『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
轟家では静寂だけが、和室の広大な食卓を支配していた。
箸が磁器に触れるカチリという小さな音や、湯呑みから上がる湯気すらも、この場では不自然なほど際立っている。
USJ襲撃事件から一夜明けた、雄英高校の臨時休校初日。
静養という名目で静岡の実家へ戻っていた轟焦凍は、目の前の料理にほとんど手をつけず、己の右手の掌を見つめていた。
USJの惨劇。あの圧倒的な質量と異形の暴力――「脳無」。
そして、それを『個性』の出力に一切頼らず、技術と骨格の軸、そして相手の機能を削ぎ落とす冷徹な理(ロジック)だけで6分間解体・停滞させ続けた男。
臨時講師、イレギュラー。
己の「右半身の氷結」すら、あの男の掌に触れられれば一瞬で霧散させられ、間合いに入られれば関節から叩き折られるという底知れぬ戦慄。
そして何より、あの男の背中を目撃した瞬間から、焦凍の脳裏を離れない「幼少期の不穏な原風景」があった。
焦凍は深く息を吐き出し、静寂を切り裂くように口を開いた。
「……母さん。姉さん」
食卓の視線が一斉に焦凍へ集まる。向かいに座る父・エンデヴァーは、眉間に深いシワを寄せ、目を閉じている。
「昔……俺が4歳の頃。この家に勝手に入り込んできて、親父と無言で殴り合ってた男を……覚えているか?」
箸を動かしていた冬美の手が、ぴたりと止まった。
隣に座る母・冷は静かに瞼を伏せ、手に持った湯呑みをゆっくりと食卓へ置く。その繊細な指先が、ほんの僅かに震えていた。
「……ええ。覚えているわ、焦凍」
冷の静かだが確かな声が響く。あの絶望の淵で、冷酷なまでの暴力と無言の死闘を目撃し、精神が強烈な衝撃によって破綻を免れた日の記憶。硬い距離感を保ちながらも、忘れるはずもない男の影。
「……あ? ああ……」
あやふやな記憶を手繰り寄せるように、夏雄が頭をかきながら首をひねった。
「なんか昔……親父がすげえデカい音立てて道場の壁壊して倒れてたような……うっすら覚えてるけど。あれって親父の特訓の事故じゃなかったのか?」
「事故なんかじゃないわ、夏君」
冬美が静かに、しかし断固とした口調で弟の言葉を正した。冬美の瞳には、かつて「絶対的支配者」であった父親の威圧が物理的に叩き壊されたあの日の光景が、鮮明に焼き付いている。
「あの人は……突然やってきて、お父さんを殴り倒していったのよ」
家族の会話を聞きながら、エンデヴァーは一言も発しない。ただ、眉間のシワをさらに深くし、腕組みをした太い腕の筋肉をきしませるように沈黙を守っている。彼とて忘れてはいない。
焦凍の意識は、家族の証言とともに、12年前のあの日――4歳の幼少期へとなだれ込んでいった。
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【過去編:4歳時の原風景】
12年前。
当時の彼はすでに表向きの免許・ライセンスを保持しつつ、裏では非公式な処理をこなしていた。
表向きの業務の一環として、個性の発現や家庭環境によって精神的・物理的に追い詰められた「暴走個性の子供たち」のケア・一時的な物理的沈黙(『虚』による個性の抑制)をこなしつつ、裏では指定ヴィランの無音処理を淡々とこなす日々。
雨の降る夜だった。
ターゲットが潜伏するエリア上、静岡の閑静な高級住宅街――轟邸の広大な敷地外壁に沿って、彼はカスタムクルーザーを滑らせていた。
ふと、HMDバイザーの生体反応センサーが、敷地内の生垣の隙間に奇妙な生体反応を捉えた。
バイクを止め、気配を殺して敷地内を視察する。
雨に濡れた庭石の陰。そこに、ぽつんと座り込んでいる小さな子供がいた。
4歳の轟焦凍。
その小さな身体には、痛々しいほど無数の包帯や湿布が巻かれていた。
過酷すぎる「個性の指導」によって負った打撲。冷やすための氷が溶け、雨と混ざり合って泥にまみれている。父親の激しい叱責と訓練から逃れ、仕事から帰ってくる母親を、凍える体でただじっと待っていたのだ。
男は感情の失せた目で、バイザー越しにそのバイタル数値を計測した。心脈拍数上昇、軽度の体温低下。……放置すれば機能障害が残るレベルの負荷。
表向きのプロトコルに従い、彼は足音もなく雨の庭へと足を踏み入れた。
「……何をしている」
低く、平坦な声。
小さな焦凍がびくっと肩を跳ね上げ、恐怖に満ちた目で振り返る。
