175.1
第0回 天皇賞・春
出走者控え室の扉を開けた。
京都レース場。
2014年5月4日。
第149回天皇賞・春。
春の長距離王を決める、芝3200メートルの大舞台。
この日に、この部屋を訪れるのは九度目になる。
去年も、一昨年も、その前の年も。
同じ季節に、同じ場所を訪れた。
だから、今日もいつものように扉を開けてしまった。
もっとも、今年は少し事情が違う。
「あの……誘導ウマ娘の方ですか?」
若い職員が、こちらを見ていた。
「あ、はい。そうです」
「でしたら、こちらで少々お待ちください」
「分かりました」
案内された椅子に腰を下ろす。
周囲には、これからレースに出るウマ娘たちがいた。
緊張した顔。
落ち着かない耳。
勝負服の裾を何度も直す指先。
よく知っている光景だった。
ただし、今日はあたしだけが違う。
勝負服を着ていない。
誘導用の制服。
制帽。
白い手袋。
鏡に映る自分は、少しだけ知らない人のように見えた。
「……似合ってるかな」
小さくつぶやく。
昔のあたしを知っている人が見たら、何と言うだろう。
きっと、笑うだろうな。
あたし自身、ちょっと笑ってしまうくらいなのだから。
*
「おはようございます」
隣から声がした。
顔を上げると、勝負服姿の若いウマ娘が立っていた。
「おはよう」
「あの……今日は、誘導を担当されるんですか?」
「うん。そうだよ」
「そうなんですね」
彼女は少し安心したように笑った。
どうやら、あたしが出走者ではないことを確認したかったらしい。
「緊張してる?」
そう聞くと、彼女は苦笑した。
「……はい。すごく」
「そっか」
「先輩は、こういうの慣れてるんですか?」
あたしは少し考えた。
「慣れてる……つもりだったんだけどね」
「え?」
「今日は初めての仕事だから。あたしも緊張してるよ」
彼女は目を丸くした。
「そうなんですか?」
「うん」
あたしは笑った。
「でも、あなたは自分のレースを走ればいいんだよ。誘導のことは、こっちに任せて」
「……はい!」
彼女は深く頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
去っていく背中を見送る。
若いなあ、と思った。
あたしも、昔はあんな感じだったのだろうか。
いや。
たぶん、もっと落ち着きがなかった。
初めて天皇賞・春に出たときは、頭の中が勝つことでいっぱいだった。
長い距離なら、自分にもチャンスがある。
そう信じていた。
そして、勝てなかった。
翌年も挑戦した。
また勝てなかった。
その次の年も。
さらに次の年も。
いつしか、ここへ来ることが当たり前になっていた。
春になれば、京都へ行く。
天皇賞・春に出る。
勝負服を着る。
あたしにとって、それが一年の大切な行事だった。
でも、今年は違う。
もう、勝負服を着ることはない。
*
今年の二月。
あたしは現役を引退した。
最後のレースは、一月の万葉ステークス。
京都3000メートル。
四着だった。
勝てなかった。
でも、最後まで走れた。
それでよかったのかもしれない。
もちろん、悔しさはあった。
最後くらい勝ちたかった。
もっと走れたんじゃないか。
そんなことを考えなかったわけではない。
けれど、もう十分だとも思った。
ずいぶん長く走った。
自分より後にデビューした子たちが、何人も先に引退していった。
一緒に走っていた友達が、いつの間にかトレーナーになっていた。
子供を育てている子もいる。
そんな中で、あたしだけがいつまでも走っていた。
どうして、そんなに走るの。
何度も聞かれた。
どうしてだろう。
勝ちたかったから。
走るのが好きだったから。
それから。
あたしが走るところを、まだ見たいと言ってくれる人がいたから。
それだけのことだった。
*
最初に、強さについて教えてくれた先輩がいた。
食堂で、あたしの隣に座った人。
ずいぶん変わった喋り方をする人だった。
いつも軍人みたいで、何をするにも「であります!」と言っていた。
その人は、あたしに聞いた。
『強いウマ娘とは、どのようなウマ娘でありますかな?』
