皇帝と亡霊   作:ハチロクデー

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 『私と同じ名前の星はどれ?』

 

 満天の星空の下で、膝に乗せた幼いあの子に聞かれたあの日は、いつの事だっただろうか……。

 

 

 その日、ウマ娘トレーニングセンター学園。通称『トレセン学園』の校庭でトレーニングに励むウマ娘たちを、1人の男が無気力な瞳で見下ろしていた。

 短く刈り揃えた髪に、長らく吊るされていたのかややヨレたスーツ。それに対して、爪先が輝くほど磨かれた革靴。

 特徴的なのは右の眉の真ん中に、盛り上がった古い傷痕がある。襟には真新しいバッジが輝き、その男がトレーナーと呼ばれる指導者であることを示していた。

 

 「よく走るなぁ……」

 

 通用路の手すりに寄りかかって肘を突き。口の端にタバコのような物を咥えて呟く。眼下では次のレース準備が整いつつあった。

 ウマ娘達がトラックに並び、号令を今か今かと待っている。その様を唇の端でタバコを揺らしながら眺めていると。突然、そのタバコを誰かにもぎ取られた。

 

 「トレーナー。ここは禁煙だ……?」

 

 振り返ると長い髪のウマ娘が、取り上げたタバコを握り締めて立っていたが。手の中の感触に違和感を覚えたのか、険しい表情から一転して訝し気に手の中の物を確認する。

 

 「……ハッカパイプだよ」

 

 男は短く答えた。元々愛煙家だったが、火気厳禁の場所に入り浸るとタバコは吸えない。

 始めは棒キャンディを舐めていたが、糖分の採り過ぎになりそうだったので同僚に教えてもらったハッカパイプに切り替えた。それからずっと吸っている。

 

 「それは……失礼した」

 

 ウマ娘は謝罪しながら、取り上げたハッカパイプを差し出す。男は無言でパイプ受け取ると、ポケットから消毒用のウェットティッシュを取り出し「拭くといい」と袋ごと渡す。

 多少なり唾などが付いているだろう、と思っての事だが。目の前のウマ娘は何か不思議な物でも見たと言わんばかりの顔で男を見ていた。

 男はその様子に、突いていた腕を前に出し、反対の手で手の平を指差す。それでやっと理解したのか、ウマ娘は手の平を拭い始める。

 その様子を横目にしながら、男が眼下の様子を見ると。先ほどのレースはもう決着がついていた。

 ウマ娘が礼を述べて返して来たティッシュの袋を、男はポケットに突っ込む。と、ちらりとウマ娘の方を見る。

 整った横顔に紫の瞳。前髪に白い流星が印象的で、どこかで会ったような気もするが、男には思い出せなかった。

 照りつける日差しの熱に夏の訪れを聞きながら、眼下のレースを眺める。

 

 「失礼だが……いつまで見ているのかな?」

 

 距離を置いて手すりに身を預けたウマ娘が男に話しかける。その問いに、男はちらりとウマ娘を見やって「終わるまでだ」と短く告げる。

 すでに7か8回はレースが続けられていた。もう数回で終わる頃合いだ。

 準備が終わり。出走。その流れを3度見た所で、今日のレースは終わりの様だった。下に居た生徒や教師。トレーナーたちが機材を片付け始める。

 

 「……あまり見ない顔だが。トレーナーは新人か?」

 

 ウマ娘が唐突に男に尋ねた。「そうだ」と短く応え、大きく伸びをする。そのままくるりと回れ右をすると、通路を歩きだす。

 

 男が次の選抜レースに出るウマ娘を調べなければなと考えていると、背後から先ほどのウマ娘が声を掛けて来た。

 

 「私も次回、選抜レースに出る。どうか見に来てくれないか?」

 

 その言葉に男は立ち止まって、ウマ娘を見る。歳の頃は16、17歳と言ったところだろうか?それにしては立ち振る舞いが妙に堂に入っている。

 

 「……気が向いたらな」

 

 そう言って、男は背を向けてやる気なく手を振りながら、パイプを咥える。生徒たちの喧騒の中、彼らのファーストコンタクトはそれで終わった。

 

 

 後日。男は次の選抜レースに出走するウマ娘たちの情報を、学園内のカフェテラスでコーヒーを飲みながら確認していた。

 次のレースには一人。それまでの戦績が恐ろしく高い娘が居る。名前は『シンボリルドルフ』。

 シンボリ家と言えばウマ娘界の重鎮として有名だが、男にとっては“妹”も同然の存在がいる家。と言う認識でしか無かった。

 しかし、男の記憶に『シンボリルドルフ』と言う名前は無い。だが海外からウマ娘を招致し、シンボリの名を冠する事も有るので、そう言う人なのかもしれないと深くは考えなかった。

 記録を見るに、シンボリルドルフが中等部に入学してからの戦績は、優秀を通り越えて圧倒的と言ってよかった。レースの中には2着を大きく突き放しているものもある。

 面白いとは思ったが、同時に「トレーナーとしては退屈な娘だろうな」と心の内で呟く。総じて、こういうタイプは気位が高く、他者。中にはトレーナーおも見下す傾向にある娘が多い。

 扱い難そうだとリストから除外する。コーヒーを傍にそんな作業に熱中していると、唐突に声を掛けられた。

 

 「相席しても良いかな?トレーナー」

 

