葬送のフリーレン〜名もなき故郷の哀歌〜 作:みかん色の夕焼け
広場を満たしていたざわめきが収まり、村人たちの視線が舞台へと集まっていく。
色とりどりの布で飾られた小さな舞台。松明の明かりに照らされながら、子どもたちがそれぞれの持ち場についている。観客の中には、自分の子どもを見つけて嬉しそうに手を振る親の姿もあった。
そんな中、舞台の中央に立った男の子が、大きく息を吸い込んだ。手には何枚かの紙を握りしめている。
「こほん、およそ八十年前のことです。この地方のとある場所には四つの村があり、人々は畑を耕し、家族と仲良く、平和に暮らしていました」
司会役の男の子が手元の紙に目を落としながら、物語を読み進めていく。
その隣では、村人役の子どもたちが木の枝をクワに見立て、畑を耕す真似をしていた。小さな籠を抱えて歩く女の子もいる。大人たちが温かな眼差しで見守る、微笑ましい劇だった。
「ところがある日を境にして、四つの村は忽然と姿を消してしまったのです」
子どもたちが、ばたばたと舞台の上に倒れ込んだ。
「とある冒険者が村を訪れたときに見つけたのは、誰もいなくなった家々と、土の下に埋められた村人たちでした。きっと、恐ろしい魔族の仕業に違いありません」
フリーレンは、舞台を眺めながら「ほぅ」と感心したように息を漏らした。四つの村が消えたこと、住民たちが埋葬されていたこと、そして、魔族の関与が疑われたこと。どれもこれも八十年前、自分たちが経験した事件と一致している。
「随分と設定が細かいですね」
「そうだね。八十年前の出来事が、伝承としてよく残されているみたいだ」
「しかし、滅びた村に立ち寄った冒険者こそ、かの勇者一行だったのです。恐ろしい魔族を倒すため、人々を守るため、勇者ヒンメルと戦士アイゼンが立ち上がります」
その声に合わせて、舞台の左右から二人の人影が現れた。一人は木製の剣を掲げた男の子。そして、もう一人は──。
「あ、シュタルク様です」
フェルンが小声でつぶやく。出てきたのは、いつもの見慣れた格好のシュタルクだった。ただし、手に持っているのは普段使っている大斧ではなく、子どもたちが用意した木製の斧である。
本人は随分と緊張しているらしく、観客席へチラチラと目を向けては、落ち着かなさそうに視線を逸らしていた。
「……すごく緊張してますね。最近は魔物との戦いでも堂々としているのに」
「そうだね。魔物と戦うよりも、よっぽど緊張してるみたいだ」
フリーレンは少し面白そうに笑う。
舞台では二人に続いて、今度は黒い布を肩に掛けた男の子が現れていた。額には木の枝で作った二本の角を付けている。どうやら、魔族役らしい。
男の子は胸を張り、両手を大きく広げた。
「ふははは! 愚かな人間どもめ! 我がもとに辿り着いたことは褒めてやろう。俺に従え。そうすれば、命だけは助けてやろう!」
なかなか堂に入った悪役ぶりだった。観客席から、楽しげな笑い声が上がる。負けじと、司会役の男の子が声を張り上げた。
「その魔族の名は、フェルスト! 数多くの村を滅ぼした、恐ろしい大魔族だったのです!」
「……ッ」
フリーレンの目が、わずかに見開かれた。あの忌々しい魔族の名前を忘れたことなどない。先ほどまで口元に浮かんでいた笑みが、すっと消える。
