「ただいまーっ!」
玄関の扉が開くなり、ハリーの元気な声が家中に響き渡った。
「お母さん! お父さん! 見て、見て! ぼくの杖だよ!」
ハリーは靴を脱ぐのももどかしそうに、両手で抱えていた細長い箱を掲げた。
「おかえりなさい、ハリー。まあ、ずいぶん嬉しそうね」
台所から顔を出したアリシアは、ハリーの弾けるような笑顔を見て、思わず頬を緩めた。
「うん! オリバンダーさんのお店で、ぼくにぴったりの杖が見つかったんだ!」
「それはよかったわね。どんな杖なの?」
「えっとね、ヒイラギっていう木でできていて、不死鳥の羽根が入ってるんだって!」
ハリーは箱を開けようとした。
しかし、慌てすぎて蓋がうまく開かない。
「あれっ? あれれ?」
「落ち着いて、ハリー。箱の端を持って、ゆっくり開けてごらん」
後ろからレオが声をかけた。
「う、うん!」
ハリーは言われたとおりに両手を添え、そっと蓋を持ち上げた。
中には、赤みを帯びた木の杖が横たわっている。
「わあ……!」
ハリーの顔が、ぱっと明るくなった。
「ねえ、お母さん! ぼく、これで魔法使いなんだよ!」
「ええ。これから、たくさんのことを学んでいくのね」
アリシアは膝をつき、ハリーの目線に合わせた。
「でも、杖を持ったからといって、何でもできるわけではないのよ。魔法は、きちんと学んで、正しく使うことが大切なの」
「うん! わかってる!」
ハリーは力強く頷いた。
「ぼく、みんなを笑顔にする魔法を覚えるんだ!」
「ふふっ。素敵な目標ね」
アリシアはハリーの頬を撫でた。
「あなたなら、きっと楽しいことをたくさん見つけられるわ」
「えへへ!」
ハリーは照れたように笑った。
その様子を見ていたロイドが、廊下の奥からやってきた。
「おや、帰ってきたか。杖は見つかったようだね」
「うん、お父さん!」
「それはよかった。では、さっそく魔法の練習を――」
「あなた?」
「……いや、もちろん、ホグワーツで学ぶのが先だが」
アリシアがにっこり笑っただけで、ロイドは言葉を引っ込めた。
レオは口元を押さえて笑った。
「お父さん、また怒られちゃうよ」
「レオまで……」
「だって、ハリーは今日、初めて自分の杖を手に入れたばかりなんだから。まずは大切に扱うことを覚えないとね」
「そうだな。確かに、そのとおりだ」
ロイドは素直に頷いた。
「では、杖をしまうための場所を作っておこう。大切な道具だからね」
「ありがとう、お父さん!」
ハリーは杖の箱をぎゅっと抱きしめた。
「ぼく、大切にするよ!」
*
昼食のあと、レオは自分の部屋へ戻った。
机の上には、ダイアゴン横丁で購入した教科書やノートが積まれている。窓から差し込む日差しが、革表紙の本を柔らかく照らしていた。
「さて、と……」
レオは椅子に腰掛け、買ってきたばかりの古代ルーン文字の本を開いた。
ページには、さまざまな記号が記されている。
直線と曲線。小さな刻み。互いに組み合わされた文字。
ひとつひとつは単純に見えても、組み合わせによって意味が変わる。文字の配置や向きによって、魔法的な働きまで異なる場合がある。
レオは羽根ペンを手に取り、気になった記号をノートに書き写した。
「この組み合わせだと……こっちは意味を補強しているのかな?」
独り言を呟きながら、別の記号を隣に書き加える。
すると、頭の中で何かが繋がった。
まるで、ばらばらだったパズルの欠片が、ぴたりとはまるように。
「……あっ!」
レオは思わず身を乗り出した。
「そうか。ここの配置を変えれば、働きが変わるんだ!」
興奮して、羽根ペンを動かす。
ひとつの記号を少しずらし、別の記号を反転させる。紙の上に描かれた文字の並びが変わるたび、頭の中で魔法の構造が組み上がっていく。
試しに、レオは杖を取り出した。
机の端には、紙を押さえるための小さな木製の文鎮が置かれている。
「……ちょっとだけ、試してみよう」
レオは文鎮に杖先を向けた。
まだ本格的な呪文の練習をするつもりはなかった。けれど、さっき思いついた仕組みが、実際の魔法にも応用できるのか確かめてみたかった。
普段なら、簡単な浮遊呪文を使うところだ。
レオはその呪文の構造を頭に思い浮かべ、先ほど書いた記号の配置を重ねていく。
「……ウィンガーディアム・レビオーサ」
声に出したのは、よく知っている呪文だった。
文鎮がふわりと浮かび上がる。
それだけなら、何も珍しくない。
ところが、レオが杖を横に動かすと、文鎮はゆっくりと回転しながら、机の上を滑るように移動した。
「おおっ!」
レオは目を輝かせた。
「浮かせたまま、向きも変えられるんだ!」
彼が杖を止めると、文鎮もぴたりと静止した。
レオは思わず笑顔になる。
「やった! うまくいった!」
