クリスマス休暇が終わり、ホグワーツに戻ってから数日。
グリフィンドールの談話室には、暖炉の薪がぱちぱちとはぜる音と、羊皮紙をめくる音が響いていた。
「うーん……やっぱり、ニコラス・フラメルについての記述が少なすぎるわ!」
ハーマイオニーは分厚い本を閉じ、頬を膨らませた。
「錬金術に関する本を何冊も調べたのに、名前が出てくるだけなんて! こんなの、気になるに決まってるじゃない!」
「ハーマイオニー、声が大きいよ。向こうの人がこっちを見てる」
「だってロン! 気にならないの? あれだけの本を調べて、何も分からないのよ?」
「気にはなるけどさ……本が多すぎるんだよ。もう目が痛い」
ロンは目元をこすりながら、机に突っ伏した。
向かい側では、ハリーが苦笑している。
「でも、分からないことが分かっただけでも、少しは進んだんじゃないかな?」
「ハリー、それは前向きすぎるわ!」
「えっ、そうかな?」
「そうよ! 調べものっていうのは、手がかりを見つけてこそ――」
「ハーマイオニー、ちょっと休憩しない?」
穏やかな声が割って入った。
レオだった。
彼は片手に本を抱え、空いている椅子を引いて三人のそばに腰を下ろした。青みがかったローブの袖を整え、机の上に持ってきた本を置く。
「ずっと同じ姿勢で読んでいたら、肩も凝るよ。ハリーもロンも、さっきから背中が丸くなっているし」
「俺はまだ平気だぞ!」
「ロン、さっき机に顔をくっつけてたよね?」
「それは……本が低かったんだ!」
「本のせいなの?」
ハリーが笑い出し、ロンもつられて口元を緩めた。
ハーマイオニーだけは、レオの顔を見たまま固まっていた。
「ハ、ハーマイオニー?」
「えっ! な、何?」
「休憩、しない?」
「す、するわ! もちろん! 休憩も大切だもの!」
勢いよく返事をした拍子に、彼女の肘が積み重ねていた本に当たった。
「あっ!」
崩れかけた本を、レオがすっと手を伸ばして受け止める。
「危なかったね」
「ご、ごめんなさい! 私、せっかく整理したのに……!」
「大丈夫。どの本も傷んでいないよ」
レオは笑って本を元の位置に戻した。
その何気ない優しさに、ハーマイオニーの頬がじわじわと赤くなる。
――どうして、こういうときに限って失敗するのよ、私!
彼女は両手で頬を押さえた。指先まで熱い。
ロンはその様子を見て、何か言いたそうに口を開きかけたが、ハリーに袖を引かれて思いとどまった。
「ねえ、レオ兄さん」
ハリーが机の端に頬杖をついた。
「この前、クリスマスに見た夢の話をしたでしょ?」
「うん。お父さんとお母さん、それから僕たち家族が鏡に映っていたって話だね」
「そう。それでね、最近、あの夢のことをよく思い出すんだ。あんな鏡が本当にあったら、すごいだろうなって」
ハリーの声には、懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。
彼は両親の顔をほとんど知らない。
それでも、アリシアやロイド、そしてレオから聞いた話や、家に残る写真のおかげで、二人がどんな人だったのかを少しずつ知ってきた。
夢の中で見た二人は、写真の中の姿よりもずっと近くに感じられたのだ。
「夢って、不思議だよね。起きたら消えちゃうのに、見ているときは本当にそこにいるみたいなんだ」
「そうだね」
レオはハリーの頭に、そっと手を置いた。
「会いたい人に会えたなら、きっと忘れたくない夢だったんだろうね」
「うん!」
ハリーは顔を上げた。
「僕、いつかお父さんとお母さんのことを、もっと知りたいな。どんな声で笑ったのかとか、どんな話をしたのかとか!」
「アリシア叔母さんなら、またいろいろ教えてくれると思うよ。僕も覚えていることは話すから」
