葬送のフリーレン〜名もなき故郷の哀歌〜   作:みかん色の夕焼け

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第二話︰哀悼なき者の献花(前編)

 

 これは、勇者ヒンメルたちが魔王討伐の旅を続けていた頃の話だ。

 その日、北部高原の山間にあった小さな村を勇者一行は訪れていた。いや、正確には、かつて村だった場所と言うべきだろう。家々は荒れ果て、畑には雑草が生い茂っていた。通りに人影はなく、風が吹くたび、建て付けの悪い扉が軋んでいる。

 

「……これで四か所目だ。ここも村人が全員殺されている。それなのに、どこにも争った形跡がない」

 

 村の広場を見渡しながら、アイゼンが呟いた。人間が暮らしていた痕跡だけがそこかしこに残されており、廃墟のような光景がどこまでも虚しく広がっている。その隣でハイターが犠牲者たちへの黙祷を捧げてから、口を開く。

 

「今回も生存者はゼロですね。行商人や旅人からも有力な情報はありませんでした。これでは、この惨状の原因である魔族や魔物の正体も、その能力も一向に謎のままです」

 

 この近隣で滅びた村はもう四つ目だ。ヒンメルたちが最初の村を訪れたとき、そこに生きている人間は一人もいなかった。どこにも戦闘の形跡はなく、病が流行った痕跡もない。代わりに、村外れには新しい墓が幾つも建てられている。

 血痕も、肉片が飛び散った跡もあるのだ。それなのに、村人たちが外敵に対して抵抗した跡がどこにもない。二つ目も、三つ目も同じだった。そして、四つ目の村でも、変わらなかった。この異常な光景を見て、魔族か魔物の関与を疑わない者はいないだろう。

 

「……妙だな」

「何か見つけたの、ヒンメル?」

 

 ハイターとアイゼンに村の内部の探索を任せて、ヒンメルとフリーレンは、村外れの墓地を訪れていた。

 そこには百を超える墓標が並んでいた。石の大きさも形も不揃いで、墓と墓の間隔にもばらつきがある。長い年月をかけて、村人たちが死者を埋葬してきたのだろう。

 その中で、ヒンメルは一つの墓標に目を留めていた。この地方の墓標には故人の名前を刻む慣習がある。ところが、その墓標だけは違っていた。粗雑に切り出された石には、名前も、文字らしいものも刻まれていない。

 そして、墓石の周囲に盛られた土も踏み固められていなかった。乱雑に掘り返され、そのまま埋め戻されたような跡が残っている。

 

「……多分、この人が最後の犠牲者だと思う」

「そうかもね。別にそこまで変わった様子はないと思うけど、何か気になるの?」

 

 フリーレンは、いつもと変わらない調子で尋ねた。ヒンメルは腰に下げた剣に手を掛けながら、周囲を見渡した。

 

「村の人たちは皆殺しにされている。家々を見た限り、逃げ出せた人も、おそらくはいないだろう。なら、最後に亡くなった人を埋葬したのは、誰なんだ?」

「……ああ、なるほど。それは確かに妙だ」

 

 墓地を風が吹き抜ける。名前の刻まれた墓標が並ぶ中、二人の間に短い沈黙が落ちた。しばらくしてから、ヒンメルが剣から手を離して重い口を開く。

 

「フリーレン。僕は、近隣の村々を滅ぼしたのも、この村の最後の犠牲者を埋めたのも、魔族だと思う」

「村を滅ぼしたのが魔族なのは、私も同じ見解だよ。でも、死者を弔う本能のない魔族が墓を作ったっていうのは、信じがたいかな」

「ああ、僕もそう思うよ。まして、自分が殺した人間の墓を作る魔族なんて、どうかしてる」

 

 ヒンメルは足元の墓標を見下ろした。

 

「でも、埋葬する人間がもう誰も残っていなかったのなら、そう考えるのが一番自然だと思うんだ。この近辺には冒険者も旅人も、最近は寄り付かなかったみたいだからね」

 

