ホグワーツの廊下に、春の気配がほんの少しずつ漂い始めていた。
とはいえ、石造りの城の中はまだ肌寒い。窓の外では風が木々を揺らし、授業を終えた生徒たちが、ローブの襟を押さえながら次々と廊下を歩いていた。
「ねえ、ハリー。やっぱり、ニコラス・フラメルって普通の錬金術師じゃないと思うの」
図書館から戻る途中、ハーマイオニーが羊皮紙を抱え直しながら言った。
「この前調べた記録にも、ほかの錬金術師とは違う扱いを受けているような記述があったでしょう? 名前が残っているのに詳しい経歴が見つからないなんて、どう考えても不自然よ!」
「うーん……有名人なのに秘密がいっぱいってこと?」
ハリーが首を傾げる。
「そういうこと! だから、もっと調べる必要があるのよ!」
「でもさ、図書館の本はかなり調べたんだろ?」
ロンが疲れた顔で口を挟んだ。
「俺、もう錬金術って言葉を見るだけで、頭の中が本棚みたいになりそうだよ」
「ロン、そんなことを言っていたら、いつまでたっても分からないままよ!」
「分かってるって! ただ、ちょっと休みたいだけだ!」
「二人とも、そんなに言い合わなくても大丈夫だよ」
レオが二人の間に穏やかに声をかけた。
「調べることは大切だけど、疲れているときに無理をしても、いい考えは浮かびにくいからね。今日は一度、別のことをして気分転換しようか」
「別のこと?」
ハリーがぱっと顔を上げた。
「うん。たとえば、チェスをするとか」
「それなら賛成!」
ハリーは勢いよく手を挙げた。
「俺も賛成! ハーマイオニーも、たまには本を閉じたらどうだ?」
「わ、分かってるわよ! 少し休憩するくらい、私だってできるもの!」
ハーマイオニーは抱えていた羊皮紙を胸に押しつけた。
しかし、数秒後には、またその端をめくって記述を確認し始めてしまう。
「……ハーマイオニー?」
「あと一つだけ!」
ロンが大きなため息をつき、ハリーが笑い出した。
レオも微笑みながら、彼女の手元を覗き込む。
「その熱心さは、ハーマイオニーのいいところだね。でも、せっかくだから、今日はみんなでゆっくりしよう」
「……レオがそう言うなら、そうするわ」
ハーマイオニーは羊皮紙を閉じた。
その返事があまりにも素直だったので、ロンは思わず口を開きかけたが、ハリーに肘でつつかれて黙った。
*
その日の夕方。
四人はグリフィンドールの談話室で、チェスや宿題をしながら過ごしていた。
暖炉の火が赤々と燃え、窓際の椅子には夕日が差し込んでいる。
「よし、今度こそ勝つぞ、ロン!」
ハリーがチェス盤に身を乗り出した。
「何回でも相手してやるよ! ただし、負けたからって駒を投げるなよ!」
「投げないよ!」
「前に危うく投げそうになってたじゃないか!」
「それは……悔しかったんだもん!」
ハリーは頬を膨らませた。
レオが思わず笑う。
「悔しいと思えるのは、それだけ真剣だったってことだね。でも、駒は大事に扱ってあげよう」
「うん!」
ハリーは元気よくうなずき、チェス盤に向き直った。
しばらくして、ロンが勝負に勝ち、ハリーが悔しそうに頭を抱える。
「うわあ、また負けた!」
「惜しかったけどな! 最後のところで、もう一つ別の手を考えていればよかったんだ」
「次こそは勝つからね!」
「おう、待ってるぜ!」
二人のやり取りを見ながら、ハーマイオニーは楽しそうに笑った。
レオはその横で、読みかけの本を閉じた。
このところ、彼は授業の合間にも魔法の痕跡を調べていた。
ハリーの箒に残されていた不自然な魔力。
禁じられた森で見つかった、傷ついた一角獣。
そして、断片的な記録しか残されていないニコラス・フラメル。
それぞれが別々の問題なのか、それともどこかでつながっているのか。
今の段階では、まだ判断できなかった。
だからこそ、目にした事実を丁寧に積み重ねていく必要がある。
「レオ兄さん?」
ハリーが顔を上げた。
「どうしたの? 難しい顔してるよ」
「えっ? そう見えた?」
「うん。何か考えごと?」
レオは少しだけ目を丸くし、それから笑った。
