ホグワーツの冬は、まだまだ終わりそうになかった。
窓の外では冷たい風が木々を揺らし、石造りの城には、ところどころ薄い霜が残っている。そんな日の午後、グリフィンドールの談話室は暖炉の火で暖かく、休日を楽しむ生徒たちの声でにぎわっていた。
「ハリー、チェスやろうぜ!」
ロンが大きなチェス盤を抱えて、テーブルの前にやってきた。
「チェス? もちろん! でも、僕、まだあんまり強くないよ?」
「大丈夫だって。最初はみんなそんなもんさ!」
「ロン、あなたの場合は最初から強かったんじゃないの?」
ハーマイオニーが本から顔を上げて言った。
「まあな!」
ロンは得意げに胸を張った。
「うちじゃ、兄貴たちとよくやってたからな。勝つのは簡単じゃないぜ、ハリー!」
「よーし、負けないぞ!」
ハリーは目を輝かせ、さっそく椅子を引いた。
ロンがチェス盤をテーブルに置くと、駒たちが自分の位置へと歩き出した。白い騎士が馬の首を振り、黒いルークがどっしりと盤の端に陣取る。駒が石の床を歩くような、こつこつという小さな音がした。
「うわっ、やっぱり魔法のチェスってすごいね!」
「だろ? 普通のチェスより迫力があるんだぜ!」
ロンは白い駒を並べながら、嬉しそうに笑った。
そのとき、談話室の入口からレオが姿を現した。
「楽しそうだね。何をしているの?」
「あ、レオ兄さん! ロンとチェスをするんだ!」
「へえ、いいね。僕も見ていていいかな?」
「もちろんだぜ、レオ!」
ロンは即答した。
「ただし、口出しは禁止だからな!」
「分かった。二人の勝負を楽しませてもらうよ」
レオは笑いながら、テーブルから少し離れた椅子に腰を下ろした。
ハーマイオニーも本を閉じ、チェス盤のそばへ移動する。
「私も見ていい?」
「もちろん!」
ハリーは元気よく答えた。
「よし、じゃあ始めるぞ!」
ロンが手を振ると、白い駒が一斉に動き始めた。
*
「えっと……この駒は、ここに動かせるんだよね?」
ハリーは白いポーンを指さした。
「そうそう。ポーンは基本的に前へ進むんだ。最初なら二マス進めるけど、そのあとは一マスずつだぞ」
「分かった!」
ハリーはポーンを動かした。
向かい側のロンは、すぐに黒い騎士を動かす。
「えっ、もう攻めてくるの!?」
「チェスは待ってくれないからな!」
「うわあ、どうしよう!」
ハリーは盤面を覗き込み、あちらこちらの駒を見比べた。眉間にしわが寄り、口が小さく動いている。
その様子を見て、ハーマイオニーは思わず笑った。
「ハリー、そんなに慌てなくても大丈夫よ。まずは盤面をよく見て、相手の駒がどこへ動けるか考えてみたら?」
「なるほど! ロンの駒が動ける場所を考えるんだね!」
「そうよ。自分の駒だけじゃなくて、相手の駒にも注目するの」
「よし、やってみる!」
ハリーは真剣な顔で盤面を見つめた。
しばらく考えたあと、白いビショップを動かす。
「これならどうだ!」
「おっ、いい手だな!」
ロンは少し驚いた顔をした。
「でも、ここはどうする?」
黒いポーンが前進する。
「ええっ!? そっちから来るの!?」
「ハリー、相手も考えているのよ!」
「分かってるけど、思ってたのと違うんだよ!」
ハリーは頭を抱えた。
その姿に、レオはくすりと笑った。
「チェスって、相手がいるから面白いんだよね」
「レオ、見てるだけだからって余裕だな!」
ロンが言い返す。
「僕が参加したら、もっと難しくなっちゃうかもしれないしね」
「うわ、それは確かにありそうだ……」
ロンは少しだけ遠い目をした。
「いやいや、まだ負けてないぞ! ハリー、次はちゃんと考えて動かすんだ!」
「うん!」
ハリーは再び盤面に向き合った。
だが、数手進んだところで、ロンの黒い駒がじわじわと白い駒を追い詰めていく。