 ヒンメルは、名前のない墓標に手を添えた。この地方の人々は、死んだ人を弔うために名前の彫られた墓を作る。故人が旅人のような余所者であっても、忘れられないように名前を刻んで、花を供えて、家族や友人が会いに来られるようにするのだ。

 そんな場所で名前が刻まれていない墓標がある。そんな墓に埋葬された誰かがいる。この状況はまるで、墓を作るという人間の慣習だけを知っていて、そこにどんな意味があるかを理解していない何者かの仕業としか思えなかった。

 

「人間がすることを、形だけ真似ているんだと思う。魔族に死者を弔う習性はないはずだからね」

「まあ、状況が状況だし、ヒンメルの推測が当たっている可能性はあるかもね。……なんだろ、これ?」

 

 フリーレンは墓標の足元に何かが置かれていることに気づいた。小さな白い野花だった。数本の花が、無造作に地面へ投げ出されたように重なっている。茎の長さはばらばらで、葉もあちこちに折れ曲がっており、花の根元には湿った土がこびりついていた。どうやら、地面から引き抜いたものを、そのまま置いたらしい。

 

「本当だね」

 

 ヒンメルも覗き込んだ。周囲の墓を見渡してみたが、花が供えられているのは、この名前のない墓だけだった。

 

「ヒンメルの推測が正しければ、これも魔族が供えたのかな。人間が墓に花を供えることを、どこかで見て覚えたとか」

「うん、そうだね。けれど、誰かを悼んだり、亡くなった人に想いを伝えたりするために、人間は花を供えるんだ。ただ、花を置けばいいというものじゃない」

 

 ヒンメルは、地面に落ちていた野花の一本を手に取った。土を軽く払い、折れ曲がった葉を整えてから、そっと墓標の前に戻した。

 

「人間がすることを知っていても、そこに込められた気持ちは分からない。だから、こんなふうに形だけ真似ているんだと思う」

 

 フリーレンは、名前のない墓標を見つめた。村人を殺し、最後の一人を埋葬し、その墓に花を供える。人間の行いを模倣しているのだとしても、あまりに奇妙だった。墓地に風が吹き、野花の小さな花弁が揺れた。本当に魔族がやったのであれば、何のためにこんなことをしたのか。フリーレンには、その理由が全く想像できなかった。

 そんなことを考えていると、いつの間にかヒンメルが墓標の前に膝をついていた。

 

「名前も知らない人たちのために、祈っているの?」

「フリーレン。僕たちは、この人たちがどんな人生を送ったのか知らない。でも、知らなくても、彼らを想うことはできる」

 

 ヒンメルは墓標を見つめたまま続けた。

 

「この人たちにも、それぞれの人生があったはずなんだ。それなのに、理不尽に未来を閉ざされた。せめて死後の世界では安らかに過ごしてほしい。ただ、それだけの願いを込めて祈るんだ」

 

 ヒンメルは目を閉じ、両手を組んだ。フリーレンは、そんな彼の横顔を見つめる。ヒンメルは犠牲者たちの名前を知らない。顔も、声も、どんな人生を送ったのかも知らない。それでも、知らないことを理由に、彼らの死への哀悼を欠かすことはしなかった。

 祈ったところで、死者が生き返るわけではない。それでもヒンメルは、何かを変えるためではなく、ただ死者のために祈っているのだ。フリーレンには、その意味がまだよく分からなかった。けれど、隣で目を閉じるヒンメルを見ていると、何もせずに立っていることが、少しだけ落ち着かない。そっと、フリーレンもヒンメルの隣に膝をついた。

 

「私も一緒に祈るよ」

「ありがとう、フリーレン」

 

 フリーレンは祈りながら、周囲に並ぶ墓標を見渡した。見知らぬ名前の刻まれた石がどこまでも並んでいる。名前も、顔も知らない人々。その死を悼んでも、生き返るわけではない。死者の気持ちなんて、分かるわけもない。

 それでも、この祈りは無意味ではないのかもしれない。ヒンメルの横顔をちらりと見つめながら、フリーレンはそう思った。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 その後、ヒンメルたちは周辺の森や街道を調べ上げ、四つの村を滅ぼした魔族を発見することになる。

 

