太平洋の夢 第二巻 「海洋国家宣言」   作:水野 純也

6 / 6
第六章 ドイツからの脱出

第六章 ドイツからの脱出

 

  東京・豊原・ベルリン 一九三五年(昭和十年)一月〜一九三六年二月

 

 

 一月の外務省で、黒瀬は樺太からの月次報告書を十二冊、机に並べた。前年の一月から十二月まで。一冊ずつ読んだ。

 ユダヤ人移民、六月末で四百三十二人。十二月末で千六百八十一人。医師が十四人、弁護士が九人、技師が八人、化学者が六人、教師が二十二人。日本人移民との摩擦の申告が三十七件、うち解決二十九件。

 動いている。しかし、遅い。

 設計図の速度と、現実の速度が、ずれていた。人間は設計図より遅く動く。分かっていたことだった。しかし、分かっていることと、十二冊の紙で確かめることは、別の重さだった。

 窓の外に、乾いた冬の空があった。

 

  *

 

 三月、モスクワのミリアムから手紙が来た。仏語だった。

 ——交渉は進んでいる。進んでいる、という言葉を、この国では「止まっていない」という意味で使う。石油権益の数字は詰まった。残りは移転の期日と、通過の取り決め。役人は三人替わった。三人とも、同じ椅子に、同じ座り方をする。

 ——モスクワは寒い。寒さは平気よ。生まれた場所の、近くだもの。平気じゃないのは、駅で聞く汽笛の音。あれは、どの国でも同じ音がする。

 黒瀬は返事を書いた。日本語で、便箋に二枚。交渉の指示は一行もなかった。書き終えて、読み返して、出さなかった。出せない内容ではなかった。出さない、と決めただけだった。代わりに、公信の末尾に一行だけ足した。「東京は、桜が早いようです」

 出さなかった二枚は、机の抽斗に入れた。

 同じ春、議会が一人の法学者を的にした。天皇は国家の機関である——大学で三十年教えられてきた学説が「不敬」と呼ばれ、著書が発禁になった。学説が的になる国では、次は言葉が的になる。黒瀬は頁を閉じた。

 

  *

 

 八月、陸軍省の執務室で、軍務局長が白昼、現役の中佐に斬られて死んだ。新聞は事件を大きく報じ、幾つかの紙面は、犯人の「憂国の至情」に多くの行を割いた。斬った側の事情が、斬られた側の傷より詳しく書かれていた。

 同じ八月、松岡洋右が満鉄総裁になった。新聞に「満鉄総裁というよりも、関東軍の顧問のつもりで行く」と語った、と出ていた。拍手の来る側へ、松岡はまた一歩動いた。帳簿は、まだ合っていないらしかった。

 九月十五日の朝、ベルリンの早川義雄から公電が届いた。

 黒瀬はそれを持って、石射猪太郎の部屋へ行った。石射は一度読み、もう一度読んだ。

「ニュルンベルク法」と石射は言った。「ユダヤ人から、市民権を剥奪した」

「昨日の党大会で成立しました」

「樺太への問い合わせが急増している、と。これまで懐疑的だった組織が、動き始めたと書いています」

「懐疑的、というのは」

「パレスチナ以外を認めない人たちです。樺太に本物の国は作れない、と考えていた——」

「動き始めた」と石射は繰り返した。しばらく黙ってから、言った。「これは、止まらない」

「止まらなくていいのです」と黒瀬は言った。「日本のやることは変わりません。石油と、防衛と、外交の代理と、生活の基盤。国を作るのは彼ら自身です。日本が手を出すほど、国の形が歪む」

 石射は公電を返した。

「広田大臣に上げます。三角交渉の進捗も、併せて」

 

  *

 

 十月、黒瀬は一年ぶりに豊原へ渡った。

 カラマツが黄金色に変わり、常緑のトドマツが、その間で暗く沈んでいた。空が低かった。桟橋に、コーヘンが出迎えていた。

「先月だけで、百三十家族です」と、歩きながらドイツ語で言った。「ニュルンベルク法の後から。今月はもっと来ます」

 街は一年で変わっていた。看板にヘブライ文字が混じり、日本語とドイツ語とヘブライ語が三段に並ぶ薬局があった。市場に香辛料の露店が出て、東京でも上海でも嗅いだことのない匂いがした。

