大佐は何かを引き出したつもりになっている。どちらも、自分が上手くやったと思っている」

 近衛が微かに笑った。

「先生は、いつもそういう見方をなさる」

「長く外交をやると、そう見えてくるのです。人間は、自分が何かを得たと思いたい生き物でね。その感覚を邪魔しなければ、大抵のことは通る」

 窓の外で、風が動いた。枯れ木の枝が揺れた。

「黒瀬を表に出すつもりはない」と幣原は続けた。「書記官が動きすぎると潰される。設計者は、見えないところにいなければならない。あなたが前に出る。海軍が公式に動く。その後ろに黒瀬がいる。それが順序です」

「本人は、どう思っているでしょう」

「自分が動かしていると思っているでしょう」と幣原は言った。静かに。「それで構わない。動く人間は、自分が動かしていると思っていなければ、動けない」

 近衛は頷いた。今度は、少し間を置いてから。

 幣原の目的と自分の目的が、完全には重ならないことを、近衛は知っていた。幣原は国際協調を守りたい。自分は——近衛は茶碗を持ち上げた——自分は、次の時代の中心にいたい。その違いは、いまは問題にならない。しかし、いつか問題になる。

 それを幣原も知っているだろう、と近衛は思った。知った上で、使っている。

「春に、勉強会を開きます」と近衛は言った。「黒瀬を一度、呼んでみます。表向きは、ただの読書会として」

「それがいい」と幣原は言った。

 二人はまた黙って茶を飲んだ。枯れ木が、窓の外に立っていた。

 

  *

 

 四月、黒瀬は麹町の近衛の私邸で開かれた読書会に呼ばれた。

 集まりは十数人だった。大学の教師、若い官僚、新聞の論説委員。肩書は軽く、顔ぶれは重い、そういう集まりだった。

 黒瀬に与えられた題目は、太平洋の資源、という地味なものだった。黒瀬は統計を三十分話し、最後に一枚の地図を広げた。

「大陸は、行き止まりです」と黒瀬は言った。「土地は、奪えば守らねばならず、守れば人と金を吸われる。奪った線の先には、次の線があるだけです。海は違う。海は誰のものでもないから、道になる。島国の資源は、線ではなく、網で確保するべきです」

 質問がいくつか出た。近衛は末席で聞いていて、一度も発言しなかった。

 帰り際、玄関で近衛は一言だけ言った。

「行き止まり、というのは、良い表現ですね」

 借りていきますよ、とも、返しますよ、とも言わなかった。

 

  *

 

 五月の終わりに、東郷平八郎が死んだ。

 六月の国葬の日、東京は喪の色になった。沿道は人で埋まり、砲車の車輪の音だけが、静まった大通りを渡っていった。日本海で帝国を救った提督は、八十六年生きて、神になって送られた。

 黒瀬は沿道の後ろの方に立って、砲車を見送った。

 七才の年、日比谷で講和反対の群衆を見た。あの群衆が焼いたのは、この提督の勝ちが安く売られた、という怒りだった。二十九年経って、同じ通りが、同じ提督のために静まり返っている。群衆の熱は姿を変えて、いつも通りのどこかにいた。

 省に戻ると、条約草案の机が待っていた。神話が霊柩車で通りを渡った同じ日に、海軍の実務家たちは、油の値段の上限をどう書くかを議論していた。

 どちらも海軍だった。どちらも、本物だった。

 

  *

 

 黒瀬が築地に呼ばれたのは、そのすぐ後だった。

 夜の築地は魚の匂いがした。市場が近く、夜中でも動いている場所の匂いだった。料亭の廊下で、出てくる客と一度すれ違った。背の低い、肩の厚い軍人だった。会釈だけして、下駄の音を残して消えた。