「待って! その騎士、さっきの場所からそんなところまで来られるの!?」
「騎士は独特な動き方をするんだよ。そこが強いんだ!」
「うわあ、覚えることがいっぱいだ!」
ハリーは驚きながらも、楽しそうに笑っていた。
やがて、白いキングが黒い駒に囲まれる。
「チェックメイト!」
ロンの宣言とともに、黒い騎士が白いキングの前に立ちはだかった。
「うわーっ! 負けた!」
ハリーは椅子の背にもたれ、両手を上げた。
「ははっ、最初にしてはよく頑張ったな!」
「悔しいなあ! もう一回やろう、ロン!」
「おう、望むところだ!」
ロンは嬉しそうに駒を元の位置へ戻し始めた。
ハーマイオニーは盤面を覗き込みながら、感心したように言った。
「ロン、本当に強いのね。相手の動きを予測しながら、少しずつ逃げ道をなくしていくなんて」
「へへっ、まあな!」
ロンは照れくさそうに鼻をこすった。
「お兄ちゃんたちとやってたからさ。負けると、すぐにもう一回って言われるんだよ」
「それで強くなったんだね!」
ハリーは目を輝かせた。
「じゃあ僕も、何回もやれば強くなれるかな?」
「もちろんだ! 次はもう少し手加減してやるよ!」
「手加減はいらないよ! 本気で来て!」
「おっ、言ったな!」
二人は顔を見合わせて笑った。
*
二局目が始まってからしばらくすると、ハリーは少しずつ駒の動きを覚え始めた。
相手の騎士がどこへ進めるのか。ビショップがどの斜めの道を通るのか。ルークが一直線に盤面を横切ること。
まだ読み違いは多かったが、最初の局よりも盤面をじっくり見るようになっていた。
「ここに動かしたら、ロンは次に……うーん、どっちだろう?」
ハリーは頬を掻きながら考え込む。
「ハリー、焦らなくていいよ」
レオが声をかけた。
「全部の可能性を一度に考えようとすると、かえって分からなくなるからね。まずは、いちばん気になる相手の駒を一つ選んでみたら?」
「相手の駒を一つ?」
「うん。その駒が次にどこへ動けるのか。それから、自分が動かしたい駒を動かしたら、何が起こるのか。順番に考えてみるといいよ」
ハリーは盤面に目を戻した。
「そっか……全部いっぺんに考えなくてもいいんだ!」
「そう。少しずつでいいんだよ」
レオは穏やかにうなずいた。
ハーマイオニーも、感心したように手を打った。
「確かにそうね! 選択肢を整理してから考えれば、見落としも減るはずだわ!」
「お、おう……」
ロンはチェス盤を見下ろしながら、少しだけ困った顔をした。
「なんか、レオが助言すると急に難しい勉強みたいになるな」
「そうかな?」
「そうよ、ロン! すごく分かりやすいじゃない!」
ハーマイオニーが勢いよく言った。
「それに、チェスは相手の動きを読む力を鍛えるのにも役立つわ。盤面を整理する練習にもなるし!」
「ハーマイオニー、そんなに力を入れなくても……」
「だって、本当にそうなんだもの!」
彼女は顔を赤くしながらも、きっぱりと言い切った。
レオは楽しそうに微笑んだ。
「二人とも、いいところに気づいたね」
「……っ!」
ハーマイオニーは褒められた瞬間、背筋をぴんと伸ばした。
「そ、そう? ええ、まあ、当然よね! 普段からちゃんと勉強していれば――」
言いかけて、彼女は自分の声が少し大きくなっていたことに気づいた。
「……あっ、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。熱心なのはいいことだしね」
レオが笑顔で答える。
ハーマイオニーは、とうとう両手で顔を覆ってしまった。
ロンは横目でその様子を見ながら、ハリーに小声で話しかけた。
「なあ、ハリー。ハーマイオニーって、レオが褒めるといつもああなるよな?」
「え? 何が?」
「……いや、もういいや」
ハリーは不思議そうに首を傾げた。
*
