『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
【回想編:冬美14歳(焦凍6歳・燈矢偽事故死直後)】
視点:轟冬美
14歳の中学2年生だった私にとって、あの年は永遠に終わらない悪夢のようでした。
燈矢お兄ちゃんは、あの4歳の夜のあと、一時期は落ち着いているように見えていました。お父さんもお母さんも、少しずつ家族の歪みを直そうとしていた……はずだったんです。
でも、お兄ちゃんは諦めていませんでした。山に隠れて、誰にも言わずに一人で個性の訓練を続けていたんです。
そして――あの事故が起きました。
山での個性の暴走。
大規模な火災の跡に残されていたのは、焼け焦げた下顎の骨の一部と、左腕の骨だけ。
公式に死亡判定が下り、我が家は完全に崩壊しました。
お母さんは精神を深く病み、部屋で伏せている時間が長くなりました。
そしてお父さんは……燈矢お兄ちゃんを失った激しい後悔と絶望、そして焦燥から、狂ったように焦凍へ過酷な特訓を再開したんです。
「燈矢のようにはさせない」
そう自分に言い聞かせるお父さんの目は、正気とは思えませんでした。
私は14歳で……長女で……なんとかしなきゃって必死でした。
お母さんの代わりに家事をし、夏雄や焦凍に温かいご飯を作り、お父さんに「もうやめて」って何度も言いました。家族の和を取り戻そうと、必死で笑顔を作って、食事の席を整えて……。
でも、子供の私の声なんて、誰にも届きませんでした。
お父さんの背中は遠く、お母さんの心は去り、家の中は冷たい火と悲鳴だけで満たされていたんです。
そんな時でした。
雨の降る放課後、私が一人で玄関の掃除をしていた時、インターホンが鳴りました。
ドアを開けると、そこに立っていたのは――あの日と同じ、黒いフレームとHMDバイザーを身につけた『イレギュラー』でした。
私は息が止まりました。
あの日、お父さんと殴り合っていたあの男の人。
「……何のご用ですか」と震える声で尋ねる私に、その人は感情のない声で言いました。
「ヴィラン追跡の調査案件だ。この地域の防犯監視カメラ、および轟邸の外壁センサーの過去100時間のログデータを提出してもらいたい」
仕事の追跡調査か何かで、近隣の映像データを回収しに来ただけ……ただの『業務』として、彼はこの家を訪れたんです。
でも、私の姿を見たその人は、バイザーの表示を僅かに切り替え、私をじっと見つめました。
「……お前は、あの時の長女か」
「……はい。轟冬美です」
「顔色が悪い。機能不全を起こしている」
たったそれだけの言葉でした。
でも、家中の誰も私の顔なんて見てくれていなかったあの時期に、その異物のような男の人だけが、私が限界を迎えていることを見抜いていたんです。
「ログの抽出を頼む」
そう言って私に端末を渡してきました。
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玄関で端末を操作する私の横で、その人は静かにデータの抽出を待っていました。
最初は機械的なやり取りだけでした。でも、家庭の崩壊と孤独に限界を迎えていた私は、必死に胸の内を吐露していました。
燈矢お兄ちゃんが死んだこと。お母さんが塞ぎ込んでしまったこと。そして、お父さんが悲しみを振り払うかのように仕事へ逃避し、焦凍へ虐待紛いの過酷な訓練に没頭していること。
「私……どうしたらいいのか分からないんです! お父さんも、お母さんも、焦凍も……どうすれば家族を救えるんですか!?」
14歳の私が必死にすがりつくように発した問いかけ。
ですが、その人は感情を一切動かさず、冷徹なまでに平坦な声でこう告げました。
「お前は子供だ。親の失態や絶望を、子供が背負う必要はない」
ログデータの抽出完了を示す電子音が鳴ると、その人は端末を受け取り、短い言葉を残して雨の降る外へと背を向けました。
「こちらで対処する。このまま家で待て」