「医療施設はどうなっていますか」

「三つあります。ユダヤ人の医師が十七人。日本人の患者も来ています」「最初は来なかった。今は来る」

「なぜ変わりましたか」コーヘンは少し考えた。

「腕がいいから、です。それだけです。人種より腕を選ぶ。それが医療の正直なところです」黒瀬はそれを記録した。頭の中に。

 街の真ん中で、樺太庁の庁舎が、看板を替えていた。

 樺太庁は役目を移し、庁舎は売られた。買い手はイスラエル政府、代金はロンドンの資本担保から出た。無償の譲渡でいい、という声は日本側にあった。イスラエル側が断った。借りで始めた家は、いつまでも借家です——仮議会の返答は、一行だった。玄関の石段は同じ石段で、上に掛かる板だけが新しかった。板には三つの言語で、政府、と書いてあった。

 斜向かいの元の郵便局に、日章旗が立っていた。在イスラエル日本公使館。新しい国に置かれた、最初の外国公館だった。東京の麻布にも、小さなイスラエル公使館が開いたと聞いていた。机の向こう側、という言葉を、黒瀬は思い出した。国と国は、机を挟んで、初めて対等に座る。

 昼、市場を歩いた。商店街を歩いていると、一人の男が黒瀬に声をかけた。五十代の日本人だった。荒物屋の主人だった。昨年も会っていた。

「黒瀬さん」と主人は言った。「少し話せますか」

 店の中に入った。狭かった。棚に生活雑貨が並んでいた。たわし、石鹸、荒縄、カンテラの油。日本語の商品名が刷られた包み紙が棚に並んでいた。外の通りで嗅いだ香辛料の匂いはなかった。東京の荒物屋と同じ匂いがした。

「そろそろ北海道に戻ろうかと思っています」と主人は言った。「息子が旭川で仕事を見つけまして」

「それは」と黒瀬は言った。「残念です」

「いや、残念というより——」主人は棚の端を指で撫でた。

「ここはここで、別の街になっていくんだと思いまして。最初は出稼ぎのつもりで来たんですが、どうも違う。ここの人たちはここを本物の国にしようとしている。それは邪魔したくない」

 黒瀬は主人を見た。「邪魔、ではないと思います」

「そうかもしれませんが」「息子のいる場所に戻る理由としては、それで十分です」黒瀬は頷いた。

 追われるのではなかった。強いられるのでもなかった。設計図に書かなかったことが、設計図の通りに起きていた。

 夜、コーヘンと二人で食事をした。ユダヤ人が開いたドイツ料理の店だった。コーシャではないが、まあ、とコーヘンは言った。

「仮議会は」

「二十三人。来月、教育制度と、ヘブライ語の公用語化をやります。それから——帰還する日本人の土地の扱いを」

「どう扱いますか」

「買い取る。日本円で、市場の値段で。強引に手に入れた土地には、あとで必ず別の代価を払うことになる。最初から正しく払う方が、安い」

「同感です」と黒瀬は言った。

「北樺太の件ですが」とコーヘンが言った。

「交渉がまとまり次第」と黒瀬は言った。「その時が来たら、最初に入ってください」

「約束ですか」

「約束です」

 

  *

 

 帰りの連絡船で、黒瀬は文芸誌を一冊読んだ。その夏に創設された賞の、最初の受賞作が載っていた。ブラジルへ渡る移民たちの、神戸の収容所の数日を書いた小説だった。

 移民を送り出してきた国が、移民の国を作る側になっている。

 その一行は、誌面のどこにもなかった。黒瀬は頭の中にだけ、置いた。

 

  *

 

