葬送のフリーレン〜名もなき故郷の哀歌〜 作:みかん色の夕焼け
北部高原には、いくつもの小さな集落が点在している。
人が暮らすにはあまりにも過酷な土地だ。農業に適さない土壌が多く、険しい山々に囲まれた街道には魔物が跋扈し、物流は常に停滞している。村と村との行き来さえ命懸けだ。
それでも、人々はそこで暮らしている。祖先から受け継いだ土地を耕し、家畜を育て、家族とともに日々を過ごす。辛い暮らしの中でも彼らが高原から出ることはない。彼らにとって、ここが生まれ故郷であり、人生の詰まった場所であるからだ。
そして、フリーレンたちが訪れたのも、そんな集落の一つだった。
「手紙、ですか?」
フェルンが尋ねると、目の前の老婆は申し訳なさそうに頷いた。フリーレン、フェルン、シュタルクの三人は老婆の家に招かれて、家主と同じテーブルでお茶を振る舞われている。
「ああ。ナヒトって町にね、昔からの親友が住んでいるんだよ」
老婆は一通の封筒を差し出した。真新しい紙に宛名と差出人の名前が書かれ、合わせ目には封蝋が丁寧に押されている。何度も書き直したのだろうか、老婆の指先には薄くインクの染みが残っていた。
「元気にしているって、たまに村を訪れる行商人から聞いてはいたんだけどね。その人も最近はナヒトまで行かなくなったそうで、近況が分からなくて困ってたのさ」
「ナヒトか……」
フェルンの隣で、フリーレンは少し考え込んだ。
「フリーレン様、知っている場所なんですか?」
「うん。前回の旅でヒンメルたちと近くを通ったことがあるよ」
フリーレンは老婆の持つ封筒に目を向けた。
「北部高原の中でも、指折りの危険地帯だ。あの辺りは昔から魔物の巣窟になっていてね。街道を通るだけでも結構大変だったよ」
「えっ、そんな場所なのか!?」
シュタルクが露骨に顔をしかめた。
「婆ちゃんには悪いけど、手紙を届けるためだけに、魔物の巣窟に入るのはちょっとなぁ……」
「でも、北に向かうなら、どこかで危険な道は通ることになるよ」
「そうかもしれねえけどさ……」
シュタルクは頭を掻いた。だが、老婆が不安そうに三人を見つめながら、胸元でぎゅっと手を握り締めているのを見て、シュタルクは観念したようにため息をついた。どうやら彼の覚悟は決まったらしい、それを見たフェルンは口元を綻ばせる。
「依頼は引き受けます。ですが、ナヒトへ向かうには相応の危険が伴うようです。報酬について、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
フェルンが尋ねると、老婆はほっとしたように頷いた。
「ああ、もちろんだよ」
老婆は傍らに置いていた包みを取り上げた。
「お金も少しは用意してあるんだけどね。旅の魔法使いさんなら、こういうものも喜ぶんじゃないかと思って」
包みを解くと、中から一冊の古びた魔導書が現れた。フリーレンの視線が、ぴたりと止まる。
「昔、行商人から貰ったものなんだけど、私が持っていても意味はないからね」
老婆は表紙の埃を払い、フリーレンへ差し出した。
「古いグリモアでね。『寝違えを防ぐ魔法』というのが載っているらしいんだよ。報酬の一部として、どうだい?」
「……へえ」
フリーレンが身を乗り出した。
「寝違えを防ぐ魔法か。いいね、とても実用的だ」
フリーレンは魔導書を受け取り、興味深そうに表紙を眺めている。
「これはレア物だ……。本当にもらっていいの?」
「もちろんさ。手紙を届けてくれるなら、喜んで差し上げるよ」
「分かった。依頼を引き受けるよ」
「即決ですか」
どことなくテンションの高めなフリーレンに対して、フェルンの声は平坦だった。
「またそのような魔法を……」
「だって、便利そうな魔法だよ。これで朝起きたときに首が痛くならなくなる」
「フリーレン様は、そもそも寝相が悪すぎるんです」
フェルンの苦言を軽く聞き流し、フリーレンは魔導書を老婆へ返した。
「それじゃあ、この手紙を届けてくる。帰ってきたら、その魔導書をもらうよ」
「ええ。どうか気をつけてね」
不安そうな顔で、シュタルクがフリーレンを見つめる。
「本当に大丈夫なのかよ?」
「前回も通れた道だからね。今回もきっと大丈夫だ」
