葬送のフリーレン〜名もなき故郷の哀歌〜 作:みかん色の夕焼け
フリーレンたちが村の入り口まで到達したときには、ネーニアはすでに上空で竜の群れと戦闘を開始していた。
十数匹の飛竜が、少女を取り囲むように旋回している。鋭い牙を剥き出しにした一匹が耳障りな咆哮を上げて、魔族へと襲いかかる。ネーニアは動じなかった。人間の魔法使いとは違い、杖を持つこともなく、その魔族はただ静かに右手を上空に掲げている。
「────
その詠唱とともに、眼下の地面から黒い何かが噴き出すように立ち上がる。家々の軒下、雲に遮られた日陰、森の木々が地面に落とす暗がり。陽光によって生じていた無数の影が、一斉に蠢き始めた。
「ッ、一体、何が起きて!?」
フェルンが驚愕して、周囲を見回す。
地面に落ちていた影が、幾重にも枝分かれしながら空へ伸びていく。一本一本は細くとも、その数は数えきれない。やがて幾つもの影が絡み合い、巨大な黒い幕となって村の上空を凄まじい速度で覆い尽くす。
そして、陽光が遮られた場所には、新たな影が生まれ、そこからも黒い塊が立ち上がる。影が影を生み、生まれた影が爆発的に広がっていく。まるで、暗闇そのものが増殖しているかのようだった。
昼と夜が逆転する。
つい先ほどまで青空が広がっていたというのに、まるで日食のように村の周囲が漆黒へと落ちていく。石造りの家々から色が失われ、街道も広場も薄暗い闇の中へ沈む。まだ昼前だというのに、一帯には完全な夜が訪れていた。
「……何、これ……」
フェルンが空を見上げた。村の上空に光は見当たらなかった。黒い天蓋が天空を覆い、その縁から無数の影が垂れ下がっている。一方で、地平に見える山々には、先ほどまでと変わらない青空が広がっていた。まるで、世界の一部だけが太陽の元から切り離されたかのようだった。
十数匹の飛竜が、一斉に鳴き声を上げた。異変を察知したのだろう。群れは四方へ散開し、黒い幕の外へ逃れようとする。しかし、もう遅かった。
上空へ逃れようとした個体は、頭上に広がる漆黒の天蓋に進路を塞がれた。左右へ飛ぼうとした竜も、空から幾重もの黒い触手のようなものが垂れ下がって行く手を遮っている。そして、地面には、村や森から立ち上がった無数の影の塊が待ち構えていた。
どこへ飛んでも、影が追いかけてくる。逃げようとするほど、さらに多くの漆黒がその進路を遮り、逃げ場を狭めてくる。いつの間にか、飛竜たちは巨大な暗闇の内側へ閉じ込められていた。
「……逃げ道を、塞いだのでしょうか?」
フェルンが尋ねる。
「そうみたいだね」
フリーレンは空を見上げたまま答えた。
「あれだけの範囲を覆えば、どの方向へ逃げても影が届く。最初から、一匹も逃がすつもりがないんだろう。あの竜の習性を考えれば、妥当な対処方法だ」
その言葉を裏づけるように、影が生き物のように一斉に飛竜へ襲いかかった。瞬きの間に翼に絡みつき、四肢を捕らえ、尾を締め上げる。
飛竜たちは激しく暴れた。大きな翼が空気を打ち、村の屋根を揺らすほどの風が巻き起こる。強靱な筋肉を使い、影を振りほどこうとしながら、必死に高度を保とうとしていた。
しかし、影の拘束はびくともしなかった。飛竜たちは力強く翼を羽ばたかせ、全身の筋肉を使って上昇しようとする。だが、どれほど抵抗しても高度が上がらない。それどころか、影に引かれ、徐々に地面へと引きずり下ろされていく。
全ての飛竜を拘束し終えると、ネーニアが掲げていた手を静かに下ろした。
次の瞬間には、十数匹の飛竜が地面へと叩き落とされる。抵抗することさえ許さない、凄まじい力だった。
しかし、村に落下音が響くことはなかった。落下地点に広がっていた漆黒の塊が、その巨体を受け止めると同時に、内部へ引きずり込んだからだ。
翼が沈み、尾が消え、強靱な鱗に覆われた胴体と頭までもが、黒い水面のような影の中へ沈んでいく。
