『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
夜風が、ヘルメットの隙間を吹き抜けていく。
大型バイクの重厚なシリンダー音が、深夜の国道に低い重低音を刻んでいた。
インカムから聞こえる、澄んだ、しかしどこか底の知れない声。通信を入れてきたのは雄英高校校長――根津だった。
『――夜分にすまないね、イレギュラーくん。なに、ちょっと昔馴染みの顔を思い出してね。元気にやっているかい?』
イレギュラーはアクセルを一定の開度で保ったまま、バイザーの奥で何も言わず、ただ耳を傾けていた。返答など期待されていないことは、相手も承知の上だ。
『君が学生だった頃も随分と手を焼かされたものだけれど……今夜もどこかで静かに「仕事」をしているのだろうね。公安の古い知人から、表に出ない不穏な動きを耳にしてね。ふと君の顔が浮かんだのさ』
根津の声には、責めるような色も、かといって過剰な親愛もない。
かつて校門をくぐった「手に余る教え子」への世間話を装いながら、裏で互いの動向を探り合い、縁を切らさずに繋ぎ止めておくための絶妙な距離感。
『君の生き方を正そうなどとは思わないよ。私には私の、君には君の領域がある。……体には気をつけておくれよ。また連絡する』
プチッ、と通信が切れた。
深入りもせず、かといって見放しもせず。ただ互いの境界線を確かめ合うだけの短い対話。
イレギュラーは微動だにせず、バイザーの裏で視線を道路へ向けたまま、短く息を吐き捨てた。
バイクの速度が一段上がる。
根津からの通信が切れた直後、ヘルメット内のサブモニターに暗号化された公安からの本番の業務データが転送されてきた。
『案件:郊外廃工場。危険組織の潜伏拠点。……完全なる無音処理を求む』
――業務開始。
バイクは闇の中へ滑り込み、街灯の届かない郊外の廃工場へと吸い込まれていった。
工場内部は、異質な気配と錯乱した男たちの荒い息遣いに満ちていた。
イレギュラーはバイクを離れた位置に隠すと、背部エンジンの過剰な駆動音を殺し、影と同化するように施設内へ侵入する。
「誰だ――ッ!?」
個性を発動させ、興奮状態で襲いかかってくる男。
イレギュラーは武の理に従い、最短の動線でその懐へ潜り込んだ。オープンフィンガーのグローブ越しに相手の胸元へ接触。
――『虚』。
瞬時に個性の出力が霧散し、男の体躯が無力な肉体へと減衰する。ゼロコンマ数秒の「残響の沈黙」。
感覚のズレに混乱する男の足元を、イレギュラーは腕を掴み容易く体制を崩しが容赦なくすくい上げる。
ドサリ、と地響きが立ち、追撃の一撃が急所を捉える。叫すら上げさせない。
二人目、三人目。
影が跳ねるたび、闇の中で無音の制圧音だけが途切れ途切れに響き、男たちが文字通り「沈黙」していった。
最奥の部屋。
そこには、薬物で理性を失い暴走したリーダー格の男が待ち構えていた。
「ぶっ殺して――」
男が踏み出すより早く、イレギュラーは無息の静寂(間)をもって距離を詰めていた。
言葉を交わす余地などない。
振り下ろされる攻撃を、最小限の体さばきでかわし、その腕の根元に手を滑らせる。
『虚』の発動。
膨れ上がっていた過剰な圧力が一気に霧散し、男の体勢が大きく崩れる。
「が……ッ、な、んだ……!?」
イレギュラーは掴んだ腕の支点を使い、武の理に従って相手の巨大な重心を完全に崩すと、そのまま床へと倒し込んだ。
畳み掛けるように、ブーツの踵で膝の関節部を正確に捉え、物理的に戦闘能力を奪い去る。
男は白目を剥いて倒れ伏した。
二度と立ち上がれない危険人物たち。
イレギュラーは倒れた男たちを一瞥もせず、ヘルメットの無線を起動した。
「――清掃完了」
それだけを伝えると、彼は来た時と同じように無音の歩みで闇へと消えていった。
翌朝。
雄英高校・校長室。
早朝の静かな室内で、根津校長は温かい紅茶のカップを手に、窓の外を見つめていた。
デスクの上には、警察や公安のパイプを通じてそれとなく回ってきた「郊外の拠点が一夜で沈黙した」という極秘の報告書。
根津はカップを静かにソーサーへと戻す。
「……相変わらず、不器用で容赦のない男だね」
教え子の選んだ険しい生き様に静かに想いを馳せつつも、自らの教育者としての立ち位置を崩すことなく、校長はいつもの笑みを浮かべて新しい一日を始めた。