 資料から顔を上げると、先日のウマ娘が食事のトレーを持って立っていた。

 気に入らないと思いながら渋い顔を作りつつ、無言で資料をどけて場所を作り。席を引いて座り易くする。

 「ありがとう」と礼を述べながらウマ娘が座る。男は黙って資料を読み続ける。

 

 「これは……スカウト予定者の資料だろうか。見てもよろしいかな?」

 

 バインダーに纏められた1つを指で示しながら彼女が言うのを、男は一瞥して「どうぞ」と大まかに纏めたものを差し出す。

 彼女はバインダーの1枚目をめくった瞬間に、少し驚いたような表情をした。内容がすべて英語で書かれている。

 彼女が男の表情を伺っても、別に気にした風でもなく持った資料を読み込んでいた。時折メモもしているが、内容は彼女からは見えない。

 彼女は、手元の資料にもう一度目を落とす。英語とは言え、過去の戦績、故障歴、身体的特徴。ありとあらゆる情報が、紙面狭しと書き込まれている。

 所々に手書きのメモも見えるが、これは最近のコンディション等を記した物だろうと伺えた。

 

 「魂飛魄散(こんひはくさん)。良くこれだけの資料を揃えて翻訳したものだ……。君は日本人か?」

 

 そう尋ねられて、男は目線だけを向けると「外国人に見えるかね?」と言って、再び資料に視線を戻す。確かに、見た目で言えば日本人以外には見えない。

 資料を見ながら、男は彼女に聞こえる程度の、静かな声量で話す。

 

 「ここには外国から来たウマ娘もいる。それらと組んだ時、英語の方が何かと都合が良いからな。それに前職の癖だ」

 「前職?」

 

 男が英語を使う理由を話すと、最後の部分だけ彼女は鸚鵡返しした。彼女の方に視線だけ送る。トレセンで中途採用は有ると言えば有るが。その採用枠は少なく、年に数名しか採用されないと彼女は聞いて居た。

 

 「そう……か、そうか」

 

 彼女は納得した様に呟いて頷きながら、資料のバインダーを机に戻す。目の前の男に俄然興味が湧いていた。

 

 「それでは……」

 「悪いな。今日の所のおしゃべりはここまでにさせてくれ。情報収集が有る」

 

 彼女が話しかけるのを、男は遮って席を立ち、残ったコーヒーを胃に流し込んで資料を抱えて立ち去る。

 

 「トレーナー。選抜レースは……」

 「前に言った通りだ。気が向いたらな」

 

 審査眼を曇らせない為に、生徒とは可能な限り接触したくはなかった。彼女の言葉に男は、ぱたぱたと手を振りながらカフェの出入り口を出て行く。

 

 

 選抜レース当日。レースは既に数度行われ、勝利を手にした生徒のウマ娘たちがはしゃぎ、騒ぎ。そして敗北者は静かに泣き、その場を去っていく。

 それをトレーナーたちがスカウトし、それぞれペアとなってトゥインクルシリーズと呼ばれる大舞台へ進んでいくのだ。

 ウマ娘がゲートに納まり、出走し、勝敗が決する。その繰り返しを、やはり無気力に男は見ていた。

 この日は走りをよく見るために、最前列へ陣取って見ていたが。眼鏡にかなう走りを見せる者は居なかった。

 

 「やぁ、トレーナー。見に来てくれたんだね」

 

 ここ数日で聴き慣れた声に眼下から唐突に話し掛けられ、資料のバインダーから視線を移す。またあのウマ娘が居た。

 「よう」手を挙げて挨拶だけする。別に彼女の走りを見に来た訳では無いし、本来スカウトをするにしても、サブトレーナーとして長い習熟期間が必要だと男は聞いて居た。

 しかし人手不足と。年長者がサブトレーナーに納まると、トラブルが多いと言う事で、中途採用者がサブトレーナーに入る事は少ない。

 それも有って、男は自分がメインとなるべきか、サブとなるかも決めかねていた。

 挨拶だけして、資料に視線を戻してしまった男を彼女はしばらく見つめていたが。憮然とした面持ちで出走待機者の所へと歩いて行った。

 男がふぅとため息を吐くと、隣に居た同僚トレーナーに話し掛けられる。

 

 「君、彼女と仲が良いのかい?ベテラントレーナーでも、彼女から声を掛けられないのに」

 

 眼鏡を掛けた、細い男だった。名前は知らない。

 

 「いいや。一方的に突っかかられてるだけだ」

 

 男の答えに、同僚は驚いて目を見開く。続いて呆れたという様に肩をすくめて見せる。

 

 「“皇帝”の目に留まっておいて『突っかかられてる』とは。恐れ入ったものだよ……」

 「そのコウテイが誰か知らないからな。それにスカウト前のウマ娘と懇意になる気は無い」

 