「……『失墜のフェルスト』か。思い出したくもない名前だ」
「フリーレン様?」
フェルンが、師匠の横顔を見た。いつもと変わらない落ち着いた表情。しかし、その声には、先ほどまでの気楽さがなかった。苦々しいものを噛み締めたような、フリーレンにしては珍しい声色が混じっていた。
「この演劇のとおりなら、フリーレン様たちが討伐した相手ですよね。どんな魔族だったのですか?」
フェルンの問いかけに、フリーレンは舞台から目を離さずに答える。
「強かった。とんでもなくね」
「フリーレン様たちが四人がかりでも、ですか?」
「そうだね。少なくとも、私とハイターは歯が立たなかった」
「……え?」
フェルンは思わず聞き返したが、フリーレンは淡々と続ける。
「魔法で応戦しようとしたけど、気づいたときには、二人とも倒されてた。フェルストとの戦いで、私たち二人は何もできなかったんだ」
「そんな……ッ」
フェルンは言葉を失った。フリーレンは、これまで数多くの魔族を討伐してきた伝説的な魔法使いだ。その彼女が、何もできずに敗北したというのである。しかも、僧侶として極めて優れた力を持っていたハイターまでもが。
「それでは、どうやって討伐を……?」
「ヒンメルとアイゼンが戦ったんだよ。私たちが気を失っている間、二人だけでね。多分、あんな感じだよ」
フリーレンが目線で舞台の方を示したので、フェルンは再び舞台へ目を向ける。そこでは、勇者役の少年が木剣を掲げ、戦士役のシュタルクがぎこちなく斧を構えている。
観客たちは温かな眼差しでその姿を見守っている。だが、フェルンにはもう、先ほどと同じように楽しんで眺めることができなかった。八十年前、勇者一行が戦った大魔族。フリーレンとハイターが深手を負わされたという事実に、寒気を覚える。
「……フリーレン様。その魔族は、いったいどのような魔法を使ったのですか?」
「それは……」
恐る恐る尋ねるフェルンに対して、フリーレンが答えようとしたとき、舞台の上から大きな声が響いた。
「喰らえ! 邪悪な茨を出す魔法!」
すると、舞台の両端から別の子どもたちが飛び出してきた。それぞれが長い縄を抱え、地面を這わせるようにして動かしている。
縄は左右にうねり、時に大きく持ち上がっては、舞台の上を好き放題に暴れまわる。その光景に、フリーレンは目を細めた。八十年前、あの大魔族が操っていた魔法も、確かにこんな感じだった。
無数の黒い茨が地面を這い、樹木や壁を突き破り、あらゆる方向から襲いかかってきた。あの濁流のような光景は、今でも覚えている。
──ハイター!?
ヒンメルの叫び声が響く。自分が振り向いたときには、ハイターは血溜まりの中に倒れていた。その傍らには、粉々に砕け散った防御魔法の残滓が漂っている。人類の魔法とは異なる、女神様の加護を受けた神聖な僧侶の呪文。それが、真正面から容易く打ち破られた。
これまでの冒険でそんなことは一度もなかった。何かがおかしいと思いつつ、杖を構えた自分にも茨は迫る。ともかく、これを防いでからハイターを助けなければと、迫りくる茨に向かって、防御魔法を展開しようとした。
──フリーレン? どうしたんだ、フリーレン!!
