アリスの靴が、柔らかいものを踏んだ。
つい先ほどまで歩いていたのは、日差しのある舗道だった。ケイと手をつなぎ、旅に持っていくゲームのことで話していたはずなのに、足元には厚い絨毯が敷かれている。顔を上げると、天井には少し年季の入ったシャンデリアが下がり、正面の硝子越しには街が広がっていた。
二人は建物の中に立っていた。
右手には椅子と低いテーブルが並び、左手の奥では制服姿の係員がカウンター越しに客と話している。正面の回転扉から、旅行鞄を引いた男が入ってきた。アリスたちを避けて通ると、そのままカウンターへ向かう。
「……ケイ、ここはホテル、でしょうか?」
「……そう見えますね」
ケイは振り返った。背後には背の高い鉢植えと白い壁がある。来た道も、さっき通り過ぎた店も見つからず、鉢植えの後ろを覗いても掃除道具の差し込まれた狭い隙間があるだけだった。
アリスはつないだ手を持ち上げた。
「ケイ、これは異世界転移でしょうか?」
「そんな非科学的な……なんてことを言うのは今更ですか。というか何なんですか、いきなり……!」
声を落としても、最後には不満が混じった。卒業を済ませ、先生たちにも挨拶をして、ようやく二人の旅を始めようとしていたところだ。せめて前兆でもあれば準備もできたというのに。
アリスは鉢植えのそばへ戻り、床をもう一度踏んでみた。何も起きない。足の順番を替えても同じだったので、今度は硝子の向こうへ顔を向ける。
高い建物の間を黄色い車が走っていた。歩道には屋台が出ており、隣のビルの壁一面に、大きな宝石の写真が貼られている。街の音は扉が開くたび近くなったが、見覚えのある景色はどこにもなかった。
「キヴォトスの隠しステージかもしれません。新たな冒険の始まりですね!」
「スタートボタンはこちらのタイミングで押したかったですけどね……とりあえず状況を確認しましょう」
「先に受付で聞きましょう。宿屋で情報収集は序盤の基本です! ホテルならきっと地図があります!」
アリスが歩き出すと、ケイも隣へ並び、上着のポケットから端末を取り出した。やはりというか、表示は圏外だった。ほとんど身一つのまま見知らぬ場所に放り出された現状に、ケイは小さくため息をついた。
アリスが係員へホテルの場所を尋ねると、初めは道案内の紙を渡された。言葉が問題なく通じることに安堵したのもつかの間、全く文字が読めない。
アリスが紙をいろいろな向きにして見直す横で、ケイが国の名前を尋ねると、係員の笑顔が少し困ったものになった。
「ヨルビアン大陸サヘルタ合衆国のヨークシンシティです。お連れの方とはぐれましたか?」
「ケイと一緒です!」
「はい、私と彼女、アリスの二人で、その……案内役の方とはぐれてしまって。私たちは遠くから来たので、地図か何か、このあたりの地理を調べるものをお借りできますか」
ケイが少しの嘘を交えて話すと、係員は二人を見比べてから、ロビーの端にある案内端末を示した。
ケイは画面へ触れた。表示される文字は読めないが、案内の音声は慣れ親しんだ言葉だった。ホテルの名前と街の紹介が流れ、画面には字幕が表示されている。
「会話は通じるのに、文字が全く違う……ただ言語体系はほとんどそのまま? 奇妙ですね」
「この文字列がヨークシンですね!」
「おそらく。もう一度聞いてみましょう」
アリスが隣から指さす。ケイは読み上げる声と文字の並びを照合しながら、別の画面でも同じ名前を探した。二人で何度か繰り返すうちに、街の名前とホテルの案内に使われる短い文章が読めるようになる。不自由なく文字を読めるようになるまでにそれほど時間はかからなそうだった。
そのとき、背後で女の子の声がした。
「もう、また落ちた!」
####
案内端末の向かいには小さな土産物店があった。入口の横に硝子張りのゲーム機が置かれ、中に白い兎のぬいぐるみが積まれている。
水色の長い髪をした少女が操作台へ両手をついていた。恨めしげな視線の先で機械のアームが何も持たずに戻っていく。彼女の脇には買い物袋を持った若い女が立ち、少し離れた柱のそばでは黒髪を後ろへ流した男がこちらを見ていた。
アリスは吸い寄せられるように硝子のケースへ近づいた。
「そこで止まってくれ」
柱の男が少女との間へ入った。アリスが止まると男の目線がケイへ移る。ケイもその場で足を止める。
スクワラには、二人の身体を覆うオーラが見えていた。目を凝らすと、その頭上に浮かぶのは複雑かつ精緻な輪。重力を完全に無視したその挙動を差し引いても、飾りだと片づける気にはなれなかった。
「お嬢様のお知り合いか?」
「いいえ。いま、ゲームで遊んでいる声が聞こえたので!」
「スクワラ、邪魔」
