葬送のフリーレン〜名もなき故郷の哀歌〜 作:みかん色の夕焼け
人間たちの領域である北国諸国。
そこに広がる深い森の奥には、古い石造りの城が建っていた。かつては人間の貴族が暮らしていたのだろう。苔むした城壁には蔦が絡みつき、長らく手入れされていない庭園には雑草が生い茂っている。しかし、城内は不思議なほど整然としていた。今もなお、主が健在であるかのように、城はその威容を誇っている。
城の最奥には、広々とした謁見の間があった。高い天井からはきらびやかなシャンデリアが吊り下がり、奥にはかつての城主が使用していたであろう玉座が据えられている。
その日、そんな玉座の前に、一人の小柄な魔族が通されていた。
「……ふざけた話ですね」
怒りを押し殺した声が、謁見の間に響いた。
声の主は、玉座の傍らに控えていた長身の魔族だった。整えられた長い髪に、冷ややかな眼差し。首切り役人の筆頭、リュグナーである。彼は目の前に立つ小柄な少女を見下ろし、不快そうに眉をひそめていた。言葉遣いこそ丁寧だったが、その声には隠しきれない苛立ちが滲んでいる。
「アウラ様が直々に招待なさったというのに、本人は姿すら見せないとは、これほどの無礼はありません」
「どうどう、落ち着いて」
「あなたも主のために少しは怒りなさい。それでも、首切り役人の一人ですか、リーニエ」
リーニエは答えず、手に持っていたりんごをもう一口かじった。リュグナーはますます不機嫌そうに眉をひそめるが、少女は気にする様子もない。
そんな二人のやり取りを、謁見の間に通された小柄な魔族、ネーニアは静かに眺めていた。リュグナーの苛立ちを意に介することもなく、彼女は小さく頭を下げた。
「申し訳ございません。主は所用により参上できなくなりました。代わりにこちらを、アウラ様へお渡しするよう申しつかっております」
そう言って、一通の書状を差し出す。
「所用、ですか。随分と都合のよい言い訳ですね。我々の領地を通過するなら、顔を見せるようにというのが、こちらからの要望であったはずですが?」
「はい。ですので、私が代理として来た次第です。我が主君の無礼をお詫び申し上げます。責めは私が何なりと引き受けましょう」
ネーニアは丁寧に頭を下げた。
しかし、その態度がかえって気に障ったのか、リュグナーは不快そうに眉をひそめた。非礼を認めているというのに、この小柄な魔族には少しも悪びれた様子がない。他人の不始末を事務的に処理しているに過ぎないのだろう。
リュグナーが何か言い返そうとした、そのときだった。
「ふふっ……」
玉座の方から、小さな笑い声が聞こえてきた。
「もういいわ、リュグナー。書状を持ってきたなら、それで十分じゃない」
「しかし、アウラ様」
「あいつが礼儀なんてものを知っているわけないでしょう。今さらよ、今さら」
部屋の最奥、かつて城主が腰掛けていたであろう玉座には、桃色の髪をした魔族が座っていた。この城を、そしてこの地を支配する者。魔王直下の大魔族にして、七崩賢が一人。断頭台のアウラである。
アウラは面白そうにネーニアを眺めると、片手を差し出した。リュグナーがネーニアから書状を受け取り、恭しく主君へ渡す。アウラは封を切り、手紙に目を通した。
「……相変わらず、つまらないことばかり書いているわね」
さっさと読み終えた書状を傍らへ放り投げると、アウラは改めてネーニアへ視線を向けた。
「それで、あなたがネーニア?」
「はい。お初にお目にかかります、アウラ様」
ネーニアは小さく頭を下げた。
「ふうん……」
アウラは興味深そうに目を細める。白い二本の角に、華奢な身体。顔立ちは幼さを残し、左右の淡い金色の瞳が、こちらを静かに見つめ返している。
「小さいわね。もっとおぞましい姿を想像していたわ」
「そうなのですか」
「ええ。だって、あいつの側近の筆頭なんでしょう? 主君の手足となって、人間どもを殺しては、その返り血を浴び続ける便利な道具たち。あなた達の通称は『執行人形』だったかしら?」
「はい、そのように呼ばれております」