 皮肉めいた同僚の言い口に、男はバッサリと言い切る。何か言いたげな同僚を、男は一瞥した。

 その瞳に、言い知れぬ威圧感を覚えた同僚は慌ててレースの行われる、トラックの方へと向き直る。

 男もまた、トラックへと視線を戻す。注目株はあらかた出走してしまったし。ハッカパイプを咥えてどうすべきかと考えていると、次の出走アナウンスが流れた。

 ゲートの方を見ると、あのウマ娘が居た。よく確認していなかったが、ゼッケンの番号は7番。

 手元の資料を捲って男は少し驚く。除外していたシンボリルドルフが、あの娘だったらしい。

 二つ名は皇帝。確かにシンボリルドルフの圧倒的な成績は、皇帝と呼ばれるに相応しいだろう。しかし男には、そんな扱い難い存在を担当する気は元から無かった。

 ゲートに全員が納まり、グラウンドが静寂に包まれる。直後、合図とともにゲートが開かれる。約0.6マイル(1000m)の攻防戦が始まった。

 7番はスムーズなスタートを切ったが、位置は真ん中よりやや後ろ。先頭との差はかなり開いている。

 それを見た男は、なぜか懐かしいと思った。彼女の走りをどこかで見た記憶がある。フォーム。足運び。何より、風になびく髪を。おぼろな記憶を刺激されるが、何処で見たのか思い出せない。

 そんな困惑をよそに、レースは240m過ぎて下り坂へ突入していった。そこで一気に3人を抜き去る。

 7番の彼女は、じわりじわりと順位を上げて行く。下り坂から平坦地へ変わる440m地点で順位を1つ上げ、3番手へ。

 その順位のまま、500m過ぎた所で2位と並ぶほどに追い込む。男は目の前で起きていることが信じられなかった。

 初手で大差が付いていたのに、あのウマ娘はそれを追い上げて。すでに500m地点で約16フィート(2バ身)にまで縮めた。

 驚いている間に、700m地点で先頭を捉えて追い抜く。他のウマ娘達がまるで止まって居るような走り、ターフを制する皇帝。確かにその二つ名にふさわしい。

 しかし、男の驚きはそこには無かった。男は彼女を知っている。初めに感じた疑問は、彼女がゴール板を突っ切ると同時に確信に変わった。

 あの走り方を知っている。しかし、男が知っているウマ娘とは背格好も、顔立ちも違う。混乱していた。

 走り終えた彼女が、目の前に戻って来て何事か審査席に語り掛けているが、内容は殆ど聞き取れない。

 否。男の耳に入っていないのだ。まるで無音映画を見ているような感覚を覚えていた。意識せずに男は立ち上がる。

 無音の世界で口だけ動かしていた彼女がこちらに気づき、眼光鋭くこちらをねめつけた。

 その目に男も目を細めて見返す。『お前はいったい誰だ?』と。知っていると思うのに、忘れてしまっている目の前の娘に。

 

 「お、おい。君、立候補する気かい?」

 

 突然腕を引っ張られ、呆然としていた意識が覚醒する。隣に居た同僚が男の腕を掴んで揺すっていた。

 そこで初めて、皆の視線が自分に注がれて居る事に気が付き周りを見回す。『アレは誰だ?』『君知ってるか?』などの疑問の囁きが聞こえる。

 自分に注目が集まっている事に閉口しながら、正面のシンボリルドルフをもう1度見た。

 

 「立候補者は君だけの様だ。どうする?」

 

 男は思わず口元に手をやり、咥えていた筈のパイプを落としている事に気付いて自分の手を見る。そのままシンボリルドルフに視線を移すと、言葉を待つ彼女に語り掛けた。

 

 「……新米で、しかも今年3月の中途採用者だが。それで構わなければ」

 

 男の言葉を受けて「ほう……」とシンボリルドルフが目を細める。

 

 「名前を伺っても宜しいだろうか?」

 「下川だ。下川一樹(しもかわ かずき)」

 

 名乗ると同時に彼女は眼を見開き、驚いたようでウマ耳をピンと立てた。そんなに珍しい名前では無い筈と、下川は思いながら再び座る。

 何かを言おうとしていた彼女だったが、早々に下川が座った事で互いにそれ以上の言葉は交わさず、彼女も待機スペースへと戻っていく。

 

 「君、大丈夫かい?」

 

 隣の同僚が心配げに語り掛けてくるのを、下川の方が驚いてしまう。

 

 「何が?」

 「いや、新人であんなに速い娘のトレーナーになるなんて……」

 「遷音速で走ってる訳じゃないんだ。それに言葉の通じる相手なら、そう難しい相手じゃない」

 

 下川の回答に、同僚は明らかに困惑していた。周りのトレーナーたちも、この同僚とのやり取りを聞いて『音速?いや、セン……なんだって?』『何を言ってるんだ……』などとざわめいている。

 やりにくいな。そう思った下川は、逃げるように立ち上がり自室へと歩き出した。

 

 

 翌日、名前だけ名乗って別れてしまった事を、下川は大いに後悔していた。

 トレーナー登録に必要な書類を揃え、その認証を学校から得なければいけないのは知っていたが、ウマ娘本人のサインまで必要だとは知らなかったからだ。

 幾ら学園関係者とは言え、女の子だらけの校内を徘徊する訳にも行かず途方に暮れてトレーニングコースへの通路を歩いて居た。

 

 「困ったな……」

 

 呟きながら、コースから戻って来るウマ娘の一群とすれ違う。冴えない中年が弱り顔で、古い海外刑事ドラマの刑事よろしく頭を掻いている姿が珍しいのか、何人か振り返りながら笑って通り過ぎる。

 この時下川は知らなかったが、選抜での話がすでに学園中に広まっていたのである。それも面白おかしく誇張と脚色を加えて。

 曰く、皇帝相手に睨み合いをした。曰く、校内で煙草を燻らせていた。曰く、ウマ娘のお尻を追いかけに来た。後から知った下川も、苦笑いする内容が多かったのは確かだ。

 この時はそんな話を露ほども知らない下川だったが、前方から見知った顔がやって来る事に気が付き、内心胸をなでおろす。偶然にも通りかかったシンボリルドルフだった。

 軽く手を上げて存在をアピールすると、並んで歩いて居たセミロングのウマ娘に一言二言話し掛けてから、こちらへ近づいてきた。その彼女と挨拶を交わしてから話の口火を下川が切る。

