皇帝と亡霊   作:ハチロクデー

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 翌朝、夢を見るような事も無く自然と目が覚める。朝5時。

 飛行学生の頃から、起床1時間前に目が覚めていた。さっさとトーストとコーヒーの朝食を摂ると、シャワーを浴びて身支度を整える。

 寮からは徒歩で十数分。出勤し、トレーナー室に荷物を置いて、仕事に取り掛かろうとしたその瞬間、乾いたノックの音が響いた。

 返事をすると、「失礼するよ」ルドルフの声と共に彼女が入って来る。挨拶を交わして下川が訝りながら来訪の理由を尋ねると、呆れ困ったような口調で笑いながら、彼女は答えた。

 

 「トレーナー君と連絡方法を交換していなかったと思ってね。少し早起きして来たんだ」

 「手間掛けさせて悪い……連絡方法か。メールアドレスで良いか?」

 

 下川の回答に、ルドルフは二の句が告げぬと言った風に、口をもごつかせながら一瞬目を見開くと「いや……」と自身のスマートフォンを取り出した。

 学園生徒は、スマホ用のメッセージアプリ『LANE(レーン)』を使う事が多く。トレーナーとのやり取りもLANEが多いと言われて、今度は下川が内心頭を抱える。

 珍しい話だが、下川はそうした通信機器の類を持ち歩いたことが無く。連絡は主に家の固定電話と留守電で事足りて居たし、必要性を全く感じて居なかった。

 素直にスマホを持っていない事を伝えると、今度はルドルフが困ったと言わんばかりに眉を顰め、心配そうに声を落とした。

 

 「担当を持った以上。緊急連絡に対応できないでは、トレーナー君が困るよ?」

 「そうだな、御忠告痛みいるよ……。一応、俺のPCメールアドレス教えて置く。マメに確認はするから」

 「判った……。だが確か、教職員用にスマホを貸与する制度も有ったはずだ。もしもなら、たづなさんに聞いて見ると良いよ?」

 「たづなさん?あぁ、理事長秘書の駿川さんか……。早速、後で聞いてみるよありがとう」

 

 「もしスマホを持ったなら……」と、ルドルフも自身のLANEアドレスをメモにして渡してくれる。それに対して下川は礼を言って、退室する彼女を見送った。

 少し仕事を片付けようかとも思ったが、せっかくルドルフが心配してくれたのだからと思い直し、理事長室の駿川たづなを訪ねる為にトレーナー室を後にする。

 無論。誰か来た時の用心に、何処へ行ったのかと言う掲示を机の上に残して置く。そうすれば来訪者が探し回ってすれ違ってしまう事を防げる。

 安心して理事長室へ向かう道すがら、幸運な事に目的である彼女を見かけ、下川は声を掛けた。

 

 「おはようございます駿川さん。すいません、ちょっと携帯貸与についてお話伺いたいんですが……」

 「おはようございます。あら?携帯貸与の話ですか。皆さんご自分の携帯を使われるので、最近はお話に上らないのですけど……何を聞きたいんですか?」

 「いやその……恥ずかしながら自分携帯電話を持って居りませんので、貸与申請をしたく……」

 

 下川が恥ずかしそうに頭を掻きながら、スマホを借りる申請をしたいと言うとたづなは「まぁ!」と驚いて口元を両手で抑えた。

 続いて言われたのが「トレーナーさん。それでは緊急事態に対応できないじゃないですか」と、担当となったルドルフと同じことを言われて、下川は苦笑を返す以外に何もできない。

 

 「今まで連絡はどうされてたのですか?」

 「固定電話で……以前はそれとポケベル(ポケットベル )で……」

 「……元自衛官とお伺いしてますけど、自衛隊って今でもポケベルを?」

 「……国民の血税で買っていますので、古くてもおいそれと更新できんのです」

 

 下川の応えに、今度はたづなが苦笑する。そのまま「待っていてください」と理事長室の方へ去っていくたづなを見送り、手持ち無沙汰になった下川は窓の外を眺めていた。

 授業中の今、見渡すグラウンドに人影は無い。いや、端のフェンスに沿って数人の生徒らしき人影が、裏口に向かって歩いて行くのが目に入る。

 下川は訝しんだ。裏口の向こうに有るのは確か林と、森林管理棟だけ。生徒に用がある場所ではない。

 目を凝らすが、恐らくトレセンの制服を着ていると言うのが判るだけで、流石に顔や特徴まではパイロットとして鍛えた視力でも判別できない。

 人数を数える。4人見えるが、1人が率いて3人が従っている?唐突に先頭の1人が立ち止まり、こちらを振り仰いだ。ように見えた。

 

 「あの、トレーナーさん?」

 