「それ、師匠たちと一緒のときで、しかも何十年も前の話だろ! 全然大丈夫じゃねぇ!」
シュタルクの叫びが、小さな家に響き渡った。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ナヒトへ続く街道は、想像していた以上に険しかった。
山道は狭く、左右には鬱蒼とした森が広がっている。木々の間から差し込む陽光は乏しく、昼間だというのに薄暗い。
道中、三人は何度も魔物と遭遇した。狼に似た魔物の群れ。木々に擬態する植物型の魔物。さらには空から獲物を狙う飛行型の魔物までもが、旅の一行へと襲いかかった。
そのたびにフリーレンとフェルンが魔法で撃退し、接近を許した敵はシュタルクが斧で薙ぎ払った。
「はぁ……はぁ……」
巨大な魔物が倒れたのを確認すると、シュタルクは斧を肩に担いだ。
「もう何匹目だよ、これ……」
「21匹目です」
フェルンが即答した。
「なんだ、数えてたのかよ?」
「シュタルク様が8匹目あたりから同じことをおっしゃっていたので、気になって数えていました」
「確かに言ってたよ。でも、聞こえてたなら、もう少し早めに反応してくれても良かったんじゃないかなぁ……」
フリーレンは二人の会話を聞き流しながら、涼しい顔で倒れた魔物へ近づいていく。その身体を軽く調べ、何かを確かめるように頷く。
「うん。やっぱり、ヒンメルたちと戦ったのと同じ種類の魔物だ。もう少し進んだところに生息していたはずだけど、わずかに南下してきてるのかもしれないね」
フリーレンは地図を広げた。山道を指でなぞり、森の奥に記された小さな集落の名前を確かめる。
「明日の昼頃にはナヒト村に着くと思うよ」
「まだ、そんなにあるのぉ……」
シュタルクは心底疲れた様子で肩を落とした。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「……なあ」
最初に足を止めたのはシュタルクだった。
木漏れ日の差し込む林道、山を越えて緩やかな坂を上っていた彼は不意に周囲を見回した。何かあったのだろうかと、フェルンが尋ねる。
「どうかしましたか?」
「いや、何か変じゃねえか?」
「何がです?」
シュタルクは眉をひそめた。
「魔物が全然いない」
その言葉を聞いて、フェルンも周囲へ目を向けた。言われてみれば、確かにそうだった。昨日まであれほど頻繁に遭遇していた魔物が、今日は一匹も姿を見せていない。木々の間には小鳥が飛び交い、草むらでは小動物が走っている。遠くから聞こえるのは、風に揺れる葉の音ばかりだ。穏やかすぎる、昨日まで通ってきた北部高原の道とは明らかに違っている。
「ここ、ナヒトに近いんだよな。フリーレンの話だと、ナヒトに近づくほど魔物の巣が増えるって話だっただろ。それなら、今までより遭遇する魔物の数が増えてもいいはずじゃねえか?」
フェルンは少し考え込んだ。確かに、魔物の密度が高い地域の中心に近づいているというのに、遭遇する数が減るのは不自然だった。こういうとき、待ち受けているのは不測の事態であることが多い。妙な胸騒ぎがしてきた。
「フリーレン様、どう思われますか?」
フェルンが問いかけるが、返事は無かった。フリーレンは立ち止まり、森の奥を見つめている。風が吹き、その銀色の髪が静かに揺れた。
「……何かおかしい」
その声は、いつもより低かった。フェルンは表情を引き締める。
「やはり、魔物の数が少なすぎることですか?」
「そうだね。でも、それだけじゃない」
フリーレンは静かに目を瞑った。そして、簡易的な探知魔術を起動する。その足元から、淡い魔力の波紋が広がっていく。風もないのに草葉がわずかに揺れ、木漏れ日の中に浮かぶ小さな塵が、何かに導かれるようにゆっくりと漂った。魔力で空気が振動し、森の木々が僅かにざわめく。十数秒ほど経ってから、フリーレンはゆっくりと目を開けた。
「何か見つかりましたか、フリーレン様?」
「むしろ逆かな。どこにも異常が見当たらない」
フリーレンは周囲を見渡しながら言うと、それを聞いたシュタルクが首を傾げる。
「どういうことだ? 異常がないことが分かったなら、それでいいんじゃないか?」
「ここらは魔物が多い土地だからね。魔物の数が減ったにせよ、相応の痕跡が残ることが多い。魔力の残滓であったり、魔物が暴れた跡であったりね」