竜たちは最後まで抵抗していたが、全身が影に引きずりこまれると、静かになった。代わりに影の中からは、肉と骨が引き裂かれる、重く湿った音が鳴り響く。そして、竜の気配が一つ、また一つと途絶えていった。
「まあ、こんなものでしょう」
ネーニアがそう呟くと、村の上空を覆っていた漆黒の天蓋が砕け散った。無数の黒い触手や塊が元いた影へ戻っていく。日光を遮っていた幕が消えたことで、増殖し続けていた影もまた消えていた。
陽光が村へ差し込み、石造りの家々を再び照らし出す。つい先ほどまで夜のような暗闇に包まれていたというのに、そこには普段と変わらない昼の景色が広がっていた。
「……こんな、の、無茶苦茶、です」
フェルンは杖を握ったまま、空中で立ち尽くしていた。
一体、何を見せられたのだろう。あれだけの飛竜が、瞬く間に絶命させられた。竜たちは必死に抵抗していた。翼を羽ばたかせ、身体を捻り、拘束を振りほどこうとしていた。それでも、まるで歯が立たなかった。
飛竜という魔物が、どれほど強靱な肉体を持つのか、フェルンも知っている。魔法への耐性が高い鱗に覆われ、翼を使って大空を飛び回る。並の魔法使いなら、一匹を相手にするだけでも苦戦しかねない相手だ。その群れがまるで、抵抗する力を持たない小動物のように為す術もなく葬られた。
寒気を覚えながら、フェルンは声を絞り出す。
「……フリーレン様。今のは一体、どういった魔法なのでしょうか」
「
フリーレンは、影が戻った地面を見つめていた。
「ただ動かしているだけじゃない。影に質量を与えて、物質化しているんだと思う。だから、相手を捕まえたり、力を加えたりすることができる」
「影を、物質化する……?」
「本来、影には質量なんてない。でも、あいつは影そのものに実体を与えて操っている。おまけに、周囲の影をつなぎ合わせることで、巨大な天蓋まで作ることもできるらしい。現代の人類が扱う魔法での再現は不可能だ」
フリーレンは、先ほどまで黒い幕に覆われていた空を見上げた。そこには、今はもう明るい青空がどこまでも広がっている。
「日光を遮ることで新しい影を作り、それも操っていた。あれだけの範囲を覆えたのは、そのためだろうね」
「……本来なら魔法に強い耐性があるはずの、竜の身体を引き千切っていました。シュタルク様でも素手で竜を引き裂くなんて出来ません」
「うん、捕まれば一巻の終わりだ。あれは単なる拘束魔法じゃない。捕まえた相手をその場でそのまま殺せる魔法だ」
フリーレンの視線が、先ほど竜たちが呑み込まれた場所へ向けられる。
竜の鱗を突破するには、その魔法耐性を突破できるだけの高威力の魔法を用いるか、一流の戦士による物理的な攻撃を叩き込む必要がある。
だが、ネーニアは魔法で竜を捕らえ、その巨体を力ずくで地面へ引き摺り下ろし、強靱な肉体をそのまま引き裂いた。あの影は物理攻撃に優れた特性があるのだろう。つまり、ネーニアの魔法は現代の魔法戦に対応できるということになる。
「……あれが、大魔族の魔法なのですね」
フェルンがぼんやりと呟いた。
これまで魔法使いとして積み重ねてきた修練の延長線上に、存在しないであろう魔法。単純な魔力量の差ではなかった。魔法というものに対する理解そのものが、違う。人類が積み重ねてきた魔法の体系から、遥か遠く隔たった場所に存在する力だ。
「そうだね。でも、七崩賢の魔法に比べれば、まだマシな方だよ。少なくとも、何をしているのかは分かるからね。直接的である分、対処のしようはある」
フェルンはすぐに返答ができなかった。七崩賢の魔法がいかに超常のものであるかは聞いている。だが、あれほどの光景を目の当たりにした直後では、師の言葉でさえ素直に受け入れることができそうもない。
上空では、ネーニアが村を見下ろしている。あれだけの大魔法を行使しながら、疲労した様子は見られない。ネーニアは、村の周囲に魔物の気配がないかを確認してから、ゆっくりと地面に向かって高度を下げ始めていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「ネーニアちゃん!」