あたしは答えた。
速いこと。
誰よりも速く走れること。
先輩は、笑ってうなずいた。
『うむ! まことに正しい答えであります!』
そして、続けた。
『しかし、小生はもう一つ知っているのでありますぞ!』
強いとは、愛されること。
あのときは、よく分からなかった。
速いことと、愛されること。
それがどうして同じ強さなのだろう。
でも、今なら少し分かる。
先輩は、長い長い競走人生を送った。
勝った回数より、負けた回数の方がずっと多かった。
それでも、多くの人に愛された。
あたしも、そんなウマ娘になれただろうか。
まだ、自信はない。
ただ、あの先輩の言葉は、ずっと忘れなかった。
*
「そろそろ準備をお願いします」
職員の声がした。
「あ、はい!」
立ち上がる。
帽子を直す。
手袋をはめ直す。
鏡を見る。
大丈夫。
ちゃんとできる。
今度の仕事は、誰かに勝つことではない。
これから走る子たちを、スタート地点まで送り届けることだ。
考えてみれば、不思議な仕事だと思う。
現役時代のあたしは、いつも誰かを追いかけていた。
強い先輩。
若い後輩。
そして、幼なじみ。
あの子は、本当に速かった。
あたしがどれほど頑張っても、届かなかった。
昔は、すぐ隣にいたのに。
いつの間にか、ずいぶん遠くへ行ってしまった。
それが少し怖かった。
でも、あの子は今でも、あたしのことを覚えてくれている。
引退すると伝えたときも、最初にお疲れさまと言ってくれた。
あの子は、もうずっと前に走ることをやめている。
それでも、あたしたちは友達のままだ。
そういうものなのだろう。
競走をやめたからといって、全部が終わるわけではない。
あたしの人生は、これからも続いていく。
*
廊下を抜ける。
外から、歓声が聞こえてきた。
春の京都。
よく晴れた空。
あたしは一度、深く息を吸った。
懐かしい匂いがする。
芝の匂い。
風の匂い。
たくさんの人が集まる場所の匂い。
今日も、ここで誰かが勝つ。
誰かが負ける。
そして、誰かの人生が変わる。
あたしは、そのことを知っている。
たった一つのレースが、一生忘れられないものになることを。
勝ったレースだけではない。
負けたレースにも、忘れられないものがある。
かつて、三冠ウマ娘より先にゴールしたことがあった。
でも、勝ったのはあたしじゃなかった。
あたしは八着。
三冠ウマ娘は十一着同着。
それでも、あたしが強かったわけではない。
あの日、本当に強かったのは、先頭でゴールした子だった。
そんなこともあった。
嬉しかった日。
悔しかった日。
もう走るのをやめようかと思った日。
いろいろあった。
そして今、あたしはここにいる。
今度は、走る子たちの前に立つために。
*
誘導が始まった。
あたしは、ゆっくりと歩き出した。
後ろには、十八人のウマ娘。
誰もが勝つためにここへ来ている。
その先頭を、あたしが歩いている。
何だか、おかしかった。
昔は、先頭を走りたくて仕方がなかった。
でも、なかなか先頭には立てなかった。
ようやく立てたと思ったら、すぐに誰かが追いかけてきた。
いつも、そんなことの繰り返しだった。
なのに今日は、誰もあたしを追い抜こうとしない。
あたしが歩く速さに合わせて、みんなが後ろを歩いている。
そのことが、少し照れくさかった。
けれど。
悪くないな、と思った。
これも、あたしの新しい役目なのだ。
誰かを追い抜くことではなく。
誰かを送り届けること。
長い間走ってきた自分に、こんな仕事が待っているなんて。
昔のあたしは、想像もしなかっただろう。
*
スタンドが近づく。
歓声が大きくなる。
今日の主役たちへ向けられた、たくさんの声。
キズナ。
ゴールドシップ。
ウインバリアシオン。
フェノーメノ。
それぞれの真名が呼ばれる。
あたしは、少しだけ懐かしくなった。
かつては、あたしもあの中にいた。
誰かに名前を呼んでもらえるのが嬉しかった。
たとえ人気がなくても。
たとえ勝てなくても。
誰かが自分を応援してくれる。
それだけで、もう一度走る勇気が湧いてきた。
今、あたしの後ろを歩いている子たちも、そうなのだろうか。