「……あのクズに甲斐甲斐しく仕えるなんて、物好きねぇ」
アウラは呆れたように笑った。
「卑怯者で、無意味な殺戮と蹂躙を繰り返す。挙げ句に同族殺しにまで手を出した。それゆえに、人間どころか、魔族からも目の敵にされている愚か者」
ネーニアは黙って話を聞いていた。その評価は、特に珍しいものではなかったからだ。
魔族は魔法に誇りを持つ。たとえ、相手が人間であっても、魔法使いであるならば、その魔法と正面から競い合うことを望む魔族は少なくない。相手の術式を見極め、自らの魔法によって打ち破る。それが魔法使いとして積み重ねてきた研鑽の成果であり、自らの力量と誇りを示すことにも繋がるからだ。
「ねえ、ネーニア。あなたも魔法使いなら分かるでしょう? 相手がどんな魔法を使うのか、それをどう打ち破るのか。そういう駆け引きこそ、魔法使い同士の戦いの醍醐味じゃない」
「はい。私もそのように考えております」
「でしょう? たとえ負けたとしても、相手の魔法が自分のものより優れていたのなら、私たち魔族はその敗北にまだ納得のしようがあるわ」
だが、あの男は違う。相手がどれほど優れた魔法使いであろうと、その研鑽も、誇りも、何もかもを踏みにじる。魔法使いとしての勝負そのものを冒涜する、卑劣極まりない戦い方を平然とした顔でやってのける。
七崩賢に迫る能力を持つ大魔族でありながら、魔法使いの風上にも置けぬ魔族の面汚し。その行いゆえに、あの男は同族である魔族たちから、蛇蝎のごとく忌み嫌われていた。
曰く、『失墜のフェルスト』は、見下げ果てた外道であると。
「魔法使いとしての誇りはないくせに、悪趣味な見世物のような殺しをすることだけは一人前。品性の欠片もないわ」
「そうですね」
「あら、否定しないの?」
「おっしゃることは理解できますので」
アウラは少しだけ目を丸くした。それから、愉快そうに笑い始めた。
「あははっ! 本当に変な子ね。自分の主君が悪く言われているのよ?」
「事実であれば否定する必要はないと思います」
「……ふうん」
アウラは玉座の肘掛けに頬杖をついた。主君を侮辱されても怒らず、庇うこともしない。自分が仕える相手を、まるで他人事のように評価している。妙な魔族だった。あの男が側近の筆頭に据えている以上、見た目どおりの小娘ではないのだろう。
アウラの口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「ねえ、ネーニア。どうしてあんな奴に仕えているの?」
「あの方が私より強いからです」
ネーニアは即答した。アウラの笑みが、わずかに深くなる。
「それだけ?」
「はい。私ではあの方に勝つことができません。逆らえば、きっと殺されるでしょう。ですので、従っております」
実に単純な理屈だった。主君の性格や行動への賛否はあれど、実力差によって成立した主従関係は尊重する。ネーニアの考え方は、実に魔族らしいものであった。
「……なるほどね」
アウラはゆっくりと玉座から立ち上がった。
「だったら、簡単な話じゃない」
コツ、コツ、と靴音が謁見の間に響く。リュグナーは黙って主君の動きを見守っている。先ほどまでりんごをかじっていたリーニエも、いつの間にか手を止めて、アウラの挙動を観察している。
魔族の少女は、ただ静かにその姿を瞳に映していた。やがて、アウラはネーニアのすぐ目の前で足を止める。
「私が殺してあげるわ、あの男を」
「……アウラ様が、ですか?」
「そうよ。あいつがいなくなれば、あなたも自由の身になれるでしょう? だから、」
アウラはネーニアへと少しだけ身を屈める。
「ネーニア、今この場で私の
妖艶な笑みが、間近に迫った。互いの吐息が触れそうな距離だった。ネーニアは、その顔を静かに見つめ返した。淡い金色の双眸には、怯えも動揺も浮かんでいない。
「……私を勧誘なさるのですか?」
「ええ。あなた、強そうだし、使えそうなんだもの。あんな奴のところに置いておくには惜しいわ」
「光栄です。ですが……」