村の入り口へ戻ってきたネーニアに、何人もの村人が駆け寄ってきた。
「助かった、本当にありがとう!」
「あんなにたくさんの竜が来たときは、もう駄目かと思ったよ!」
「怪我してないかい? ネーニアちゃんが強いのは知ってるけど、無茶したらダメだぞ」
人々が口々に礼を述べる中、ネーニアは彼らの顔を順番に瞳に映していく。安堵した表情、緩んだ口元、普段よりも少しばかり高い声。いずれも好意的な反応だった。
「皆さんがご無事で何よりです」
ネーニアは小さく微笑んだ。村人たちはその言葉に安堵したように頷き、口々に労いの言葉をかける。魔物の襲撃があった直後でも、いつもと変わらない様子の魔族の少女、そんな姿に村人たちの表情も自然と和らいでいく。
「ネーニア姉ちゃーん!」
人垣の向こうから元気な声が響いたのは、そんな時だった。ネーニアが振り返るよりも早く、小さな影が少女の背中に飛びついてくる。
「……おや?」
「すっげー! さっきの魔法、ネーニア姉ちゃんがやったんだろ!?」
「お空が真っ暗になった!」
「竜は!? 竜はどこ行ったの!?」
気づけば、ネーニアは三、四人の子どもたちに囲まれていた。背中にしがみつく男の子がいれば、袖を引っ張る女の子もいる。別の子どもは少女の衣服の裾を掴み、潤んだ瞳でしきりに何かを訴えていた。次々と畳みかける幼子たちの猛攻に、ネーニアの視線が困惑したように泳いでいる。
「皆さん、少しお待ちください。一度にお話しされても、何が何だか……」
「ねえねえ、もう一回魔法やってよ!」
「そうだ! もう一回!」
「竜も出してー!」
「申し訳ありませんが、竜はもういません。魔法も、今日はもうおしまいです」
「「「えーっ!」」」
子どもたちが揃って不満の声を上げた。すると、背中にしがみついていた男の子が今度はネーニアの肩に手をかけ、ぐいぐいと身体をよじ登ろうとする。
「こらっ、降りなさい! ネーニアちゃんが困ってるでしょ!」
「いいえ、大丈夫ですよ」
母親らしい女性が慌てて叱りつけるが、ネーニアは穏やかに返答する。女性へ安心させるように小さく笑みを浮かべてから、背中によじ登ろうとしている男の子へと顔を向ける。
「背中に登るのは危ないのでやめてくださいね」
「えー……じゃあ、肩車してくれたら止めよっかな」
「肩車ですか?」
「うん!」
この村の子どもたちは、いつもこうだった。一度何かを思いつくと、こちらの都合などお構いなしに頼み込んでくる。ネーニアは少し考えてから、小さく頷いた。
「分かりました。ですが、一人ずつでお願いします」
「やったー!」
ネーニアはその場にしゃがみ、男の子を肩に乗せて、また立ち上がる。
「わあっ! 高……くない! ネーニア姉ちゃん、チビだからなぁ!」
男の子が失礼な歓声を上げる。そのとおりで、小柄なネーニアの肩に乗ったところで、周囲の大人たちを見下ろせるほどの高さにはならないのだ。それでも男の子は満足そうに笑い、両手でネーニアの角をがっしりと握りしめた。
「あまり強く引っ張らないでくださいね」
「はーい!」
元気な返事とは裏腹に、男の子は角を握ったまま、楽しそうに身体を揺らしている。
「それから、あまり動かないでいただけると助かるのですが……」
「ネーニア姉ちゃん、あっち! あっち行って!」
「はい、構いません。ですが、あまり角を引っ張られると……」
男の子が右へ左へと身体を揺らす。そのたびに、握られた角に引っ張られ、ネーニアの頭もぐらぐらと左右に振られた。
「……あの、少しお待ちください」
「今度はあっち!」
「分かりましたから、角はもう少し優しく……」
言い終わるより早く、また反対側へぐいっと引っ張られる。ネーニアは子どもの両脚をしっかり支えながら、されるがままに、ふらふらと歩き回っていた。
その様子を見ていたほかの子どもたちも、黙ってはいられなかったらしい。ネーニアの周囲に駆け寄ると、負けじと声を上げ始めた。