 窓越しに人影を確認しようとしていた下川は、たづなの控えめな呼び掛けに驚いて声の方を振り返った。

 少し心配げに下川を見ているたづなの手には、数枚の書類と白いスマホが握られていた。思わず下川は「すいません」と謝る。

 

 「どうかされましたか?」

 「いえ、グラウンドの向こうに生徒が居た様に見えたので。どうしたのかなと……」

 「とてもそうは見えませんでしたよ……。まるで親の仇でも見るような目でした……」

 

 たづなに指摘されて、下川は顔を伏せて黙り込む。それはつまりルドルフに指摘された、集中するあまり視線が険しくなる悪癖をまた発露していたと言う事。

 昨日指摘されたばかりの事をまたやってしまったと、自己嫌悪に苛まれる下川を、たづなは不思議そうな顔で見つめていたが、「あっ」と思い出すと手にした書類を下川の前に差し出した。

 

 「先ほど言われていた、スマートフォン貸し出しに関する書類です。こちらが貸し出し用スマートフォン。破損させると弁償になるかもしれませんから、大切に扱ってくださいね」

 「……受領致しました。書類の提出期限は何時までですか?」

 「今日すぐにとは言いませんけど、早めにお願いします。……担当。おめでとうございます」

 「ありがとうございます。これから……頑張ります」

 

 たづなの祝いの言葉に、下川は頭を下げて感謝と決意を述べる。その後、少しばかり連絡事項を交換した二人はそれぞれの仕事へ戻るべく、その場を後にした。

 去り際、たづなは下川が言っていた遠いグラウンド端の方へ視線を向ける。たづなの目には人影どころか、木々の色が溶け合ってグラデーションの様にしか見えなかった。

 

 

 スマホを貸与されてトレーナー室に戻った下川が最初に取り掛かったのは、必要書類の処理だった。多岐に渡る書類を記入し、片づけて行く。

 ふと、自衛隊時代もこんな風に書類に追われていた事を想い出し、書きながら唇が綻んだ。

 次いで取り掛かったのが、スマートフォンの扱い方をパソコンで調べること。しかし……。

 

 「うーん……」

 

 アプリやクラウドと言った馴染みの無い単語の羅列に、下川は渋面をスマホのディスプレイに映しながらパソコンで調べ。そして手元のスマホを操作すると、想定した挙動を示さない事に首を傾げて唸っていた。

 通話方法はすぐに解ったが、LANEアプリの導入に数回失敗し。思わずデスクの上にスマホを放り出し、疲れた目元を揉む。

 すでに2時間近い時間を費やしながら、アプリの1つも導入できていない事に苛立ちが募っていた。画面に再び現れたエラーメッセージに舌打ちすると「……休むか」と独り言を呟いて流しへ向かい、収納からコーヒーの粉を出すとドリップペーパーでコーヒーを淹れる。

 流し台に寄りかかりながらデスク上のスマホを睨むように見ながら飲んでいると、唐突にノックの音が響いた。反射的に返事を返し、今度は下川がドアを開ける。

 

 「……やぁ、トレーナー君。連絡手段は確保できたかい?」

 「ああ……、すまん。それなんだが、助けてもらえるか?」

 

 先にドアを開けられて、驚いた表情を一瞬浮かべたルドルフが立っていた。しかしすぐに穏やかな笑顔を浮かべる。

 それに対して、疲れ切った下川は一瞬考えた後、彼女に助けを嘆願した。すると彼女は先ほどより明らかに少し慌てた様子で「どうしたんだい?」と聞く。

 

 「言われてたアプリなんだが、導入できなくてな……」

 「おや?そんなに難しい事ではないと思ったけど……」

 「認証メッセージだっけ?なんだかその辺が上手く行かなくてな。見てくれるか?」

 「わかったよ。でも、戦闘機の説明書の方が、もっと難しいんじゃないかな?」

 「Webの説明だと、日本語と横文字略称が混ざってるから意味判んねぇんだ。全部英語のフライトマニュアルの方がまだ簡単だよ……」

 

 「ふむふむ……」思案顔で入室するルドルフに、先日の様に椅子を勧める。席に座った彼女を見て、この部屋に応接セットでも入れた方が良いなと、下川は一瞬関係ない事を考えてしまう。

 デスクのスマホをルドルフに渡すと、画面を見て微笑む。すぐに操作し始め、タッチパネルの上を細い彼女の指が踊るのを、下川は興味深げに見ていた。

 下川が何をやっているのかと聞くと、それに対してルドルフは丁寧に説明を返してくれ、情報機器への精通振りと彼女の成長に感心する。

 

