第五章 豊原の秋
豊原 一九三四年(昭和九年)九月
翌日、二人は同じ汽車で北へ発った。ミリアムは帰る旅で、黒瀬は初めて行く旅だった。条約草案の最終稿には土地の感触が要る——省への説明はそれで通った。
上野から汽車で青森へ。連絡船で津軽の海を渡った。
函館の桟橋が近づくと、山手の一角が、まだ更地のままだった。三月の大火の跡である。強風の夜、火は町を横に走り、二千を超える人が死んだ。
「あの火事の後で」と黒瀬は言った。「樺太日日新聞の隅に、三行の記事が出ました。豊原の仮設長屋の住人一同より、函館へ義援金。署名の名前は、どれも読みにくかったそうです。内地の新聞は、載せませんでしたが」
ミリアムは更地の方を見ていた。
「返す先が、できたのよ」と言った。「土地に、借りと貸しが生まれはじめている。悪くない徴候だわ」
函館から汽車で北へ、稚内からまた船に乗った。
オホーツクの海は晴れていた。風があり、甲板に立つと外套が要った。九月の樺太は、もう内地の晩秋だった。
「初めて?」とミリアムは聞いた。
黒瀬はすぐに答えなかった。
「地図では何度も見ました」とやがて言った。「しかし——」甲板の手すりを握った。「ずっと感触がありました。行ったことがないのに、雪の重さと、針葉樹の密度と、人間が少ないことの広大さが。最初にあなたに会った夜から」
ミリアムはそれを聞いて、黒瀬を見た。何かを確認する目だった。
「それが、ここだと思う?」
「確かめに来ました」
海峡を越えると、空気が変わった。湿気が増し、針葉樹の匂いがした。黒瀬はその匂いを肺に入れた。
感触と、同じだった。北の匂いだった。東京にも上海にもない匂いだった。
豊原の街は、思ったより大きかった。石炭と木材と魚で動いている街だった。道は舗装され、電灯があり、役所と学校があった。日本の地方都市を北に移植したような街で、しかし空が広かった。建物が低いからだ。人間の密度に対して、空が余っていた。
樺太庁の役人が出迎えた。四十代の課長だった。背が高く、日焼けしていた。
「黒瀬書記官。遠いところを」
「ユダヤ人移民の状況を見せてください」と黒瀬は言った。挨拶より先に。
課長の顔が少し動いた。
「はい。ただ——まだ四百人しかおりません。豊原の外れに、仮設の住居を」
「見せてください」と黒瀬は繰り返した。
*
仮設住居は豊原の南側にあった。
木造の長屋が十棟。庭に洗濯物が干してあり、子供が二人、ぬかるみの中で遊んでいた。一人が黒い巻き毛で、一人が茶色の直毛だった。二人は同じ言語で話していた。どちらの言語でもない、何かだった。
「あの二人は」と黒瀬は課長に聞いた。
「黒い方がユダヤ人の子です。茶色の方は日本人移民の子で。いつの間にか、ああして遊んでいます」
黒瀬はその二人を見た。ミリアムも見ていた。
長屋の中は狭かった。一家族に一部屋。ドイツから来た家族が多かった。医者、弁護士、大学教員。ベルリンの自分の書斎より狭い部屋に、四人や五人で住んでいた。
一人の男が黒瀬を見て立ち上がった。五十代、眼鏡をかけていた。
「日本の外務省の方ですか」とドイツ語で言った。
「はい」と黒瀬はドイツ語で答えた。
男は少し驚いた顔をした。
「ドイツ語を」
「少し」
「ベルリン大学で化学を教えていました」と男は言った。「エリック・コーヘンといいます。昨年四月に職を失いました。職業官吏再建法です。ユダヤ人は大学に残れなくなった」
「今は何を」
「畑を作っています」とコーヘンは言い、少し笑った。「化学者が畑を作っている。しかし土壌の分析は得意です。この土地の土は面白い」
「面白い、とは」
「石炭の土です。しかしそれだけではない。北の方に行くと、別の何かがある」コーヘンは窓の外を見た。「北の地質は、調べましたか」
「石油があります」と黒瀬は言った。
「石油だけではないかもしれない」
とコーヘンは言った。それだけだった。
黒瀬はその一言を記憶した。
*
翌日、豊原の日本人地区を歩いた。
市場があった。魚屋と八百屋と荒物屋。店主たちは黒瀬とミリアムを見た。見慣れた視線だった。東京の省の廊下と同じ目で、しかしここでは別の層が加わっていた。
「ユダヤ人の連中は」と魚屋の主人が言った。黒瀬に向かって。「何を食べるんですかね。豚は食べないとか、貝は食べないとか。うちの魚は買ってくれますが、何しろ言葉が」
「日本語を覚えます。時間がかかりますが」
「そりゃそうでしょうが」と主人は言った。「子供は早いですよ。さっきも二人で遊んでいて。うちの倅と、向こうの坊主と」
「見ました」
主人は少し考えた。