 

 「昨日の今日ですまない。担当契約について話をしたいんだが……」

 「契約について?もしかして、今後の方針の話し合いかな?」

 「話が早くて助かる。契約書類も有るから、時間を取って欲しいのだが。空いている時間はあるかな?」

 

 「放課後であれば大丈夫」との回答に、下川はトレーナー室の場所を教えて、放課後の都合の良い時に来て欲しい旨を伝え。時間を取ってしまった事を詫びてそそくさと別れる。何故かシンボリルドルフに少し後ろめたい気持ちを、下川は覚えていた。

 何故だろうかと考えながら下川が振り返ると、同じ様にこちらを振り返っている彼女と視線が合った。同じ動作をしている事に驚きながらも、一度手を敬礼するようにジェスチャーをして、下川はゆっくりとトレーナー室へ足を向ける。

 戻って日中の内に資料と契約書にまつわる大小を纏め、宛がわれたトレーナー室を清掃する。

 与えられた8畳ほどの部屋は細長く。廊下と室内を隔てるドアを入ると、左側に多少の炊事が出来る程度の小さな流し台とガスコンロが、壁でドア部分と隔たれて備えられていた。

 その後ろ。部屋を入って左手側にはロッカーが並び、一番奥には事務机が腰高窓を背負って置かれている。その窓の下には、書類などが入れられるスチールキャビネットが鎮座していた。

 中を覗くと、ほとんどが空だったが、一部に使われていた頃の残り香が有った。それは季節の食材販売を知らせるチラシだったり。学校運営からの会議の知らせなど。それを纏め、紙紐で縛る。

 その中から1枚、このトレセン学園には似つかわしくない、少し色褪せて角の擦り切れたチラシが出て来た。戦闘機の写真に大きく書かれた『百里基地航空祭』のチラシ。

 百里基地。この府中からは76マイル(約122km)程北東に有る官民共用の飛行場だ。下川はそこで戦闘機に乗っていた。

 F-4EJ改。旧式でアナログ然とした2人乗りの戦闘機。決して飛ばし易い飛行機では無かったが、それだけに単座で電子制御された新鋭のF-15やF-2には無い満足感が有った。

 年数を確認すると、今から4年前の物の様だった。中には百里所属機と外来機による展示飛行の予定が、タイムスケジュールと共に書かれている。

 懐かしさに机に寄りかかりながら内容を見ると、F-4は下川が所属していた部隊が演目を担当していた。

 

 「懐かしいな……飛行隊解散前最後の航空祭か」

 「やはりそうだったのか……」

 

 思わず呟いた独り言に応える、背後からの声に驚いて振り返る。少し傾いた初夏の夕日に照らされた、シンボリルドルフがそこに立っていた。

 

 「すまない。ノックはしたのだけど、応答が無くてね……」

 「あ、あぁ……俺もすまない。片づけていたら懐かしい物を見つけて……」

 

 チラシをキャビネットの上に置こうとして、半笑いで下川が謝る。

 

 「そうか。なんだか随分と雰囲気が変わってしまったね。“兄さん”」

 

 シンボリルドルフの言葉に、驚きで下川の手が止まる。今、彼女は何と言った?『兄さん』?

 下川の記憶の中で、自分の事を『兄』と呼ぶ女の子は二人いる。二人とも下川が中学時代に出会った幼いウマ娘の少女。

 しかし、目の前にいるウマ娘の記憶は無い。彼女の顔を見て、思わず首を傾げてしまう。

 

 「……覚えていないかい?」

 「……シーちゃんか?」

 

 確認の言葉に、下川は訝りながらも隣の家に居たウマ娘の愛称を言ってみる。ただ容姿は記憶に中に有る姿とは似ても似つかない。

 確信にも似た間違いの名前を挙げると。目の前のウマ娘。シンボリルドルフは不機嫌そうに眉を寄せて、腕を組むと心底つまらない冗談を聞いたという風に口を開いた。

 

 「本当に覚えて居ないか?私だよ。ルナだ」

 

 シンボリルドルフの短い言葉に、驚きと共に色褪せた記憶が呼び覚まされる。

 ルナ。

 かつてシーちゃんと呼んでいた妹分の並走相手。たしか彼女の家の、本家の娘。同い年の親戚だったはずだ。

 

 「……ちょっと、待ってくれ、え?ルナちゃん?」

 

 その名前は覚えては、いる。安堵した表情を浮かべる彼女の顔を見直して見れば、確かに容姿に面影を感じる。だが最後に会った頃と、あまりにも雰囲気が違っていた。

 確か……と記憶の糸を手繰るが、こんなに落ち着いた娘ではなく。もっとお転婆な女の子だったと記憶している。

 そして想い出した。シーちゃんの渾名が羨ましいと言い出した彼女に、お母さんの名前と流星の形から『ルナ』と愛称を付けたのが下川自身だったことを。

 それ以来、ルドルフと呼ぶと機嫌を損ねるので、『シンボリルドルフ』の名を呼ばなくなっていた事も。

 