「ありがとう、レオ兄さん!」
ハリーは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、レオも自然と頬を緩める。
「よし。休憩が終わったら、また調べものをしようか。フラメルのことも、急がず少しずつね」
「そうね。焦っても仕方ないもの」
ハーマイオニーはうなずき、今度こそ本をきちんと積み直した。
「私、もう一度、錬金術の歴史から調べ直してみるわ。関連する記述が別の名前で残っている可能性もあるし!」
「俺はチェスでもやろうかな……」
「ロン、まだ休憩中だよ?」
「だから休憩にやるんだって!」
「それ、勉強の休憩になってる?」
「ハリーまでそんなこと言うのかよ!」
四人の笑い声が談話室に広がった。
*
その夜。
ハリーは、なかなか寝つけずにいた。
ベッドのカーテンの隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。遠くでは風が窓を揺らし、城のどこかで古い床板がきしむ音がした。
目を閉じても、昼間に話した夢のことが頭から離れなかった。
鏡の向こうで笑っていた両親。
自分を見つめていた、優しい目。
そして、そばにいてくれた家族の姿。
「……もう一度、会えたらいいのにな」
小さく呟いた言葉は、誰にも届かず、毛布の中へ消えていった。
ハリーはしばらく寝返りを打っていたが、やがてそっとベッドから起き上がった。
喉が渇いたわけではない。何かを探しているわけでもなかった。
ただ、じっとしていられなかったのだ。
ローブを羽織り、寝室を出る。夜の談話室には誰もおらず、暖炉の火もすっかり小さくなっていた。
廊下へ出ると、昼間とは違うホグワーツの姿が広がっていた。
壁に掛かった肖像画の人物たちは、額縁の中で寝息を立てたり、こちらをちらりと見てまた目を閉じたりしている。窓の向こうには、冬の庭園が青白く浮かび上がっていた。
「少し歩いたら、眠くなるかな……」
ハリーは独り言をこぼしながら、静かな廊下を進んだ。
曲がり角を一つ越えたところで、ふと、開きかけた扉が目に入った。
普段は使われていない教室らしい。
扉の隙間から、月明かりが床に細長く伸びている。
「……何の部屋だろう?」
好奇心に背中を押され、ハリーはそっと扉を押した。
ぎい、と小さな音が響く。
教室の中には、古びた机や椅子がいくつか並んでいた。壁際には使われなくなった道具が積まれ、埃をかぶった黒板には、消し残された文字が薄く浮かんでいる。
そして、部屋の奥。
大きな鏡が、一枚だけ置かれていた。
金色の装飾が施された額縁は、ほかの家具とは違って妙に立派だった。鏡面には埃ひとつなく、月明かりを受けて静かに輝いている。
「こんなところに、鏡?」
ハリーは近づいた。
鏡の縁には、何か文字が刻まれているようだった。しかし、暗がりのせいで、はっきりとは読めない。
ハリーは首を傾げ、それから鏡の中を覗き込んだ。
「……え?」
息が止まった。
鏡の中には、見知らぬ大勢の人々が映っていた。
その中心に、一組の男女がいる。
黒い髪の男性と、赤みを帯びた髪の女性。
二人はハリーを見つめていた。
女性は目を細めて微笑み、男性は少し照れくさそうに笑っている。
写真で見たことがある。
何度も、何度も、家族から聞かされた名前。
「……お父さん?」
声が震えた。
鏡の中の男性が、ほんの少し首を傾けた。
「お母さん……?」
ハリーは鏡へ手を伸ばした。
指先が冷たい鏡面に触れる。
そこにいるのに。
すぐ目の前に、会いたかった二人がいるのに。
どうしても、その向こうへ行くことができない。
「お父さん! お母さん!」
思わず声が大きくなった。