フリーレンは足下の土を見つめた。
「でも、ここにはそれがない」
小鳥が枝から飛び立った。その羽音が、シュタルクには妙にはっきり聞こえた。
「魔物が一時的に移動したというより、長い間ここに近づいていないみたい」
「……じゃあ、どうして?」
「分からない。分からないけど、これは間違いなく異常だ。魔物同士が縄張り争いを起こすような地域で、魔物がいないエリアなんてあり得ないからね」
フェルンは杖を握り直した。
「警戒して進みましょう」
「うん」
「おう」
フリーレンとフェルンが再び歩き始める。シュタルクも斧を背負い直し、二人の後に続いた。魔物がいない。それだけなら、喜ぶべきことのはずだった。だが、昨日までの激しい戦闘を思い返すと、どうにも気味が悪い。魔物がいないというだけで、これほど落ち着かないものなのか。シュタルクの戦士としての勘が、この先に面倒事があると警鐘を鳴らしている。
「……なあ、フリーレン」
「何?」
「魔物がいなくなるような強い奴が、この辺りにいるってことはねえのか?」
「あるかもしれないね」
フリーレンは視線だけをシュタルクに向けて無感情に告げる。シュタルクは思わず顔をしかめた。脅威のないはずの森が、急に恐ろしく思えてきた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ナヒトが姿を現したのは、その日の正午を少し過ぎた頃だった。深い森を抜けた先、緩やかな丘陵地帯の中央に、石造りの家々が寄り添うように建っていた。
高い防壁こそないものの、集落の周囲には簡易的な木製の柵が巡らされている。村の中央には小さな広場があり、その奥には古びた鐘楼が見えた。
そして、三人が少しばかり驚いたのは人々の様子だった。
「……随分と賑やかな村ですね」
村に入ってから、しばらくしてフェルンが呟いた。広場では子どもたちが駆け回り、商人が野菜や果物を並べている。家々の前には洗濯物が干され、道端には色とりどりの花が咲いていた。鍛冶屋からは金属を打つ音が聞こえ、パン屋の煙突からは白い煙が上がっている。どこにでもある、穏やかな村の風景だった。ここが北部高原の危険地帯にある集落でなければ、意外でも何でも無かっただろう。
「もっと、物々しい場所を想像していました。フリーレン様からのお話のとおりなら、この村は魔物からの襲撃に備えているはずですから」
フェルンは村を見渡した。
「それなのに、この村の防壁はそれほど頑丈には見えません」
「そうだよな」
シュタルクも頷く。
「こんなところなら、もっと厳重に守ってると思ったんだけど……」
近くでは、幼い子どもが木の棒を振り回して遊んでいた。少し離れた場所では、老婆が椅子に腰掛けて編み物をしている。魔物を恐れている様子など、微塵もない。
「平和そうだね」
フリーレンはそう言った。その視線の先では、一人の少女が転んだ子どもを助け起こしていた。少女は子どもの膝についた土を払い、何かを話しかけている。子どもは笑顔になり、手を振って走り去っていく。どこにでもある、ありふれた光景だ。
フリーレンはそれを少しの間眺めていたが、やがて目を離した。
「とりあえず、手紙を届けようか」
「そうですね。えっと、宛先に書かれている名前は……」
フェルンは鞄から封筒を取り出して、そう言いかけたときだった。
「旅人さんかい?」
近くの露店から声がかかった。振り向くと、恰幅のよい中年の男が笑顔を向けてきた。
「珍しいねえ。この辺りまで旅人が来るなんて」
「すみません。人を探しているのですが」
フェルンが封筒に書かれた名前を告げると、男はすぐに頷いた。
「ああ、知ってるよ。村の北側に住んでる婆さんだね」
「ご存じなんですか?」
「そりゃあ、小さな村だからね。住民同士で知らない人間なんていないよ」
男は笑いながら道を指差した。
「この先の広場を抜けて、二つ目の角を右だ。青い屋根の家があるから、すぐ分かる」
「ありがとうございます」
「いいってことよ。遠いところから大変だったろう? 何か困ったことがあれば、俺や他の村人に遠慮なく言ってくれ。きっと誰かが助けてくれるだろうさ、ここは良い村だからな」