 「久しぶりだな……見違えちゃって。判らなかった。始めに言ってくれればよかったのに……」

 「いや、確信が持てなかった……。身長が低くなった気がするし、容姿がその……ね」

 「想像より老け込んでたって……?」

 

 下川がニヤリと意地悪く笑いながら言うと、シンボリルドルフは申し訳なさそうに頷く。無理も無い。顔は戦闘機の高G機動で引っ張られた結果、40後半の様な深い皺が出来て居たし。椎間板が潰れて身長は3センチ縮んで居た。

 別人とまで言われなくても、長らく会っていなかった彼女が確信を持てずに他人として接して、確認しようとして近づいて来たのは頷ける。

 下川の中で、カフェテラスで声を掛けて来た事にも納得が行った。

 

 「それに、その眉の傷痕は……?』

 「これか?訓練中の事故で、砕けたキャノピーが当たったんだ。ダートターゲット。まぁ別の機体が曳いてた、射撃のマトに突っ込んじまってな……」

 

 右手の人差し指と中指を、眉の所に突き刺すようにして、どんな風にケガをしたのかジェスチャーで示す。

 実際には、破片がもう数ミリ喰い込んで居たら脳に達して、生きていたか判らない怪我だったが。下川は勤めて軽く話した。

 

 「そうだったのか……そしてなんだろう。眼も随分変わったね……」

 

 眼が変わったと言われて、背筋に寒気が走る。

 

 「そんなに……威圧的か?」

 「いや……例えるなら波の無い深い湖の様な……っ、私は何を言ってるんだろうな?」

 

 取り繕う様に腕を組んで苦笑した彼女に、昔の面影を見る。そう言えば、シーちゃんに無理を言われて困るとこんな顔で笑って居たなと思い出し、やっと目の前のウマ娘と想い出のルナを繋ぎ合わせる取っ掛かりが出来た。

 「存外、十和田湖の湖水みたいに冷たくなったのかもな」下川はそう笑い、そこで気が付いた。初めに感じた違和感に。

 

 「そう言えば、髪型変えたんだな?それに自分の事を『ボク』言うって話し方も」

 「そうだね……あの頃とは環境も、立場も変わってしまったからね」

 

 シンボリルドルフはそう言って、自身の肩に掛かった髪先を指で弄って薄く笑った。かつて肩の辺りで短く揃えていた後ろ髪が、今は背中を超えて腰の辺りまで伸びている。

 こんなにも違ってしまって、これで気が付くのは無理だなと思いながら、下川は事務机の椅子を引いた。彼女に勧めて卓上に書類をいくつか出して置いて行く。

 1枚ずつ、それが何の書類で、何処にどんな内容を書いて欲しいかと説明していると、彼女はこう言い出した

 

 「このサインをする前に、お互いに決意表明をしようと思うのだが。兄さんはどう思う?」

 

 立っている下川に向き直って、シンボリルドルフが提案してくる。「ここに聖書は無いぞ」と返してしまい、一瞬驚いた顔をした彼女が笑い出す。

 

 「兄さん、そう言う事じゃないよ。お互いに目標を立て。万里一空(ばんりいっくう)、目標に進む決意を表そう」

 「そう言う事か。宣誓って訳じゃないんだな……すまん」

 

 少し勘違いしていた事を詫びて、どちらから表明しようかと思案していると、シンボリルドルフは「私から表明しよう」と言って立ち上がった。

 そんな彼女に対して、下川は机を挟んで対面に立ち休めの姿勢を取る。

 

 「私はシンボリルドルフ。あらゆるウマ娘が幸福に過ごせる、理想の世界を作る為。ここに立っている。だが、夢を語るばかりでは、誰一人耳を貸さん」

 

 朗々と決意を述べるシンボリルドルフの言葉を、下川は心の内で反芻しながら聞く。

 同時に彼女が語った『ウマ娘が幸福に過ごせる世界』との言葉に、少し驚きも感じる。

 子供時代にレースクラブの先輩や後輩を叩き潰していたのは、他ならぬシンボリルドルフ自身だったのに。彼女の心境変化を、嬉しくも少し寂しく思った。

 

 「万人に耳を傾けさせる為には、それ相応の評価と実績が無ければ。故に私が目指すのは頂点。皆を率いるに相応しい王の座だ」

 

 なるほどと下川は、今度は口元に笑みが浮かぶのを抑えられえなかった。これを聞かせたかったのだなと察しがつく。

 

 「……学園に来てしばらく、生徒会長として校内の活動に明け暮れていたが、いよいよ時は満ちた。兄さん、私と組んで導いてもらえるだろうか?」

 

 一瞬驚いたが、反射的に休めから踵を鳴らして気を付けに姿勢を正す。

 

 「無論そのつもりだ。よろしく頼む」

 「よし。……それでは、シンボリルドルフの栄光を始めるとしよう!」

 「応!……次は俺か?」

 「そうだな。私も兄さんの決意を聞いてみたい」

 

 内心、決意表明と言われて焦っていたが。無理にシンボリルドルフに倣う事も無いだろうと思った。

 

 「なら、俺は宣誓の形にしよう。左手をこの書類の上に置いてもらっていいかな?」

 「……こうかな?」

 

 机上の書類を互いの間に置き、互いに書類の端部分に左手を置く。右手の指を伸ばした状態で手の平を彼女に向け、肩の辺りに掲げて朗々と宣言する。

 