 それは強大な力を秘めた魔族だった。戦いは熾烈を極め、フリーレンとハイターは重傷を負い、ヒンメルとアイゼンも無傷では済まなかった。それでも、その魔族を追い詰め、深手を負わせることには成功した。

 残念ながら、仕留めることはできなかった。かつて交戦した『断頭台のアウラ』のときのように、相手に重傷を負わせながらも、討伐には至らなかったのだ。強大な魔族とは、それほどまでに厄介な存在だ。戦いで優位に立っても、必ずしも討ち取れるとは限らない。

 ヒンメルたちは魔族の逃亡を許し、その後も行方を追ったが、ついに見つけることはできなかった。四人は近隣の村に留まり、フリーレンとハイターの傷を癒やしながら、周辺の警戒を続けた。

 

 それから三か月以上が過ぎた。村々を滅ぼした魔族が再び姿を現すことはなく、同じような事件が起きたという報せも届かなかった。やがて、傷の癒えた勇者一行は再び魔王城へ向けて旅立つことになる。

 世界を救う勇者一行の旅はそれからも続き、彼らがその魔族の行方を知ることは二度となかった。

 

 

 少なくとも、勇者ヒンメルが生きている間は。

 

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 それから、八十年以上の時が流れた。ナヒトの村に、朝が訪れた。

 山々から昇る朝日が、石造りの家々を淡い金色に染めていく。煙突からは朝食の支度をする煙が立ち上り、広場には早くも商人たちの声が響いている。

 フリーレンは宿屋の窓から、その光景を眺めていた。昨夜から考えていたのは、あの魔族──ネーニアのことだった。村人たちから親しまれ、三十年間にわたってナヒトを守り続けてきたという。村人たちは彼女が魔族であることを知りながら、親しげに接していた。ネーニアもまた、人間と何ら変わらないように振る舞っていた。

 それだけでも異常な光景だが、問題は彼女が持つ魔力だった。昨日感じ取った魔力は、並の個体のものではなく、あれほどの力を持つ魔族でありながら、フリーレンはネーニアという名を聞いたことがない。

 それに、この辺りの地形には見覚えがある。遠くに連なる山々を眺めながら、フリーレンはかつてヒンメルたちと訪れた四つの廃村を思い出していた。

 八十年以上前、自分とハイターが重傷を負わされ、ヒンメルとアイゼンが深手を負わせた魔族。あいつとネーニアは何らかの関係があるのか、無関係なのか、それによって対処方法が変わってくる。もっとも、それを確かめる手がかりは、今のところ乏しい。

 

「フリーレン様、朝食の準備ができたそうです」

「すぐ行くよ、フェルン」

 

 背後からフェルンに声をかけられ、フリーレンは振り返った。窓辺を離れ、杖を手に取る。その様子を見ていたフェルンが小さく首を傾げた。

 

「何か気になることでも?」

「昨日の魔族のことを考えていたんだ。あいつがこの村に来たのは、三十年ほど前だって言ってたよね」

「はい。露店の方が、そう仰っていました」

 

 三十年、エルフや魔族ならともかく、人間にとっては長い長い年月だ。生まれた子どもが親になるには十分な時間であり、村の景色が変わるにも十分な時間だった。この村に漂う平穏な空気からして、ネーニアが長きにわたって、ここを守ってきたことは疑いようもない。

 フリーレンが気になっているのは三十年前、ネーニアが現れたとき、村人たちはどのような反応を示したのか。そして、なぜ魔族を村の一員として受け入れるようになったのかということだ。

 

「昔のことを聞いてみようと思うんだ。あいつの素性を探るためにも、ネーニアが来る前のナヒトと、来たばかりの頃の話を聞き込んでみる価値はあると思う」

「ですが、三十年以上も前の話ともなると、それなりの年齢の方に当たる必要があります。アテはあるのでしょうか?」

「昨日、手紙を届けたお婆さんがいたでしょ。あの人なら、何か知っているかもしれない」

「なるほど。確かに、あの方なら三十年前はもちろん、それよりずっと昔の村の様子もご存じかもしれませんね」

 