 「なるほど。判ったよトレーナー君」

 「何が原因だったんだ?」

 「メールアドレスだよ。パソコンのメールアドレスを入れてるんじゃないか?それが使えないんだ」

 

 読んでいた利用規約を下川に見せると、幾つか載せられている内の一つに下川が入力していたドメインが有った。

 画面を見せられ「……見落としてた」と頭を垂れる。その後もいくつか突っかかりながらなんとかLANEをインストールし終えると、ルドルフが自分のスマホを取り出し、下川のスマホに自分のアドレスを登録する。

 

 「さ、トレーナー君。何か送って見てくれ」

 

 ルドルフが満面の笑みを浮かべて、下川にスマホを手渡す。そのまま楽しそうに尻尾を揺らしながら下川の顔を見ていた。

 それに対して、下川は何と送ろうかと悩みながら、テンキーを操作して初めての挨拶を送る。「これでえーと……送信か」と送信ボタンをタップすると、数秒後にルドルフの手元で着信音が鳴った。

 いそいそとルドルフがLANEを開くと、表情が一変し、明らかに狼狽しながら固まっていた。画面には『6132047471324488859532231554210412327133』と表示されている。

 

 「と、トレーナー君。これは?」

 「いや『よろしくお願いします』って打っただけだけど……」

 「……私には、数字の羅列にしか見えないのだけど」

 「ん?ポケベルと違うのか?」

 

 下川の一言に、ルドルフの顔が混乱と呆れに崩れ、口が塞がらない。何の事は無い、下川はポケベルのコードを打ち込んでいたのだ。

 流石のルドルフも、下川の発言の内容を理解すると吹き出して笑い出してしまう。彼女の笑い声に、下川は呆気に取られていた。

 

 「もう……兄さん。普通にひらがなで入力できるんだよ」

 

 目尻に涙を浮かべたルドルフは立ち上がると、下川を椅子に座らせてスマホの扱い方を隣に立って教え始める。

 かつては幼い彼女に勉強を教えていたのが、今は立場を逆にして教えられている事に。自分の加齢と、ルドルフの成長を感じて少し誇らしいような、寂しいような感情を下川は覚え、スマートフォンの扱い方を習う。

 しばらく教わりながら入力しては削除したり、送信したりを繰り返していると。横に有るルドルフの温もりと、動く度に鼻腔をくすぐる髪の匂いに少しの懐かしさと安堵感を覚えた。

 そして想い出す「ルナちゃん。時間大丈夫か?」と下川が聞いて腕時計を見るが、始めてからそこまで時間は経っていなかった。ルドルフもまた「おっと……」と部屋の時計を見上げて、言われて初めて気が付いたと言う様子を見せる。

 

 「トレーニング、始めるか?」

 「そうだね。では今日のスマホセミナーは終わりだ。聞きたい事が有ったらいつでも頼って欲しいな」

 「判った。頼りにさせて貰う……」

 

 初日と言う事も有って、運動場で下川が決めたタイムを何周維持して走れるかを試してみると。ルドルフにとっては負担が軽かったのか、10周してもほとんど同じラップタイムを出し続けた為に、一度休憩を挟んでルドルフから感想を聞き。2割ほど早めたタイムを出せるかどうかを試すと、これもあっさりと彼女はクリアしてしまった。

 初めてと言う事も有って選抜試験より負荷量を軽く見積もって内容を組んでいたが、やり過ぎたようだ。終わった後に今日の感想を聞いてから、今日は解散とした。

 寮に戻ってデータを突き合わせながら、負荷を増やした改訂版の予定を用意する。寝室でコーヒーを飲み、ハッカパイプを吹かしながら予定を改めて確認していると、スマホのバイブレーターが鳴った。

 ディスプレイを見ると『「ルナちゃん」からメッセージ』とLANEの通知が表示され、ルドルフからメッセージが届いている事を知らせていた。

 『今日はお疲れ様。また明日もよろしく頼むよ』と簡潔なメッセージがアプリに表示されている。下川は送信時間を見てぎょっとした。22時を過ぎている。

 寮の門限と消灯時間を過ぎての送信に緊急事態を一瞬心配したが、内容が余りにも平穏なので返信するべきか否かをメッセージを見ながらしばらく考えていると。彼女のからの新しいメッセージが画面に表示される。

 『兄さん?』と短い呼びかけ。意を決して『おつかれさま。明日、トレーニングは1625。運動場直』と慌てながら打つ。送信済みの表示が既読へと変わると、入力中の表示が現れ、新たなメッセージを入力している事が判る。

 『判った』と言う短いメッセージに、安堵しながらアプリを閉じてスマホを充電器に戻し。仕事に戻ろうとすると再び通知のバイブレーションが鳴る。

 「なんだぁ……」思わず呟いて、スマホを持ったままパソコンの前に戻ると、新たなメッセージは『兄さんは何時頃眠るんだい?』と。さてどうしたものかと、椅子の上で腕を組んでのけぞってしまう。

