太平洋の夢 第二巻 「海洋国家宣言」   作:水野 純也

8 / 8
第八章 モスクワの冬

第八章 モスクワの冬

 

  モスクワ 一九三六年(昭和十一年)三月〜一九三七年春

 

 

 モスクワの雪は、オデッサの雪と匂いが違った。海のない雪だった。乾いていて、鉄と石炭の匂いがした。

 ミリアム・カッツはホテルの窓から、トヴェルスカヤ通りを見下ろした。人々は前だけを見て歩いていた。ベルリンの歩き方と似ていて、違った。ベルリンの人間は、見られていることを知って歩く。モスクワの人間は、隣の人間を見ないようにして歩く。

 部屋では独り言を言わない。書類はトランクに入れず、体から離さない。三年通ううちに、体が覚えた作法だった。煙草はガロワーズをやめた。この街でフランスの煙草を吸う女は、記録に残る。売店の紙巻きは安く、辛く、よく消えた。

 ジュネーブからの汽車の中で、あの部屋のことは思い出さないと決めた。決めた回数だけ、思い出した。

 

  *

 

 外国貿易人民委員部の会議室は、天井が高く、寒かった。

 グリゴーリー・ソコリンは五十代で、革命前からの党員だった。内戦で砲兵にいて、左の耳が遠い。だから話すとき、少し首を傾げる。その傾げ方に、ミリアムは三年かけて慣れた。

 机の上に、書類が三部あった。ユダヤ系資本によるソ連工業への投資。樺太を反ソ軍事拠点にしないという保証。北樺太石油のソ連優先購入権。三本の柱は、もう動かなかった。残っているのは文言と、署名だけだった。ジュネーブで判を貰った付属書が、一番上に載っていた。

「春には署名まで行ける」とソコリンは言った。「人民委員部の内部はまとまった。あとは上の決裁だ。同志ミリアム、あんたの三年は無駄にならん」

 三年、とソコリンは言った。彼女の頭の中では、三十一年だった。

 次の会談で、ソコリンの上に立つ男が初めて同席した。名前は、名乗らなかった。

「東京は、誰と署名しても」とその男は言った。「署名した政府が、来月も存在しているのかね」

 反乱は四日で鎮圧されました、とミリアムは言った。政府は続いています、と言った。

 男は書類を閉じた。

「様子を見よう」

 様子を見る、という言葉が、この国で何を意味するか。ミリアムはまだ、正確には知らなかった。

 知るのは、その夏だった。

 

  *

 

 八月、ラジオが裁判を流し始めた。

 ジノヴィエフ。カーメネフ。革命をレーニンの隣で作った男たちが、法廷で自分の罪を読み上げていた。外国と通じ、同志スターリンの暗殺を企てた、と彼らは言った。抑揚のない、暗記した声だった。検事の論告だけが、生きた声をしていた。

「気の狂った犬どもは、一匹残らず撃ち殺せ」

 ミリアムはホテルの食堂でそれを聞いた。誰も、顔を上げなかった。スープを飲む音だけがした。

 五日後、銃殺が発表された。

 その週、ソコリンとの会談は延期された。理由は告げられなかった。

 九月に一度だけ会えた。ソコリンは痩せていた。書類を家に持ち帰らなくなった、と言った。

「秋にしよう」とソコリンは言った。「秋には、落ち着く」

 首の傾げ方が、前より深くなっていた。遠いのは左の耳のはずだった。しかし今は、全部の音から顔を背けているように見えた。

 

  *

 

 十二月、約束の日に人民委員部へ行くと、ソコリンの部屋に別の男がいた。

 三十代だった。若い目をしていた。経歴が白い、とミリアムは思った。白い経歴だけが、いま出世する。

「ソコリン同志は異動した」と男は言った。

 どこへ、とは言わなかった。ミリアムも、聞かなかった。聞いてはいけないことの一覧が、この街には暗黙のうちにあり、その一覧は毎月長くなっていた。

「日本は、ベルリンと手を結ぶと聞いたが」と男は言った。独日の防共協定、交渉中——ベルリン発の観測記事を、モスクワの新聞が書き立てていた。

「結んでいません」とミリアムは言った。「結ばせない人たちがいます。この書類は、その人たちの書類です」

 男は三本の柱を受け取った。読まなかった。

「検討します」

 断られ方には種類がある、と彼女はロンドンの机で学んだ。即座の拒絶は、まだいい。「検討します」が、一番殺す。しかしこの国の「検討します」は、殺すのが書類だけとは限らなかった。

 男の机の端に、別の綴りが載っていた。灰色の厚紙の表紙に、写真が一枚、留めてあった。

 黒瀬だった。

 上海の街角で撮られたものらしかった。少し顔を横に向けて、笑っていた。歯が見えるほどではない。しかし、目が笑っていた。

 ミリアムは視線を書類に戻した。二秒で戻した。二秒が、限度だった。この部屋で何かを長く見ることは、何かを欲しがることだった。

 笑っている黒瀬を、ミリアムは見たことがなかった。

 ジュネーブの部屋で、最悪の顔なら見た。伸びた髭と、閉めたカーテンと、机の隅の小瓶。あれは、彼女だけが見た顔だった。それでいい、と思っていた。

 一番悪い顔は、私が持っている。一番いい顔は、モスクワの綴りの表紙が持っている。

 勘定が、合わなかった。

 嫉妬という言葉を、ミリアムは頭の中の棚から下ろし、確かめて、戻した。人生で使う場面が来るとは思っていなかった言葉だった。相手が写真だとは、なお思っていなかった。

 廊下に出ると、ソコリンの部屋の表札が、もう外されていた。壁に、表札の形だけが白く残っていた。

 この国では、人が消えると壁の色で分かる。

 