鏡の中の二人は、変わらず優しい顔でハリーを見つめていた。
ハリーの目に涙がにじんだ。
悲しいだけではなかった。
会えたことが嬉しくて、もっと話したくて、抱きしめてもらいたくて――それなのに、どれだけ手を伸ばしても届かないことが、どうしようもなくもどかしかった。
「僕、元気だよ……!」
ハリーは鏡に向かって話しかけた。
「アリシア叔母さんも、ロイドおじさんも、レオ兄さんも、みんな僕に優しくしてくれるんだ! 友達もできたんだよ! ロンとハーマイオニーっていうんだ!」
言葉が次々にあふれ出す。
まるで、ずっと伝えたかったことを一度に話しているみたいだった。
「僕、学校も楽しいよ! 失敗することもあるけど、頑張ってるんだ! だから……だから……」
最後の言葉は、うまく続かなかった。
ハリーは唇を噛み、涙を拭った。
鏡の中の女性が、まるで慰めるように手を伸ばしている。
その仕草を見た瞬間、ハリーはたまらず鏡へ身を寄せた。
「……もう少しだけ、ここにいてもいい?」
返事はない。
それでも、ハリーには二人が自分を見守ってくれているように思えた。
どれほど時間が過ぎたのか、分からなかった。
やがて、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「……ハリー?」
聞き慣れた声だった。
振り返ると、そこにはローブを羽織ったレオが立っていた。寝起きなのか、黒髪が少しだけ乱れている。
「レオ兄さん……!」
「やっぱり、ここにいたんだね」
レオはほっとしたように息をついた。
「談話室を通りかかったら、君の姿が見えなかったから。何かあったのかと思ったよ」
「ご、ごめん! 眠れなくて、ちょっと散歩してたんだ!」
「謝らなくていいよ。何事もなくてよかった」
レオはそう言いながら教室へ入った。
そして、ハリーのすぐそばにある鏡へ目を向けた。
「……これは?」
「見て、レオ兄さん!」
ハリーはぱっと鏡の方を向き直った。
「この鏡、お父さんとお母さんが映ってるんだ! ほら、あそこ!」
声が弾む。
レオはハリーの隣に立ち、鏡を覗き込んだ。
鏡の中には、ハリーの両親が映っていた。
その姿を見たレオは、すぐには言葉を返せなかった。
ハリーがどれほど二人に会いたかったのか、レオは知っている。普段は明るく笑っていても、両親の話になると、ほんの少しだけ声の調子が変わることも。
今のハリーは、嬉しさで頬を赤くし、目を輝かせていた。
「すごいよね! 僕、ずっと会いたかったんだ!」
「……うん。よかったね、ハリー」
レオは静かに微笑んだ。
ただ、その目は鏡の中の二人ではなく、鏡を見つめるハリーの横顔に向けられていた。
ハリーがこの鏡を見つけたことを、どう受け止めるべきなのか。
今はまだ、分からない。
けれど、ハリーがこんなにも嬉しそうに笑っているのなら、その気持ちを無理に否定したくはなかった。
「ねえ、レオ兄さん。明日もここに来ていいかな?」
ハリーが振り向いた。
「お父さんとお母さんに、もっと話したいことがあるんだ」
レオは少し考えてから、ハリーの肩に手を置いた。
「そうだね。でも、夜遅くに一人で歩くのは危ないから、次に来るときは僕にも教えてくれる?」
「うん! 約束する!」
ハリーは力強くうなずいた。
それから、もう一度鏡へ向き直る。
「お父さん、お母さん。また来るね!」
鏡の中の二人は、変わらず優しく微笑んでいた。
ハリーは名残惜しそうに何度も振り返りながら、レオと一緒に教室を出た。
扉が閉まる直前、鏡面が月明かりを受けて淡く光った。
その不思議な鏡が何を映し、何を与えるものなのか。
ハリーはまだ知らない。
ただ、今夜の彼の胸には、会いたかった両親に会えた喜びが、温かな光のように残っていた。