「ずるい、次はぼく」
「わたしも乗りたい!」
女の子がネーニアの袖を引っ張り、もう一人の男の子も反対側から服の裾を掴んでいる。頭上からは行き先を指図する声、足元からは順番をせがむ声が飛んでくる。右を向けば左から呼ばれ、左を向けば今度は頭上から急かされる。ネーニアは誰の相手からすればよいのか、分からない様子だった。
「えっと、分かりました。では、順番に……」
「もっとあっち行こうよー」
言い終えるより早く、頭上の男の子が角をぐいっと引っ張った。
「……っ」
ネーニアの頭が横へ傾く。冷静に体勢を整えたところで、今度は袖を引っ張られた。
「ねえ、次はわたしだよね?」
「はい。ですが、まずはこの方に降りていただかないと……」
「やだ! まだ乗ってる!」
「……困りましたね。どうするのが正解なのでしょうか」
ネーニアは肩車をしている子どもの両脚を支えたまま、しばらくその場で立ち尽くしていた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「……あいつ、本当にさっきまでの魔族なんだよな?」
少し離れた場所から、シュタルクはその光景を眺めていた。
つい先ほどまで、十数匹の飛竜を葬り去っていた魔族が、今は人間の子どもたちに取り囲まれ、右へ左へと振り回されていた。
たまに、子どもたちの歓声に混じって、ネーニアの困り果てたような声が聞こえてくる。シュタルクはすっかり毒気を抜かれていた。
「……そうですね。あれほど恐ろしい魔法を使う魔族が、ただの子どもたちにあんな扱いをされているなんて、ちょっと驚きです」
隣にいたフェルンも、何とも言えない表情を浮かべていた。
「だよな。しかも、全然怒らねえし」
「むしろ、困っているようですね」
二人の視線の先では、ネーニアが子どもたちに囲まれたまま、何やら話をしている。どうやら、角を強く掴まないようにしてほしいことと、順番に話しかけてほしいことを、律儀にお願いしているらしい。
「……フリーレン様は、どう思われますか?」
フェルンが振り返ると、フリーレンも気の抜けた表情でその光景を眺めていた。
「変な魔族だね。三十年間も人間と暮らしているなんて、何か企んでいるのは間違いないんだけど……」
そこまで言って、フリーレンは口をつぐんだ。ネーニアが肩車をしている子どもに角を引っ張られ、また頭をぐらぐらと揺らされている。
「……何なんだろうね、あいつ」
「フリーレン様にも、分からないのですか?」
「うん、分からない。初めて見るタイプだ」
フリーレンはあっさりと答えた。その様子に、シュタルクは頭を掻いた。
「なあ、フリーレン。結局のところ、俺たちはどうしたらいいんだ?」
「……そうだね」
フリーレンはもう一度、ネーニアへ目を向けた。子どもたちにせがまれて、小さな影の塊を人形のようにして操っている。結局、魔法を見せることにしたらしい。今のうちに、あの魔法を解析しておけば、次に戦うときに有利に働くだろう。しかし、子供をあやしている魔族に対しては、どうにもやる気が出なかった。
周囲の大人たちは、そんなネーニアの姿を心配そうに見守ったり、子供たちの笑顔に合わせて微笑んだりしていた。
「……今日はやめておこうか。あいつをどうするかは、明日以降に考えよう」
フリーレンの結論に、シュタルクとフェルンが顔を見合わせた。魔族についての問題を、フリーレンが先送りにすることは珍しいからだ。
「いいのかよ?」
「どのみち、あの雰囲気のなかで、ネーニアを討伐するのは厳しいんじゃない?」
フリーレンは、少し困ったように答えた。子どもたちに取り囲まれ、村人たちから感謝されている魔族を、今この場で討伐しようとすれば、どうなるか。村人たちが黙って見ているとは思えなかった。村が竜に襲撃される原因を作ったことも相まって、そんなことをすれば、完全にこちらが悪者である。
「それに、あいつの魔法も見れたことだし、戦うなら作戦くらいは用意しておきたいかな」