その足で、その人はエンデヴァーのヒーロー事務所へと向かいました。
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データを受け取った男が轟邸を去った後、その足が向けられたのは市街地に聳え立つエンデヴァーヒーロー事務所だった。
視点は、専用訓練室にいたエンデヴァー――轟炎司へと移る。
長男・燈矢の死。妻・冷の精神的疲弊。
積み重なる絶望と失意から逃れるように、過酷なヒーローワークと、残された焦凍への容赦のない訓練へと自らを没頭させていた。その悲壮な焦燥は、周囲のサイドキックたちすら容易に近づけぬほどの刺々しい圧を放っていた。
その時、訓練室の重厚な防音ドアが突如として強引に押し開かれた。
慌てふためいて駆け込んでくる数名の受付警備とサイドキックたち。
「申し訳ありませんエンデヴァー! 抑えきれず……っ!」
警備を意にも介さず、静かな歩調で地下訓練室の床を踏みしめてきたのは、黒いフレームとHMDバイザーを身に纏ったあの「異物」――イレギュラーだった。
「……何をしに来た」
炎司の体表から、瞬時に殺気立った高熱の炎が吹き上がる。
だが、男は応えない。ただ無言のまま首と背筋、脚部を固定する強化外骨格のロックを外し、重い音を立てて床へ投げ捨てた。
生身の黒いインナーウェア姿。さらに、一切の個性を発動させる気配すらない。
「言葉はいらん。」
感情を排したその一言に、炎司の眉間が激しく跳ね上がった。
「舐めるなよ……異物が!」
炎司もまた、身に纏っていたプロテクターを力任せに剥ぎ取り、炎を完全に鎮めた。
突如始まった異常事態に、周囲を取り囲んだサイドキックたちが息をのむ。炎も氷も、個性の輝きすら存在しない。あるのは、190センチを超える巨躯同士が生身で対峙する、極限の圧迫感だけだった。
「――ッ!」
踏み込んだのは炎司だった。
個性を排した純粋な肉体格闘。110キロの圧倒的な質量を乗せた右ストレート、男は受け流すことなく、愚直なまでにその衝撃を全身で受け止め、即座に打撃を炎司の肋骨へ叩き返してきた。
肉が潰れ、骨が軋む重苦しい打撃音が訓練室に響き渡る。
双方の顔面から鮮血が飛び散り、汗と血の匂いが充満していく。
サイドキックたちは言葉を失い、ただ血まみれで殴り合い続ける二人を固唾をのんで見守るしかなかった。
激しい攻防の最中、男は密着した間合いで、サイドキックたちには決して届かないほど低い、氷のように冷徹な声で炎司の耳元へ言葉を落とし続けた。
――燈矢を殺したのは誰だ。
――焦凍に何を背負わせている。
――お前は何から逃げている。
――目を背けるな。
――逃げるな。足掻け。
「……っ!!」
炎司は一切の反論を口にしなかった。いや、出来なかった。
突きつけられる問いのすべてが、己が直視を避けていた「弱さ」と「過ち」そのものだったからだ。
返答の代わりに振るう拳は、回数を重ねるごとに重く、そして悲壮な塗りに染まっていく。燈矢を失った絶望と、歪んだ焦燥で焦凍を追い詰めている己への激しい自己嫌悪が、血とともに拳から溢れ出していた。
静寂の死闘の末、打撃を生身で受け止め続けた男の膝が折れ、血まみれのまま床へ崩れ落ちた。
勝敗は決した。
だが、荒い息を吐きながら血に濡れた己の拳を見つめる炎司に、勝利の感慨など微塵もなかった。
炎司はその場に立ち尽くしていた。
吐き出さざるを得なかった己の悲壮な過ちと向き合い、荒んだ熱が引き去った眼孔で、ただ静かに冷徹な正気を取り戻しながら――。
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あの日を境界線として、轟家の歪んだ歯車はゆっくりと、だが確実に軌道を修正し始めていた。
事務所での血まみれの死闘の後、そのまま即時帰宅した炎司は、塞ぎ込む冷と子供たちの前で、生まれて初めて深く頭を下げた。