 「私、下川一樹はトレセン学園トレーナーたる名誉と責任を自覚し。常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、知識をかん養し、技能の修得に励み。専属担当シンボリルドルフの負託に、全身全霊を以て応えることを誓います」

 

 昔やった自衛官の服務宣誓になぞらえて宣誓する。下川にとって決意を表すより、決意を誓う宣誓の方が慣れて居たし。何より、目の前にいるこれからの教え子に対して、その期待を裏切るような真似はしたくなかった。

 下川の宣誓を聞き終えて、シンボリルドルフは満足げな笑みを浮かべていた。その顔に安堵感を覚える。

 同時に、下川は前々から温めていたトレーニングプランを提案するなら今だろうと判断して、少し大きく息を吸う。

 

 「あぁそうだ……。トレーニング方針についてなんだが、他人と少し変わった方法を取りたい」

 「ほう?と言うと?」

 「これはルナちゃんの協力が必要なんだが……」

 

 言いかけた所で、シンボリルドルフが「その前にちょっと待ってくれ……」と待ったを掛けてくる。

 

 「すまない。流石に学内で昔の名前を呼ばれるのはちょっと……恥ずかしい」

 「……悪かった。どう呼べばいい?」

 「そうだな……。皆は『ルドルフ』と呼ぶから、それでお願いしたい」

 

 あの頃と逆のお願いに笑って「判った」と応え。ルドルフに着席を勧めて、前に無地のコピー用紙を1枚置くと、メモ書きで説明していく。

 

 「基本的なトレーニングに関しては、特に他人と変わらないと思う。変えたいのは練習量の管理方法だ」

 

 「ふむ?」とルドルフは顎に手をやり、興味深げに思案しながら目線で続けてと促す。

 

 「習った方法では、週ごとなどに休息日を設ける。と言う事になっていたんだが、ここに時間毎の管理も入れようと思うんだ」

 「時間毎?3時間走ったら1時間休憩。等だろうか?」

 「もうちょっと長い。例えば1週間で毎日6時間走るとする。6×7=42時間。これを基準として、週50時間を超えたらその時点で1日。24時間の休息期間を設ける。と言う風なやり方だ」

 「なんだか、随分過保護な気がするのだが……」

 「あくまで例だから……。基本的な所は、飛行機の飛行時間管理の考え方を取り入れたいんだ。無論、分解整備に相当する精密検査も時間毎でお願いしたいと思ってる」

 

 ふぅむと唸って、ルドルフは考え込む。人と機械は違うとはいえ、時間毎管理で休息や検査をすると言うのは、潜在性の怪我や病気を早期発見するには最適だろうという考えで、下川が動いている事は理解できた。

 しかし、練習量に応して休みを増やす。という方式では、全体の練習量が減ってしまう。彼女はそこを指摘する。

 

 「そこはケースバイケースに、検診で異常が無ければ再開って形をとってみてもいいかなと思ってる」

 

 要は、身体に異常を来たす程の負荷を、短期間に掛けない様にしたい。と、下川は説明した。

 

 「いささか小心翼々(しょうしんよくよく)に思えなくもないが……。兄さんがこうしようと思った理由を聞いてもいいだろうか?」

 

 ルドルフの言葉に、下川は積み上げた資料から、厚めのファイルを引っ張り出して彼女の前に置いた。

 

 「これは昨年12月からの過去6年間の受傷者。つまり故障者リストだな。トレセン入学から卒業までの期間で200人近い受傷者がいる。せめて自分が受け持った人間くらいは、このリストに載せたくない」

 

 下川が苦い顔で言う。その内、事故や事件と言った突発事態で怪我をした者はごくわずかで。大半が練習方法の不備から来る怪我とも説明した。

 

 「思うに……皆、短期間に練習し過ぎなのではないかな。飛行機だってオーバーGみたいな過負荷掛けた場合、全分解の重整備が必要なんだ。もちろん飛行機と人間は違うとは解っているけど、俺は安全を重視したい」

 「……兄さんの気持ちは良く判った。兄さんの示したそれで、頂点は目指せると思って居るんだね?」

 「もちろんだ。それにどこから過負荷になるのか個人差は必ずある。俺としては、全開推力不明のまま推力不足で頂点へ登り詰めて失速墜落。では意味が無いと思っている」

 

 しばらくの沈黙。アスリートにメカニックの管理方法を取り入れる。そこだけ聞けば突飛だが、こうして事故実績を目の前にして、練習量だけを増やせばよいのかという疑問を呈されると、下川の考えにルドルフも頷きかけていた。

 それでも負荷の限界値の採り方。レースと休息が重なった場合の対処など、ルドルフの具体例を挙げての疑問に対して。下川は持久走形式でのラップタイム計測で、タイム低下を参考として限界の値を測る。スケジュールの重複は、レースを中心に休みを前倒すなど対策案を示し。

 他にルドルフが考えうる疑問に対して、下川はあやふやな物も有ったものの対案を用意していた。ルドルフは下川の本気度を理解して「試す価値はありそうだ」と思い頷いた。

 

 「それと、この方法を確立できれば。ルナちゃ……ルドルフさんの言う『ウマ娘の幸福』を一つの形として示せるんじゃないかな?」

 「一つの……形?」

 

 一通りの疑問をぶつけ終えた所で、下川が言った事に驚いた。ルドルフの鸚鵡返しに、メモ書きを増やしながら説明する。トレーニングによる受傷を減らす事は、その後に続くその娘の人生を守る事でもあり。