「……そうですね。いくらなんでも、無策で戦うのは危険だと思います」
フェルンは小さく頷いた。先ほどの漆黒の天蓋が、脳裏に浮かぶ。村の上空を覆い尽くし、十数匹の飛竜を一方的に殲滅した魔法。あんなものを使う相手に、何の対策もなく挑むわけにはいかない。
「それに、あいつがどうして三十年間もここにいるのか、まだ聞いてないからね。どうしようかと思ったけど、あの様子なら村の中で話しかける分には戦闘にはならなさそうだ」
「それでは、今日は一度、宿に戻るのですか?」
「うん、そうしよう。ついでに、帰り道で買い出しを済ませておくのもいいかもね」
「はあ……なんか、どっと疲れたぜ」
シュタルクが肩を落とした。つい先ほどまで、恐ろしい大魔族との戦いを覚悟していたというのに、結局、その魔族が子どもたちに振り回される姿を眺めている。何とも調子の狂う一日だった。
「……あ、また引っ張られてるぞ」
シュタルクの呟きにつられ、フェルンが振り返った。いつの間にか影の人形遊びは終わったらしい。ネーニアは今度は別の子どもを肩車しながら、またしても角をぐいぐいと左右に引っ張られていた。
「本当に、さっきまでの魔族と同じ個体なのでしょうか?」
「……わかんない」
フリーレンは目を細め、口元をへにゃりと緩ませていた。呆れているのか、笑っているのか、何とも気の抜けた表情だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
人間は、死者に花を手向ける。
それは、ネーニアが長年の観察によって知った、人間の習慣のうちの一つだった。花を供えたところで、死者が生き返るわけではないし、喜ぶわけでもないだろう。それなのに、人間は何年も前に亡くなった者の墓を訪れ、花を供える。
最初は理解できなかったし、今もあまり理解できているわけではない。だが、観察を重ねるうちに、いくつかの傾向が見えてきた。
人間は、死者が忘れられることを嫌うのだろう。墓が荒れていれば不快感を示し、花が供えられていれば安心したような表情を浮かべる。墓前で泣く者もいれば、笑う者もいる。その反応は一定ではない。しかし、少なくとも、献花という行為そのものは、多くの人間から好意的に受け取られるらしい。
だから、自分は花を供えるのだ。死者を悼むためではない。ただ、村人たちが喜ぶことを知っているから。
ネーニアは墓石の前に膝をつき、籠から野花を取り出した。
先ほど現れた飛竜の群れは、すべて退治した。魔法をフリーレンたちに見られたのは痛手だったが、仕方がない。村が失われてしまえば、元も子もないのだ。幸いなことに、村人にも家屋にも被害はまったく出なかった。
「ああ、そういえば、あの方々から得た知識を書き留めておかなければなりませんね。興味深い内容でした」
死者への執着が、死者を弔う感情に通じている。あの三人との会話で、人間の感情について少し理解が進んだ気がした。これで、自らの『願い』にまた一歩近づけたはずだと、ネーニアは少しだけ喜びを感じていた。
ネーニアは墓石の落ち葉を払い、整えた野花を供える。それから、流れるように次の墓へ移動した。
「……ネーニアちゃん?」
背後から声がした。振り返ると、年老いた女性が坂道を上ってきていた。それは昨日、フリーレンたちから手紙を受け取った老婆だった。
「こんにちは」
「ああ、やっぱりここにいたんだねぇ。さっきは大変だったろう?」
「飛竜のことでしょうか?」
「ああ。あんなにたくさんの魔物が来たのは久しぶりだったからねえ。本当に、あんたがいてくれて助かったよ」
「お役に立てたなら、何よりです」
ネーニアが微笑むと、老婆も安心したように頷いた。
「あら、今日もお花を供えてくれているのかい?」
「はい」
「いつもありがとうねぇ。うちの爺さんも、きっと喜んでいるよ」
老婆は夫の墓を見つめ、懐かしそうに笑った。
「あんたは優しい子だ。何年経っても、忘れずにこうして花を供えてくれるんだから」