ネオンは男の肩越しに顔を出した。彼は道を空けず、エリザへ小さく手を振る。エリザがネオンの横へ寄ってから、ようやくゲーム機の反対側を示した。
「話なら、そちらから頼む」
アリスは示された側へ回った。男の後ろへ抜けようとはせず、硝子の中へ顔を寄せる。ケイもアリスの後を追いつつ彼の視界に残る位置に立ち、軽く会釈をした。
「クレーンゲームですね!」
「そう。持ち上がるのに、途中で落ちるの。これ、絶対おかしいわ」
少女は答えてからアリスを見て目をしばたたかせた。続いて近づいたケイにも目をやり、ゲーム機から身体を起こす。
「……二人とも、お人形さんみたい。どこから来たの?」
「遠いところから、今は旅の途中です! アリスです。こちらはケイです!」
アリスは名乗り、ケイも頭を下げた。
「この街には今日来たばかりで、案内を見ていたんです」
ケイが補うと、少女はすぐにゲーム機へ目を戻した。
「旅行なのね。わたしはネオン。こっちはエリザ」
袋を持つ女が会釈した。スクワラは表情を変えず、アリスが操作台へ手を近づけるとネオンへ少し離れるよう促した。
「お嬢様。今日はここまでにしませんか」
「あと一回。ねえアリス、こういうの得意?」
「ゲームなら任せてください!」
ネオンはエリザの側へ半歩動いた。スクワラは二人の手元を見られる位置を取り、アリスが真剣な顔で操作棒を握ったところで、何かを言いかけて口を閉じた。
アリスは笑顔でポケットから財布を取り出し、硬貨を投入しようとして、そこで動きを止める。一回500ジェニー。知らない通貨だ。
「アリス……所持金がありません。最初のゲームから有料です」
悲しげに口を尖らせたアリスにネオンが言った。
「一回分くらい、わたしが出すわよ。取ってくれるんでしょ?」
「はい! 勇者の出番です!」
ネオンが硬貨を入れると、操作台の灯りがついた。アリスは笑顔を咲かせた後、再び真剣な表情で横へ回って兎の位置を確かめ、アームを胴体の真上へ運んだ。
アームの爪が下り、これ以上ない角度で兎を挟んで持ち上げる。
「捕獲しました!」
次の瞬間、兎は爪の間から滑り落ちた。
硝子の向こうで白い耳が一度揺れ、兎はほとんど元の場所に転がった。アリスは操作棒を握ったまま、呆然と戻ってくる爪を見上げた。
「……アームの力が足りません」
「でしょう? これ絶対おかしいわ!」
「アリスなら箱ごと持ち上げられます……」
「おい、持ち上げるなよ」
「スクワラ、まだ何もしてないでしょ」
男の声に、ケイが小さく笑った。
「スクワラさん、でしたか。あれはアリスなりのジョークです」
「笑えないジョークだ。お嬢様も、店の物を壊させないでくださいよ」
「そんなことするわけないじゃん。ねえ、もう一回やってみて」
ネオンは少しも飽きていなかった。自分が失敗していた間は腹が立ったのに、今はアームを恨めしげに睨むアリスから目を離せない。
ころころと表情を変えるアリスを見ていると、先ほどの苛立ちが少し収まるのを感じた。
ケイも筐体へ身を寄せ、中を覗き込んだ。兎の胴ではなく、長い耳の片方が落とし口の縁へ掛かっている。
「持ち上げるより向きを変えた方がよさそうですね。片方の爪だけを兎の首の後ろへ入れられませんか」
「押して落とす……頭脳プレイですね!」
「はい。私にも一回挑戦させていただけますか?」
アリスが操作台の前を空けると、ネオンはすぐ次の硬貨を入れた。
今度のアームは兎を掴まなかった。引っかかった爪が兎の片側を持ち上げ、胴を斜めにずらす。兎の顔が落とし口へ向き、戻るアームとともに引かれた身体がゆっくり傾いた。
三人が同じように前へ乗り出した。
白いぬいぐるみが穴へ消え、下の受取口で軽い音を立てた。
「取れました! さすがはケイです!」
「すごい! ねえ、もう一匹も取れる?」
「同じ置き方なら……いえ、待ってください。こちらは角度が違いますね……」
ケイはもう次の兎を見ていた。スクワラは緩みかけた口元を引き締め、エリザにぬいぐるみを受け取らせた。彼女が縫い目と耳の先を確かめてからネオンへ渡す。その間も、彼は二人の手から目を離していなかった。
しばらくして朝食へ誘ったのは、ネオンだった。
「お腹がすいちゃった! ご馳走してあげるから一緒に食べましょ。それからまた来ればいいわ」
「賛成です! ケイ、食事もまだでした!」
アリスが顔を向けると、ケイは爪の動きを確かめていた目をようやく離した。
「……もう少しで、次も取れそうだったのですが」
「また今度、です!」
####
ネオンが選んだのは、同じロビーに面した喫茶室だった。
スクワラは個室へ移る案を断り、入口から中の見えるテーブルを選んだ。ネオンと二人の間には彼が座り、エリザが反対側へ荷物を置く。ネオンは席の並びに不満そうだったが、この食事の機会を取り上げられるよりはマシだと思ったらしく、大人しくメニューを開いた。