「これはお願いじゃないの。聡いあなたなら、分かるでしょう?」
そこで、アウラの笑みが変わった。口元は笑っている。しかし、その瞳には、先ほどまでとは異なる冷たい光が宿っていた。アウラが片手を持ち上げる。そこには、いつの間にか古びた天秤が握られていた。
それは七崩賢の一人、断頭台のアウラを象徴する『服従の天秤』である。小さな金属音を立てて、左右の皿が揺れる。
「あまり私を怒らせないで頂戴」
その瞬間、謁見の間を凄まじい魔力が満たした。
空気が鉛のように重くなる。まるで深い水底へ引きずり込まれたかのような圧迫感に、リュグナーとリーニエは思わず後ずさった。
壁際に並んだ燭台の炎が一斉に揺れ、石造りの床が低い音を立てる。それは、骨が軋むほどの錯覚を覚える、絶大な魔力だった。アウラが数百年にわたって積み重ねてきた研鑽の果て。その圧力は並の魔族であれば、余波を受けるだけで屈伏させられるほどのものであった。
そして、魔力による威圧を真正面から浴びせられたネーニアは、その場から動かない。
「どうしたの? 怖くて声も出ないのかしら」
アウラが囁く。天秤が、もう一度揺れた。
「……お戯れを、アウラ様」
ネーニアの身体から、膨大な魔力が溢れ出したのは、その瞬間だった。
「……なっ!?」
リュグナーが息を呑む。先ほどまで謁見の間を支配していたアウラの魔力が、真正面から押し返されていく。
それと同時に、床に落ちていた影が静かに蠢き始めた。柱の陰、玉座の足元、燭台が壁に落とす暗がり。無数の影が、まるで生き物のように形を変えている。アウラはちらりと足元へ視線を落とした。そこでは、自分の影さえもが、わずかに揺らいでいる。
「……へえ」
アウラが目を細める。ネーニアは動かなかった。ただ静かに、途方もない量の魔力を放出し続ける。
大魔族同士の魔力が謁見の間で衝突した。アウラの魔力が押し寄せれば、ネーニアの魔力がそれを押し返す。互いに一歩も譲らず、拮抗した魔力の余波が広間を駆け抜けた。
燭台の炎が消え、二人の足元で石畳が小さく砕けた。
「アウラ様……ッ!」
リュグナーが思わず一歩踏み出した。しかし、アウラは片手でそれを制した。その視線は、ネーニアから決して離さない。
そして、少しだけ間を置いてから、アウラは口元を吊り上げ、天秤を持つ手をゆっくりと下ろした。
「ふふっ……あははっ!」
愉快そうな笑い声が、謁見の間に響く。
ほんの小手調べだった。互いに解放した魔力は、全体から見ればわずかなものに過ぎない。しかし、それだけで判断材料としては十分だった。この小娘は、自分に迫るほどの魔力量を秘めている。
本気で魔力を解放すれば、おそらく勝つのは自分だろう。アウラには、その自負があった。だが、天秤にかけたとき、確実に自分が勝ると断言できるほどの差はない。ならば、わざわざ危険を冒す必要もなかった。
「いいじゃない。あなた、思っていたよりずっと面白いわ」
「そうですか」
「ちょっと、この私が褒めているのよ。もっと嬉しそうにしなさいよ」
「ありがとうございます。光栄です」
アウラは満足そうに笑うと、ネーニアへ背を向けた。それから、何事もなかったかのように玉座へ戻っていく。
「今回は見逃してあげる。あの外道にも、よろしく伝えておきなさい」
「かしこまりました」
ネーニアが丁寧に頭を下げると、二人から溢れ出していた魔力が収まっていく。それが休戦の合図であったかのように、床や柱の影も元の形へと戻っていった。
謁見の間に、再び静寂が訪れる。
「それでは、私はこれにて失礼いたします」
ネーニアはもう一度、恭しく一礼した。
踵を返し、玉座から扉へと延びる長い絨毯の上を歩いていく。リュグナーの傍らを通り過ぎる際も、彼女の足取りに迷いはなかった。
リュグナーはその小さな背中を険しい表情で見送った。つい先ほどまで、主君と互角の魔力を放っていた少女。そのあまりにも無防備な振る舞いが、かえって不気味に思えた。
やがて、重厚な扉が閉じられる。ネーニアの姿が見えなくなっても、リュグナーはしばらく扉を睨みつけていた。