 東京に戻ると、石射に呼ばれた。

「関東軍が動いています」と石射は言った。「華北です。梅津・何応欽協定で、河北から国民党軍を下げさせた。次は察哈爾を狙っている」

「外務省は」

「止められていない。広田大臣は抗議していますが、現地が動いた後では遅い。関東軍はいつもそうです。動いてから、既成事実にする」

 石射の顔に、疲弊と怒りが同居していた。

「黒瀬さん。われわれが時間をかけて積み上げたものは、あちらでは一夜で壊れることがある。それを分かった上で、動いてください」

「承知しています」と黒瀬は言った。「だから、急ぐ必要があります」

 十月、イタリアがエチオピアに侵攻した。連盟は経済制裁を決議し、加盟国に参加を求めた。

 会議室の広田弘毅は、話す前に必ず一度だけ間を置く男だった。間の長さで、結論が分かった。その日の間は、短かった。

「参加します」と広田は言った。「イタリアが友好国であることと、連盟の決議に従うことは、別の問題です。日本が連盟に残っている意味は、ここにあります」

 陸軍の反対は分かっていた。広田は、聞かなかった。珍しいことだった。

 会議の後、廊下で石射が言った。

「これが積み重なれば、枢軸との分岐点になりますね」

「そのために、連盟に残ったんです」

「広田大臣は分かっていると思います。分かった上で、動いている」

 十一月、ジュネーブから電報が来た。関東軍の華北工作を理由とする対日経済制裁の決議案が、採決にかけられた。賛成二十四、反対二十六、棄権六。二票差で、否決。

 石射が黒瀬の部屋に来て、電文を長く見た。

「四点提案の貯金が効いた、ということですか」と黒瀬は言った。

「そうだと思います。しかし——二票です。次は、ないかもしれない」

「次を、作らせないことです。関東軍を止めるか、連盟に説明できる事実を、先に置くか」

「どちらも難しい」

「難しい方をやるしかない時があります」

 石射はしばらく黒瀬を見た。

「あなたは、楽観主義者ですか」

「違います」と黒瀬は言った。「設計者です。楽観主義者は、根拠なく信じる。設計者は、根拠を作る」

 石射は声を出さずに笑った。幣原の笑い方に、似ていた。

 

  *

 

 十一月の末、黒瀬はベルリンにいた。名目は、日独通商協議の随員だった。

 中央駅に降りると、石炭の煙と、濡れた外套と、もう一つ、乾いた匂いがした。新しい秩序が古い石に染み込むときの匂いだと思った。

 早川義雄は、大使館の三階にいた。五十がらみ、痩せた顎、品定めをする細い目。欧亜局からパリとロンドンを経て、ベルリンに来た男だった。握手は短かった。

「近衛公から、あなたの名前は聞いていました」と早川は言った。

「どこまで」

「必要な人間だ、というところまで」

 近衛の名前がベルリンで出ることを、黒瀬は頭の抽斗に入れた。あの人は、全部読んでいる。常に。

 夕方、二人で街を歩いた。早川は案内人ではなく、観察者の歩き方をした。説明せず、ただ、見せた。

 クーダムの通りは人で溢れ、しかし何かが欠けていた。しばらく歩いて、分かった。音楽がなかった。

 ユダヤ人の商店だった場所に、黄色い星と、「ユダヤ人から買うな」の貼り紙が残っていた。通りの十に一つか二つ。その間の普通の店に、普通のドイツ人が入っていく。星のある店を、誰も見なかった。見ない習慣が、できあがっていた。

「出国は」と黒瀬は聞いた。

「法律の後、跳ね上がりました。医者、弁護士、学者。優秀な順に出ていく。行き先は——」早川は路地の角で立ち止まった。「どこも、本当には受け入れたくない」

「大使館は、どう見ていますか」

「大使館に、一つの見方はありません」と早川は言った。「武官室は別の国です。あそこはベルリンに駐在しているのではない。ナチスに駐在している。大島さんは、リッベントロップと直接話す。外務省の電報より、あちらの方が速い」

「変わりましたか、この街は」

 早川は少し考えた。

「慣れてきました、みんな。慣れることが、一番怖い」

 

  *

 