フェルンが礼を述べると、男は気さくに笑った。その言葉には、何の含みも感じない。心から自分の故郷を誇っているような、そんな笑顔だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「なんか、変な村だよな」
広場を歩きながら、シュタルクがぼそりと呟いた。
「何が?」
フリーレンが尋ねる。
「いや、みんな普通すぎるっていうかさ。ここ、魔物の巣窟に囲まれてるんだよな?」
「そうだね」
「だったら、もう少し警戒しててもよくねえか?」
通りには笑い声が溢れている、シュタルクは周囲を見回す。野菜の値段を交渉する主婦たち、荷車を押す青年、井戸端で世間話をする老人たち、人々の顔には切迫した様子も、疲弊した様子も見られない。
「確かに、不思議ですね。村の周囲もそうですが、村自体にも魔物の襲撃を受けた形跡が一切ありません」
「そうなんだよ。柵だってあんなに低いし、あんなの家畜が外に逃げ出さないようにする程度のものだぜ」
シュタルクは村の外周へ視線を向けた。周囲に巡らされた木製の柵は、人間の背丈より少し高い程度だ。大型の魔物なら簡単に乗り越えられるだろうし、踏み壊されるのがオチだ。
「何か強力な結界でも張ってあるんでしょうか?」
「さっき探ってみたけど、それもなさそうだね」
フリーレンは答えた。そして、ふと歩みを止める。
「……え?」
それは三人のうち、誰の言葉だっただろうか。通りの向こうから、灰褐色の髪をした少女が歩いてきたのが見えた。小柄で華奢な身体をしており、金の刺繍が施された僧侶のような白い衣服に身を包んでいる。両手に抱えられた小さな籠には、採れたばかりらしい野花が入っている。その姿は、どこからどう見ても無害な少女そのものだった。
ただし、頭部から伸びる、白い一対の角を除けばだ。通りの端を静かに歩いていた少女らしき者、その淡い金色の瞳が三人へ向けられる。その瞬間、フリーレンの表情が変わった。
「フェルン、シュタルク、戦闘態勢」
「はい!」
「おう!」
フリーレンからの呼びかけで、フェルンは杖を構え、シュタルクも即座に斧へ手を伸ばした。異様な光景だった。村の真ん中、多くの人々が行き交う通りに魔族がいる。しかも、誰もそれを恐れていない。
フリーレンは無言で杖を少女へ向けた。
「……旅の方、ですか?」
魔族の少女が口を開いた。鈴を鳴らしたような、小さく澄んだ声だった。逃げる様子も、驚く様子もない。ただただ、淡い金色の瞳がフリーレンからフェルンへ、そしてシュタルクを順番に映していく。動物の反応を観察するような、無機質な視線だった。
フリーレンは答えなかった。返答の代わりに、杖の先へ魔力を集中させる。
「……私を攻撃するつもりですか?」
少女は首を傾げた。困惑しているようにも見える仕草だったが、その表情はほとんど変わっていない。
「どうして、ですか?」
まるで理由など思い当たらないとでもいうように、言葉を続ける。フリーレンは、その問いに何の迷いもなく答えた。
「お前が魔族だからだよ。それ以外に理由はない」
フリーレンの言葉を合図にして、フェルンも杖に魔力を集中させる。シュタルクは二人よりも一歩だけ前へ出て、いつでも斧を振るえるように身構えた。周囲の空気が、一瞬にして張り詰める。少女は何も言わなかった。ただ、胸の前で大事そうに籠を抱え直す。
「待った待った! 何やってんだ、旅人さん!」
突然、横合いから大声が上がった。振り向くと、先ほどの露店の男が慌てて駆け寄ってきていた。
「危ないから下がって」
フリーレンが告げる。しかし、男は引き下がらなかった。むしろ、フリーレンたちと魔族の間へと割り込むようにして立ち塞がった。
「違うんだよ、旅人さん!」
「何が違うの?」
「この子は悪い子じゃないんだ!」
男の声を聞きつけ、周囲の村人たちも集まり始めた。
「どうしたんだい?」
「何の騒ぎだ?」
「ネーニアちゃんがどうかしたのか?」
人々が集まってくる。面倒なことになったと、フリーレンは眉をひそめた。
「そいつはネーニアっていう名前なの?」
「ああ、そうさ!」
露店の男は大きく頷いた。
「ネーニアちゃんは俺たちの仲間なんだ!」
フリーレンの手が止まった。フェルンも、思わず男を見つめる。