 『もうすぐ寝る』とだけ打って送信すると、『それまで少し付き合ってくれないか?兄さんも慣れる練習になるだろう?』との返信。好意での提案に有りがたいと思うと同時に、明日の授業やトレーニングに支障が出るとマズいなと考え『ありがとう。だが睡眠時間は削るな』と送信して、今度こそアプリを閉じて充電器に戻した。

 一度通知のバイブ音が鳴ったが、今度は無視を貫く。そうして深夜を回る迄書類とスケジュールを練り直してから床に就いた。

 

 

 翌朝、下川がスマホを確認すると『少しだけだよ。眠れないんだ』とメッセージが残っていた。無視した事を少し申し訳なく思いながら、会ったら話し掛けるかと思い出勤する。

 しかし不思議と日中は会う事無く、提出書類を出しにたづなの所へ行き。トレーナー室へ戻って来ると、不在のメモ書きにルドルフからの言伝が残されていた。

 『本日のトレーニングを欠席させてほしい。連絡はLANEで』との短い内容。下川は一瞬体調不良を疑ったが、トレーナー室にメモを残している事から、出席している事が伺えたのでその疑いはすぐに否定できた。

 疑問を覚えながらもLANEで『欠席了解。ちゃんと寝ろ』と送信して置く。スマホにキーボードが欲しいなぁ等と思いつつ、トレーナー室でメニューを練り直す。

 集中していたせいか、気が付けば19時に届こうかと言う時間になっていた。いそいそと退勤準備をしていると、校舎に一室。煌々と明かりが燈っている部屋を見つける。

 確かと下川が思い返すと、電気が付いている部屋は生徒会室だったはずと思い当たる。消し忘れか、誰か残っているようなら早く帰れと、ケツを蹴り上げてやろうとその部屋へ向かう。

 部屋の前まで来ると『生徒会室』のネームプレートが掲げられ、照明が落ちた廊下に室内の明かりが漏れて筋を作っている。すでに誰も居ないと下川は思っていたので、ノックもせずにドアを勢いよく開けた。

 「えっ!?」と声が聞こえて、その方向を見る。書類を抱えたシンボリルドルフが立っていた。今度は逆に下川が「はぁっ!?」と声を上げる番だった。

 

 「ル……ドルフお前何やってるの?下校時間もう過ぎてるだろ?」

 「トレーナー君こそ……今日は休むと言っておいたじゃないか?」

 「俺は単に時間を忘れてただけだ。それに休むって聞いたけど、理由までは聞いて無いぜ……」

 

 机の上に雑然と積み上げられた書類に、近くに置かれたトレイには冷めた紅茶のポットとカップが載り。まるで年度末の決算申請を片付ける、会計隊の様な散らかり具合だ。

 思わず下川は顔を顰めて「もしかして……」と、少し髪が乱れたルドルフに向けて、半ば睨むような非難の色の浮いた視線を投げかける。

 「休むって言ったの、書類が片付いて居なかったからか?」問うと、彼女はあっさりと目を閉じ、諦めた表情を浮かべながら頷いた。パッと見ただけで、机の上に書類が置かれて居ないスペースは無い。

 

 「しょうがねぇなぁ……手伝うから注意点とか教えてくれ」

 「だ、だが、こんな事に兄さんを付き合わす訳には……」

 「呉越同舟(ごえつどうしゅう)って奴だ。少しは大人を頼れよ相棒」

 

 ルドルフが「それは『乗り掛かった舟』では……」と呟くのを聞いて一瞬固まるが。それを無視して、下川は手近な書類を手に取った。内容としては決済書類が多い様だ。彼女は大きくため息を吐くと「そうだね……。お願いするよ兄さん」と。正面に見える自分の席へと戻ると、手分けをして書類を処していく。

 内容も複雑ではないが、時々サインなどが必要な書類も有ったので。判や内容確認が必要なだけの書類を下川が。決済にルドルフのサインが要る物を彼女にと分けて片づけて行く。

 自衛官時代の報告書作成よりは楽だなぁと思いながら、様々な書類に目を通し、判を押しとしていると、唐突に横顔に視線を感じた。そちらに振り向くと、驚いたと言った風で固まっている。

 「ルナちゃん。手がお留守だぞ」と不機嫌気味に言ってやると、はっとなって手元の書類に彼女は視線を落とした。

 

 「……その、昨日はすまなかった」

 「……何が?」

 「LANEだよ。我が儘を言ってしまって……」

 「気にするな。それより徹夜とかするんじゃないぞ。寝不足は生活の大敵だ」

 