 ネーニアが現れる以前のナヒトを知る人物ならば、村がどのように変化してきたのか、詳しく聞けるかもしれない。そこに直接、あの魔族の正体に繋がるヒントはないだろう。それでも、情報収集の第一歩としては悪くない。

 

「朝食を済ませてから訪ねてみようか。シュタルクはもう起きてるの?」

「朝早くから起きて、村の人たちの仕事を手伝ったり、この宿屋の裏庭で鍛錬をしたりしているようです」

「相変わらず真面目だね」

「ええ。昨日はあれほど怖がっていたのに、シュタルク様はどの街に来ても相変わらずです」

 

 フリーレンとフェルンは顔を見合わせて小さく笑った。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 青い屋根の家を訪ねたのは、朝食を終えてからしばらく経った頃だった。昨日と同じように扉を叩くと、白髪の老婆が顔を覗かせた。三人の顔を見るなり、嬉しそうに笑う老婆へとフリーレンが「聞きたいことがある」と告げると、老婆は穏やかな様子で頷いた。

 快く家に招かれる。小さな居間には、長年使い込まれた家具が並んでいた。壁には古い風景画が飾られ、壁際の棚の上には若い頃の老婆らしき人物と、夫と思われる二人の人物が描かれた肖像画が置かれている。フリーレンたちが昨日渡した手紙も、大切そうに棚へ仕舞われていた。老婆は椅子に腰かけると、口元を柔らかく綻ばせる。

 

「大方、ネーニアちゃんのことだろう? さてはて、旅人さんたちは何を聞きたいのかね?」

「なんだ、分かってたのかよ」

「しがない老人に旅人さんが二度も訪ねてきたんだ。あの子のことを、村の古株に聞きに来たくらいしか用事がないと思ってね」

 

 老婆はそう言うとシュタルクからフリーレンへと視線を移し、何を聞きたいのかを促すように微笑んだ。

 

「お婆さんは、この村に長く住んでいるの?」

「そりゃあ、もう。生まれも育ちもナヒトだからね。今年で七十八になるけど、よその土地で暮らしたことなんて一度もないよ」

「じゃあ、三十年前のことも覚えている?」

「三十年前なら、もちろん覚えているとも。まだ亭主も元気だった頃だねえ」

「その頃のナヒトは、どんな村だったの?」

 

 フリーレンの問いかけに老婆の表情が少し変わった。懐かしさを帯びていた目元に、わずかな陰りが差す。

 

「酷いものだったよ。村外れで畑の世話一つするだけでも、いつ魔物が出るか分からないから、男衆が交代で見張りをしていたんだ。今じゃ考えられないけどねぇ」

「私の記憶と同じだ。やっぱり魔物が多かったんだね」

「ああ。家畜を連れていかれるなんて、しょっちゅうだった。畑を荒らされることもあったし、何より、人が死んだ」

 

 老婆は静かな眼差しをフリーレンに向けながら、膝の上で手を組んだ。

 

「うちの亭主もね、若い頃に魔物に襲われて、大怪我をしたことがあった。幸い命は助かったけど、あれ以来、右足が少し不自由になっちまってね。それでも長いこと大工仕事を続けてくれてさ。亡くなるまで、よく働く人だった」

 

 そこまで聞いていたシュタルクが眉をひそめた。

 

「それでも、アンタはこの村を離れなかったのか?」

「どこへ行けっていうんだい。ここには畑も、家も、家族の墓もある。ご先祖様から受け継いできた土地だからね。簡単に捨てられるもんじゃないよ」

 

 老婆の話をフリーレンは黙って聞いていた。北部高原で生きる人々には、そうした者が少なくない。危険だからといって、誰もが住み慣れた土地を離れられるわけではないのだ。

 

「でも、今は平和そうだね」

「ああ。それもこれも、ネーニアちゃんのおかげさ」

 

 老婆の顔が、ぱっと明るくなった。フリーレンはその変化を見逃さなかった。

 

「ネーニアが村に来たときのこと、覚えている?」

「そりゃあ、よく覚えているよ」

 

 老婆は懐かしそうに目を細めた。

 