「……アウラ様。よろしいのですか。あのような者を、このまま帰してしまって」
「いいのよ。今回は見逃してあげるって言ったでしょう?」
アウラは玉座の肘掛けに頬杖をつき、楽しそうに微笑んだ。
あの小さな魔族が秘めていた、途方もない魔力量。自分と正面から対峙してなお、まるで怯む様子のなかった金色の双眸。思い返せば返すほど、興味が湧いてくる。
あれほどの力を持ちながら、よりにもよって、あの忌々しい男に従っているのだ。何とも、もったいない話ではないか。
「次に会ったときは、フェルストを殺すわ。そうすれば、ネーニアも大人しく私に従うでしょう」
「……アウラ様」
「ふふっ、楽しみね」
アウラは閉じられた謁見の間の扉へと視線を向けた。
それは、断頭台のアウラが勇者ヒンメルに敗北する、わずか二か月前のことだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
小鳥の鳴き声が聞こえ、ネーニアは、ゆっくりと目を開けた。
見慣れた木製の天井が、視界に映る。窓の外からは朝日が差し込み、薄いカーテンが風に揺れていた。
ナヒト村の外れに建つ、小さな家。その建物の中にあるベッドで、ネーニアは朝を迎えていた。
「……懐かしい夢を見ましたね」
ネーニアは寝台の上で身体を起こした。
断頭台のアウラ。かつて、森の古城で言葉を交わした大魔族。それなりに古い記憶だ。もう80年ほど前になる。
そういえば、あのときは随分と妙なことを尋ねられたものだ。なぜ、あの男に仕えているのか。答えなんて単純だ。自分よりも強かったからだ。殺戮も、虐殺も、蹂躙も、主君が望むのであれば、何のためらいもなく実行した。それだけのことだった。
ネーニアは寝台から降り、窓辺へ歩み寄った。窓を開けると、朝の涼しい風が頬を撫でる。窓からは、ナヒト村の家々が見えていた。広場の方から、人々の声が聞こえてくる。今日も、この村は平穏だった。
「……さて」
ネーニアは小さく呟いた。
薄手の白い寝間着の裾を揺らしながら、部屋の隅に置かれた木製のチェストへ向かう。さほど広くない部屋には、書棚に収まりきらない書類があちこちに積まれていた。テーブルの上にも、人間の慣習や感情についてまとめた書きかけの資料が無造作に広げられている。
ネーニアはそれらに目もくれず、チェストからいつもの衣服を取り出した。寝間着を脱ぎ、白を基調とした、金糸の刺繍が施された衣装へと着替える。それから、テーブルの上に置かれていた黒い眼帯を手に取った。
鏡の前に立ち、片方の瞳を覆うように眼帯をあてがう。後頭部で紐を結び、位置を確かめてから、乱れた灰褐色の髪を指先で整えた。
鏡に映るのは、記憶の中にいる両目を露わにした、かつての自分とは違う姿だった。片目を黒い眼帯で覆った、いつもの自分の姿がそこにはあった。
「今日は、何をしましょうか」
しばらく考えてから、窓の外へ目を向ける。そういえば、近いうちに祭りがあると言っていた。村の子どもたちから、何か手伝ってほしいと頼まれていたはずだ。
「……そうでしたね。今年は祭りの演劇に出てくれというお願いでしたか。演技というのは、なかなか難しいものと聞き及びます。上手くできるとよいのですが」
ネーニアは、それを思い出して小さく頷いた。あの頃とは、随分と違う暮らしになったものだ。
願わくば、この穏やかな暮らしがいつまでも続くように。魔族の少女は、受け取ってくれる相手のいない祈りを胸のなかで捧げた。
窓の外では、今日も人間たちが、いつもと変わらない朝を迎えていた。
『失墜のフェルスト』
七崩賢に迫る能力を有していたとされる大魔族。
魔法使いとしての勝負そのものを冒涜する、卑劣極まりない戦い方を平然とした顔でやってのける。魔法使いの風上にも置けないその行いは、同族である魔族からも忌み嫌われていた。
かつてはネーニアを右腕として従え、多くの惨劇を生み出していたが、80年程前から長らく消息を絶っている。