午後の日差しが、居間のカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
窓の外では小鳥がさえずり、庭の奥からは魔法生物たちの楽しげな鳴き声が聞こえてくる。朝からたっぷり遊んだハリーは、ソファの上で絵本を抱えたまま、すっかり眠ってしまっていた。
「……すぅ……すぅ……」
「寝ちゃったね、レオ」
アリシアが声をひそめて笑った。
「うん。お昼ご飯のあとも、庭でいっぱい遊んだからね」
レオはハリーの隣に腰掛け、ずり落ちかけた毛布を肩まで引き上げた。ハリーは寝返りを打ち、小さな手でレオの服をぎゅっとつかむ。
「……レオ兄さん……」
「はいはい、ここにいるよ」
眠ったまま自分を呼ぶ従弟に、レオは思わず頬を緩めた。
まだ幼いハリーにとって、レオはいつもそばにいてくれる大好きな兄だった。絵本を読んでくれる。庭で一緒に遊んでくれる。おやつを半分こしてくれる。転んだときには手を差し伸べて、泣きそうなときには頭を撫でてくれる。
だから、眠っているときでさえ、レオがそばにいると安心できるのだろう。
「ふふ。すっかり懐かれたわね」
「僕もハリーが大好きだからね」
レオは当たり前のように答えた。
「大きくなっても、ずっと一緒に遊ぶんだ」
「その頃には、ハリーのほうがあなたより速く走れるようになっているかもしれないわよ?」
「えっ。それは困るなあ」
レオは少し困ったように眉を下げたあと、すぐに笑った。
「じゃあ、僕ももっと速く走れるようになろう!」
「ふふっ。いい目標ね」
アリシアが息子の頭を撫でようとした、そのときだった。
――コン、と。
窓の外から、小さな音がした。
風に枝が当たったような、ごくありふれた音。
けれど、台所で食器を片づけていたロイドの手が止まった。
彼は窓の外へ目を向ける。
庭の向こう。生垣のさらに先に広がる林。その木々の間に、ほんの一瞬だけ、不自然な影が動いた。
「アリシア」
ロイドの声から、先ほどまでの穏やかさが消えた。
「ハリーを連れて、奥の部屋へ。窓から離れていてくれ」
「……来たの?」
「ああ。おそらくな」
アリシアは一度だけハリーを見た。
幼い息子の腕の中で、ハリーは絵本を抱きしめたまま眠っている。何も知らず、何も疑わず、夢の中で楽しそうに口元を緩めていた。
「わかったわ」
アリシアは静かに頷き、ハリーを起こさないように抱き上げた。
「ん……?」
ハリーが小さく身じろぎする。
「大丈夫よ、ハリー。少しだけお部屋を移ろうね」
「……おかあさん……?」
「そうよ。もう少し眠っていていいの」
「……レオ兄さんも……?」
アリシアが答えるより先に、レオがハリーの手をそっと握った。
「僕もあとで行くよ。起きたら、また一緒に遊ぼうね」
「……うん……」
ハリーは安心したように目を閉じた。
アリシアが奥の部屋へ向かうのを見送ると、レオはソファから降りた。
ロイドは息子を見て、わずかに目を細める。
「レオ。君も母さんと一緒に――」
「お父さん」
レオは父親を見上げた。
「お庭の向こうに、知らない人がいるんでしょう?」
「……気づいていたのか」
「うん。さっきから、小鳥たちが鳴くのをやめているんだ。いつもなら、あの木のところでずっと鳴いているのに」
ロイドは一瞬だけ言葉を失った。
息子はまだ幼い。けれど、魔法生物に囲まれて育ったせいか、普通の子どもなら見落とすような変化をよく拾い上げる。
音の違い。風の流れ。生き物たちの反応。
そして、ときおり見せる、年齢に似合わない魔法への鋭い感覚。
「……そうだな。知らない人がいる」
「ハリーを探しているの?」
その問いに、ロイドはすぐには答えなかった。
窓の外を見つめたまま、低い声で告げる。
「おそらく、そうだ」
レオの顔から笑みが消えた。
「どうして?」
