ハロウィーンの翌朝。
ホグワーツの大広間には、いつもと変わらない朝食の香りが漂っていた。焼きたてのパンに、ベーコンの脂が焼ける匂い。銀の皿に盛られた卵料理からは、まだ白い湯気が立ち上っている。
けれど、グリフィンドールのテーブルでは、いつも以上に話が弾んでいた。
「だから、棍棒がこう、ぶわーって浮いたんだよ!」
ハリーが両手を大きく振り回す。
「それで、トロールが上を見た瞬間に、どすーん! って!」
「ハリー、昨日から何回その話をしてるんだよ!」
ロンは呆れたように言いながら、口いっぱいにベーコンを頬張った。
「だって、すごかったじゃないか! ロンが呪文を成功させたんだよ!」
「わ、わかってるって! そんなに何度も言わなくてもいいだろ!」
「でも、本当にすごかったんだもん!」
「だから、もういいって!」
ロンの耳が赤くなる。
その隣で、ハーマイオニーは紅茶のカップを両手で包みながら、昨日の出来事を思い返していた。
「……でも、あのときのロンの呪文は、確かに見事だったわ」
「えっ?」
ロンが目を丸くする。
「杖の動かし方も、呪文の発音も、最後まで崩れなかったもの。あんな状況で成功させるなんて、練習していても簡単にはできないわ」
「お、おう……」
「それに、ハリーも」
「僕?」
突然名前を呼ばれ、ハリーは口に運びかけていたソーセージを止めた。
「あなた、トロールが棍棒を振り回したとき、私をかばってくれたでしょう?」
「うん。だって、ハーマイオニーが危なかったから」
「……そういうところよ」
「え?」
「なんでもない!」
ハーマイオニーは慌てて紅茶を飲んだ。
頬が赤い。
昨日のことを思い出すと、今でも胸の奥がきゅっとなる。怖かった。とても怖かった。それなのに、ハリーは自分の身を守るより先に手を伸ばしてくれた。
そしてロンも、震えながら杖を握り、必死に呪文を唱えた。
あの瞬間の二人の顔は、きっと忘れない。
「……あのね」
ハーマイオニーはカップを置いた。
「今日から、私たち、もっと仲良くできると思うの」
「えっ、今までは仲良くなかったのか?」
ロンが首を傾げる。
「そういう意味じゃないわよ!」
「わっ、怒るなって!」
「怒ってないわ!」
「いや、怒ってるだろ!」
「ロン!」
「はいっ!」
ハリーは二人を見て、けらけら笑った。
「やっぱり、二人って仲がいいね!」
「「どこが!?」」
二人の声がぴったり重なる。
その直後、ハリーはますます大笑いした。
「ほら、今だって同じこと言った!」
「ハリー!」
「もう、ハリーまで!」
ハーマイオニーは顔を赤くして抗議し、ロンは頭を抱えた。
それでも、昨日までとは何かが違っていた。
言い合いをしても、すぐに相手を拒絶しようとは思わない。言いすぎたと気づけば、謝ることもできる。
ほんの少しだけ、三人の距離が近くなっていた。
◇
その頃、少し離れたレイブンクローのテーブルでは、レオが朝食を楽しんでいた。
蜂蜜をたっぷり塗ったパンを一口食べ、満足そうに頷く。
「うん、おいしい」
隣に座っていた上級生が、思わず笑った。
「スカマンダー君、君は本当に蜂蜜が好きだな」
「好きですね。朝から甘いものを食べると、なんだか元気が出るんです」
「そのわりに、授業では難しい呪文ばかり研究しているじゃないか」
「それとこれとは別ですよ。魔法の研究も、おいしいものも、どちらも楽しいですから」
レオはごく自然に答え、最後の一口を食べ終えた。
そのとき、グリフィンドールのテーブルからハリーが大きく手を振ってきた。
「レオ兄さーん!」
「ハリー、おはよう」
「おはよう! ねえ、今日の授業が終わったら、こっちに来られる?」
「うん。どうしたの?」
「昨日の呪文のこと、もう少しロンと話したいんだ! それに、ハーマイオニーが魔法の練習をしたいって!」