その直後に、ヒンメルの悲鳴が響いた。それが覚えている最後の光景だ。次に意識を取り戻したとき、自分は瓦礫の上に横たわっていた。
身体中が痛み、起き上がろうとしても、指先さえ満足に動かせなかったのを覚えている。衣服は自分の血で真っ赤に染まっていて、頭だけを動かして周囲を見回すと、少し離れたところに傷だらけのヒンメルとアイゼンがいたのは覚えている。あの魔族はどこにもおらず、戦いが終わったことだけは理解できた。
「……フリーレン様?」
フェルンの声に、フリーレンは我に返った。舞台の上では、子どもたちが相変わらず縄を動かし、勇者役の少年と戦士役のシュタルクが、それを大げさに避けながら駆け回っていた。
「フェルストの魔法については、知ってる範囲のことを後で教えるよ。今は演劇に集中しよう、せっかくのお祭りなんだし」
「分かりました。またあとで、続きを聞かせてください」
「うん、そうだね」
フリーレンも短く答える。あの忌々しい魔族の得意としていた茨を使う魔法、その詳細な能力は未だに分からない。一瞬で意識を刈り取られた以上、防御魔法を貫通されたとしか思えないが、そのときの記憶が曖昧だ。
ゾルトラークのような純粋な貫通魔法であるなら、自分は死んでいただろう。ならば、単なる貫通魔法ではないのかもしれない。しかし、ゾルトラークが人類の魔法体系に取り込まれたことで、防御魔法も大きく進歩した。今なら、あの茨も防げるはずだと思いたい。
「おっと、危ねえ」
近くまで来ていた茨に見立てたロープを、シュタルクが軽々と避ける。その脇を、縄を持った男の子が元気よく走り抜けていく。戦闘は佳境に入ったらしい。フリーレンはひとまず思考を打ち切って、劇の鑑賞に集中することにした。
「戦士アイゼン! こっちだ!」
「おう!」
勇者役の男の子に呼ばれ、シュタルクも舞台の上を小走りで駆け回った。縄が右から迫れば左へ避け、左から迫れば飛び越える。その間も、魔族役の男の子は両手を掲げて笑い続けていた。
「今だ、アイゼン!」
「任せろ、ヒンメル!」
勇者役の少年の声に応えて、シュタルクが木斧を構える。最初こそぎこちなかった動きも、今では随分と様になっていた。
「閃天撃!」
もちろん、相手は村の子どもだ。シュタルクは寸前で斧を止め、木製の刃は魔族役の男の子の手前でぴたりと止まる。
「ぐわあああっ! この俺が、人間ごときにぃぃ!」
男の子は斬られたフリをしながら、大げさに仰け反った。そのまま、ばたりと舞台に倒れ込む。それを見届けるように、勇者役の男の子が剣を空に掲げる。ヒンメルの像と同じポーズ、その幼くも凛々しい姿に観客席から拍手と歓声が上がる。
「勇者様、ばんざーい!」
「戦士様、格好いいぞー!」
シュタルクは少し照れくさそうに笑いながら、観客へ手を振った。広場にあるアイゼンの銅像と同じポーズはしていない。さすがに、あのダブルピースだけは勘弁してほしいのだろう。
「あ、はは……どうも」
フェルンも、そんな彼の姿を見て小さく微笑んでいた。
「こうして、勇者様と戦士様は恐ろしい魔族、フェルストを倒し、この地方に平和をもたらしたのです」
司会役の男の子が、誇らしげに声を張り上げた。観客席から、ひときわ大きな拍手が沸き起こる。フェルンも拍手を送ろうとして、ふと、隣のフリーレンを見た。その碧眼は舞台をじっと見つめていた。何かに思い悩んでいるような眼差しだ。
「フリーレン様、どうしたのですか?」
「……フェルン。一つだけ、訂正しておかないといけないことがある」
「訂正、ですか?」
「うん。この劇の内容には、大きな間違いがあるんだ。そこだけは今のうちに説明しておいた方がいいと思ってね」
何だろうかとフェルンは首を傾げる。そんな弟子へと、フリーレンは抑揚のない声で告げる。
「八十年前、私たちは『失墜のフェルスト』を討伐できなかった」
「…………え?」
フェルンの手が止まった。
「正確に言うなら、ヒンメルとアイゼンが深手を負わせたけど、仕留めることはできなかったんだ」
「……それでは、まさか」