 重大な後遺症を遺すような怪我や事故を未然に防ぐ事で、その後の就職や人生に影響が及ばないようにする。これもまた一つの幸せという回答ではないか?と下川は解いた。

 

 「無論、幸せとは人それぞれでは有るのだけど。大前提としてケガによる不自由を得ない。得にくい環境作りは基礎的な所じゃないかな」

 

 どうか?とメモから顔を上げると、ルドルフは驚き呆然と目を見開いて下川を見ていた。そんな様子に下川は、よほどおかしな事を言ってしまったかと、内心焦って言葉を紡ぐ。

 

 「い、いや。俺はトレーナーとしてはまだトーシローも良い所だから、変な事を言ってたら謝る……」

 「そ、そんな事は無い!……その、意外だったんだ」

 

 謝罪に対して、少し慌てて否定するルドルフの回答に、下川は首を傾げる。彼女は少々頬を紅潮させて少し俯くと視線を横に逸らす。

 

 「私が夢を語ると、皆絵空事の様に笑うのでね……。真面目に向き合って、私の夢に沿った考えを示されたのは初めてなんだ」

 「あぁ……まぁ……」

 

 なるほど無理も無いと下川は思った。昔を知っていれば特にだ。

 そうはならないと言う確信があるのに、隙を見せたら食い殺されてしまいそうな凄味と無慈悲さが、昔の彼女には有ったのだから……。そんな彼女が他人の幸せを願うと言えば、周囲の反応も頷ける。

 ただ下川としては、彼女の頭の回転の速さや、気質からそういう事を言っても不思議とは思わなかった。

 しかし口ごもった事に機嫌を損ねたのか、彼女は俯いた顔を上げると違った意味で頬を紅くし軽く睨みながら言った。

 

 「なんだい兄さん?その酷く納得したような顔は?」

 「いや……。それより俺からも良いか?流石に校内で“兄さん”だと誤解される……俺の首が飛ぶよ」

 

 下川は思わず苦笑いをしながら、右手の親指で首を掻き切るようなジェスチャーをして強引に話を変える。

知り合いが多ければそれで良いのだが、不特定多数が居る校内で。しかもトレーナーが担当に『兄さん』と呼ばせている事が公になったら、よからぬ噂が立ってしまうかもしれない。

 

 「ああ……そうか。ならどんな呼び方が良いだろうか?」

 「無難に“トレーナー”で良いんじゃないか。俺だってルドルフさんかシンボリルドルフさんで通させて貰うつもりだから」

 「ふむ……ではトレーナー君。これからよろしく頼む」

 「こちらこそ……。それで、俺はルドルフさんのお眼鏡に適った。と、解釈していいのかな?」

 

 下川の言葉に、ルドルフは意地が悪いなと言う風に、また困った笑顔を見せる。

 

 「もちろん。それに全く知らない間柄でもないからね……信頼できる」

 「そうか?確か……中学入学以後会って無いと思ったけど」

 

 そう言って記憶をたどると、たしか自衛官時代の夏休みに帰省した時に会ったきり。だったはずだと下川は思った。

 それに対してルドルフは腕を組むと、眉を寄せて難しそうな顔で続けた。

 

 「会って居なくても、それまでに培った関係が消え失せてしまう訳では無いからね。それとも……」

 

 ルドルフは一度言葉を切ると、事務椅子の背もたれに体を預けて下川を下から睨み上げた。雰囲気が一変する。

 

 「数年で信頼や記憶が消え失せる程、兄さんにとって私と言う存在は希薄だったのかな?」

 「バカ言わないでくれ……」

 「だが、実際に忘れていただろう?」

 

 下川の弱々しい否定の言葉を、ルドルフが畳みかける様に詰めて来る。どうやら、選抜レース前の事を言っているらしい。

 

 「気が付かなかったんだ、本当に……」

 

 苦しそうに吐き出した下川の言葉を、吟味するように目を閉じてルドルフは押し黙る。部屋を満たす沈黙。

 

 「……その、悪かった」

 「今の『悪かった』は何に対してかな?」

 

 眼を閉じ、腕を組んだままルドルフが返す。昔と変わらない「私は怒っているぞ」と言う意思表示。こんなやり取りも久しぶりだなと思うと、やっぱり目の前の“シンボリルドルフ”が、懐かしい“ルナ”だったんだと実感が湧いて来て、やっと気が軽くなる。

 

 「無論、忘れていたというか、思い出せなかったことに対してだ」

 「それは仕方ない事だろう?」

 「……なら、ルドルフさんは今、何に対して怒って居るんだ?」

 

 聞き返してやっとルドルフは目を開く。凛とした雰囲気だが、かつての様に憤怒のオーラを吹き出すような、そんな激しい感情は感じられない。しかし、静かに威圧するように彼女は口を開いた。

 

 「態度だよ。幾ら覚えていなかったとはいえ、選抜でのあの視線は無いだろう?」

 「……その点は……申し訳なかった」

 

 下川は思わず、謝罪を述べて置く。選抜レースの時に目を細めて睨みつけた事が、気に入らなかったのかと納得する。しかし下川の謝罪と居どころが悪そうな顔に、彼女は表情の力を抜いた。

 