それからの炎司は、不器用極まりない手つきながらも、家族のための時間を意識して作るようになった。焦凍に対する虐待紛いの過酷な訓練は即座に取りやめられた。
そこで炎司は、ひとつの決定的な現実に気づくことになる。
長男・燈矢のショッキングな死と、それに伴う家庭の崩壊。その強いトラウマによって、幼い焦凍は己の左半身に宿る「炎の個性」を無意識に拒絶し、使うことを極めて苦手とするようになっていたのだ。その際に顔にやけどを負ってしまうほどに不安定であった。
炎司は焦凍のトラウマを力ずくでこじ開けることを止め、己の身を最低限護れる程度の、基礎的な身体作りと防衛訓練へと切り替えた。
過ちがすべて消えたわけではない。失われた燈矢が戻るわけでもない。
それでも、あの日『イレギュラー』という異物によって強引にこじ開けられた傷口から、轟家は少しずつ、人間らしい呼吸を取り戻していったのだ。
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そして――意識は再び、現代の轟邸の食卓へと戻ってくる。
「……父さんが血まみれで帰ってきて、いきなり母さんに頭を下げた日があっけどさ。あれ、裏でそんなことがあったのかよ……」
夏雄がどこか呆れたように、ため息を吐き出しながら肩をすくめた。
冷も静かに湯呑みを置き、当時は知る由もなかった夫の影の死闘に、深く感慨に耽るような眼差しをエンデヴァーへ向けた。
燈矢とイレギュラーという男の話題が上ると、やはり食卓の空気はどうしても硬くなる。だが、それは過去の悲劇に怯える冷たさではなく、それぞれの胸に刻まれた重い事実を噛み締める硬質さだった。
焦凍は自らの拳を握り締め、深く頷いた。
(俺の原風景にいた男……。親父を二度殴り倒し、この家を繋ぎ止めた、そんな深い縁のある男だったのか)
「……フン」
重い沈黙を破ったのは、エンデヴァーの低い鼻鳴らしだった。
炎司は己の内に残る深い後悔の念を噛み殺しながら、苦々しい表情で口を開く。
「あいつはヒーローでも何でもない、ただの異物だ。不器用な己の失態を突きつけられたことへの恩など……口が裂けても言えるか。だがあの男の危険性と、理不尽なまでの『理』だけは本物だ」
「でもね、お父さん」
冬美がどこか懐かしむような、優しい笑みを浮かべて言葉を挟んだ。
「私がヒーロー科を経て、今の道を選んだ理由……実はあの人の言葉があったからなの。『自分の人生を生きろ』って言われたみたいで……私も誰かを支える側になりたいと思ったのよ」
今はウインター・スカイを名乗っているヒーロー、エンデヴァー事務所とレディ・ナガン事務所でサイドキックの勉強をしている。その冬美の言葉に、エンデヴァーは眉間をこれ以上ないほど不機嫌そうに寄せる。
「……サポートと言えば聞こえはいいがな、冬美。お前の氷結の使い方と立ち回りはどうだ? 憧れた対象があいつ(イレギュラー)のせいか、氷の個性を扱いながら、やっておることは極めて泥臭い『物理的な解体と抑止』ではないか。どこでそんな戦い方を覚えた!」
「あら、私はただ、安全に相手を動けなくする効率的な方法を考えただけよ?」
冬美がくすりと微笑み、エンデヴァーが「ええい、すまし顔をするな!」と苦言を呈する。
かつては冷たい沈黙と悲鳴にしかなかった食卓に、不器用ながらも確かな暖かい家族の会話が流れていた。
焦凍はその光景を静かに見つめた後、自室へと戻った。
障子から差し込む月光の下、己の手を見つめる。
父の絶対的な支配、母の涙、そしてこの家を物理的に繋ぎ止めた異物の男。
すべての点と線が、USJで脳無を解体したあの男の背中へと繋がっていく。
「……個性を封じられ、現象を消された時、何が残るか、か」
焦凍の瞳に、揺るぎない覚悟の火が宿る。
「休みが明けたら……俺もあの男の朝と放課後の『乱取り稽古』へ行く。俺の甘さを、全部叩き潰してもらう」
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