  *

 

 レフに会ったのは、偶然ではなかった。偶然に見えるように、三週間かけて仕組んだ。

 オデッサの人間だった。兄と同じ通りで育ち、十七年の革命のときは「平等の国が来る」と手紙を寄越した男だった。今は出版局で、校正の仕事をしていた。

 街頭で、すれ違いざまに立ち止まる。古い知り合いが、たまたま出会った形。許される時間は、数分だった。

「ミリアム」とレフは言った。「俺を訪ねるな。手紙も書くな。おまえは外国人だ。外国人と会った記録は、今は、それだけで判決文になる」

「レフ」

「聞け。時間がない」

 レフはコートの襟を立てた。その手が、乾いて荒れていた。校正の手ではなかった。夜ごと、何かを燃やしている手だった。

 平等の国はどうなったの、と聞きたかった。聞かなかった。答えを言わせることが、この男への暴力になる。

 父のことは、知っていた。内戦の後の飢饉の年に死に、報せが届いたのは二年後だった。墓は、ない。飢饉の年の死者は、共同の穴だった。母のことは、二七年に手紙が止まってから、十年、分からないままだった。三年のモスクワ通いの間、ミリアムは役所の窓口で三度、照会を出しかけて、三度やめた。外国人の照会は、照会される側の判決文になる。

 聞かないことを、レフは分かっていた。分かっていて、言った。

「母さんのことは、聞くな」と、聞くなと言いながら、レフは答えた。「三一年の冬だ。墓は、ダヴィドの隣にある。俺が、見た」

 ミリアムは、頷いた。頷く以外の動作を、この往来は許さなかった。

「オデッサの海を覚えているか」とレフは言った。去り際に、振り返らずに。「あれだけは、誰にも没収できん」

 四ヶ月後、ミリアムはその名前を新聞で見た。トロツキスト・スパイ団の一員として、リストの中ほどにあった。

 数字は、どこから切っても人が出てこない。しかし名前は違う。名前は、切ったところから血が出る。

 

  *

 

 その晩、ミリアムは手紙を書いた。仏語で、宛名は書かなかった。

 ——この国は、署名する手を先に食べてしまう。文言はまだ生きているのに、署名する手が、もうない。ジュネーブで、判は死なない、と私は言ったわね。訂正する。判は死なない。ただ、判を殺す国は、ある。

 ——レフの名前を新聞で見た。切ったところから、血が出た。

 ——帰りたい、と書きかけて、手が止まった。どこへ、と手が聞いた。

 書き終えて、読み返して、ストーブに入れた。

 この街には、燃やすために書く手紙があった。仕舞うために書く返事が東京の机の抽斗にあることを、ミリアムは知らない。知らないまま、同じことをしていた。

 

  *

 

 春が来る前に、部屋のトランクが動いた。

 位置が、数センチ違っていた。中の衣類の順番が、入れ替わっていた。下手な仕事ではなかった。見つけられることを前提にした、丁寧な仕事だった。警告、という意味だった。

 その夜、廊下の足音が、扉の前で一度止まった。止まって、過ぎた。

 ミリアムはベッドの上で、天井を見ていた。

 一九〇五年、地下室の三日間。ガラスの割れる音。羽毛。

 あのときは、暴徒が来た。今度来るのは、制服を着た手続きだった。形が変わっても、構造は変わらなかった。

 翌朝、彼女は判断した。これ以上ここにいるのは、交渉ではない。人質になる準備だった。署名する手が次々に切り落とされていく国では、文言を磨いても意味がない。

 東京へ、最後の電報を打った。

 ——商談ハ冬眠ニ入リマス。コノ街ニ春ハ、当分来マセン。

 黒瀬なら分かる、と思った。あの男は、凍らせるべきものと、腐らせてはいけないものの区別がつく。

 

  *

 

 ヤロスラフスキー駅は、朝から兵士が多かった。

 シベリア鉄道、東行き。ウラジオストクまで九日。そこから船で、大泊へ。

 プラットフォームで、ミリアムは一度だけ、南の空を見た。オデッサは南にある。兄と母の眠る土も、墓のない父も、レフの海も、南にある。

 列車が動き出した。白樺が、窓を流れ始めた。

 帰る、という言葉を、彼女は生まれて初めて、東に向かって使った。

 帰る場所は、東にあった。

 彼女がモスクワを去った翌年、外国貿易人民委員その人が逮捕された。署名するはずだった側の人間は、上から下まで、一人残らず地上から消えた。

 三本の柱は、豊原の金庫で眠りについた。

 それが再び目を覚ますのは、世界の地図がもう一度描き直される冬のことである。

 

 

 

火・木・土曜 朝6時更新。(全20話/11月12日完結予定)

 

n o + e 記事 【史実と小説の間】架空歴史小説「太平洋の夢」制作ノート

https://note.com/hal_miz/m/me316d0840b0b

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。