 書類を2人で処しながら、唐突なルドルフの謝罪に下川が軽く応えて、それよりもと注意する。話して居ると、昨日からこんな状態だったようだ。

 生徒会に他のメンバーが居ないのか問うと、今は居ないと言う回答に下川は内心頭を抱えた。二足の草鞋とは言え、生徒会業務にこんな負担が有るようでは、満足にトレーニングができない。

 下川はやり場のない怒りを腹に抱えながら、書類の山にそれをぶつけるように片づけて行く。

 

 「もしかして、昨日寝て無いのか?」

 「い、いや寝たよ。ちゃんと寝た……」

 「嘘吐け。目元にそんなに濃いクマを張り付けてたら、俺でも気が付くぞ。それに昨日のLANE。ここから送信して来たのか?」

 

 下川はあっという間に山の一つを処する。昨日のLANEの事を切り出すと、観念したようにルドルフは素直に頷いた。それに対して下川は「やっぱりかぁ……」と応えて、ルドルフの方を見る。

 

 「今、繁忙期なのか?それともずっとこんな感じなのか?」

 「そうだね、繁忙期だから書類が溜まって。秋の聖蹄祭の出店関連書類を、早期受付してしまったのが拍車をかけたのは間違いない」

 「判った。なら俺が決済できる書類は俺に振れ。手伝ってやるから」

 「……すまない兄さん」

 

 「気にするな。射爆演習場の外でバルカンやミサイルブッ放した、後始末よりは楽だ」と、昔を思い出して下川が返す。そこから判を打つ音と、カリカリと書類にサインをする音だけが生徒会室に響く、書類整理に目鼻がついたのは門限の30分ほど前だった。

 下川は首を鳴らしながら片付けられる物は片付け。終わっていない書類は、応接セットの上に積み上げて置く。「ほら、閉めっちまうぞ」と目元を擦りながら荷物を持つルドルフを急かしつつ、部屋の電灯を消して生徒会室を二人で出る。

 ポケットからフラッシュライトを取り出して、ルドルフが鍵を閉めるのを横から照らして助けてやる。

 

 「閉め終わったよ」

 「なら早く帰ろうぜ。寮の入り口まで送って行くから」

 「そんな、悪いよ……」

 「遠慮してる暇はねぇ。門限まであと25分」 

 

 ルドルフが送って行くと言う下川に遠慮したのを、腕時計を覗いて時間が無いと指摘すると彼女の右手首を掴んで歩き出す。「ちょっと兄さん!」と抗議の声が上がるが、下川は視線をチラリと送っただけで、無言で手を引く。

 力では彼女の方が強いのだから、嫌であるのなら十二分に抵抗できる程度の力で引っ張ると、彼女は素直に付いてきた。下川は右手にライトを握り締め、左手にルドルフの手首を掴み、少し速足で。しかしルドルフが付いて来れる速度で、真っ暗な廊下をライトの明かりを頼りに歩き抜ける。

 

 「そのライト。とても明るいね」

 「アメリカのシュアファイアって言うそうだ。空自時代に友人から譲って貰った」

 「兄さんらしいけど、いつも持ち歩いているのかい?」

 「目潰し用途にも使えるからな。有ったら有ったで使える物さ」

 

 言いながら校舎をでて、2人で寮までの道を並んで歩く。流石に外に出る前に手は放し、歩調も彼女に合わせてゆっくりとしたものに戻した。道すがら、明日の予定について宣告する。

 

 「明日は休養日にしよう。異論は?」

 「……有っても兄さんは、強引に休ませるんだろう?」

 「人聞きが悪いなぁ。押し付けはしないぞ?」

 「なら、私がトレーニングしたい!と言ったら、どうする?」

 「そうだな。デートトレーニングとでも称して、遊園地にでも連れ出そうかな。行き帰りはブランケットを用意するから、ゆっくり寝て貰って」

 

 下川の応えに「ほら、やっぱり」とルドルフは苦笑する。幸い明日は休日と言う事も有り、トレーニングをするつもりは下川にも無かった。予定には無いが、こうしたイレギュラー事態は今後も生じる事は有るだろう。

 レースばかりでなく、私生活も念頭に置いたスケジューリングが必要になるだろう事を想像して、下川はしばし黙考する。

 しかし……と下川は反芻する。生徒会のあの仕事量はなんだ?本来、学校の会計や庶務で担当する仕事も混ざっているように見えた。たづなさんと相談して、生徒会権限の限定化を図るべきかもしれない。

 「なぁ、書類仕事で思ったんだが。生徒会に回ってくる仕事を減らそうって思わないか?」ルドルフに対してそう切り出すと、一瞬眉を顰めて、よく判らないなと言う顔をする。

 