 翌日、大使館の小部屋で、クラウス・フォン・リヒターに会った。

 四十代の後半。痩せた体に外套が余り、目が疲れていた。内務省で出国の審査を扱う官吏で、家系に「フォン」があり、襟に党員章がなかった。早川が一年かけて見つけた男だった。

「ユダヤ人を出したい」と、前置きなしにリヒターは言った。「しかし、私の名前で新しい道を作ることは、できない。作れば、記録に残る。記録は、いつか読まれる」

「方法は」

「今あるものを使うことです」とリヒターは言った。「出国の審査は、通常で数週間かかります。かかる、と規則で決まっているのではない。誰も急がないから、かかるのです。私の机に来た書類を、私がその日のうちに通しても、規則はどこも破られない」

「それで十分です」と黒瀬は言った。「動かすのは、こちらでやります」

 懐から、一枚の紙を出した。早川と二日かけて作った手順だった。

 樺太政府発行の受入保証書を、大使館がまとめて預かり置く。日本の通過査証は、商用の名目で即日発行する。船室はハンブルクの代理店を通じ、伊国船を月単位で押さえる——契約は早川が進めていた。出国者の形式は、「日本企業の招聘による技術者と、その家族」。ドイツの窓口に届くのは、完成した書類の束だけになる。

「あなたにお願いするのは、動かすことではありません」と黒瀬は言った。「止めないことだけです。あなたの判子の速度が、そのまま人数になります」

 リヒターは、紙を長く見た。

「それなら、できる」とやがて言った。「私も、毎日見ています。判子は、今週から」

 会合は一時間で終わり、リヒターが先に出た。

「大丈夫ですか、あの人は」

「分かりません」と早川は言った。「しかし、動いている。それは確かです」

 窓の外のベルリンは、街灯の数の割に、暗かった。何かが、光を吸っていた。

 

  *

 

 十二月、ドイツ大使館から非公式の打診が来た。防共協定。

 陸軍が即座に反応し、田中大佐が外務省に来た。

「防共の名目を見なさい」と田中は言った。「対ソだ。陸軍が最も必要とするものだ」

「入れば、四点提案の信用が消えます」と黒瀬は言った。「連盟に残った理由が、ドイツと組むためだったことになる。三年の積み重ねが、一日で崩れます」

「四点提案など、陸軍は認めておらん」

「海軍は認めています。北樺太の石油という形で。あれが崩れると、海軍も困ります」

 田中は黒瀬を見た。測る目に、初めて別のものが混じっていた。疲弊だった。この男も、内側から押されている。

「黒瀬。お前は、日本をどこへ連れていく気だ」

「どこでもありません」と黒瀬は言った。「ここに、留めようとしています」

 田中は答えず、立ち上がり、出ていった。廊下で、足音が遠くなった。

 防共協定の話は、その年は動かなかった。

 

  *

 

 十二月の半ば、ミリアムから二通目の手紙が来た。

 ——モスクワの駅で、毎週、東へ行く汽車を見る。ハンブルクからの船に間に合わない家族は、シベリアの鉄道で来るの。プラットフォームに、三つの言語が降りる。子供は荷物の上に座らされていて、みんな、同じ目をしている。まだ着いていない目。

 ——あなたの書類が速くなったのが、ここからでも分かる。汽車の本数で分かるのよ。設計者さん、あなたの判子は、汽笛の音がする。

 返事は、今度も書いた。今度も、出さなかった。抽斗の二枚の上に、三枚目が載った。

 一月の末、同じ手から電報が来た。

 ——モスクワ交渉、最終合意に近づく。北樺太の石油権益、ソ連了承の方向。来月、最終確認の予定。

 黒瀬は短い電文を、三度読んだ。一九三三年三月のジュネーブから、三年だった。

 二月に、連盟の会合があった。ジュネーブ行きの辞令が出て、出発は二月八日と決まった。

 二月八日、黒瀬は東京を発った。

 二月二十六日、東京で雪が降った。

 

 

 

火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)

 

n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート

https://note.com/hal_miz/m/me316d0840b0b

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。