『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
朝の過酷な乱取りが終わり、第4演習場に静寂が戻る。
泥と汗に塗れた生徒たちは、一瞬たりとも手加減のなかった『削肉』の感触を全身の痛みとして噛み締めていた。誰も声を上げない。痛みに喘ぐ声すら、あの男の「無駄を削げ」という無言の圧力によって呑み込まれていた。
「……解散だ。各自、朝食と着替えを済ませて教室へ向かえ」
イレギュラーは振り返りもせずに言い放つ。背負ったKISARAGI EXO-FRAMEは一切の金属音を立てない。パッシブな重量物としてそこに存在するだけの漆黒のフレーム。しかし、その背中が去っていく歩調には、微かな、だが確実な「重心の深さ」と、それを維持するための冷徹な自律が透けて見えていた。
生徒たちが、それぞれのペースで立ち上がる。
「……おい、丸顔」
地面に座り込んだまま膝の泥を払っていた麗日お茶子に、爆豪勝己が鋭い視線を投げかけた。
「足腰の踏み込みが甘ぇ。最後の崩し、お前は倒されまいとして無駄に肩へ力を入れただろ。だから一瞬で支点奪われて引っくり返されたんだよ」
口調は凶暴そのものだが、それは罵倒ではなく、同じ指導を受け続けてきた先修者としての「看破」だった。
「……うん。分かっとる……」
お茶子は自分の掌を固く握りしめた。USJで感じた無力感。個性が通じない間合いで足がすくんだあの感覚。しかし今、関節を決められ地表に叩きつけられた痛みの先には、どこか冷たく澄んだ「課題」だけが残っていた。
「恐怖で肩が上がるんや……。自分の個性に頼っとる分、素の体軸がグラグラなんやな、うち」
「気づいたなら吐き気催すまで叩き直せ。半端な覚悟で朝の演習場に来るんじゃねぇ」
爆豪はそれだけ吐き捨てると、誰よりも深く泥に汚れた自身の掌を睨みつけながら、大股で脱衣所へと歩き出した。その背中には、どれだけ泥を舐めてもあの男の『理』に届かない焦燥と、それ以上に「無駄を削ぎ落として強くなる」ことへのとてつもない飢餓感が渦巻いている。
「……轟くん」
緑谷出久が、汗を拭いながら隣の焦凍へ歩み寄る。
焦凍は静かに自分の左手を見つめていた。先ほどイレギュラーにつま先で左膝裏を突かれ、呆気なく膝をついた瞬間の感触。
「……俺は、左の炎を拒絶することで、自分の中に『重り』を作っていた」
焦凍の声には、迷いや苛立ちではなく、冷徹な自己分析が含まれていた。
「右だけで戦うのではない。左を拒絶するという『感情の負荷』そのものが、俺の身体の軸を歪ませていたんだ。あいつは……俺の家庭の事情も、炎への忌避も知ったことではないと言わんばかりに、ただ物理現象としてその歪みを叩き折った」
「……うん。イレギュラー先生の前では、どんな過去も感情も、全部『余計な動き』にしかならないんだね」
出久は自分のノートを開き、今日刻まれた体感を素早くメモしていく。思考という遅延(ラグ)を挟むなと言われながらも、身体に刻まれた「削ぎ落とされた感触」を言語化せずにはいられなかった。
ふと、飯田天哉と八百万百が合流する。
「皆、顔つきが変わってきましたわね」
八百万が小さく息を吐く。
「USJ以前の私たちは、どこか『個性をどう魅せるか』という足し算の思考に囚われていました。しかし……あの指導は真逆です。個性を引いた時、自分に何が残るのか。その圧倒的な不純物の無さに、A組全体が引きずられ始めています」
「ああ」
飯田が眼鏡のブリッジを押し上げる。その動作一つをとっても、以前のような大袈裟で無駄な手振りが消え、直線的で無駄のない最小限の動きへと整いつつあった。
「体育祭まで時間はない。だが……私たちが目指すべきは、華やかなアピールだけではないはずだ」
遠く校舎の影へ消えていく黒い背中。
生徒たちは誰からともなく、その背中が残していった『無駄のない理』の残り香を胸に抱き、それぞれの足で未来へ向かって歩み始めていた。
彼らはまだ知らない。
自分たちが着実に「無駄を削ぎ落とした者」へと変容していくその裏で、教え子たちを裁く男の肉体が、いかに静かに、いかに冷徹に消耗し続けているかを。