スクワラはエリザへ短く何か伝えた。彼女が端末から連絡を送るのを見届けると、食事を始める前にケイへ声を掛ける。ネオンとアリスの会話から漏れ聞こえた内容についてだった。
「二人とも、本当に泊まるところがないのか?」
「今のところはありません。まず、この街に知っている場所がないか調べたかったんです」
「さっきの様子だと無一文だろう。困ってるなら、フロントから知り合いに連絡してもらう方が――」
「今すぐ連絡できる相手はいません。元いた場所への帰り方も、まだわかっていないんです」
ケイは借りた地図をテーブルへ広げた。食事代について丁寧に礼を言い、それ以上の経緯は話さなかった。さすがにここで正直にすべてを話すわけにはいかない。そんなことをしても不必要に怪しまれるだけである。
会話をしながら、スクワラは常に二人を観察していた。
一見すると人形のように整った顔立ちの華奢な少女に見えるが、二人の身体を覆うオーラは力強い。出会ったころから安定し、どこか神聖な気配すら感じた。道に迷っただけの子供とは思っていない。
しかしやけに無防備で、動きは素人。裏の人間なら誰もが纏う殺伐とした匂いがしない。通貨の名も、ここで使う文字も、何も知らないかのように振る舞う。あまりにもちぐはぐで、スクワラは判断しかねていた。
ネオンはメニューをアリスへ手渡した。
「こっちは苺がいっぱい入ってるの。わたしはこれにする! アリスは?」
「このサンドウィッチにします! アリスはお肉が食べたいです! こちらの卵サンドも美味しそうですが……」
「なら私がそれを頼みましょう。少し食べませんか?」
ケイが言うと、アリスは嬉しそうにメニューを閉じた。
注文を取りに来た店員へ、スクワラは自分から料理を伝えた。運ばれてきたものは、自分の見えるところへ置いてもらう。ネオンがケイの隣へ椅子を動かそうとすると、それを手で制した。
「食べ終わったら、一度話を聞かせてもらうつもりです。それまでは」
「食事に招待したのはわたしよ」
「それで、今もご一緒してるでしょう」
ネオンは頬を膨らませた。そのまま元の位置に戻り、先に運ばれた水に口を付けた。
食事が運ばれると、アリスの関心はすっかり料理へ移った。厚いパンを両手で持ち、一口齧る。思っていたより中身が多く、下からはみ出しかけた肉を皿で受けると、ネオンが笑った。
「それ、食べにくいでしょ」
「おいひぃです! ネオンは、苺から食べるのですか?」
「いちばん大きいのは最後。エリザ、それ取っておいて」
差し出された小皿を、エリザは慣れた手つきで受け取った。アリスはそのやり取りを見てから、自分のプレートに添えられていたポテトを一つ、ケイの方へ転がす。
「ケイもどうぞ。外がかりかりです!」
「ありがとうございます。こちらのスープも、おいしいですよ」
食べ物が二人の間を行き来するのを、ネオンは頬杖をついて見ていた。
「いつも二人でいるの?」
「はい!」
「学校も?」
「一緒でした。先日、卒業したところです」
「ふうん。じゃあ、今は何してもいいのね」
ケイは匙を止めた。ネオンは自分の苺を見ており、特別に羨ましいと言うつもりもなさそうだった。
「何でも、とはいきませんが。行きたいところを二人で探しています」
「いいな。わたしも街を見たいのに、今日はあっちへ行くな、こっちへ行くなばっかり! スクワラなんか、さっきから部屋へ戻る話しかしてないんだから」
「街で人が殺されてるんです。遊ぶなってだけで言ってるんじゃありませんよ」
声が低くなったので、アリスも顔を上げた。
ネオンは不満そうにスプーンを置いた。スクワラはその顔を見ても引かず、ホテルの中なら多少の買い物はできると続ける。二人のやり取りは初めてではないらしかった。
「何かあったのですか?」
ケイが尋ねると、スクワラは短く説明した。
この街では大きな競売が開かれている。だが、マフィアの集まる地下競売が襲われ、多くの死者が出た。犯人は幻影旅団という盗賊集団で、今も捕まっていない。
スクワラたちの仲間も死んだ。
「ネオンのお父さんも、そのマフィアの人なんですか?」
アリスが尋ねると、ネオンは自分から答えた。
「ノストラード組のボスよ。だから、こうして護衛がついてるの」
スクワラは頷いたが、そこで説明を切った。隣のエリザは何も言わず、ネオンの小皿をテーブルへ戻した。
「ネオンも、その競売へ行く予定だったのですか?」
「欲しいものがあったの。でも、最初はほかの人に買ってきてもらうことになってて」
アリスの問いへ答える声には、行けなかったことへの不満が残っていた。
「またやるなら、今度こそ自分で行きたいわ」