「ハリーが誰なのか、彼らは知っている。あの子を利用しようとしている連中もいるんだ」
「……そんなの、だめだよ」
レオはぎゅっと拳を握った。
「ハリーは、まだ小さいんだよ。何も悪いことなんてしていないのに」
「ああ。だから、父さんが止める」
ロイドは息子の肩に手を置いた。
「君はハリーのところへ行きなさい。母さんと一緒に、あの子を守ってくれ」
「……でも」
「レオ」
ロイドは、息子の目をまっすぐに見つめた。
「守るというのは、相手を倒すことだけじゃない。大切な人が安心して眠れる場所を守ることも、立派な仕事だ」
レオは唇を結んだ。
そして、奥の部屋で眠るハリーの顔を思い浮かべる。
今日も庭で笑っていたハリー。木の実を拾って、魔法生物に名前をつけて、絵本のページをめくるたびに目を輝かせていたハリー。
明日も、あさっても、同じように笑っていてほしい。
「……わかった」
レオは頷いた。
「ハリーのことは、僕が守るよ」
「頼んだぞ」
ロイドは微笑み、杖を手に取った。
その瞬間、彼の纏う空気が変わった。
穏やかな父親の顔はそのままなのに、立ち姿には隙がない。杖を握る指は迷いなく、視線は窓の外の一点を正確に捉えていた。
「さて。お客様には、そろそろお帰り願おうか」
ロイドは玄関へ向かった。
レオは一度だけその背中を見つめ、それから奥の部屋へと走った。
*
林の中では、三人の魔法使いが身を潜めていた。
黒い外套。顔を隠すフード。手にした杖には、薄暗い光がまとわりついている。
「間違いないのか?」
「ああ。この家にいる。例の赤ん坊だ」
「魔法使いの家族に囲まれているとは聞いていたが……まさか、あのスキャマンダー家とはな」
「関係ない。あの子を押さえれば、こちらにも利用価値がある」
先頭の男が、家の窓を見据えた。
「ヴォルデモート卿が消えたからといって、すべてが終わったわけじゃない。残った者には、残った者のやり方がある」
「だが、家主が厄介だ。あの男は魔法生物の専門家だろう?」
「正面から相手をする必要はない。眠りの呪文をかけて、赤ん坊だけ連れ出せば――」
「それは困るな」
背後から、落ち着いた声がした。
三人が同時に振り返る。
そこに立っていたのは、ロイド・スキャマンダーだった。
いつからそこにいたのか、誰も気づいていなかった。
「他人の家の子どもを連れ出す相談とは。ずいぶんと感心しない話だ」
「スキャマンダー……!」
男の一人が杖を構える。
「なぜここに――」
「私の家の庭先だぞ。主人が出てきて、何かおかしいか?」
ロイドは困ったように首を傾げた。
「それに、君たちが近づく前から気づいていた。庭の魔法生物たちが、ずいぶん騒いでくれたからね」
「黙れ!」
先頭の男が杖を振り上げた。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が夜の林を切り裂く。
だが、ロイドは杖を大きく振るうことすらしなかった。
「プロテゴ」
透明な盾が呪文を受け止め、光は音もなく弾かれた。
そのままロイドは杖先をわずかに動かす。
「エクスペリアームス」
三本の杖が、ほとんど同時に男たちの手から飛び出した。
「なっ……!」
「馬鹿な!」
「杖を拾うのはやめておいたほうがいい。次は手元に戻らないようにするからね」
ロイドは静かに告げた。
男たちは歯を食いしばり、空いた手で呪文を放とうとする。
しかし、杖を失った魔法使いたちの動きは遅かった。
ロイドの杖先が、地面を軽く指す。
「インカルセラス」
地面から現れた縄が三人の腕と脚に絡みつき、彼らをまとめて拘束した。
それでも、先頭の男は諦めなかった。
「お前を倒せば――!」
「まだ続けるのか?」
ロイドは小さく息を吐いた。
「子どものいる家の近くで、これ以上騒がれるのは困るんだが」
男が何かを叫ぼうとした、そのとき。
林の奥で、青白い光が弾けた。
ロイドは即座に振り向いた。