黒い強化外骨格、HMDバイザーで素顔を覆った「異物」そのものの男。だが、その男の放つ殺気のない無機質な雰囲気に、4歳の焦凍は警戒しながらも、怯えた声で拙く答えた。
「……お母さんを、まってる。……痛いの、冷やしてもらうの……」
「怪我の手当が先だ。内部損傷がある。立てるか」
感情の入らない淡々とした言葉。男がかがみ込み、焦凍のバイタルをチェックしようと手を伸ばした、その時だった。
「――焦凍!?」
悲鳴にも似た声とともに、買い物袋を抱えた母・冷が雨の中に駆け込んできた。
冷は泥に塗れた我が子をかばうように抱き寄せ、目の前に立つ異形の男を激しい恐怖の目で見つめた。
「な……誰ですか!? 警察を……ヒーローを呼びます!」
「連絡は無用だ。……登録ヒーローの『イレギュラー』だ」
男はバイザーの表示を切り替え、冷に見える位置へ表向きのヒーローライセンス照会コードを提示した。
「子供のバイタルが低下している。家庭内における過剰な負荷、および物理的損傷の痕跡を確認した。……その怪我の理由はなんだ」
冷は男の提示した正規の身分証と、その冷徹だが筋の通った問いかけに絶句した。
そして、自分が抱きしめている我が子の痛々しい包帯を見つめ、絶望と罪悪感に押し潰されそうな声で吐露した。
「……夫です。夫の……エンデヴァーの訓練です……。『No.1を超える子供を作る』と言って……毎日、この子を……」
冷の言葉を聞いても、男の表情(バイザーの奥)は一切動かなかった。
ただ、冷酷な計算だけが脳内を駆け巡る。
(No.2プロヒーロー・エンデヴァー。家庭内における過剰な物理負荷。……法的な摘発は政治的・社会的都合により不可能。だが、肉体的な機能破壊を放置することは教育指導の範疇を超えている)
「事情は理解した」
男はそれだけ言うと、冷と焦凍を通り越し、轟邸の母屋へと静かに歩き出した。
「あ……あの! どこへ行くのですか!?」
「室内練習場はどこだ」
「え……?」
「父親の帰宅を待つ」
彼の目的は言葉による説得ではない。構造的な歪みと行き過ぎた暴力に対し、彼が選択する手段は常に一つだった。
――『武の理』による、物理的な是正と構造の解体。
雨の降る夜、灯りの消えた轟邸の広大な室内練習場。
静寂の中、装備の大部分――外骨格(強化外骨格)や武器類をすべて床へ静かに外し、生身の黒いインナーウェア姿となったイレギュラーは、腕を組み、ただ一人闇の中でエンデヴァーの帰宅を待っていた。
やがて、重い引き戸が開き、怒気と炎の熱気を孕んだ巨大な影が踏み込んでくる。
「何者だ……! 俺の家で、何をしている!」
炎を吹き上げるエンデヴァーの目が、暗闇に佇む男を捉え、鋭く細められた。
イレギュラーは言葉を返さない。ただ、静かに構えを取る。
言葉はいらない。異物と、絶対的支配者の――個性を排した壮絶な殴り合いが、幕を開けようとしていた。
ドォン! と、轟邸の広大な室内練習場が激しく揺れた。
畳を焦がす熱気と、肉が骨を打つ鈍い重低音。
異変を察知して廊下に駆け集まった幼い燈矢、冬美、夏雄の三人は、引き戸の隙間から漏れ出る圧倒的な圧力に息をのんだ。母・冷に抱きかかえられた4歳の焦凍もまた、涙で濡れた瞳を大きく見開いている。
暗い練習場の中で繰り広げられていたのは、ヒーローの華々しい戦いなどでは到底なかった。
巨躯を誇るエンデヴァー――轟炎司。190センチ、110キロの圧倒的な体躯から放たれる高熱の炎。
だが、暗闇に立つ男――イレギュラーが生身の掌をかざし、滑らせるたび、その炎は『虚』によって根元から虚しく霧散させられていく。
現象を消された炎司に対し、イレギュラーは外骨格すら脱ぎ捨てた生身の肉体で踏み込んだ。190センチ、95キロ。無駄を徹底的に削ぎ落とした身体構造から放たれるのは、武の理による無駄のない骨格打撃と関節への侵食だった。
突如として始まった、あまりに壮絶な殴り合い。
子どもたちの位置からは、暗闇の中で激しく交錯する二人の影しか見えない。
イレギュラーは炎司の攻撃を受けながら、家族には決して届かないほどの低く平坦な声で、何事かを炎司の耳元で囁き続けていた。
その言葉を受けるたび、炎司の動きが激しく乱れ、打撃の威力が狂気染みたものへと跳ね上がる。
「――っ黙れえええええ!!」
炎司の叫びが練習場を震わせた。その声は激昂ではなく、血を吐くような慟哭に近かった。
「燈矢が自らの個性で傷付くのを……! 黙って見ていろというのか!!」