そうだといいな。
あたしは、静かに願った。
どうか、いいレースになりますように。
どうか、誰も怪我をしませんように。
そして。
今日負けた子も、また次のレースを走りたいと思えますように。
*
誘導を終え、所定の位置へ下がった。
役目は、無事に終わった。
あとは、この子たちを見守るだけだ。
少し肩の力が抜けた。
よかった。
初めての仕事だったけれど、何とかできたらしい。
ふと、観客席の方を見る。
そこには、たくさんの人がいた。
その誰もが、今日の勝者を知りたがっている。
この中から、誰が春の盾を手にするのだろう。
誰が、新しい歴史を作るのだろう。
あたしも、それが楽しみだった。
そして。
そのときだった。
場内のスピーカーから、実況アナウンサーの声が響いた。
*
「第149回天皇賞・春。十八人の出走ウマ娘が、京都の芝3200メートルへと向かいます」
落ち着いた声だった。
一人ひとりを紹介し終えた後、アナウンサーは少しだけ間を置いた。
あたしは、何となく顔を上げた。
そして。
「そして今日はもう1頭紹介させてください。」
不思議な言葉だった。
十八人の紹介は、もう終わっている。
出走者は、十八人。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのに、もう一人。
アナウンサーは、誰のことを言っているのだろう。
周囲の職員たちも、少し不思議そうな顔をしていた。
あたしは、ただ耳を傾けた。
*
「春の盾に、八度挑んだウマ娘がいました」
少し低くなった声が、静かに響く。
「八年連続、天皇賞・春に出走。その記録は、今も色あせることがありません」
スタンドが、少しざわめいた。
「三冠ウマ娘と走った春がありました。圧倒的な才能を前に、自らの限界を思い知らされた春もありました」
あたしは、息をのんだ。
「それでも、彼女は走り続けました」
風が吹いた。
帽子のつばが、わずかに揺れる。
「重賞三勝。シニア七年目には、平地重賞の最年長勝利記録に並ぶ勝利を挙げました」
あたしは、ゆっくりと顔を上げた。
「そして、今年二月。長い競走生活に、ついに幕を下ろしました」
声が、一瞬途切れた。
「通算六十三戦、九勝」
胸の奥が、少し熱くなった。
「その脚で走り抜いた距離、百七十五・一キロメートル」
あたしは、何も言えなかった。
「春の盾を手にすることは、ついにありませんでした」
そう。
勝てなかった。
何度挑戦しても。
何度、今度こそと思っても。
結局、一度も。
「しかし、勝利だけが、伝説を作るのでしょうか」
スタンドが、静かになったような気がした。
「長い歳月を走り抜くこと。何度敗れても、次のスタートへ向かうこと。そして、その姿を待ち続ける人々がいること」
あたしは、観客席を見た。
そこには、いつもの景色があった。
何度も見た、春の京都の景色が。
「かつて、誰よりも前へ出ようと走り続けた一人のウマ娘」
アナウンサーの声が、ゆっくりと高くなる。
「今日、彼女は初めて、勝利を目指すのではなく、次の世代を送り届けるために、この場所へ帰ってきました」
あたしは、自分の手袋を見つめた。
白い手袋。
勝負服ではない、新しい制服。
そうだ。
あたしは、もう出走者じゃない。
でも、ここにいる。
今年も、春の天皇賞にいる。
「勝者の名前は、記録に刻まれます」
あたしは、静かに目を閉じた。
「しかし、勝てなかった者の走りもまた、人々の記憶に残り続ける」
ふと、昔の先輩の声が聞こえた気がした。
『強いとは、愛されることであります!』
あたしは、少しだけ笑った。
先輩。
あたし、また春の天皇賞に戻ってきましたよ。
今度は、走るためじゃなくて。
誰かを送り届けるために。
でも。
やっぱり、ここが好きです。
この場所が。
このレースが。
そして、あたしの走る姿を覚えてくれている人たちが。
大好きです。
アナウンサーは、最後にこう告げた。
「八度の春を走り抜き、百七十五・一キロの旅を終えた、愛すべき長距離の勇者」
ほんの一瞬、間があった。
そして、力強い声が響いた。
「そのウマ娘の名は――」