倒れた木の陰。そこに、もう一人いた。
仲間たちがロイドの注意を引いている間に、家へ回り込もうとしていた魔法使いだ。
男は、窓の向こうに見える小さな人影を見つけていた。
「見つけたぞ……!」
杖が、家のほうへ向けられる。
「アバ――」
呪文が完成することはなかった。
男の杖先から放たれた光は、家に届く直前で、まるで見えない壁にぶつかったように弾け飛んだ。
「な、何だ!?」
男が目を見開く。
窓の向こうには、誰もいない。
ただ、部屋の中で小さな青い光が一度だけ瞬き、すぐに消えた。
*
奥の部屋。
ハリーはベッドの上で、毛布を抱えて眠っていた。
「……ん……」
かすかな物音に反応したのか、眉が少しだけ動く。
その横で、レオが杖を握っていた。
まだ正式に魔法学校へ入学する年齢にもなっていない。杖の扱いも、呪文の知識も、同年代の子どもと比べれば少し変わっている程度――少なくとも、周囲の大人たちはそう考えていた。
けれど、レオ自身は気づき始めていた。
魔法の言葉を唱えたとき、呪文の形が頭の中に浮かぶことがある。
どこを変えれば、もっと強くなるのか。
どこをつなぎ直せば、違う働きを持たせられるのか。
まるで、組み立て途中のおもちゃを見て、足りない部品がすぐにわかるように。
「……さっきの、できたかな」
レオは杖先を見つめた。
先ほど、窓の外に向けられた魔法を感じた瞬間、考えるより先に手が動いていた。
守らなきゃ。
ハリーに、当たっちゃだめだ。
その気持ちだけで、いつも使っている簡単な防御の魔法を思い出した。
でも、そのままでは足りない気がした。
だから、少しだけ形を変えた。
攻撃を防ぐだけじゃなく、相手の魔法を跳ね返して、こちらの居場所も悟らせないように。
どうやってそんなことができたのか、レオにもよくわからない。
「……不思議だなあ」
レオは首を傾げた。
そのとき、ベッドの上から声がした。
「……レオ兄さん……?」
「わっ!」
レオは飛び上がった。
ハリーが半分だけ目を開けて、眠そうにこちらを見ている。
「どうしたの、ハリー? 起きちゃった?」
「……どこ、行ってたの……?」
「えっとね。ちょっとだけ、お部屋の様子を見てたんだ」
「……一緒にいて……」
ハリーは毛布から手を出した。
その小さな手を見て、レオは胸の奥がきゅっとなった。
「うん。もちろん!」
レオはすぐにベッドのそばへ戻り、ハリーの手を握った。
「僕、ここにいるよ」
「……ほんと?」
「ほんと。約束する」
ハリーは安心したように笑った。
「……えへへ……」
そして、また眠りに落ちていく。
レオはその寝顔を見つめた。
さっきまで感じていた緊張が、少しずつほどけていく。
「……もう大丈夫だからね」
聞こえないほどの小さな声で、レオは呟いた。
「ハリーは、何も心配しなくていいんだよ」
*
林の中では、最後の男が杖を失い、地面に膝をついていた。
「何をした……。あの子に、何をしたんだ!」
「何もしていないさ」
ロイドは男の杖を拾い上げた。
「ただ、君がこの家に魔法を向けた。それだけだ」
「赤ん坊が……あの赤ん坊が、何かしたのか!?」
「さあね」
ロイドは答えを濁した。
家のほうを一瞬だけ振り返る。
窓には、もう何の光も残っていない。
レオが何をしたのか、ロイドにはおおよその見当がついていた。
けれど、今はそれを確かめる必要はない。
大切なのは、ハリーが無事であること。そして、レオもまた無事であることだ。
「君たちには、魔法省で話を聞いてもらう。抵抗はしないでくれ」
「我々を捕らえるつもりか……!」
「もちろん。子どもを狙ったんだ。見逃す理由がない」
ロイドは杖を軽く振った。
拘束された男たちの周囲に、移送用の魔法陣が浮かび上がる。
「では、失礼するよ」
青白い光が広がり、男たちの姿は林から消えた。
あとに残ったのは、夜の静けさと、風に揺れる木々の音だけだった。