 個室で、堀は一人だった。

「同期です」と堀は、聞かれる前に言った。「航空の男でね。表で動けない相談を、裏で聞いてもらっている。——それより、本題だ」

 堀は徳利に手を付けずに言った。

「海軍は動きます。今月中に、樺太石油権益の確保を求める要請文書を外務省に出す。ただし、条件がある」

「聞かせてください」

「二国間協定の草案を、外務省が作ること。草案に、採掘量の優先配分と、価格の上限を明記すること。叩き台は、秋までに」

 黒瀬は頭の中で数えた。四ヶ月。ミリアムとの往復、ジュネーブとの調整、省内の根回し。十分とは言えなかった。

「分かりました。私が書きます」

 堀が一拍置いた。短い一拍だった。

「あなたが書けますか。条約の草案というものは——」

「書いたことはありません」と黒瀬は言った。「しかし、読んだことは百本以上あります」

 堀はそれを聞いて、また一拍置いた。今度は長かった。

「分かりました」とやがて言った。

 料亭を出て、黒瀬は魚の匂いの中を歩いた。

 設計図を書いていた男が、今日から条約を書く。設計図は、誰かが実現するものだ。条約は、国家が動くものだ。同じ紙の上の文字が、別の重さを持つ。

 歩きながら、頭の中で三つの言語が、条約の第一条を勝手に訳し始めていた。英語が終わる前に仏語が始まり、露語が割り込んだ。

 上着の内ポケットに、小瓶の重さがあった。今夜は使う、と決めた。騒ぎを黙らせて、日本語だけで書き出しを決める夜だった。

 

  *

 

 七月の初め、堀から短い葉書が来た。文面は時候の挨拶だけで、末尾に一行あった。

 ——名簿の件、沙汰止み。条約は良い盾です。

 意味は、次に会ったときに分かった。数日後の芝で、堀は自分から言った。

「予備役編入の名簿に、私の名前が載りかけた。載せたい人たちが、艦隊派の側にいる。消えた理由は簡単でね。北樺太の協定を書ける人間を、いま海軍から出すわけにはいかない——大臣がそう判断した。それだけです」

「私は条約に守られた。つまり私はこれから、条約に命を預けた将官として生きる。悪くない担保だが、忘れないことです。紙が私を守ったのなら、紙が破られる日は、私が破られる日だ」

 

 七月の末、近衛文麿は丸の内のホテルの例会で演説をした。知識人、官僚、財界人、百人以上が集まっていた。

 近衛は、声が大きすぎず小さすぎず、速すぎず遅すぎない速度で話した。

 一つ目は、日本が国際連盟に残ったことの意味だった。孤立ではなく、関与。脱退ではなく、提案。近衛は四点提案を「帝国の新しい外交の形」として語り、松岡の名前を出した。黒瀬の名前は出なかった。

 二つ目は、海洋国家としての日本だった。大陸は行き止まりである——近衛はそう言い切った。海を制する国家が持つ外交の自由。資源を大陸の線ではなく、海洋の網で確保する構想。海軍への謝辞があった。黒瀬の名前は出なかった。

 三つ目は、枢軸でも連合でもない、第三の道だった。ドイツは強い。しかし方向が一つしかない。一つの方向にしか動けない国家は、いつか壁に当たる。日本はその壁の手前で、別の航路を選ばなければならない——。

 会場は静かに聞いた。拍手は長かった。翌朝の新聞は、演説に「海洋国家宣言」という見出しを付けた。

 黒瀬は帝国ホテルの朝食の席でそれを読んだ。コーヒーと卵と、三段組みの記事。見出しの脇に、大陸は行き止まりである、という一句が太字で抜かれていた。三回読んだ。

 自分の言葉だった。設計図を書いたときの自分の言葉が、近衛の口を通って、活字になっていた。名前は、どこにもなかった。

 分かっていたことだった。それでも、紙の上で確かめた瞬間、胸の中で何かが小さく音を立てた。

 これは私の言葉だ——誰かにそう言いたい、という衝動だった。給仕でもいい。隣の席の客でもいい。この太字の一句は、四月の読書会で、私が地図を広げて言ったのだ、と。

 衝動は三秒続いた。黒瀬はそれに名前を付けて、仕舞うことにした。嫉妬。持っていない、と思っていた感情だった。持っていないのではなく、これまで使う場面がなかっただけらしい。

 設計者の名前が見えない方が、設計図は長く動く——幣原の言葉を、黒瀬は算盤のように頭の中で弾き直した。正しい。正しさは胸の音を消してはくれなかったが、小さくするくらいの役には立った。

 コーヒーは冷めていた。飲み干すと、苦かった。苦いのはコーヒーだけではなかったが、コーヒーのせいにしておいた。

 窓の外の大手町を、人が歩いていた。みな、自分が何かを動かしていると思っているか、誰かに動かされていると思っているかの、どちらかの顔をしていた。

 黒瀬は勘定を置いて、席を立った。

 条約草案の第二稿が、省の机で待っていた。

 

 

 

火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)

 

n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート

https://note.com/hal_miz/m/me316d0840b0b

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