二局目は、先ほどよりも長く続いた。
ハリーは途中で何度も迷い、ロンに駒を取られそうになっては慌てて考え直した。それでも、最後まで諦めずに盤面を見つめ続けた。
「ここだ!」
ハリーがポーンを進める。
「うわっ、そこに来るのか!」
今度はロンが驚いた。
「へへっ、レオ兄さんの言ったとおり、ちゃんと考えたんだ!」
「なるほどな……。じゃあ、俺はこっちだ!」
ロンは黒いルークを動かした。
ハリーの表情が一変する。
「えっ、うそ!? そこから来るの!?」
「チェスは甘くないぜ、ハリー!」
「うわーっ、またやられた!」
結局、二局目もロンの勝利に終わった。
けれど、ハリーは悔しがりながらも、どこか満足そうだった。
「くーっ、負けた! でも、さっきよりは分かった気がする!」
「そうだろ? 最初から勝てるわけないんだからさ!」
ロンは駒を片づけながら、にっと笑った。
「次はもっと強くなって、俺をびっくりさせてくれよ!」
「絶対に勝つからね!」
「おう、楽しみにしてるぜ!」
二人は笑いながら握手を交わした。
レオは、その様子を見て満足そうにうなずいた。
「ハリー、いい勝負だったよ。最初よりもずっと盤面を見られるようになっていたね」
「本当!?」
「うん。ロンも、相手が考え始めたら簡単には勝てなくなるかもしれないね」
「ええっ!? レオ、余計なこと言うなよ!」
ロンが慌てて声を上げた。
「俺だって負けたくないんだからな!」
「それなら、もっと練習しないとね」
「分かってるって!」
ロンは笑いながらチェス盤を抱え直した。
ハーマイオニーは、そのやり取りを見て、ふっと柔らかく笑った。
「いいわね、こういうの。誰かと競い合うと、自分一人では気づけなかったことにも気づけるもの」
「うん! 僕、チェスがもっと好きになったよ!」
ハリーが元気よく答えた。
暖炉の火が、ぱちりとはぜる。
窓の外では、冬の夕暮れがゆっくりと深まっていた。
*
その日の夕食後。
ハリーたちは談話室で、翌日の授業の準備をしていた。
ロンはチェス盤を片づけたあとも、何度か駒を手に取っては動きを確かめている。
「次は絶対に負けないからな……」
「ロン、ハリーに勝ったばかりじゃない」
「だからだよ! 次に負けたら悔しいだろ!」
「もう次の勝負のことを考えているの?」
「当たり前だろ!」
ハーマイオニーは呆れたように笑いながら、羊皮紙に宿題を書き込んだ。
ハリーはその隣で、今日のチェスのことを日記に書いていた。
ロンとの勝負。
レオの助言。
ハーマイオニーが一生懸命に考えてくれたこと。
そして、いつか自分もロンに勝ちたいという気持ち。
書き終えると、ハリーは満足そうに日記を閉じた。
「よし、終わった!」
「ハリー、明日の宿題は?」
「えっ、あっ! そっちもあった!」
「もう、ハリーったら!」
ハーマイオニーが思わず声を上げ、ロンが腹を抱えて笑った。
レオも笑いながら、ハリーの机に残っていた教科書を指さす。
「大丈夫。まだ時間はあるから、一緒に確認しようか」
「ありがとう、レオ兄さん!」
ハリーは慌てて教科書を開いた。
誰かに助けてもらうことを恥ずかしいとは思わない。分からないことがあれば尋ねればいいし、失敗したら次に頑張ればいい。
ハリーは、そうやって少しずつ成長していた。
その姿を、レオは嬉しそうに見守っている。
「さて、どこから始めようか?」
「えっとね、まずはここ!」
ハリーが指さした問題を見て、レオはうなずいた。
「うん。じゃあ、一緒に考えてみよう」
談話室には、再びペンの走る音と、時折交わされる楽しげな会話が響き始めた。
チェス盤の上では、白と黒の駒が何度も戦いを繰り広げていた。
けれど、勝っても負けても、そこには次の挑戦が待っている。
ハリーはそのことを、今日の勝負を通して少しだけ知ったのだった。