 「簡単な話さ。今日見た範囲では、学校に振れる仕事だってあったし。ましてやお祭りの出店なんて生徒会が管理する話じゃないだろう?」

 「そうなのかな……前任から生徒会管理だったのだが」

 

 下川の質問に、驚きの答えが返ってくる。思わずルドルフを振り返ってしまった。

 「前任の時って、生徒会は何人居たんだ?」と聞いて、帰ってきた答えは「たしか……5人居たね」だった。

 5人の仕事をルドルフ1人で回し、片付けていたとなると。それはオーバーワークをはるかに超えた、過労死ラインなのでは無いかと下川は驚く。いずれにしても、生徒会への仕事量軽減は急務と言えた。

 寮へルドルフを送り届け、入り口で「また明後日。ゆっくり休めよ生徒会長」と少し揶揄いを込めて呼ぶと、ルドルフは「ありがとう。そうさせて貰うよ」と疲れた表情で応えて寮の中へと消えて行った。

 「こりゃ重症かもしれないな……」と、下川は思い。明日の内にたづなさんと相談して置くべきかもしれないと、プランと話を頭の中で練り始めた。

 

 

 翌朝。早速たづなを訪ねると、生憎の休みとの事だった。流石に休みに仕事の話で連絡するのは気が引けたので、生徒会の話はいったん置き。トレーナー室でミーティングするのに使えそうなイスとテーブルの買い出しに向かう事にした。

 まずは中古雑貨店を回って、応接用の長テーブルと椅子を物色する。空自の退職金が有るとはいえ、あまり高い物を買うのは気が引けたので、安くて長く使えそうなものを見繕った。

 すると近くの店舗で、良さそうな長机と長椅子ソファを見つけて座ってみる。装飾も無くシンプルで、クッションも柔らかすぎず硬すぎず。セットになった机とも相性はいいが、ソファが長椅子1脚しかない。

 普通は4脚か長椅子1脚と小さい物2脚くらいで1セットのはずなので、買い求める人も居ないと言う事なのか値段はかなり安い。ソファは担当専用にして、では自分はとなると何でも良かったので、ローダウンのパイプ椅子を買い求める。

 流石に自家用車に載らないので、店の軽トラックを借りてトレセンまで運び込んだ。トレーナー室がある一角に軽トラックを付けて、そこで気が付く。

 

 「1人で降ろせんなこれ……」

 

 腰痛を持っている下川としては、誰か手助けが欲しい所だが今日は休日。ルドルフを呼び出す訳にも行かないしと、とりあえず同僚を見つけて頼み込む方向で腹を括ると、その前にトレーナー室で予定の見直しとコーヒーでも飲む事にした。

 トレーナー室のノートパソコンを起動させてファイルを呼び出す。トレーニングメニューは実に多岐に渡る。加えて、下川独自の『時間毎休養管理』と名付けた、飛行機の運航整備を取り入れた休養のスケジュール管理もある分、管理項目が増えていた。

 余分な仕事と他のトレーナーは笑うかもしれないが、少なくともこの方針でルドルフのトレーニングを実施し、訓練内容を確立できればと下川は考えていた。

 そんな風にメニュー表と格闘していると、トレーナー室のドアが開閉する音が下川の耳に届いた。モニター隅の時間を確認すると昼には少し早い時間帯。

 様子を見に来たルドルフだろうと、ひょいと右手を上げて「お疲れ様。少し待ってくれ」と声を掛ける。返事は無いが、足音が近づいて背後へと回って来る。

 キリが良い所まで進めてしまおうと、キーボードを叩く手を速めた瞬間だった。「フフッ」と言う小さな笑い声と共にふわりと嗅いだ事の無い香水の香りが、背後から香り。左肩甲骨辺りに温かくむにりとした柔らかい感触と、人の体重と思しき重さが圧し掛って来た。

 耳に吐息がかかる。下川が一瞬硬直した後、身を前に倒して低くしてから振り返ると、そこには赤い双眸のウマ娘の顔が有った。

 「え……」と下川が驚いて居ると、そのウマ娘は尖った犬歯を見せながらニヤッと不敵な笑みを浮かべる。刹那、下川の脳裏に同じ顔で笑う幼い日のウマ娘が思い浮かんだ。

 

 「……シーちゃん!?シリウスシンボリ!」

 

 思わず名前を呼ぶと、シリウスの方が今度は一瞬驚いた顔を見せるも、すぐに嬉しそうな表情で姿勢を正し「お久しぶりだな。兄(にい)」と声を掛けられる。

 その呼び名に下川は一瞬苦笑するが、それ以上に喜びが上回った。元々『兄ちゃん』と呼んでいた彼女に、現役時代に二尉(にい)へ昇進したと報告して以来。下川の事を『兄(にい)』と呼び続けていた。

