太平洋の夢 第二巻 「海洋国家宣言」   作:水野 純也

4 / 4
第四章 樺太イスラエル国

第四章 樺太イスラエル国

 

  東京 一九三四年(昭和九年)七月〜八月

 

 

 七月の初め、待ち侘びていた報せが来た。

 日本政府、樺太イスラエル国を正式承認。英国・フランス同日承認。ヴァイツマン代表、豊原にて受諾声明。

 黒瀬は外務省の自室でその電報を受け取った。午後三時だった。窓から皇居の濠が見えた。夏の濠は、光っていた。

 黒瀬は電報を三回読んだ。

 国家承認だった。連盟加盟はまだ先だ。申請から審議、総会の三分の二の賛成が要る。それは来年以降の話だった。しかし今日この瞬間、樺太イスラエル国は国際法上の国家になった。一九三三年三月、ジュネーブの演壇で松岡が読み上げた四点提案の第二点が、一年と四ヶ月で国家になった。

 悪い感触ではなかった。しかし、何かが足りなかった。黒瀬はしばらく、その足りなさを探した。

 やがて分かった。音がなかった。承認の瞬間を、黒瀬は音として聞かなかった。紙として受け取った。戦場の勝利には音がある。外交の勝利には、紙がある。

 夕刊から、紙面が変わった。

 英仏同日承認——この一行が、論調の錘になった。一年前の春、帰国の桟橋に「軟弱外交、極まれり」の一面を持ってきた社が、「帝国外交の勝利」と組んだ。同じ整理部の、同じ活字の箱からだった。

 立花は両方の紙面を切り抜いて、机の抽斗に重ねて仕舞った。日付だけ、書き添えた。

 数日後、佐藤尚武からの報告書が届いた。欧州での説得の記録だった。

 英仏の外務省は、最初は同じことを言ったという。政府の実体も持たない土地を国家として承認した前例はない、と。

 前例はあります、と佐藤は答えていた。

 一九一八年、チェコスロバキア。承認された時、彼らには確定した領土すらなかった。あったのはパリの亡命評議会と、名簿と、意志だけだった。それでも英仏は国家として承認した。戦争に、必要だったからだ。

 国家承認とは完成の証明書ではない。賭け金だ、と佐藤は書いていた。

 そして英仏には、今度も賭ける理由があった。

 英国の理由はパレスチナだった。ヒトラーが政権を取って一年。ドイツを出るユダヤ人が全員パレスチナへ向かえば、アラブとの委任統治が持たない。移民の圧力を逃がす、もう一つの出口。英国にとって樺太は、最初からその弁だった。

 フランスの理由はもっと単純だった。難民は、出口がなければパリに溜まる。

 もう一つ、両国に共通する理由があった。四点提案が実体になれば、日本は連盟の側に留まり続ける。承認の一筆は、日本を国際秩序に繋ぎ止めるための、安い錨だった。

 黒瀬は報告書を読み終えた。

 善意で動いた国は、一つもなかった。全部が計算だった。

 それでよかった。計算は、善意より長持ちする。

 

  *

 

 閣議で承認を決めたのは老蔵相の一言だった。慎重論が出たとき、高橋是清が卓を見ずに言ったという。三十年前、ロシアのユダヤ人虐殺を憎んだ男の金で、この国は日本海の海戦を戦った。その借りを、私はまだ返していない——。閣僚たちは、それ以上言わなかった。日露戦争の外債をロンドンで引き受けさせた老政治家が、まだ蔵相の椅子に座っていた。

 承認の閣議は、斎藤内閣の最後の仕事のひとつになった。

 同じ七月、内閣が倒れた。

 帝人事件——株の払い下げをめぐる疑獄だった。

 あの三月の夜、枢密院の日程を二日繰り延べた老提督が、樺太承認の判を最後に残して、紙面と検察に押し出され、政治から去った。

 後継は、同じ海軍の岡田啓介だった。引き継ぎの書類は膨大だったが、その中に、詔書の項目はなかった。撤回されたのではない。載らなかったのである。

 渙発されなかった詔書は、誰の決裁も経ないまま、ただの紙に戻った。

 紙に戻ったことを報じた新聞は、一紙もなかった。存在しなかったものは、消えても記事にならないのだった。

 

  *

 

 条約は余白で動く。

 石射猪太郎はそれだけ言って、黒瀬の机の上の草案を一枚めくり、また戻した。読んだのではなかった。重さを確かめたのだった。七月の半ば、堀の要請文書が省に届いて十日目だった。

「書きすぎています」と石射は言った。「条約に書いてあることは守られない。書いていないことが守られる。その逆は成立しない」

 黒瀬は万年筆を置いた。

「守られないことを書くな、ということですか」

「守られないことを書くと、守られなかった時に意味を失う」

 石射は窓の外を見た。

「条約とは、双方が守りたいと思えるものだけを書く文書です。守りたいと思わないことを書いても、紙になるだけだ」

 石射猪太郎は四十七歳だった。外務省で中国畑を歩き、満洲事変の時は吉林総領事として不拡大方針を一人で貫いた。陸軍に何度も呼び出され、呼び出されるたびに同じことを言った。帝国の方針に従っているだけです、と。その言い方で二年を乗り切った。