「……仲間?」
「そうだよ。もう随分と長いこと、この村で一緒に暮らしてるんだ」
男は必死だった。
「魔物退治をしてくれるし、病気の婆さんのために薬草を探しに行ってくれたこともある。子どもたちにも優しい、本当にいい子なんだよ!」
「そうさね。この前だって、森で迷った子を助けてくれたのさ」
「うちの息子も助けてもらったよ」
「魔物が村に来なくなったのだって、ネーニアちゃんのおかげなんだ!」
次々と声が上がる。男も女も、老人も若者も、誰もがその魔族を庇おうとしていた。いつの間にか、フリーレンたちと魔族の間には10人以上の村人が立っていた。魔法の射線が完全に遮られている。
「退いて、そいつは魔族なんだ。ここに居ていい存在じゃない」
フリーレンが静かに言ったが、誰も動かない。
「頭に角があるんだ。そんなこと、最初から分かってる」
露店の男が答えた。その返答に、シュタルクが驚いて目を見開く。
「……は?」
「だが、それが何だっていうんだ? この子は村を魔物からずっと守ってくれてる。助けられてばかりだが、この子のことを俺たちは昔から村の一員だと思ってる」
「ちょっと待ってくれよ」
シュタルクが困惑したように口を挟んだ。
「魔物が来なくなったのも、そいつのおかげなのか?」
「ああ、そうだよ。30年くらい前か、ネーニアちゃんが来る前は、そりゃあ酷かったんだ。家畜を食われるわ、畑は荒らされるわ、森に入った連中が帰ってこないことなんて、日常茶飯時だった。俺のオヤジも魔物に喰われちまった」
男は苦い過去を思い出して目を細めた。そして、村人たちもまた口々に魔族のことを語り始める。
「ネーニアちゃんが魔物を追い払ってくれたんだ。それからは、随分と暮らしやすくなったんだよ」
「盗賊団が襲ってきたときだって、あの子が追い払ってくれたから村に犠牲者は出なかった」
「こんな小さな身体で、あんなに強いなんて。あの時はみんな驚いたものさ」
フリーレンは黙っていた。村人たちの言葉を聞きながら、その水面のような碧眼をネーニアへと向ける。魔族の少女は相変わらず、胸元に籠を抱えていた。淡い金色の瞳が、まっすぐにフリーレンを見つめている。先ほどまでの無機質な視線とは異なり、その瞳にはこちらを探るような光が宿っていた
「ネーニア」
「はい」
「お前は私のことを知っているのか?」
ネーニアはしばらくフリーレンを見つめていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「『葬送のフリーレン』、歴史上最も多くの魔族を葬ってきた魔法使い。あなたは私たち魔族の仇敵です」
とても静かな声だった。それを聞いた村人たちまでもが静まり返る。ネーニアは胸元の籠を両手で抱え直す、それはまるで怯えるような仕草だった。
「私のことも殺すつもりですか」
「お前が魔族である以上、殺さない理由がない」
ネーニアはフリーレンを見つめたまま、何も言わなかった。自分を殺すと告げられたにもかかわらず、その表情には何の変化もない。やがて、村人たちの視線が自分へ集まっていることに気づいたのか、少女は静かに口を開いた。
「戦うなら村の外にしてください。私のせいで、村の皆さんに迷惑を掛けるわけにはいきません」
「戦う場所はどうするの?」
「あなたが決めてくださって構いません」
フリーレンは意外そうな目をした。地形も、距離も、周囲の環境も。魔法使い同士の戦いでは、そのどれもが勝敗を左右する。そんなことは常識である。それなのに、この魔族は戦う場所を一方的に相手へ委ねるという。
「……随分と余裕があるんだね」
「そうでしょうか?」
ネーニアは表情を変えなかった。フリーレンは、そんな少女をじっと見つめていた。魔族が人間を気遣う言葉を口にする。それ自体は珍しいことではない、魔族は言葉で人間を翻弄し、油断させる。だが、ネーニアの言葉には妙なところがあった。自分が殺されるかもしれないという状況で、コイツはただ戦う場所を指定しただけだった。まるで命を狙われることなど、特別な問題ではないかのようにだ。フリーレンはゆっくりと杖を下ろす。
「……今は戦わないでおこう。こんなところで戦ったら、村の人たちを巻き込むからね」
「そうですか。それなら、よかったです」