そのとき、扉の向こうから声がした。
「レオ兄さん! 何してるの?」
「ハリー?」
扉が開き、ハリーが顔を覗かせた。
「今、何か光った気がしたんだけど!」
「ああ、ちょっと魔法を試していたんだ」
「魔法! 見せて、見せて!」
ハリーは目を輝かせ、部屋へ駆け込んできた。
「ねえ、今の、何の魔法?」
「浮遊呪文だよ。物を浮かせる魔法なんだ」
「ぼくの杖でもできる?」
「いつか授業で習うと思うよ。今はまだ、杖を持ったばかりだからね」
「そっかあ……」
ハリーは少し残念そうに口を尖らせた。
その顔を見て、レオは笑った。
「でも、ハリーがホグワーツに入学したら、いろんな魔法を一緒に勉強できるよ」
「ほんと!?」
「うん。僕も、まだまだ勉強することがたくさんあるからね」
ハリーはすぐに笑顔を取り戻した。
「じゃあ、ぼくも頑張る!」
「その意気だよ」
レオはハリーの頭を撫でた。
ハリーは机の上のノートを覗き込んだ。
「それ、何を書いてるの?」
「古代ルーン文字だよ。魔法に関係する、昔から伝わっている文字なんだ」
「へえ……」
ハリーはノートをじっと見つめた。
「なんだか、迷路みたいだね」
「迷路?」
「うん! こっちから進んで、ここを曲がって、こっちに行くと……」
ハリーは指先で、紙の上の記号をなぞった。
「ゴールに着くんだよね?」
レオは瞬きをした。
ハリーはもちろん、古代ルーン文字を読めるわけではない。ただ、見た目の形を迷路に例えただけだ。
それでも、レオにはその言葉が妙にしっくりきた。
「……そうだね。似ているところもあるかもしれない」
「ぼく、こういうの好きかも!」
「本当?」
「うん! 難しそうだけど、なんだか楽しそう!」
レオは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、今度、簡単なところから一緒に見てみようか」
「やったあ!」
ハリーは両手を上げた。
その拍子に、机の端にあった羽根ペンが転がり落ちそうになる。
「あっ!」
レオが手を伸ばすより早く、ハリーが慌てて掴んだ。
「危なかったあ……!」
「ありがとう、ハリー」
「えへへ。レオ兄さんの大事なペンだもんね!」
ハリーは羽根ペンをそっと机に戻した。
その仕草に、レオの胸が温かくなる。
自分が大切にしているものを、ハリーも大切にしてくれる。
それが、何より嬉しかった。
*
数日後。
レオとハリーは、ホグワーツへの入学準備についてロイドから話を聞いていた。
「必要なものは、ほとんど揃ったな」
ロイドは一覧表を確認しながら言った。
「残る大きな準備は、出発までに持ち物を整理しておくことくらいだ」
「荷物、いっぱいあるよね!」
ハリーは自分の袋を覗き込んだ。
「教科書も、ローブも、望遠鏡も!」
「そうだね。忘れ物をしないように、出発前にもう一度確認しよう」
レオはノートに必要な品物を書き出していた。
「それから、学校へ持っていく本も選んでおきたいな」
「本なら、いっぱい持っていこうよ!」
「全部持っていくわけにはいかないよ、ハリー」
「ええーっ! どうして!?」
「重いからだよ」
「魔法で浮かせればいいんじゃない?」
ハリーの答えに、ロイドが吹き出した。
「ははは! なかなかいい考えだな!」
「あなた、すぐに賛成しないの!」
「いや、合理的だと思ったんだが……」
「持っていく本を選ぶことも勉強のうちよ」
アリシアはきっぱりと言った。
レオは笑いながら、ハリーの肩を軽く叩いた。
「じゃあ、持っていく本を三冊選ぼうか」
「三冊!?」
「うん。まずはそれくらいにして、必要になったら学校の図書館で借りればいいよ」
「……わかった!」
ハリーは少し考えたあと、元気よく頷いた。
「じゃあ、魔法生物の本と、絵本と……」
「絵本も持っていくの?」
「だって、寝る前に読みたいもん!」
レオは笑った。
「そうだね。それなら、僕も一冊持っていこうかな」
「どんな本?」
「古代ルーン文字の入門書」
「……えっと、寝る前に読むの?」
「うん。面白いよ?」
「レオ兄さん、すごいね……」
ハリーは感心したように呟いた。
アリシアがくすくすと笑う。
「二人とも、読む本の趣味がずいぶん違うわね」
「でも、一緒に読むこともできるよ!」
ハリーがすぐに言った。
「レオ兄さんが難しい本を読んで、ぼくが絵本を読むの!」
「それは一緒に読んでいると言えるのかな?」
「言えるよ!」
ハリーは胸を張った。
「同じ部屋で読むんだもん!」
「なるほど。それなら間違いなく一緒だね」
レオは笑って頷いた。
ロイドは二人の様子を見ながら、ふと真面目な顔になった。
「ホグワーツでは、楽しいことばかりとは限らない。授業が難しいと感じることもあるだろうし、友達と意見が合わないこともあるかもしれない」
