『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
保須市の夜空が、突如として激しい爆煙と悲鳴に包まれた。
死柄木吊が解き放った異形――「脳無」たちの暴走。破壊音が街を揺らし、プロヒーローたちが混乱の中で対応に追われる中、飯田天哉だけは全く別の方向へと暗い牙を剥いていた。
「ハッ……ハッ……!!」
群衆の悲鳴を背に、飯田は路地裏の影へと疾走していた。
エンジンを吹かす両脚。だが、その足取りはかつてなく重く、荒れていた。
朝の鍛錬で強化外骨格の男(イレギュラー)に叩き込まれた「無駄を省く」という教えは、今の飯田の脳裏から完全に消失していた。兄・インゲニウムを再起不能に追いやった男への憎悪。殺意。その猛烈な感情(ノイズ)が全身の筋肉をガチガチに強張らせ、踏み込みのたびに体軸を大きくブレさせている。
暗い路地裏の奥。
倒れ伏すプロヒーロー・ネイティブの首元に、冷酷な刃を突き立てようとしていた影――「ヒーロー殺し」ステイン。
「……見つけたぞ、ヒーロー殺しィ!!」
飯田の怒号が薄暗い路地裏に響き渡った。
ステインがゆっくりと振り向く。その眼光は、まるで路地裏の闇そのものが凝縮したかのように冷たく、鋭い。
「去れ。ここは貴様のような子供が入っていい領域ではない」
「黙れ!! 兄の仇だ……!!」
飯田は地面を力任せに蹴った。
エンジンの排気音が爆音を上げる。だが、それは洗練された直線走法ではない。憎悪で肩と胸郭が力み、背骨の軸が右へ傾いた不格好な突撃。
(力を乗せろ……! 兄さんの無念を、この一撃に叩き込む……!!)
飯田の右脚が、空気を切り裂いてステインの頭部へと襲いかかる。
破壊力だけを見れば、間違いなくプロをも粉砕する過剰な一撃。
だが——ステインの動きには、「タメ」も「力み」も、そして「感情の揺らぎ」すら一切存在しなかった。
「……愚か者が」
ステインは、ただ最小限の動作で首をわずかに傾けた。
それだけで、飯田の渾身の蹴りは空を切り、過剰な運動エネルギーによって飯田自身の身体が不格好に流れ、大きな隙を晒す。
ステインの身こなしは、まさに『削ぎ落とされた殺意』そのものだった。
個性の威力に頼らず、長年の修羅場で無駄な予備動作を削り落とされ、最短軌道で獲物の急所を盗む「理」の領域。
サクッ。
「……え?」
飯田が己の体軸の崩れに気づいた瞬間には、すでに右肩を目にも留まらぬ速さで目打ち(刀身)で刺し穿たれていた。
「ぐああぁぁぁッ!?」
「憎悪で動きを固め、怒りで心を乱す。……貴様のその蹴りには、無駄と隙しか存在せん」
ステインは一切の無駄がない動作で刀を引き抜き、付着した血をペロリと舐めとった。
ステインの個性『凝血』。
身体の自由を完全に奪われ、飯田は冷たいアスファルトの上へ崩れ落ちた。指一本すら動かない。
「粛清対象の偽者(ヒーロー)ども以上に、醜いな」
ステインが静かに刀を逆手に持ち替え、飯田の背中の上に足を乗せる。
冷酷な足裏の圧力が、飯田の折れかけた背骨へと食い込む。
「弱者を救う理もなく、ただ己の復讐という醜い衝動に支配されて立つ……。そのような折れた精神で、この私に届くと思ったか」
「くっ……う、あ……!! 兄さん……インゲニウムは……素晴らしいヒーローだった……!!」
身動きが取れぬまま、泥と血に塗れて絶叫する飯田。
朝の乱取りで「軸が崩れている」と指摘された時、修正しようとせず感情に甘えた結果が、この惨めな敗北だった。
ステインの刃が、まっすぐに飯田の首元へと向けれる。
「偽者は、淘汰されるのが道理だ」
無駄を削ぎ落とした静かな殺意が、動けない飯田の視界を覆い尽くそうとしていた。