ネーニアの声に敵意は感じない、その響きは最後まで穏やかだった。村人たちは、ようやく安堵したように息を吐いた。露店の男も胸を撫で下ろす。
「いやあ、ひとまずは良かったよ……。旅人さんたちも、きっと誤解してるんだ。ネーニアちゃんは本当にいい子なんだ、話してみれば分かるさ!」
「そうかもね」
フリーレンは気のない返事をした。そして、ネーニアへ視線を戻す。
「今日はもう行くよ。手紙を届けないといけないから」
ネーニアは小さく頷いた。
「よければ案内しましょうか?」
「結構だ。魔族と連れ立って歩く趣味はない」
「分かりました。それでは、お気をつけて」
少女は軽く頭を下げた。フリーレンは踵を返した。フェルンとシュタルクが、その後に続く。三人が歩き始めると、村人たちも少しずつ散っていった。ネーニアはフリーレンたちが見えなくなるまでその場に佇んでいた。両手に抱えた籠の中で、小さな白い花が揺れていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「……どうするんだよ、あれ」
広場を離れてしばらくすると、シュタルクが口を開いた。
「村の連中、あの魔族のことを皆して庇ってたじゃねえか。あんな状況じゃ戦えねーぞ」
「そうだね」
「そうだねって……。なぁ、フリーレン。あの魔族の慕われぶりは、まるで紅鏡竜から村を守ってた頃の俺だ。あいつが本当に悪い奴じゃないって可能性もあるんじゃないか?」
村人たちからネーニアに向けられる眼差しや扱いには覚えがある。あれは自分たちを守ってくれている者に対する敬意だ。だからこそ、シュタルクは困ったように頭を掻いた。そんなシュタルクの赤い瞳を、フェルンの深紫色の瞳が冷静に射抜く。
「シュタルク様、見た目に騙されてはいけません。あの魔族からは、ものすごい死臭がしました」
「……死臭? そんなに血生臭い感じはしなかったけどな」
「実際の匂いではありません。あの魔族の魔力です。人間を殺してきた魔族特有の、嫌な感じがしました」
フェルンの言葉にフリーレンが頷いた。
「ああ。百や二百じゃ済まないだろうね。私が今まで見てきた魔族と比べても、相当な数を殺しているはずだ。千人を超えていてもおかしくない。魔力も大魔族級だよ」
「……は?」
シュタルクの足が止まった。聞き間違いかと思った。フリーレンはいつもと変わらない表情で歩いている。
「ちょ、ちょっと待てよ! 大魔族って……あの小さい奴がか!?」
「うん」
「そんな化け物が村の真ん中を普通に歩いてたのかよ!?」
大声を上げたシュタルクを、フェルンがたしなめる。
「声が大きいです、シュタルク様」
「いや、だってよ!」
シュタルクは思わず後ろを振り返った。広場はもう見えない。それでも、あの白い衣服を着た少女の姿が頭から離れない。小柄で、華奢で、どこにでもいる少女のような魔族。片目を覆う黒い布と、頭部から伸びる白い角さえなければ、その正体に気づかない者もいるだろう。そんな無害そうな少女が、百人や二百人では済まないほどの人間を殺してきたという。
「……冗談、だろ。この村の連中、そんな奴を仲間だって言ってたのか」
「そうだね。でも、村の人たちはあの魔族が今まで殺してきた人間の数を知らないだけかもしれない。それに、あの魔族のおかげでこの村が魔物に襲われないのも、おそらくは本当だ」
フリーレンは周囲の家々を見渡した。軒先には洗濯物が揺れ、道端では子どもたちが遊んでいる。このあたりをヒンメルたちと旅したときからは考えられないほどに、穏やかで平和な光景だった。この景色を作っているのが、あのネーニアという魔族であることは疑いようもない。北部高原の魔物ですら、あの魔族に恐れをなして、この地域一帯から逃げ出しているのだ。フリーレンが提示した事実にフェルンとシュタルクが沈黙する。
「まあ、まずは頼まれてた手紙を届けよう。あの青い屋根の家だったよね」
フリーレンは道の先を指差した。
「……こんな状況でも手紙のこと覚えてたんだな」
「当たり前でしょ。依頼を受けたんだから」
「フリーレン様の言うとおりです。まずは依頼を済ませましょう。それから宿を探せばいいと思います」
フェルンの提案にシュタルクが顔をしかめる。