 「謝ってくれる程度に罪悪感を覚えてくれているのなら良かった。他校の生徒にあんな眼をされたら問題だしね」

 「あぁ……ガン付けたって……」

 「そう言う因縁の元になるかもしれないしね」

 「……軽率で申し訳なかった。すまない」

 「反省してくれているようだし、もう大丈夫だ。では、契約書にサインするとしよう」

 

 先ほどとは打って変わって、安心したと言う風に穏やかな微笑みを浮かべながら、居住まいを直したルドルフは卓上に置かれた書類を取り上げる。

 何の事は無い。彼女の気の強さを納得した様な下川の言葉に対して、意向返しと言う訳だ。こうした負けず嫌いな所は変わらないのだなと安心する。

 ペン先が紙の上を滑る音と、時折机を叩く微かな音がトレーナー室に響く。記入は複数枚に渡るので、一枚書いては横に置き。次の内容を読んではサインして……を彼女は繰り返していた。

 事務処理が上手くなったと感心しつつ下川が眺めていると、最後の用紙にサインを終えた彼女は書き終えたそれを横に置いた山へと伏せ。下川へと向き直った。

 

 「さて、確認してくれるかな?トレーナー君」

 

 「おっとすまん」と、紙束を取り上げサインの漏れがないかチェックする。

 

 「そう言えばシーちゃん。元気か?」

 「え?」

 

 下川が書類を確認しながら話し掛けると、ルドルフは突然の話題に驚いて聞き返す。

 

 「シーちゃんだよ。アイツもトレセンに入学したんだろ?仲良くやってるか?」

 「……もちろんだよ。どうしたんだい、突然」

 「いやぁ、アイツの顔も久しく見てないからな。気になった」

 

 チェックし終えた書類をクリアファイルに纏めながら下川が軽く訊いた事に、ルドルフは歯切れ悪く応える。

 下川はその反応に特段の関心を寄せる事無く、書類は自分から提出して置くと彼女に告げ。もう少し話そうかと思ってお茶を出そうかと聞くと。この後、生徒会の仕事が有ると断られた。

 「そうか……」と、下川は驚きの余り短く答える事しかできなかった。かつての彼女から、生徒会の仕事をしている姿を想像できなかったからだ。それこそ野山を自由に駆ける活発な少女だったのに、何がそうまで彼女を変えたのか。

 押し黙った下川に対して、彼女はクスリと笑う。

 互いに話すことが無くなり沈黙した所で「最後に握手でもしようか」と提案すると、彼女は満足げな笑みで右手を差し出してくれた。

 昔より大きくなったけれども、細くて華奢な手を軽く握る。しっとりと柔らかな手の平と対照的な、硬いペンだこが有るのが感じ取れた。

 

 「では、また明日」

 「ああ。明日からよろしく。トレーナー君」

 

 

 ルドルフと別れ、契約書類とトレーニングプランを提出し……と、明日からの準備で2時間ほどの残業を済ませて寮に戻る。

 

 「お疲れ様です下川さん」

 「ありがとうございます、守衛さん。自分はこのまま休みますので、おやすみなさい」

 

 守衛と挨拶を交わして、下川は自室へ戻る。玄関を開けて狭い下駄箱に靴を放り込み、トイレと浴室のドアが並んだ短い廊下を抜けて突き当り。6畳ほどのリビングダイニングで、着ていた上着を脱いで食卓の椅子に引っ掛ける。

 家具の殆どは備え付けで古びては居るが、使うのを躊躇うほど古い訳でもない。ダイニングの向こうに狭いキッチンがある。部屋に私物らしい私物は殆ど無く、生活必需品も最低限。キッチンの冷蔵庫から缶入りの発泡酒を取り出して、コーラでも飲む様に胃に流し込む。

 食事を摂る気にはなれなかった。缶を空にすると、2本目を手にしてダイニングへ戻る。タバコを辞めた代わりに良く飲むようになったのが酒だった。

 だが依存したり泥酔するほど飲む訳ではない。完全に寝るための酒と言ってよかった。しかし今日は飲む意味が違った。

 2本目のタブを起こして開封して中身を半分近く一気に煽ると、やっと少しアルコールが回って来たのかぼんやりと意識に霞が掛かった様な錯覚を覚える。

 幼い頃、憧れた人が居た。その人の語る“空の仲間たち”に影響されて戦闘機に乗りたいと言う夢を覚え。今、事故で夢破れてここに居る。トレーナーとして。

 トレーナーを目指した理由は簡単だった。過去に少しばかり心得が有ったから。本当にそれだけだった。

 そんな軽い気持ちで門戸を叩いたここで、心得を得た当時の相手の一人と偶然にも再会し、今度は専属トレーナーとなった。これは運命の悪戯なのか。

 また酒を煽って、空になった缶を空き缶ゴミ箱に放り出す。

 シャワーは朝浴びればいいかと、リビングの隣にある寝室の襖を開けた。衣類を入れたチェストとシングルベッド。唯一下川が買い入れた家具である、本棚が目に入る。ちらりと本棚を見れば、一番下の段だけがウマ娘のトレーニングに関わる本で埋まっていて、他にはほとんど本は入っていない。

 戦闘機乗りは転属が多い。だから荷物はアタッシュケース2つ程度に纏めている者が殆どだ。

 そしてそれが染み付いていた下川もまた、トレセンに来るまで私物は衣類程度しか持っていなかった。体をシングルベッドに投げ出す。

 少し酔った頭は、体を横にするとすぐに思索するのを止め。眠りに落ちた。

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