「ちょ、ちょっとハリー! そんな大声で言わなくてもいいでしょう!?」
ハーマイオニーが慌ててハリーの袖を引っ張った。
けれど、レオにはしっかり聞こえていた。
「わかったよ。授業が終わったら、時間を作るね」
「やったあ!」
ハリーは満面の笑みを浮かべた。
ハーマイオニーも嬉しそうに顔をほころばせたが、レオと目が合った途端、慌てて背筋を伸ばした。
「あ、あの、レオ! 昨日の呪文について、ちょっと聞きたいことがあって……!」
「うん。僕でよければ、何でも聞いてね」
「な、何でも……?」
「僕が答えられることなら、ね」
レオが微笑む。
ハーマイオニーの顔が、ぱっと赤くなった。
「そ、そうよね! 答えられることなら、よね! うん、わかってるわ!」
彼女はなぜか何度も頷いた。
ロンはその様子を横目で見て、ハリーの耳元に顔を寄せた。
「……なあ、ハリー」
「ん?」
「ハーマイオニーって、レオ兄貴と話すとき、なんか変じゃないか?」
「え? そうかな?」
「いや、絶対変だろ。顔が赤いし、声も裏返ってるし」
「……あっ!」
ハリーは何かに気づいたように目を見開いた。
「ハーマイオニー、熱があるの!?」
「ええっ!?」
ハーマイオニーが勢いよく振り向いた。
「ち、違うわよ! どうしてそうなるの!?」
「だって、顔が赤いから!」
「そ、それは……!」
ハーマイオニーは言葉に詰まった。
ロンはとうとう吹き出した。
「はははっ! ハリー、お前って本当に……!」
「えっ、僕、何か変なこと言った?」
「いいえ! 何も変なことは言ってないわ!」
ハーマイオニーは必死に否定した。
「と、とにかく! 朝食を食べましょう! 授業に遅れるわよ!」
「まだ時間あるって!」
「いいから食べるの!」
「はーい!」
ハリーは素直に返事をして、残っていたソーセージを口に運んだ。
レイブンクローの席では、レオが三人のやり取りを眺め、楽しそうに笑っていた。
あの調子なら、きっと大丈夫だ。
昨日の出来事をきっかけに、三人は互いを知り始めている。レオが手を貸すことはできても、彼ら自身が築く関係の代わりにはなれない。
だからこそ、今は遠くから見守るくらいがちょうどいい。
レオはそう考えながら、食器を片づけた。
◇
午前の授業が終わると、ハリーたちは約束どおりレオを探しに行った。
廊下の窓から差し込む光が、石造りの床に長い四角形を描いている。遠くから生徒たちの話し声が聞こえ、ときおり階段が動く低い音が響いていた。
「レオ兄さーん!」
ハリーが駆け寄る。
「お待たせ、ハリー。ロンもハーマイオニーも、こんにちは」
「こんにちは、レオ」
ロンは片手を上げ、ハーマイオニーは少し緊張した様子で頷いた。
「そ、それでね、レオ。昨日の呪文のことなんだけど……」
「うん。ロンが使った浮遊呪文だね」
「そうなの! あの呪文は、軽いものを浮かせるためのものよね。でも、昨日はあんなに大きな棍棒を浮かせたでしょう? あれって、呪文の力が対象の重さに比例するのかしら。それとも、術者の魔力や集中力によって変わるの?」
ハーマイオニーは、待ってましたとばかりに質問を並べた。
目がきらきらと輝いている。
昨日の恐怖も、今では知りたいという好奇心に押されて、少しずつ遠のいているようだった。
レオは嬉しそうに頷いた。
「いい質問だね。実際には、いくつかの要素が関係しているんだ。対象の重さだけじゃなくて、形や重心、術者がどれだけ正確に動きを思い描けるかも大切だよ」
「重心……!」
ハーマイオニーはすぐに鞄からノートを取り出した。
「つまり、重いものを浮かせる場合は、ただ力を込めるだけじゃなくて、対象の状態を把握することも必要なのね?」
「そうだね。大きなものを動かそうとするときは、特に重要になるよ」
「なるほど……!」
彼女は勢いよく書き込み始めた。