「仕方ないとはいえ、大魔族がいる村に泊まるのか。夜眠れるかなぁ、俺」
「食糧を補給しないといけないし、どのみち魔族がいる村をそのままにはしておけないからね。まあ、夜中に襲われたりするかもしれないけど」
「怖いこと言わないでよぉ……」
情けない声を出すシュタルクにフェルンはため息を吐いた。
「シュタルク様。少しだけ声が大きいです」
「だってぇ、怖いんだもん……」
フリーレンは二人の会話を聞き流しながら、村の奥へ目を向けた。先ほどの魔族の顔が、脳裏に浮かぶ。あれほどの死臭を放つ個体が殺戮を行うわけでもなく、この村に留まっているのは何故か。得体は知れず、分からないことばかりだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
手紙の届け先は、教えられたとおりの青い屋根の家だった。
扉を叩くと、白髪の老婆が顔を覗かせた。フェルンが差出人の名前を告げると、老婆は目を丸くし、それから懐かしそうに笑った。受け取った封筒を、皺の刻まれた指先で何度も撫でる。そして、何度も礼を述べ、三人を見送ってくれた。
そうして手紙を届けた三人は日が傾く頃には、村の小さな宿屋にたどり着く。宿の主人は愛想のよい中年の女性で、旅人が訪れるのは久しぶりだと嬉しそうに話していた。部屋は質素だったが清潔で、窓からは村の広場が見下ろせる。シュタルクは荷物を下ろすと、椅子に腰掛けた。
「……なあ、これからどうするんだ? 村の人間があんな状態だと戦えねーぞ。もし、戦闘になったら、下手しなくても魔族に味方される。フェルンはどう思う?」
「魔族だと分かった上で受け入れているなら、村の方々を説得するのは難しいと思います。ですが、あの魔族は戦う場所を私たちに委ねる、といいました。ならば、魔族を村外れに呼び出して、村人を巻き込まない形で、戦闘に持ち込むことはできるのではないでしょうか?」
二人の会話にすぐには反応せず、フリーレンは窓際に立ち、外を眺めていた。夕暮れに染まる村では、仕事を終えた村人たちが家路につき、外からは夕餉の支度をする匂いが漂っている。フリーレンは静かに口を開けた。
「フェルン、あの魔族は、私が誰なのか知っていた。そのうえで戦う場所をこちらに決めさせて、そのまま闘っても構わないと言ってきたんだ」
「はい、そう言っていました」
フリーレンは窓の外へ目を向けている。広場の片隅では、白い衣服を着た小さな人影が村人と何かを話している。二本の角は見間違えようもない、ネーニアだ。相手の老人が笑うと、魔族もほんのわずかに口元を緩めて応えていた。
「……つまり、あいつは私たち三人を同時に相手にしても勝てる、もしくは逃げ切れると思ってる。戦闘には相当な自信があるってことだ。なんの下準備もなく戦うのは危険かもね」
シュタルクの顔が引きつった。フリーレンは二人に振り向かない。窓の外では、ネーニアが老人に一礼していた。老人は笑顔で手を振り、魔族の少女も小さく手を振り返す。そして、老人が立ち去ると、ネーニアの口元から微笑みが消える。
ほんの一瞬のことだった。だが、次に通りかかった村人が声をかけると、ネーニアは再び口元を緩めた。相手が笑えば、自分も笑う。相手が心配そうに話しかければ、申し訳なさそうに目を伏せる。何の変哲もない、人間同士のやり取りに見えた。フリーレンは、それを黙って眺めていた。
「……人間の真似が、うますぎるな」
フリーレンは二人に聞こえないくらいの声で小さく呟いた。窓の外ではネーニアがいつの間にか広場の中央に立っていた。そして、その瞳が三人のいる宿屋の窓へ向けられた。距離があるため、視線が合ったのかどうかは分からない。けれど、フリーレンは、その目を見つめ返した。澄んだ碧眼と淡い金色の瞳が見つめ合う。お互いに無感情で無機質な視線だった。
しばらくして、ネーニアは何事もなかったように視線を逸らす。そして、広場から歩いて去っていく。フリーレンはその姿が見えなくなるまで、窓辺を離れなかった。
間もなく、夕暮れの鐘が鳴る。広場を行き交う人々は家路を急ぎ、家々の窓には温かな明かりが灯り始める。ナヒトの村は、今日も穏やかだった。
魔物の跋扈する北部高原の片隅で、ただ一人の魔族に守られながら。