『公安警察外局特定脅威処理記録:コード「削除済み」』 作:平素練磨
「え……あ、何か……用でしょうか」
目の前を塞がれた男——サムは、引きつった笑みを浮かべながら露骨に肩を跳ねさせた。
胸に下がった薄型のデジタルIDカードには、『一般GUEST / 施設区分:B』の文字列のみが淡く発光している。詳細な所属や権限は専用端末で読み取る仕様であり、ぱっと見で分かるのは「外部からの一般関係者」という事実だけだ。
サムは手元の小型端末を握りしめたまま、じりじりとゆっくり一歩後退(バック)した。
「申し訳ありません、私はこれから重要な会議がありまして……道を空けていただけないでしょうか。私はデヴィッド・シールド博士の秘書を務めております、サムと申します。外部の引率者か何か知りませんが、手配されたエリアとはいえ言動には注意された方が——」
一息にまくし立てるような弁明。頼んでもいない肩書と行き先を自分から提示し、その場を離れようとする典型的な防衛行動。
イレギュラーの視線は、サムの顔面からその手元へと落とされた。
サムの親指の隙間から見えている液晶画面。
画面の隅で不自然に明滅する赤と緑のシグナル、そして高速で自動実行されているバックグラウンド処理のプログレスバー。一般の閲覧画面ではなく、現場で機器のバイパスやアクセス制限の強制解除を行う際に表示される、書き換え(オーバライド)のシーケンス画面だ。
「……端末から、手を離せ」
感情の通わない、低い声。
「な、何をおっしゃっているんですか! これは研究都市の重要機密に繋がる個人端末です! 一般人に提示する義務は——」
サムが端末を胸元へ抱え込もうとしたその瞬間。
イレギュラーの左手が、一切の予予備動作なく伸びた。
サムの肘関節の内側へ、指先が吸い込まれるように滑り込む。
体軸をわずかに倒して相手の重心を前方に引きずり出す、柔法の最小限の手組み。サムは抵抗する間もなく体勢を崩し、腕の力を奪われた。
パチン、と乾いた音を立てて、サムの指から端末が零れ落ちる。地面に落とすことなく、イレギュラーの右手がそれを無造作に受け止めた。
端末の画面には、中央タワーの基幹防衛ライン『セクター4』から『セクター1』へ向かって、順次セキュリティプロトコルが「正規の権限」として解除されていくリアルタイムの処理ログが表示されていた。
ハッキングではなく、内部の鍵を持った人間が内側から鍵を開けて回っている画面。
その時——
『——警告。警告。警備エリア内における不審な身体接触および端末保持の異常を検知——』
頭上を並走していた案内ドローンから、一転してけたたましい赤色のアラーム音と警告音声が発せられた。
同時に、通路の奥から重厚なブーツの足音が響き、アイランド警備部門の武装人員2名が銃器を低く構えた状態で素早く旋回してくる。
「そこまでだ! 端末から手を離し、ゆっくり両手を上げろ!」
警告の照準が、端末を保持しているイレギュラーへと一斉に向けられる。
警備員から見れば、外部の者が関係者の端末を強奪した構図に過ぎない。
イレギュラーに警察や公安の権限はなく、ここで警備員と物理的衝突を起こせば「ただの不法侵入・暴行者」として処理され、抵抗すれば現場が不意味に混乱するだけだ。
「了解した」
短く答え、抵抗の意思がないことを示すように、受け止めた端末を床へと静かに滑らせる。
「おい、そこの男! 状況を説明しろ!」
警備員の一人が銃口を向けたまま、身元照会のために手元のリーダーをイレギュラーのIDへと向けた。
その手続上のやり取りが発生し、警備人員の意識が「危険人物候補」であるイレギュラーへと集中した数秒の間。
「ひ……っ!」
腰を抜かしかけていたサムが、床に転がった端末を引ったくるように拾い上げると、警備員の陰を突き抜けて通路の奥へと必死の形相で走り出した。
「あ、おい! 待て!」
「拘束を優先しろ! この男の身元照会を——」
走って逃げる秘書と、手続き通り目の前の「不審者」を制止しようとする警備員。
現場の硬直したマニュアル対応の間にも、サムの手の中の端末では、最後のプログレスバーが静かに100%へと達しようとしていた。