「ご主人には村に来たばかりの頃に、テーブルや椅子を作っていただきました。家具の修理も教えてくださいましたよね」
「ああ、そうだった、そうだった。覚えていてくれたんだね」
老婆は嬉しそうに頷いた。そして、二人でしばらく男性の墓石を見つめていたが、やがて老婆がぽつりと呟いた。
「……あたしたちはね、子どもに恵まれなかったでしょ?」
寂しげな声にネーニアは黙って耳を傾けた。
「だから、あたしが死んだあとも、ネーニアちゃんはあの人のことを覚えていてあげておくれよ。この先、あの人を知っている人間も、少しずついなくなっちまうだろうからねえ」
死後に誰かの記憶へ残ることが、本人にとってどのような意味を持つのか。ネーニアには分からない。しかし、老婆の望んでいる答えにはすぐに思い至った。
「分かりました。ご主人のことも、あなたのことも、ずっと覚えています。決して忘れません」
老婆は少し驚いたように目を見開いた。それから、皺の刻まれた顔を綻ばせる。
「……ありがとうねえ、ネーニアちゃん。本当に、ありがとう」
老婆はそっと手を伸ばし、二本の角を避けながら、ネーニアの頭を撫でた。それが親愛や感謝を示す行為だということは知っている。ネーニアは動かず、その手を受け入れていた。しばらくそうしていたが、やがて手がそっと離れていく。
「それじゃあ、あたしはもう少し、爺さんと話しているよ。またね、ネーニアちゃん」
「はい。またお会いしましょう」
ネーニアは小さく頭を下げ、その場を離れた。背後では、老婆が夫の墓石へ何かを語りかけている。死者から返事があるはずはない。それでも、老婆にとっては意味のある行為なのだろう。
ネーニアは籠の中を覗き込んだ。残っていた野花は、あと一束だけだった。最後の花を供えるため、墓地の一番奥へ向かう。
そこには、三十年前、ネーニアが村へ来た頃に村長を務めていた男の墓があった。
当初、彼は魔族である彼女を村へ入れることに反対していた。しかし、ネーニアが村を襲った魔物を退治すると、態度を改め、村人たちにも彼女を受け入れるよう働きかけた。まだ頑強に反対する人間も少なくなかった中、誰よりも真っすぐな眼差しで、村中を説得して回っていたのを覚えている。
そして、ネーニアを受け入れてから十年ほどが経ち、その男が亡くなったとき、村人たちは泣いていた。人間たちにとって、立派な人物だったのだろう。しかし、後任がすぐに選ばれて、村の暮らしは変わらず続いた。
村は彼の死によって、運営に支障を生じさせることはなかった。それなのに、人々は長い間、男の死を悲しんでいた。そのことが、ネーニアにはやはり理解できなかった。
ネーニアは墓石の落ち葉を払い、最後の野花を供えた。男が亡くなってから、長い年月が経っている。かつて彼を知っていた村人たちも、ほとんどがこの世を去った。彼もまた子供がおらず、今ではこの墓を訪れる者も滅多にいない。それでも、ネーニアは毎週、この墓に欠かさず花を供えている。
「……あなたのことも、忘れてはいませんよ」
これまでそうしてきたから、今日もそうした。それ以上の理由はない。自分の中でそう結論づけて、ネーニアは墓石に背を向けた。
丘の下には、村の家々が並んでいる。煙突から煙が上がり、広場からは人々の声が聞こえてきた。
ネーニアは、空になった籠を抱え直した。明日もまた、花を摘みに来るつもりだった。
もう喜ぶ人間のいないはずの墓にまで花を供え続ける。そんな自らの行動の矛盾にすら、気づかないままに。
『影を支配する魔法(ラヴェンファーデン)』
ネーニアが操る固有魔法。周囲に存在する影を自在に操り、質量と実体を与えることで、敵への拘束や攻撃、防御などに利用する。複数の影を結合して巨大な構造物を形成することも可能。光を遮ることで自ら新たな影を生み出し、支配領域を拡大できる。
広範囲の制圧に優れ、実体化した影による強力な物理攻撃が可能な、攻防一体の魔法。