 

 「久しぶりだな!何も言わないから、てっきりルナちゃんかと思ったぜ。元気そうで何よりだ」

 

 下川が興奮気味に一気にまくしたてる。久しぶりに会った妹同然に可愛がって来た彼女の来訪に、下川は嬉しそうに席を立って椅子を勧め。入り口脇の流し台へ向かう。

 「お茶くらい飲むだろ?確か用意して有るぞ、お前が好きな銘柄のルフナ」ウキウキと喜びを隠しきれずにお茶の準備をする下川の背中を、椅子に腰かけたシリウスは少し笑みを浮かべながら。しかし目は険しい光を湛えながら見ていた。

 淹れた紅茶に、ミルクとクッキーを添えてシリウスの前へと出すと「しかし、どうしたんだシーちゃん?こんな所に出張って来るなんて……」下川は不思議そうにシリウスに尋ねる。

 彼女は眉とウマ耳をピクリと動かすも、出された紅茶にミルクを1匙入れて混ぜると一口。口を付けると真剣な表情で下川を見つめて来た。

 その表情の意味する所を掴めない下川は、無言のまま。しかしシリウスの雰囲気から少しの緊張感を覚えて頬が引き締まる。

 

 「……兄。ルドルフの専属になったって聞いたけど。本当か?」

 

 彼女の口から放たれた言葉に、下川は安堵し緊張を緩めた。幼馴染みの専属トレーナーが評価低いとでも聞いて見に来たのだろうと勝手に思ったからだ。 

 

 「ああ。いろいろ紆余曲折有ってな」

 

 「へぇ……」と、答えを聞いたシリウスが椅子の背もたれに体を預け。ひじ掛けに肘を突いて自らの顎に手をやると興味深げに下川の目を覗き込んでくる。

 無言で見つめてくるシリウスに、少々気圧されながら「どうした?」と聞く。

 

 「そっか……ルドルフの専属か……」

 「あー……もしかして、自分の専属になって欲しかったとか言うのか?」

 

 感情を整理するように目を一度閉じたシリウスは、何か物思いに耽りながら目を伏せた。下川は初めて見るシリウスの様子に、戸惑いながらもそんな言葉を投げかけた。

 「そんなんじゃねぇ」と否定するシリウスが、ティーカップをソーサーに戻して持ち手を爪で軽く弾くと、再度下川の事を見て来る。彼女には退官後に手紙をしたためて、トレーナーを志望した経緯を説明して有った。

 しかし手紙の返事は貰って居なかったし。顔を合わせるのは退官後初めてだなと思い返し、その瞬間に気が付いた。無言で右眉の傷を指差すと彼女はニッと笑う。

 

 「凄味が増したな。まるで“その筋”の関係者みたいだぜ?」

 

 「ちょっ!?酷くねぇか?」シリウスの評価に下川が驚いてから、“その筋”扱いされた事に不機嫌に応える。すると、彼女は堪え切れないと言う風に笑い出した。

 ルドルフと違って豪快に笑う彼女に、幼い頃を想い出して懐かしくも成長を感じ、下川もつられて微笑む。

 

 「それにしても、3、4年ぶりくらいか?みんなを招いた航空祭ぶりだったろ、たしか」

 「そうだな。あの時はスーさんともども世話になった」

 「気にするなよ。スーさんもわざわざ、お前とラモーヌちゃんの引率勤めてくれて。俺の負担が減って助かったんだから」

 「ハハッ!アタシ達よりスーさんの方が飛行機に興奮してたものな。格納庫で戦闘機のコクピットに登ってはしゃいでたの、今でも覚えてるぜ」

 「ヘルメット被らせて操縦桿握って。キャノピー閉めさせたらゴキゲンだったものなぁ。今は海外に居るんだろ?」

 「ああ。兄が空自を辞めたって話をしたら心配して、気に掛けてたぞ」

 

 最後にシリウスと会った、彼女らを招待した航空祭で、シリウスとラモーヌの引率として来ていたスピードシンボリ。

 下川が所属していた航空隊最後の年に、許可を貰って格納庫を案内した時、主賓のシリウスやラモーヌより嬉しそうにしていた彼女を想い出す。

 今は海外で働いて居るとシリウスからの手紙で知り、彼女との寂しい思い出が下川の脳裏をよぎる。

 その後、ひとしきり思い出話に花を咲かせた所で、シリウスが目を細めてこう聞いてきた。

 