「あの子が初めて村に来たのは、ちょうど三十年くらい前だったかねえ。今と変わらない、小さな女の子の姿でね。旅人みたいな外套を羽織って、村の入り口に立っていたんだ」

「魔族だって分かっていたの?」

「角を隠してなかったからね。誰だって分かるさ」

 

 老婆は頷いた。三十年も前のことだというのに、その日の光景は今でもはっきり覚えているのだろう。

 

「お嬢さんが言いたいことは分かるよ。もちろん、最初はみんな怖がってたさ。魔族なんて、人間を殺す恐ろしいものだからね。この地方の人間は、昔から魔族に随分と酷い目に遭わされたものさ」

「魔族に襲われたことがあるの?」

「ああ。まだあたしが若かった頃にね。村の近くに魔族が現れて、何人も殺されたことがあった。幸い、通りかかった冒険者が退治してくれたけど、生きた心地がしなかったものさ」

 

 老婆は当時のことを思い出したのか、顔を曇らせた。

 

「だから、ネーニアちゃんが現れたときも、男衆が武器を持って集まってね。村から出ていけって怒鳴ったんだ」

「それで?」

「ネーニアちゃんは、そこから動かなかった。ただ、どうして出ていかなきゃならないのか、不思議そうにしていたよ」

「昨日、私たちにしてきた反応と同じだね」

「ふふ、あの子は相変わらずだねぇ。……それで、村長が聞いたんだ。何をしに来たのかってね。そしたら、あの子は『ここで暮らしてみたいのです』って言ったんだ」

 

 人間の村で平穏に暮らすことを望む魔族はそれなりにいる。しかし、魔族は人間特有の感情を理解できない。そのため、人間との間に生じたすれ違いから、そういった魔族は短期間のうちに村を滅ぼすことになる。だからこそ、ネーニアが三十年間も人間と共に暮らしているという事実が、フリーレンには理解できなかった。

 

「村長は、何て答えたの?」

「もちろん断ったよ。魔族から恐ろしい目に遭わされたことがあるんだ。魔族を村に入れるわけにはいかないって、みんなの先頭に立ったんだ」

 

 老婆は苦笑した。今でこそネーニアを仲間だと思っているが、当時は老婆自身も村長の判断に異を唱えなかったということだ。人喰いの怪物である魔族を恐れるのは、当然である。

 

「でも、ネーニアちゃんは諦めなかったんだ」

「どういうこと?」

「村の中には入ってこなかったんだけどね。しばらく村外れに住み着いていたんだよ。森の近くで、木の下にぼんやりと座っていることが多かったかな」

 

 フリーレンは老婆の話を聞きながら考える。村に入ることを拒まれても立ち去らず、かといって力ずくで押し入ることもしない。大魔族ほどの力があるなら、村人たちの抵抗など問題にもならなかったはずだ。それなのに、なぜ村外れに留まり続けたのか。

 

「村を見張っていたの?」

「さあ、どうだったんだろうねえ。あたしたちには分からなかったよ」

 

 老婆は首を傾げた。

 

「ただ、村の外を通る人間を、じっと眺めていたんだ。畑仕事をする者や、街道を歩く旅人なんかをね。声をかけることもあったけど、何かをするわけでもなかった」

「……まるで、人間を観察しているようですね」

 

 フェルンが小さく呟いた。

 

「最初はみんな気味悪がっていたよ。でも、あの子は何もしなかった。近づくなと言えば近づいてこないし、追い払おうとしても抵抗しない。それで、そのうち誰も構わなくなったんだ」

「どのくらい続いたの?」

「そうさねえ。半年くらいだったと思うよ。でも、ある出来事があってから、ネーニアちゃんを受け入れる村人が増えたのさ」

 

 老婆はそこで一度言葉を切り、膝の上で組んだ手に視線を落とす。

 

「魔物の群れが村を襲ってきてね。狼みたいな大きな魔物が十匹以上も現れたんだ。男たちも必死に応戦したけど、どうにもならなかった。柵は壊される、家畜は逃げ出す、村の中にまで魔物が入ってきた。もう終わりだと思ったよ」