「悪い子じゃないんですがね、向こうの子も。ただ、何を考えているのか分からない」
「分からなくて当然です」と黒瀬は言った。「私も、あなたのことが完全には分からない」
主人は黒瀬を見た。外務省の役人が何を言っているのか、という顔だった。
ミリアムが黒瀬の袖を引いた。歩き出した。
市場を抜けると、細い道に出た。道の両側に白樺が並び、葉は黄色くなり始めていた。
「魚屋は、何と言ってたの?」とミリアムは日本語で聞いた。
「分からないと言っていました。向こうの子のことが」
「自然ね」とミリアムは言った。「最初は、そういうものよ」
「あなたは慣れていますか、そういう視線に」
ミリアムは少し考えた。
「慣れてはいないわ。ただ、驚かなくはなった」
「違いますか。慣れることと、驚かなくなることは」
「違うわ」とミリアムは即座に言った。「慣れると、見えなくなる。驚かなくなるだけなら、まだ見えている」
白樺の道を歩いた。風が来て、葉が鳴った。
「これで満足?」とミリアムが聞いた。
「まだ始まりです」
「私もそう思う」ミリアムは立ち止まり、煙草に火をつけた。「ただし——始まりの定義が、私たちでは少し違う」
「どう違いますか」
ミリアムは煙草を持ったまま、しばらく黙っていた。
「あなたにとっての始まりは、設計図が動き出した瞬間よ」とやがて言った。「私にとっての始まりは、人が土を踏んだ瞬間」
「同じではないですか」
「同じに見えて、違う。設計図は変更できる。変更すれば、前の文は消える。でも、一度土を踏んだ人間は、その土を忘れない」
黒瀬は歩きながら考えた。コーヘンが畑を作っていた。ベルリン大学の化学者が、豊原の土を耕していた。その土を、コーヘンは忘れないだろう。
設計図には、土の匂いがない。
*
翌朝、ミリアムが豊原を発った。
稚内経由でウラジオストクへ、そこからモスクワへ。三角交渉の窓口——ソ連側との接触が始まる。ミリアムのロシア語と、革命世代との人脈と、オデッサの記憶が要る交渉だった。黒瀬にはできない仕事だった。
ミリアムが向かう先の国は、その月、国際連盟に加盟した。革命の国が、ジュネーブに椅子を持った。三角形の三辺目が動き出すには、悪くない月だった。
桟橋で見送った。
「ヴァイツマンからの手紙は、届いてる?」とミリアムは聞いた。
「ロンドンから、先週。資本の担保については合意できる、と」
「これで、三角形の三辺が揃ったわね」
三辺——黒瀬の設計、ミリアムのソ連交渉、ヴァイツマンの資本担保。それぞれが別の場所から動く。黒瀬は東京で条約を仕上げる。ミリアムはモスクワで交渉する。ヴァイツマンはロンドンから資金を動かす。三者が会う場所はない。会わなくても、三角形は成立する。
「気をつけてください」と黒瀬は言った。
ミリアムは振り返らなかった。
「モスクワは知ってるわ。生まれた場所の、近くだもの」
船が動き出した。ミリアムの後ろ姿が小さくなった。
黒瀬は桟橋に立ったまま、船が見えなくなるまで見送った。見送りながら、三角形のそれぞれの辺を頭の中で確認した。設計図通りだった。設計図通りに、動いていた。
しかし設計図には、ミリアムが一人でモスクワに向かう場面は、描いていなかった。
設計図は構造を描く。人の動きは、描かない。
*
その夜、樺太庁の宿舎で、黒瀬は草案の最終稿を書いた。
石射の言葉通りに削った結果、十七ページは九ページになっていた。採掘量の条項は本文から消え、代わりに「協議の枠組み」が三行あった。三行の余白に、海軍が必要とするすべてが入っていた。叩き台は、秋に間に合った。
書き終えて、窓を開けた。
夜の豊原は静かだった。東京より星が多く、南の空より北の空の方が明るかった。
コーヘンの言葉を思った。石油だけではないかもしれない。
何だろう、と黒瀬は思った。しかし、今は分からなくていい。分からないことは、分かる時まで置いておける。設計図には余白が必要だ。
星を見ながら、黒瀬は北樺太のことを考えた。三角交渉がまとまれば、北樺太がイスラエル国に移る。コーヘンが北の地質を調べる。何かを見つけるかもしれない。見つけてもいいし、見つけなくてもいい。しかし見つけた時のことは、今から考えておく必要があった。
設計者の仕事は、起きていないことを設計することだ。
窓の外に、北の夜空があった。
星が多かった。
火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)
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