その隣で、ロンは感心したように自分の杖を見つめていた。
「じゃあ、俺が昨日うまくいったのは、たまたま棍棒の重心を捉えられたからなのか?」
「それもあると思う。でも、ロンがちゃんと呪文を成功させたことに変わりはないよ」
レオは穏やかに答えた。
「本番でうまくいくのは、普段の練習が身についているからだと思う。あのとき、ロンは怖かったはずなのに、最後まで呪文を唱えたでしょう?」
「……まあ、怖かったけどな」
ロンは少しだけ目を伏せた。
「正直、何をすればいいのか全然わからなかったんだ。でも、ハーマイオニーが棍棒を浮かせろって言ったから……」
「ロン……」
ハーマイオニーが顔を上げた。
「私、あなたが呪文を使うのを見て、本当に驚いたの。あなたはいつも、授業なんて面倒だって言ってるから……」
「いや、そりゃ面倒なときもあるけどさ!」
「でも、昨日は違ったわ」
ハーマイオニーは少し照れくさそうに笑った。
「……ありがとう。助けてくれて」
ロンは一瞬、言葉を失った。
そして、耳まで真っ赤になった。
「お、おう! まあ、友達だからな!」
「……友達?」
ハーマイオニーが聞き返す。
「そ、そうだろ? 昨日のことがあったんだし……」
「……うん!」
彼女はぱっと笑顔になった。
「そうね。私たち、友達だものね!」
「お、おう!」
二人のやり取りを見て、ハリーは嬉しそうに手を叩いた。
「よかった! これで三人とも、もっと仲良しだね!」
「ハリー、もう少し静かに喜べよ!」
ロンが苦笑する。
「えー、いいじゃないか!」
ハリーは笑いながら、レオを見上げた。
「ねえ、レオ兄さん。僕も浮遊呪文、もっと上手になりたい!」
「もちろん。練習すれば、きっと上達するよ」
「本当!?」
「うん。ただ、呪文は正しく使うことが大切だからね。急いで上達しようとしなくても大丈夫だよ」
「わかった! 僕、頑張る!」
ハリーは拳を握りしめた。
ハーマイオニーも勢いよく頷く。
「私も! もっといろいろな呪文を練習したいわ!」
「俺もやるよ。昨日みたいなことが、またあるとは思わないけど……いざってときに、何もできないのは嫌だからな」
ロンの言葉に、ハリーとハーマイオニーは真剣な表情で頷いた。
レオは三人を見回し、優しく微笑んだ。
「それじゃあ、次の休み時間に、練習できる場所を探そうか。先生たちに迷惑をかけないように、安全な場所でね」
「やったあ!」
ハリーの声が、明るい廊下に響いた。
◇
その日の午後、四人は授業の合間に空き教室を借り、浮遊呪文の練習をすることになった。
もちろん、レオが勝手に教室を使うわけにはいかないので、担当の先生に事情を説明して許可をもらっている。
教室には使い古された机と椅子が並び、窓際には授業で使われた木製の小箱が置かれていた。
「じゃあ、まずは羽根から始めようか」
レオが机の上に白い羽根を置く。
「昨日のロンのように大きなものを浮かせるのは、まだ先でいいよ。最初は小さなものを、狙った高さで浮かせる練習から始めよう」
「わかった!」
ハリーは杖を構えた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
羽根はぴくりとも動かなかった。
「……あれ?」
ハリーは杖を見つめる。
「もう一回!」
今度は少し力を込めて杖を振った。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
羽根が、ほんの少しだけ震えた。
「おおっ! 動いた!」
「ハリー、今のは惜しかったわ!」
ハーマイオニーが身を乗り出す。
「でも、杖の振り方が少し大きすぎるの。もっと手首を柔らかく使って……そう、そういう感じ!」
「こう?」
「そう!」
ハリーはもう一度、慎重に杖を振った。
羽根がふわりと浮かび上がる。