「うん。アイツはまだ生きていると思う。あれ以来、討伐されたという話は聞いていないからね。アウラのように、ヒンメル達から受けた傷が治るまで、どこかに潜んでいるのかもしれない」
フリーレンは舞台を見つめたまま、淡々と言った。フェルンは息を呑んだ。八十年前、勇者一行ですら討伐できなかった大魔族。そんな存在が、今もこの世界のどこかにいるかもしれないのだ。フェルンは返す言葉がすぐには見つからなかった。
「フリーレン様、それは……」
「そして、二人の英雄は、魔族に攫われていた領主様のご令嬢を助け出したのです」
フェルンの声をちょうど遮るように、司会役の男の子が元気よく声を張り上げた。
「ご令嬢? そんな人がいた覚えはないんだけどね」
フリーレンは小さく首を傾げた。魔族がわざわざ人間を攫うことは稀だ。大抵はその場で殺すか、喰らうかの二択だからだ。演劇用にアレンジされているのかもしれない。
舞台の奥から、何やら慌ただしい物音が聞こえてきた。子どもたちが、小声で誰かに話しかけている。
『ほら、ネーニアお姉ちゃん! 早く早く!』
『……本当に、私が出るのですか? この格好のままで?』
『もちろん、さっき教えたでしょ』
『……承知しました』
やがて、舞台の脇から一人の少女が姿を現した。柔らかな灰褐色の髪を左右で束ね、頭には二本の白い角。片目を覆う黒い眼帯もいつもと変わらない。しかし、身に着けている衣装だけは大きく違っていた。
白と淡い水色を基調としたドレス。胸元には水色のリボンが結ばれ、幾重にも重なったスカートの裾が、夜風にふわりと揺れている。
「……ネーニア?」
どうやら、女の子たちや村の女性たちに着飾られたらしい。そこにいたのは、いつもの無表情のまま、可愛らしいドレスを着せられた大魔族だった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
どうにも落ち着かない。
ネーニアは、自分の衣装を見下ろした。何百年も生きてきたが、このような衣装を身に纏った経験は一度もないし、演劇の舞台に立たされたこともない。普段の白いローブや外套とは違い、幾重にも重なったスカートは歩くたびに揺れ、胸元や袖には水色のリボンが飾られている。
胸元のリボンを指先でつまんでみる。装飾としては随分と手が込んでいるが、動きやすさという点では普段の衣装の方が優れていた。
『ネーニアお姉ちゃん、すっごく可愛い!』
『これを着て、今日はお嬢様役として劇に出てね!』
少女たちとの舞台裏での会話を思い出す。昨日は魔族役として、かつて出会ったアウラの振る舞いまで参考にして練習していたはずだ。それなのに舞台の準備を手伝っていたところを女の子たちに呼び止められ、この衣装を渡されたのが、つい先ほどのこと。
あの様子から推測するに、最初から自分にこの役をやらせるつもりだったのだろう。詳しい事情は分からないが、あれほど喜んでいるなら断る理由もない。ネーニアは慣れないドレスの裾を軽く持ち上げ、舞台へと歩み出た。
「……ネーニア?」
観客席の方から、聞き覚えのある声がした。フリーレンだ、その隣にはフェルンという魔法使いもいる。二人とも、少し驚いたようにこちらを見つめていた。その眼差しがどうにも気恥ずかしく、そっと二人から視線を逸らすことにする。
そんな中、二人の仲間である赤毛の戦士が近づいてきた。シュタルクという、戦士役を引き受けた青年の顔はひどく強張っているように見えた。
「……その、俺は子どもたちに言われたとおりにするだけだからさ。怒らないでくれよ?」
何をそこまで恐れているのだろう。シュタルクは何度もこちらの顔色を窺っている。まるで少しでも機嫌を損ねれば、その場で殺されるとでも思っているようだった。しかし、これほど近くに戦士を立たせているのだから、魔法使いである自分にも相応の危険はある。敵意を感じなかったからこそ、こうして接近を許しているのだが。
「何のことを仰っているのかは知りません。ですが、演劇の一部ということであれば、遠慮なくどうぞ」