 

 老婆は膝の上で組んでいた手に力を込めた。やがて小さく息を吐くと、どこか感慨深げな様子で話を続けた。

 

「そしたらね、魔物たちが突然、黒い何かに捕まったんだ。まるで縄で縛られたみたいに身体を締めつけられて、そのまま宙に浮き上がったのさ」

 

 シュタルクが眉をひそめる。

 

「……黒い何かってなんなんだ?」

「どうだろうねぇ。地面から伸びてきたようにも見えたけど、あまりにも突然のことでね。それから、魔物たちは次々と地面へ叩きつけられて、あっという間に動かなくなっちまった。そしたら、その黒い何かの中心にネーニアちゃんがいたんだ」

「村を守ったのか、あいつ」

「本当に驚いたよ。あんなに小さな子が、あんな恐ろしい魔物を簡単に倒しちまうんだからさ。助かったって、あの時の安堵した思いはずっと覚えているよ」

 

 老婆の眼差しは優しげだった。あの魔族に今でも変わらずに感謝しているのだろう。

 

「それで、ネーニアちゃんが村長にもう一度聞いたんだ。『村を守る代わりに、ここに住んでも構いませんか』ってね」

 

 フリーレンは無言で老婆を見つめた。

 

「村長は、何て答えたの?」

「しばらく悩んでいたけどね。結局、村外れの空き家を使っていいってことになったんだ。ネーニアちゃんのことはまだ怖かったけど、助けられたのも事実だったからね」

 

 老婆は当時のことを思い返すように、ゆっくりと頷いた。魔族を村に迎え入れるなど、あの頃は誰も想像していなかっただろう。それでも、あの日の決断を後悔している様子は、今の老婆には少しもなかった。

 

「それからだよ。少しずつ、村が変わっていったのは」

 

 ネーニアは村の周囲に現れる魔物を退治した。森へ入ったまま帰らない村人を探しに行った。病気の老人のために薬草を持ち帰り、村を襲おうとした盗賊団を追い払った。そんなことが、一度や二度ではなかったという。

 

「最初のうちはね、みんな警戒してたんだ。いつ恐ろしい魔族に豹変するか、気が気じゃなかった。でも、ネーニアちゃんは何年経っても変わらなかったんだ。困っている人がいれば助けてくれるし、頼み事をすれば、できる限り応えてくれる」

「何か見返りを要求されたことはなかったの?」

「みんなで食べ物を分けたり、あの子の家を直してあげたりはしたけどね。あの子は自分からは何も欲しがらなかったよ」

 

 フリーレンは考え込んだ。魔族が人間を利する行動をすること自体は珍しくない。人間を欺き、信頼させ、油断したところを襲う。そのためなら、何年でも善良な振る舞いを続ける魔族だっているだろう。だが、三十年は長すぎるのだ。村人からの信頼を得るにせよ、油断させるにせよ、掛けた時間が釣り合わない。それだけの時間を費やしながら、村に明確な被害を与えていないというのは妙だ。

 

「ネーニアちゃんもね、少しずつ成長しているのさ。村に来たばかりの頃は全く笑わなかったし、子どもが泣いていても、どうしたらいいのか分からないのか、その場でずっと佇んでいたりもしたくらいなのにね」

「今は違うの?」

「今は随分と人付き合いが上手になったね」

 

 老婆は昔のネーニアの姿を思い返しているのか、口元をほころばせた。

 

「誰かが困っていれば声をかけるし、悲しんでいる人がいれば慰めてくれる。あの子なりに、人との付き合い方を覚えたんだろうねえ」

 

 今でこそ村の誰からも親しまれているが、初めの頃は、何気ない会話でさえうまくいかないことが多かったのだろう。そんな不器用な魔族の少女に手を焼いた日々も、今となっては老婆にとっての懐かしい思い出なのだ。

 

「昔はちょくちょく、あの子を叱ったこともあったんだけどねぇ」

「何があったの?」

「それがねえ……」

 

 老婆は続きを話そうとしたが、顎に指を当てて、しばらく何かを考え込む。何かを思い出しかけたのか、一度は口を開いたものの、結局、言葉にはならなかった。やがて小さく息を吐き、諦めたように肩を落とす。