「ちょっとね。でも、今はハリーの次の勝負を応援する時間だよ」
「よーし! じゃあ、次は絶対に勝つ!」
「おいおい、俺も負けるつもりはないからな!」
ロンが胸を張る。
ハリーは勢いよくチェス盤へ向き直り、今度は真剣な表情で駒を見つめ始めた。
レオはその姿を見守りながら、心の中で小さく息をついた。
ハリーが安心して笑っていられる時間を、できるだけ守ってやりたい。
それが、彼にとって何より大切なことだった。
*
数日後。
ハリーたちは、再び図書館でニコラス・フラメルについて調べていた。
「……あった!」
突然、ハーマイオニーが声を上げた。
「ねえ、これを見て!」
彼女が開いた本には、古い錬金術師たちの功績について記されていた。
「ニコラス・フラメルの名前があるわ! ほら、ここ!」
「本当だ!」
ハリーが身を乗り出す。
「でも、これだけじゃ、何をした人なのかまでは分からないな……」
ロンが文章を追いながら言った。
「そうね。けれど、少なくとも錬金術の分野で重要な人物として扱われていることは確かよ」
ハーマイオニーは別のページを開き、関連する記述を探した。
レオも本を受け取り、文章に目を通す。
「なるほど……。ただ、これだけでは、僕たちが知りたいことの答えにはならないね」
「そうなのよ!」
ハーマイオニーは悔しそうに声を上げた。
「どうして肝心なところが書かれていないのかしら!」
「秘密にしておきたいことだったのかもしれないね」
レオは本を閉じた。
「でも、無理に答えを決めつける必要はないよ。今は、フラメルという人物が錬金術の歴史に関わっていること。それを確かめられただけでも、前進だと思う」
「……うん。そうね」
ハーマイオニーは少し考え、それからうなずいた。
「分かったわ。もっと別の資料も探してみる」
「俺も探すよ。今度こそ何か見つけてやる!」
ロンが腕まくりをする。
「僕も!」
ハリーも元気よく手を挙げた。
四人はそれぞれ別の本棚へ向かい、調査を続けた。
しかし、その日も決定的な情報は得られなかった。
フラメルの名前は、いくつかの本に確かに残っている。
それなのに、彼が何を成し遂げたのか、どうしてそれほど重要な人物なのか、肝心な部分が見えてこない。
まるで、何か大切な情報だけが、意図的に隠されているかのようだった。
*
夜。
レオはラベンクローの談話室で、一人、魔法の痕跡について記録をまとめていた。
窓の外には星が瞬き、暖炉の火が静かに揺れている。
机の上には、これまで調べた内容を書き留めた羊皮紙が並んでいた。
箒に残っていた魔力の揺らぎ。
禁じられた森の周辺で報告された異常な気配。
そして、ニコラス・フラメルに関する断片的な記録。
レオは羽根ペンを動かしながら、何度も記録を読み返した。
「……まだ、つながらないな」
小さく呟き、ペンを置く。
情報が足りない以上、無理に結論を出すことはできない。
それでも、何かを見落としているような気がしてならなかった。
レオは椅子の背にもたれ、窓の外へ視線を向けた。
ホグワーツの夜は静かだった。
廊下を歩く生徒の声も、遠くの教室から聞こえる物音も、今はない。
ただ、冬の風が窓を撫でる音だけが、かすかに響いている。
「……ハリーたちが、危ない目に遭わなければいいけれど」
レオはそう呟き、すぐに首を振った。
今はまだ、確かな危険があると決まったわけではない。
不安だけで動くのではなく、事実を確かめることが大切だ。
彼は再び羊皮紙へ目を落とし、記録の続きを書き始めた。
翌日になれば、また新しい手がかりが見つかるかもしれない。
分からないことがあっても、焦る必要はない。
一つずつ調べ、確かめ、仲間と考えていけばいい。
レオはそう自分に言い聞かせながら、羽根ペンを走らせ続けた。
そして同じ頃、グリフィンドールの寝室では、ハリーが明日の授業を楽しみにしながら眠りについていた。
夢の中では、家族と友達が笑っている。
ハリーはまだ知らない。
ホグワーツの奥深くに、簡単には近づけない秘密が眠っていることを。
その秘密へと続く道が、少しずつ彼らの前に姿を現そうとしていることを。