ハリーは顔を上げた。
「喧嘩するの?」
「そういうこともあるだろうね。でも、大切なのは、何かあったときに一人で抱え込まないことだ」
ロイドは二人を見つめた。
「わからないことがあれば先生に聞く。困ったときは信頼できる人に相談する。そして、自分が間違えたと思ったら、素直に認める。そういうことを忘れないでほしい」
「うん」
レオは真剣に頷いた。
「僕も、ハリーが困っていたら力になるよ」
「ぼくも、レオ兄さんが困っていたら助ける!」
ハリーは勢いよく手を挙げた。
「お片づけとか!」
「……それは、ぜひお願いしたいな」
レオは苦笑した。
「あなたたち……」
アリシアは呆れたように首を振ったが、その顔には笑みが浮かんでいた。
「でも、そうね。二人で助け合うのはいいことだわ」
ロイドも満足そうに頷いた。
「その気持ちを忘れないようにな」
*
その日の夕方、レオは庭の片隅にある小さな作業台へ向かった。
魔法生物のための道具を手入れする場所だ。木の箱や縄、餌を入れる容器などが並んでいる。
レオは昼間に使った杖を取り出し、軽く握り直した。
先ほど試した浮遊呪文の感覚が、まだ手の中に残っている。
呪文を唱えたとき、魔法の構造が頭に浮かんだ。
その一部を少しだけ変える。
すると、魔法の働きが変化する。
どうして自分にそんなことができるのか、レオにはまだわからなかった。
「……もっと勉強したら、わかるかな」
彼は杖先を眺めた。
そのとき、庭の向こうから、ハリーの声が聞こえた。
「レオ兄さーん! こっち来てー!」
「はーい! 今行くよ!」
レオは杖をしまい、声のしたほうへ走った。
庭の草地では、ハリーが小さな魔法生物を相手にしゃがみ込んでいた。
「見て! この子、ぼくの手から餌を食べてくれたんだ!」
「本当だ。上手にできたね」
「えへへ! 最初は逃げちゃったんだけど、ゆっくり手を出したら食べてくれたんだよ!」
「相手が怖がらないように、ちゃんと考えたんだね」
「うん! 仲良くなりたいもん!」
ハリーは嬉しそうに笑った。
レオも隣にしゃがみ、魔法生物の様子を見守った。
夕方の風が草を揺らし、遠くから鳥の鳴き声が聞こえてくる。
魔法の杖を手に入れたことも、ホグワーツへ行くことも、二人にとって大きな変化だった。
けれど、こうして庭で遊ぶ時間は変わらない。
「ねえ、レオ兄さん」
「なあに?」
「ホグワーツにも、魔法生物はいるのかな?」
「いると思うよ。ハグリッドという、魔法生物に詳しい人もいるんだ」
「ハグリッド?」
「うん。どんな人なのか、僕も楽しみだね」
「じゃあ、会えたら一緒にお話ししよう!」
「そうしようか」
レオは微笑んだ。
ハリーは魔法生物の頭をそっと撫で、満足そうに立ち上がった。
「よーし! ぼく、ホグワーツでもいっぱい友達を作る!」
「うん。きっとできるよ」
「レオ兄さんもね!」
「僕も?」
「そうだよ! レオ兄さん、いろんなこと知ってるから、みんなとお話しできるよ!」
レオは少し照れくさくなった。
「ありがとう。ハリーも、いろんな人と仲良くなれると思うよ」
「ほんと!?」
「うん。ハリーは、嬉しいときに嬉しいって言えるし、困っている人がいたら放っておけないからね」
ハリーは目をぱちぱちさせたあと、にっこり笑った。
「えへへ。そうなれたらいいな!」
「もう、そうなっていると思うけどね」
レオはハリーの頭を撫でた。
ハリーは嬉しそうに笑い、再びレオの手を握った。
「ねえ、レオ兄さん」
「なあに?」
「ホグワーツに行っても、ずっと一緒に遊ぼうね!」
「もちろん」
レオはしっかりと頷いた。
「勉強も、遊びも、いっぱい一緒に楽しもう」
「約束だよ!」
「約束」
二人は小指を絡めた。
その向こうでは、夕日が庭を橙色に染めていた。
ホグワーツへの出発まで、あと少し。
新しい杖も、教科書も、ローブも揃った。
これから始まる学校生活には、きっと知らないことがたくさんある。
でも、ハリーはもう怖くなかった。
隣には、大好きなレオ兄さんがいる。
そして、いつだって帰ってこられる家がある。
その安心を胸に抱きながら、ハリーは夕空へ向かって元気よく手を振った。
「ホグワーツ、待っててねー!」
レオはその声を聞きながら、楽しそうに笑った。
「ふふっ。まずは、出発の日までに荷物を片づけようね」
「……あっ!」
ハリーは思い出したように顔を上げた。
「ぼく、まだ本を選んでない!」
「そうだったね」
「今から選ぼう! レオ兄さんも手伝って!」
「もちろん。じゃあ、部屋に戻ろうか」
「うん!」
二人は手をつないで家へ戻っていった。
窓から漏れる明かりが、夕暮れの庭を優しく照らしていた。