さすがに、この場で攻撃を仕掛けてくることはないだろう。そう判断して、ネーニアはそう言った。その言葉にシュタルクは安堵したように息を吐く。
「……じゃ、じゃあ、失礼するぞ」
シュタルクが恐る恐る身を屈め、ネーニアの背中へ腕を回した。やけに近い、何をするつもりなのだろうか。そう考えている間に、もう片方の腕が膝の裏へ差し入れられる。
「……おや?」
ふわりと身体が浮いた。背中と膝の裏を支えられ、視線の高さが変わる。気づけば、ネーニアはシュタルクの両腕にすっぽりと抱えられていた。幾重にも重なった白いフリルが広がり、淡い水色のリボンが揺れる。
「……これでいいのか?」
「いいも何も、私はこの展開について何も聞いていませんが」
「マジかよ!?」
それを聞いて、一気に顔が青くなったシュタルクを横目に、ネーニアは自分の両手を見下ろした。さて、どうしたものだろう。子どもたちの台本どおりであるのなら、特に抵抗するつもりはない。
だが、どうやら戦士は怯えているらしい。敵対していない意思を示したほうがいいだろうか。少し考えてから、ネーニアはシュタルクの胸にそっと頭を預けた。すると、シュタルクの身体が凍りついたように固まる。
「殺さないでください……」
「そういう解釈になるのですか、困りましたね」
行動で伝わらないのであれば、言葉で伝えるしかないだろう。今度は、ネーニアはそっとシュタルクの耳に唇を近づける。
「あの、私に戦闘の意思はありません」
「……本当かよ? 信じていいのかって、聞くのも変な話だけどさ」
「この状況であなたと戦う利点がありません。そもそも殺すつもりなら、ここまでの接近は許しません。遠距離から一息に影の中へと引き摺り込んで、磨り潰しますので」
「それはそれで怖えーよッ!? 耳元で何言ってんだ、お前!?」
シュタルクは器用に小声のまま叫んだ後、げんなりした顔になった。しかし、ネーニアが本当に何もするつもりがないと分かったのか、先ほどよりは落ち着いているようだ。その証拠に、肩の力が抜けている。
「それほど怖いのでしたら、魔法で少しだけ浮きましょうか? そうすれば、直接触れずに済みますので」
「そんな細かいことまでできるのかよ……。大魔族って器用なんだな。……なんか、一周回って冷静になってきた気がするぜ」
「それは良かったです」
ネーニアはこのままシュタルクに身体を預けておくことにした。シュタルクもそれ以上は何も言わなかった。先ほどまで随分と緊張していたようだが、もう落ち着いたらしい。
「それで、これはいつまで続ければよろしいのでしょうか?」
「……俺にも分からねえよ」
シュタルクは困ったように答えた。ちらりと、舞台の端へ目を向けると、子どもたちが嬉しそうにこちらを見つめている。そのうちの一人がシュタルクに呼び掛ける。
「戦士様、そのままこっちまで歩いてきて!」
「あ、ああ。分かった」
シュタルクは小さく頷くと、ネーニアを抱えたまま、ゆっくりと舞台の上を歩き始めた。先ほどまでと違い、その足取りに怯えは感じられない。
「戦士様、格好いい」
「ネーニアお姉ちゃん、きれいだね」
「ふふん、やっぱり頼んで良かったわ」
少女たちが、嬉しそうに手を振っている。その声に応えるようにネーニアが小さく手を振り返すと、彼女たちは楽しそうに更に何かを話し始めていた。
そんな様子を見てから、司会役の男の子が口を開く。
「こうして、勇者ヒンメルと戦士アイゼンはお嬢様を救い、この地方に平和を取り戻したのでした。勇者と戦士の英雄譚は、これにて終わりです」
広場が大きな拍手に包まれている。ネーニアは周囲を見回した。子どもたちは満足そうに笑っているし、大人たちも微笑ましそうに子どもたちを見守っている。勇者役の少年は木剣を掲げ、魔族役の少年も起き上がって観客に手を振っていた。
聞いていた役柄とは少し違っていたが、村人たちが楽しそうならば、それでよいのだろう。気になることがあるとすれば、一つだけだ。
「……あの、シュタルク」
「ん? どうした?」
「そろそろ、下ろしていただいてもよろしいでしょうか?」
「……あ」