「やったあ!」
ハリーは大喜びで飛び跳ねた。
「浮いた! 浮いたよ、レオ兄さん!」
「うん、上手にできたね、ハリー」
レオが拍手すると、ハリーはますます嬉しそうに笑った。
だが、喜びすぎたせいか、羽根はそのまま天井近くまで上がってしまった。
「あっ、待って! 上がりすぎ!」
「ハリー、集中して! 高さを保つのよ!」
「わ、わかってる!」
ハリーは慌てて杖を動かす。
羽根はふらふらと揺れ、窓のほうへ流れていった。
「うわあっ、そっちは駄目だよ!」
ハリーが追いかけようとした、そのとき。
レオが軽く杖を振った。
羽根の動きが止まり、ゆっくりと方向を変える。
まるで見えない指先に導かれているように、羽根は空中を滑り、机の上へ戻ってきた。
とん、と小さな音を立てて、羽根が机に着地する。
「……えっ」
ハリーが口を開けた。
「今、何をしたの?」
ハーマイオニーは目を輝かせてレオに詰め寄った。
「呪文を少し調整したんだよ。浮かせるだけじゃなくて、動きの方向を変えやすくしたんだ」
「そんなことができるの!?」
「うん。ただ、いつでも同じようにできるとは限らないから、基本の呪文を覚えることが先だね」
「呪文の構造を調整して、動きを変える……。それって、以前話してくれた呪文の改変よね!?」
「そうだよ」
「すごい……!」
ハーマイオニーは胸の前で両手を握りしめた。
「ねえ、レオ! その仕組みを、もう少し詳しく教えてくれない?」
「もちろん。でも、まずは自分で呪文を使えるようになってから、一緒に考えてみよう」
「うん! 絶対に覚えるわ!」
ハーマイオニーは勢いよく頷いた。
その隣で、ロンが羽根を見つめている。
「……俺も、あんなふうに動かせるようになるのかな」
「なれると思うよ。最初から完璧にできる人なんて、ほとんどいないからね」
レオの言葉に、ロンは少しだけ表情を和らげた。
「そっか。じゃあ、練習するしかないな」
「そうそう!」
ハリーが元気よく頷いた。
「僕も、もっと頑張る! 次は羽根を天井まで飛ばさないようにするよ!」
「いや、そこは最初から飛ばさないようにしろよ!」
ロンが突っ込む。
「えへへ、そうだね!」
ハリーは頭をかいた。
ハーマイオニーは笑いながら、ノートに何かを書き込んでいる。
レオはそんな三人を見て、楽しそうに微笑んだ。
教室の窓から差し込む午後の日差しは、柔らかく温かかった。
昨日は、恐ろしいトロールを前に、三人とも必死だった。
けれど今は、同じ机を囲み、互いに教え合い、失敗しては笑っている。
友達になるというのは、きっとこういうことなのだろう。
誰かが困ったときには手を貸し、できたことがあれば一緒に喜ぶ。
レオはその光景を眺めながら、静かに思った。
ハリーは、もう一人で頑張らなくてもいい。
彼には、隣で笑ってくれる友達がいる。
そして、その友達もまた、ハリーと一緒に少しずつ成長していくのだ。
「よし! 次はロンの番だね!」
ハリーが羽根を差し出す。
「おう。今度はもっと上手くやってやる!」
ロンは杖を握り、真剣な顔で構えた。
「ウィンガーディアム・レビオーサ!」
羽根が、ふわりと浮かび上がった。
「できた!」
「ロン、すごいわ!」
「本当だ! 今度はちゃんと浮いたね!」
ハリーとハーマイオニーが歓声を上げる。
ロンは照れくさそうに笑った。
「へへっ。まあ、これくらいな!」
「ロン、嬉しいなら素直に喜んだら?」
「うるさいな、ハーマイオニー!」
「ふふっ!」
ハーマイオニーが笑い、ハリーも笑う。
レオも、声を立てて笑った。
その日の空き教室には、何度も呪文の声と、失敗したときの悔しそうな声、成功したときの明るい歓声が響いていた。
ハロウィーンの夜に生まれた三人の絆は、まだ始まったばかり。
けれど、それはもう、昨日までとは違う確かなものになりつつあった。