 「兄。表の軽トラックに積まれたソファと長椅子。どうするつもりだったんだ?」

 「あれ?なんで知ってるんだ?」

 「兄があの軽トラから、降りて来るのを見かけたから……だけど?」

 「あぁ……いや、この部屋へ運び込むつもりだったんだが、人手がなぁ……」

 「へぇ……。手伝おうか?」

 

 シリウスからの提案に、下川は少し驚きながら彼女の顔をまじまじと見てしまった。不敵な笑みを浮かべながらこちらを見るシリウスの申し出は嬉しいが、彼女の性格からしてただで手を貸そう。と言う風にはならないだろうと予測がついた。

 「良いのか?」下川が聞くと「いいぜ。ただし……」と続けるのを聞いて、下川は心の中でそら来たと呟く。

 

 「ルドルフの専属を降りろ」

 「……なに?」

 

 シリウスの口から聞こえたのは予想だにしない言葉だった。降りろ?頑張れではなく?下川の背筋に冷たい汗が流れ、頭の中が混乱する。

 彼女の事は、よく知っている。彼女の家と下川の家は隣同士で、家族ぐるみの付き合いだ。そしてルドルフとシリウスは、仲の良い同い年の幼馴染み。

 それゆえに「頑張れ」と応援されるかと思っていただけに、「降りろ」との言葉は予想だにしていなかった。

 

 「言葉の通りだ。ルドルフの専属を降りて、別の。何ならアタシでもいい。専属になれ」

 

 畳みかける様に紡がれる言葉に、下川の中にどうしてと言う疑問だけが膨れ上がる。

 衝撃の余りシリウスの顔を見つめると、彼女は少し目を細めて真剣な表情で下川の応えを待っていた。

 

 「……それは無理だよシーちゃん。もう、決めてしまった事なんだ」

 

 考えて、下川はシリウスの言葉を『癇癪(かんしゃく)』の一つだと理解した。幼馴染みに兄ちゃんを獲られた。とでも思ったのだろうと。

 だから下手な言い訳や反発は彼女に失礼だと思った。静かに、言い聞かせるように言葉を発する。彼女の赤い双眸を真上面から見て、一言一言を噛み締めさせるように喋る。

 すると、シリウスは目を丸くして見開き、ウマ耳をピンと立てて大きく驚いていた。

 

 「俺はルナちゃんを相棒に選んだ。今更曲げたり。翻したりは出来ない。それが例えシーちゃんの願いでも」

 

 下川がはっきり告げると、シリウスの表情がふっと緩む。そして先ほどとは比べ物にならない大声で笑い出した。

 トレーナー室の窓が、震えるのではないかと言う大音量での笑い。何がそんなにおかしかったのか判らない下川はポカンと口を開けてみている以外に無かった。

 

 「どこまで行っても真面目だなぁ!『相棒に選んだ』か……今の兄の顔最高だったぜ!!」

 

 腹を抱えてひとしきり笑うと、目尻の涙を拭ってから自分のスマホを取り出して何処かへと電話を掛け始めた。

 

 『もしもし?シリウス先輩、どうしたんスか?』

 「ようヤマ。今ヒマか?ちょっと運びたいモノが有ってな。手伝いを頼めないか?」

 『あ、マジっすか?大丈夫っスよ!でもアタシ1人で良いんすかね?傍にジョーとキョウも居るっスけど……』

 「あぁ、手数は多い方が良い。正門に連れて来てくれ。頼んだぜ」

 

 電話を終えるとニコニコと上機嫌に、尻尾を揺らしながら「しばらく待ってな」とシリウスは言う。

 

 「良いのか?」

 「もちろんさ。兄がそこまではっきり決断してるんだからな」

 

 嬉しそうなシリウスを前に、安心した下川が「恩に着るよ……」と礼を述べると、シリウスは最高に楽しいと言わんばかりの笑みでこう答えた。

 

 「兄とルドルフ。2人で精々前人未到の大記録を打ち立てていってくれよ。アタシがそれを超えて、塗り潰してやるからさ」

 

 

 その夜、下川はなかなか寝付く事が出来なかった。シリウスがトレーナー室に“宣戦布告”をしに来たという事実に一抹の寂しさを覚えて。

 シリウスシンボリ。彼女の事を産まれた時から知っている。それこそおしめを替えた事だってあった。そんな彼女が、仲の良かった幼馴染みのルドルフをあんなにもライバル視するとは……。

 彼女たちが幼い頃、近くに有ったレーストラックに2人を連れて、並走を眺めて居た事が想い出される。本家と分家とは言え、本当の姉妹の様に仲が良かった。

 その絆の変貌を目の当たりにしながら、俄かには信じられなかった。人は変わると言うが、彼女たちの友情までもがこんな形になってしまった事に、下川の胸が痛む。

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