ロイドはしばらくその場に立ち、周囲に新たな気配がないことを確かめた。
それから、家へと戻っていった。
*
「おかえりなさい、あなた」
居間に戻ると、アリシアが温かい紅茶を用意して待っていた。
「終わったの?」
「ああ。全員、魔法省に引き渡した。しばらくは近づいてこられないだろう」
「そう……よかった」
アリシアはほっと息をついた。
「ハリーは?」
「眠っているよ。レオもそばにいるわ」
「そうか」
ロイドは紅茶を受け取り、ひと口飲んだ。
「……あの子は、気づいていたようだな」
「レオが?」
「ああ。庭の小鳥たちの様子で、侵入者の存在を察したらしい」
アリシアは驚いたように目を丸くした。
「まだあんなに小さいのに……」
「それだけじゃない。家に向けられた魔法が、途中で弾かれた」
「あなたの防御魔法ではないの?」
「私が張った結界とは違う。もっと細かく組み替えられた魔法だった」
ロイドはカップを置いた。
「おそらく、レオが咄嗟に何かをしたんだろう」
アリシアは、しばらく黙っていた。
やがて、息子のいる部屋へ目を向ける。
「……あの子、ハリーを守ろうとしたのね」
「ああ」
「きっと、怖かったでしょうに」
「そうだな」
ロイドは穏やかに頷いた。
「それでも、あの子はハリーを守ろうとした」
父親として誇らしい。
だが、それ以上に、まだ幼い息子が自分の力を知らないまま危険に触れたことが気がかりだった。
レオの才能は、きっとこれから大きく育つ。
だからこそ、急がせてはいけない。
知識も、魔法も、力の使い方も。大切なものを守るためには、学ばなければならないことがたくさんある。
「明日、少し話をしよう」
ロイドは静かに言った。
「魔法のことも、守るということも。あの子がわかる言葉で、少しずつ教えていこう」
「ええ。それがいいわね」
アリシアは微笑んだ。
「でも、今夜はまず、あの子たちをゆっくり眠らせてあげましょう」
「そうしよう」
*
夜が更けても、ハリーは何も知らずに眠っていた。
夢の中では、今日見た不思議な鳥たちが空を飛び、庭いっぱいに色とりどりの花が咲いている。
レオはその隣を走っていた。
手を伸ばせば届く距離に、いつも大好きな兄がいる。
それだけで、ハリーは安心して笑っていられた。
一方、ベッドの横に座ったレオは、眠るハリーの髪をそっと撫でていた。
「……明日も、いっぱい遊ぼうね」
返事の代わりに、ハリーが小さく寝息を立てる。
レオはくすりと笑い、毛布を整えた。
自分の魔法が、どうしてあんなふうに変わったのかは、まだわからない。
でも、ひとつだけ確かなことがあった。
ハリーを傷つけさせたくない。
悲しい思いをしてほしくない。
大好きな家族と一緒に、毎日笑っていてほしい。
その願いは、誰に教わったものでもなかった。
レオ自身の心から生まれたものだった。
「……おやすみ、ハリー」
レオは小さな声で囁いた。
「僕が、ちゃんと守るからね」
窓の外では、夜風が木々を揺らしていた。
家を囲む結界は静かに輝き、庭の魔法生物たちは安心したように寝床へ戻っていく。
闇に潜む者たちは退けられた。
けれど、この家の中では何も変わらない。
明日になれば、ハリーはきっと目を覚まして、朝ご飯をねだるだろう。
レオの手を引いて庭へ走り、魔法生物たちと遊び、夕方にはお腹を空かせて帰ってくる。
そんな、当たり前の一日が続いていく。
それを守るために、父も母も、そしてレオもいる。
この家の小さな救世主は、まだ何も知らない。
自分がどれほど愛されているのかも。
自分のために、どれほどの人が力を尽くしているのかも。
そして、自分の隣で眠る従兄が、いつか魔法界を驚かせるほどの才能を秘めていることも。
今はただ、家族の愛情に包まれて、安心して眠っていればいい。
明日もまた、庭には小鳥の歌声が響くのだから。