 黒瀬は石射を尊敬していた。尊敬という言葉を、黒瀬は滅多に使わなかった。しかし石射には使えた。

「採掘量の優先配分と価格の上限」と黒瀬は言った。「これを書かなければ、海軍が動きません」

「書き方の問題です」と石射は言った。「上限を書くのではなく、協議の枠組みを書く。上限は議事録に残す。本文には入れない」

「議事録は、条約と同じ効力を持ちますか」

「持たない。しかし破った時の政治的コストは同じです」石射は振り返った。「外交は法律ではない。政治的コストで動く」

 黒瀬は草案を見た。十七ページあった。石射の言う通り、書きすぎていた。

「削ります」

「半分にしなさい。それでもまだ多いかもしれない」

 石射が出て行った後、黒瀬は最初のページに戻り、万年筆を持って、最初の一文を消した。

 消した後の余白を見た。

 条約は、余白で動く。

 

  *

 

 八月、京城から一枚の校正刷りが、人づてに黒瀬の机に届いた。

 朝鮮中央日報の論説の、組み上がったまま世に出なかった紙面だった。題は「樺太に成りし国」。筆者は社長の呂運亨——上海で独立運動に身を置き、いまは新聞を率いている人である。論説は樺太承認を淡々と追い、最後の段で第四点に触れていた。

 ——国家が、国家の内なる民族に自治を約する。この一句の射程は、樺太に留まらぬであろう。

 その段に、検閲の赤鉛筆が引かれていた。三度組み直し、三度削られ、結局載らなかったという。

 黒瀬は校正刷りを、一番下の抽斗に仕舞った。アイヌの抽斗だった。

 載らなくても、読まれている。

 

  *

 

 八月の末、ミリアムが東京に来た。

 七月の承認で、樺太イスラエル国は交渉の相手国になった。解嘱——役所はそういう言葉を使った。

「二年前、この役所は私に机をくれた」とミリアムは言った。

 会計課の属官が、嘱託手当の綴りを持ってきた。解嘱の書類を綴じる前に、ミリアムは綴りの最初の頁を開いた。二年前の稟議書だった。欄外に判が並んでいた。課長、局長、次官。その端の、要らないはずの場所に、小さな二字があった。高橋。

「これは?」

「蔵相の判です」と黒瀬は言った。「嘱託の手当に、大蔵大臣の判は要りません。要らないのに、押されていました。黙って」

 ミリアムはその二字を、しばらく見ていた。

「会ったことは?」

「ありません」と黒瀬は言った。「会わないままでいい判も、あります」

 属官が綴じ紐を結び、綴りは棚に戻った。七ヶ月間が、棚に戻った。

 

  *

 

 省を出たのは六時過ぎで、外はまだ明るかった。ミリアムの宿は駿河台の下だった。送る、という名目が立った。名目は、二人の歩く速さで嘘になった。どちらも、遅く歩いた。

 神田の古本屋街に、灯が入り始めていた。店先の台で、売れ残りの本が紐で括られていた。

 一軒の店の前で、黒瀬の歩みがわずかに緩んだ。間口一間半。硝子戸の奥に裸電球と帳場が見え、白髪の男の背中が、本の埃を払っていた。

 黒瀬は、止まらなかった。

 三軒先まで歩いてから、ミリアムが言った。

「さっきの店ね」

「何がですか」

「あなたが育った匂いの店」

 黒瀬は答えなかった。答えないことが、答えになった。

「寄らないの?」

「報告できることが、まだ何もありません」と黒瀬は言った。「父は紙を売る仕事で、紙に書けない話を、あの帳場でするわけにはいかない」

「変な理屈」とミリアムは言った。「でも、あなたらしい」

 駿河台の下の蕎麦屋に入った。ミリアムは箸を正しく使った。樺太の半年は、箸の国の半年でもあった。

「明日から、私は外国人ね」

「今日までも外国人です」

「今日までは、あなたの役所の外国人。明日からは、机の向こう側の外国人」ミリアムは猪口を置いた。「次に会うときは、交渉の席かもしれない」

「その方がいい」と黒瀬は言った。

「あら」

「机のこちら側にいる限り、あなたの言葉は手当の綴りに綴じられて、棚に戻ります。向こう側に座れば、あなたの言葉は、国の言葉として記録に残る」

 ミリアムは黒瀬をしばらく見て、それから蕎麦に戻った。

「あなたのそういう理屈、二年前は書類の話に聞こえた」と言った。「いまは、少し違って聞こえる」

「どう聞こえますか」

「教えない」

 宿の前で、ミリアムは鞄から通行証を出した。外務省の門を通るための、写真の付いた一枚だった。

「これも、返すものの一つ」

 黒瀬は受け取った。写真の中のミリアムは二年前のミリアムで、いまより少し痩せていた。

「預かります」と黒瀬は言った。内ポケットに仕舞ってから、付け加えた。「再交付の手続きは、簡単です」

 ミリアムは笑って、宿の戸を開けた。戸が閉まるまで、振り返らなかった。

 黒瀬は夜の駿河台を下った。内ポケットが、通行証一枚ぶん重かった。悪くない重さだった。

 

 

 

火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)

 

n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート

https://note.com/hal_miz/m/me316d0840b0b

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。