 

「うーん、あの子が何度も謝ってきたような気もするんだけど」

「謝っていた?」

「そうだったと思うよ。でも、何を謝っていたのかが、どうしても思い出せないんだ。まあ、記憶に残らないなら、大したことじゃなかったんだろうさ」

 

 老婆はなおも記憶を探っていたようだったが、結局は思い出せなかったらしい。

 

「嫌だねえ、歳を取ると。昨日の夕飯だって忘れちまうんだから、昔の喧嘩なんて覚えていなくても仕方がないか」

 

 そう言って笑う老婆の表情を、フリーレンは眺めていた。年老いた人間の記憶が曖昧になっていたとしても、不思議ではない。少しだけ気にはなったが、フリーレンはそれ以上、その話で老婆を問い詰めることはしなかった。

 黙って聞いていたフェルンが小さく息を吐く。

 

「……長い年月をかけて、村に馴染んでいったのですね」

「そうさね。今じゃ、すっかり村の一員だよ」

 

 老婆は、どこか誇らしげに胸を張った。かつて村中から恐れられていた少女が、今では誰からも親しまれている。長年、その変化を見守ってきたことが嬉しいのだろう。

 

「ネーニアちゃんがいなかったら、この村はとっくに無くなっていたかもしれない。だから、あたしたちはあの子に感謝してるんだ」

 

 老婆の言葉は、昨日の露店の男と変わらなかった。ネーニアは村を守っており、村人たちはそのことを心から感謝している。どうやら、それだけは間違いないらしい。しかし、だからといって、あの魔族が危険でないことにはならない。むしろ、分からないことが増えただけだった。

 

「……ありがとう。参考になったよ」

 

 フリーレンは立ち上がった。

 

「あら、もう帰るのかい?」

「うん。もう少し、村を見て回ろうと思って」

「そうかい」

 

 老婆は少し考え込んでから、思い出したように手を叩いた。

 

「ああ、そうだ。ネーニアちゃんに会いたいなら、この時間は村外れの墓地に行ってみなさい」

 

 フリーレンは思わず老婆を見返した。人間の村で暮らす魔族が、墓地に何の用事があるというのか。思いがけない行き先に、フリーレンは小さな疑問を抱いた。

 

「墓地?」

「ああ。あの子、よく花を供えに行くんだよ。昔からの習慣でね」

 

 老婆は窓の外へ目を向けた。

 

「亡くなった村人たちの墓を、一つずつ回ってくれるんだ。あたしの亭主の墓にも、よく花を供えてくれてるよ」

 

 フリーレンは、わずかに目を見開いた。魔族には、人間のように死者を悼む慣習がない。そもそも魔族は、他者の悲しみや痛みを理解することができないのだ。死者を偲び、墓に花を供えるという行為は、彼らの習性からはかけ離れている。

 

「……魔族が死者を弔うの?」

「ああ。変わった子だろう?」

 

 老婆は何でもないことのように笑った。その表情には、魔族が人間の墓に花を供えることへの疑問など、少しも浮かんでいない。目の前の老婆にとっては、ネーニアは三十年間を共に過ごしてきた大切な村の一員なのだ。

 

「……そうだね。随分と変わっているみたいだ」

 

 フリーレンが曖昧に答えると、老婆は満足そうに頷いた。ネーニアが普通の魔族とは違うことなど、村人たちも十分に承知しているのだろう。その違いを恐れたり、不気味に思ったりしている様子はない。

 結局、老婆の話からネーニアの行動の真意を知ることはできなかった。人間の振る舞いを模倣しているのだとしても、なぜ三十年もの歳月を費やし、村人たちとの暮らしを続けているのか。

 

 だが、その理由が善意によるものでないことだけは、フリーレンには分かっていた。

 




お気に入り、感想、評価等していただいた方、ありがとうございます。励みになります。頑張ります。

こちらで、更新予定や本編に使用しないイラストを公開できたらな、と考えています。興味のある方向けに参考まで。
https://x.com/mijan6gek
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