『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
新月の真夜中。星明かりすら届かないコンクリートの谷間に、荒い足音が反響していた。
「クソッ……! なんで俺が……!」
追跡を振り切り、人混みを避けて選んだのは、旧市街の行き止まりの路地裏だった。
逃亡者の男――腕全体を禍々しい鋳鉄の塊へと変質させる個性の持ち主は、背後を警戒して振り返りながら、太く重くなった金属の右腕をぎりぎりと鳴らした。息が切れ、心臓がうるさく脈打つ。警察の足音は遠ざかった。ここなら撒けた。そう確信した瞬間、背筋を凍らせるような重低音が、闇の中から響いた。
低く腹に響く追跡者が乗るバイクのエンジン音ではない。もっと近く、足音すらない気配。
「――誰だ!」
男が振り返り、怒号とともに鋳鉄化した右腕を振り抜いた。
空気が裂けるほどの重い一撃。しかし、そこには誰もいない――はずだった。
音もなく、まるで最初からそこに立っていたかのように、黒い大男がいた。
顔面を覆うのは、最新鋭の戦闘機用HMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)をベースにした流線型のスマートバイザーヘルム。その表面に、路地裏のわずかな光が冷たく反射する。首元には、煤けた深紅のマフラー。
公安のカード イレギュラー。
恐怖と反射で、男はさらに踏み込み、その鉄の拳で頭蓋ごと押し潰そうと殴りかかった。
だが、イレギュラーは避けることも、構えることもしない。
ただ息を吸い、すべてを吐ききった「無息の静寂(間)」のなかで、オープンフィンガーのグローブを嵌めた左手を、突進してくる鋳鉄の腕にただ触れさせた。
瞬間。
――『虚』。
男の腕にみなぎっていた強烈な個性の出力が、接触点を起点として霧散し、文字通り「ただの肉体と金属の塊」へと急速に減衰していく。個性の消失による平衡感覚の喪失と、数秒の「残響の沈黙」。
男の目が驚愕に見開かれたときには、すでに手遅れだった。
イレギュラーの体が、無駄を完全に削ぎ落とした武の理に従い、最短の軌道で動く。
掴んだ腕を利用して重心を完全に崩し、背部に背負ったKISARAGI製強化外骨格の油圧トルクが乗った踏み込みと柔法の崩しが一体化する。
ドスッ、と鈍い地響きが立った。
巨体が石畳に叩きつけられ、肺からすべての空気が強制的に搾り出される。
男がうめき声を上げようと口を開いた瞬間、イレギュラーのブーツの踵が、その膝関節の急所を正確に踏み砕いた。
「が、あ……ッ――!」
骨の砕ける音と同時に、激痛が脳髄を焼き、男は声にならない絶叫を飲み込んだまま、白目を剥いてその場で気絶した。
周囲には、わずかな風の音と、強化外骨格の微かな排熱音だけが戻る。
イレギュラーは倒れた男を一瞥すらせず、低く息を整えると、路地裏の陰で待機していた公安の車両へ無線機を取り出し、最小限の単語を告げた。
「――回収」
闇の中から黒いスーツを着た人間たちが無言で現れ、気絶したヴィランを素早く引き立てていく。イレギュラーはそれを見届けることもなく、路地裏に停めてあったクルージング型の大型バイクに跨がった。
セルが回り、エンジンが低く唸る。夜風を切り裂いてバイクを発進させようとしたその時、ヘルメットのインカムの通信ランプが青く点滅した。
『――夜分にすまないね、イレギュラーくん』
雑音の混じらない、澄んだ、しかしどこか含みのある声。根津校長からの直接の個人連絡だった。
暗い夜道を照らすヘッドライトの光の先で、イレギュラーは無言のままアクセルを少しだけ捻り、闇の中へと走り出した。