劇が終わったというのに、まだ自分を抱えたままだったことに、シュタルクはようやく気づいたようだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
劇は終わり、子どもたちが観客に向かって手を振っている。村人たちからは惜しみない拍手が送られ、広場は笑い声と歓声に包まれていた。
その真ん中では、シュタルクが慌ててネーニアを地面に下ろして、そのまま何かを話している。
「…………」
フェルンは、そんな二人を無言で見つめていた。
最初こそ随分と怯えていたようだが、今では少し余裕ができたらしい。シュタルクは苦笑しながらも、ネーニアと平然と話をしている。
白と淡い水色のドレスに身を包んだ小柄な少女を抱える、優しげな赤毛の戦士。先ほどまでの二人は、まるで物語の一場面を切り取ったような、なかなか絵になる姿だった。
そんなことを考えながら、フリーレンは隣の弟子へと目を向けた。フェルンは先ほどから、どういうわけか黙り込んでいる。しかも少し機嫌が悪そうなのだ。
「……えっと、フェルン?」
「何ですか、フリーレン様」
「演劇は無事に終わったみたいだよ。なかなか面白かったんじゃないかな」
「そうですね」
フェルンは素っ気なく答えた。その紫色の眼差しは、相変わらず舞台の上の二人に向けられている。フリーレンは、そんな弟子を横目に見た。
やはり機嫌が悪いらしい。さっきまでは楽しそうに劇を眺めていたはずなのに、いつの間にこうなったのだろう。何か気に障ることでもあったのだろうか。
「どうかしましたか、フリーレン様」
「……いや、何でもないよ」
「そうですか」
このことについて、フリーレンは何も聞かないことにした。触らぬ神に祟りなしである。この様子だと、またシュタルクが何かしたのかもしれない。二人は時々、よく分からない理由で喧嘩をしているので恐らくは今回もその類いだ。仲直りは本人たちに任せるのが一番である。
「劇が終わったことだし、シュタルクはそのうち帰ってくると思うよ。そうしたら、二人で一緒に屋台でも回ってきたら?」
「……シュタルク様と、ですか?」
「うん。せっかくのお祭りなんだしさ。ネーニアは私が見張っておくから、広場の中でなら自由に行動して構わないよ」
フェルンは少しだけ目を瞬かせた。それから、舞台の上にいるシュタルクを見つめる。彼は相変わらずネーニアと一緒に、子どもたちからの歓声に応えていた。しばらく舞台を眺めていたが、フェルンはやがて小さく息を吐いた。
「……分かりました。シュタルク様が戻ってきたら、声をかけてみます」
「うん。それがいいよ」
フェルンが納得したのかどうかは分からないが、とりあえず機嫌は少しだけ直ったようだった。フェルンはすでに屋台の並ぶ通りへと目を向けている。
「あちらのお店、まだ見ていませんでしたね。それに、さっきの串焼きも、もう一度食べたいです」
「まだ食べるの?」
「せっかくのお祭りですから」
フェルンの表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。フリーレンは内心で胸を撫で下ろす。
シュタルクは子どもたちに囲まれて、劇の出来について褒められているらしい。ネーニアもその傍らで、女の子たちの話に静かに耳を傾けていた。それは、とても穏やかな光景だった。
失墜のフェルスト。ヒンメルとアイゼンが深手を負わせながらも、仕留めることのできなかった大魔族。あの男の脅威は八十年の年月を経て、勇者と戦士の英雄譚となった。それは平和な時代に相応しい変化なのだろう、そうでなければならない。
屋台の明かりが夜風に揺れ、どこからか楽しげな音楽が聞こえてくる。フリーレンがふと空を見上げると、村の屋根の向こうには、澄んだ夜空が広がっている。
その高い空に浮かぶ雲の間から、八十年前と変わらない白い月が静かに顔を覗かせていた。
『ーーの茨をーー出す魔法(ヘレンドル)』
失墜のフェルストの使用する魔法。無数の茨を呼び出し、操ることができる。強力な殺傷力と制圧力を持つが、植物である性質上、炎系の高位魔法とは相性が悪い。