引き戸の陰で、燈矢が息を詰めた。
「子供が! 傷付くのを喜ぶ親がどこにいる!!」
炎司の巨拳がイレギュラーの顔面を捉え、口内から鮮血が散る。それでもイレギュラーは眉一つ動かさず、ノーガードでその拳を受け止め、炎司の重心を崩しながら懐へ潜り込み、あばら骨の隙間へ拳をねじ込む。
「ぐっ……! 傷付きながら俺を目指す燈矢に……何と言ってやればいいんだ!!」
激しい殴り合いの中で、炎司の腹の底に溜まり続けていたドロドロとした淀みが、血とともに吐き出されていく。
「どう接してやればいい! どうかまってやればいいんだ!!」
ドォンと、もつれ合いながらぶつかった壁が物理的に粉砕される音が響く。
炎司は己の圧倒的な身体能力と質量に任せ、ノーガードで自分を受け止め続けるイレギュラーを力任せに殴りつけた。
「子供を守るために……! 死んだ親父のように……っ! 子供に死んで欲しくはないんだ……!!」
ドス、と重い打撃音が響き、ついに押し負けたイレギュラーの身体が板間へ倒れ伏した。
装備もなく、あえて全打撃を受け止め、相手の限界を超えた感情の吐露を引き出すための肉弾戦。イレギュラーは口内の血を吐き捨て、静かに天井を見上げたまま動かない。
勝者は、轟炎司だった。
だが――勝ち名乗りを上げるはずの炎司は、その場にどさりと両膝を突いた。
巨躯を極限まで丸め、荒い息を吐きながら、板間の上へボロボロと涙をこぼしていた。
初めて見せる、家庭の「絶対的支配者」の弱さと、吐き出してしまった本音。
廊下で見守っていた家族に、強烈な衝撃が走る。
冷は、焦凍を抱えながら震える手で胸を固く押さえていた。
不器用で、弱く、けれど必死に強くあろうとして歪んでしまった一人の男の素顔。夫が抱えていた絶望と愛の歪みを知り、冷の心は破綻の淵でかろうじて繋ぎ止められた。
子どもたちもまた、それぞれに言葉を失っていた。
燈矢は己の焼き切れる身体と父の苦悩の重さに唇を噛み締め、冬美は父という絶対的存在の脆さに目を見開き、夏雄は何が起きたのか理解できずに固まっていた。
そして4歳の焦凍の眼裏には、「絶対に勝てない存在だった父親」が膝を突き、その父を殴り倒した「異物の男」の背中が、消えない原風景として刻み込まれた。
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静寂が、再び現代の轟邸の食卓へと戻ってくる。
「……あの日の夜、お父さんは初めて私に……お爺ちゃんのことを話してくれたわ」
冬美が静かに、当時の記憶をたどるように語る。
「子供を守って戦死したおじいちゃんのこと……お父さんが本当は、燈矢お兄ちゃんや焦凍をどう愛せばいいのか分からなくなっていたこと。……あの人が来なかったら、この家はあの夜に完全に壊れていたと思う」
冷もまた、深々と頷いた。
「あの人は何も言わずに去っていきました。ただ……お父様がご自身の弱さと向き合うための場所を、暴力という形で無理やりこじ開けて去っていった……」
夏雄は気まずそうに腕を組み、低く唸る。
「……俺は親父のやり方を許したわけじゃねえ。……けど、あの夜から親父の威圧感が……どこか不格好に見えるようになったのは覚えてる」
家族の言葉が一通り出揃い、食卓の視線は再び、重い沈黙を守り続けているエンデヴァー――轟炎司へと集まった。
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「……負けてなどいない」
沈黙を守り続けていたエンデヴァーが、地鳴りのような低い声で吐き捨てた。
組み上げた太い腕、その腕に纏う火炎が一瞬だけチリチリと跳ねる。
「あの男は倒れ、俺は立っていた。……勝負としては俺の勝ちだ。だが見苦しく腹の中を吐き出させられたのは……認めざるを得ん」
父・炎司はそう言うと、視線を焦凍へ向けた。
「あいつは『理』の男だ。情もなにもない。ただ目の前にある構造の歪みを、武の原理と個性の沈黙で解体していく異物……だが、焦凍。お前は4歳の時のことしか知らんのだろうが」
炎司の目が、冬美の方へと向けられた。冬美は静かに息を呑み、己の胸元に手を当てる。
「お前が6歳……燈矢が死んだ直後にも、あいつは来た」
食卓の空気が凍りつく。夏雄がハッと目を見開き、焦凍もまた息を詰めて冬美を見た。
冬美は湯呑みを見つめたまま、重い過去の扉を開くように、静かに語り始めた。