九月一日。
キングズ・クロス駅には、朝から大勢の人々が行き交っていた。荷物を引く車輪の音、発車を知らせるアナウンス、家族同士の話し声。焼きたてのパンの香りまで漂ってくる。
その人混みの中を、ハリー・ポッターは大きなトランクを載せたカートを押しながら、目を輝かせて歩いていた。
「レオ兄さん! 本当にここからホグワーツに行けるんだよね?」
「うん。九と四分の三番線を通ればね」
「九と四分の三番線……! すごい名前だなあ!」
「普通の駅にはないから、間違えて十番線まで行かないようにね」
「わかった! ……あれ? でも、九番線と十番線の間って壁だよ?」
ハリーは目の前の壁を見つめ、それからレオを振り返った。
「レオ兄さん、もしかして、あそこに頭から突っ込むの?」
「そうだよ」
「本当に!?」
「本当に」
「……痛くない?」
「ちゃんと通れるから大丈夫。僕も一緒に行くよ」
レオが柔らかく笑うと、ハリーは少しだけ緊張をほどいた。けれど、壁を前にすると、さすがに足が止まる。
「うーん……。通れるってわかってても、壁は壁だよね」
「そうだね。僕も初めてのときは、少し不思議な気分だったよ」
「レオ兄さんにも初めてがあったんだ!」
「僕をなんだと思ってるの?」
「なんでもできる人!」
あまりにも真っ直ぐな答えに、レオは一瞬だけ目を丸くした。
「……それは、ちょっと褒めすぎかな」
「えーっ! だって、魔法も勉強もすごいし、魔法生物にも詳しいし、僕が困ってたら絶対助けてくれるし!」
「最後のは、ハリーが困っているのを見たら放っておけないだけだよ」
「ほら! やっぱりすごい!」
ハリーは満面の笑みで言い切った。
レオは困ったように頬をかき、それからハリーのカートの横に並んだ。
「じゃあ、行こうか。僕の後についてきて」
「うん!」
二人は勢いよくカートを押し出した。
次の瞬間、煉瓦の壁が視界を覆い――。
「わあああっ!」
ハリーの声が響いた。
壁を抜けた先に広がっていたのは、赤い蒸気機関車と、白い煙を吐く煙突。そして、窓から顔を出して家族に手を振る生徒たちの姿だった。
車体には金色の文字で、ホグワーツ特急と書かれている。
「すごい……!」
ハリーはカートの取っ手を握りしめたまま、口を開けていた。
「本当に、列車がある……! あの煙、あの車輪! ねえ、レオ兄さん、あれってどうやって動いてるの? 魔法で走ってるのかな? それとも普通の蒸気機関車と同じ仕組み?」
「基本は蒸気機関車と同じだと思うよ。ただ、魔法で補助している部分もあるんじゃないかな」
「乗ったら見てみたい!」
「機関室に入れてもらえるかは、わからないけどね」
「お願いしたら、見せてもらえないかな?」
「運転士さんが忙しくなければ、聞いてみてもいいかもしれないね」
「よーし!」
ハリーはさっそく列車へ向かおうとした。
「待って、ハリー。まずは荷物を積まないと」
「あっ、そうだった!」
二人は顔を見合わせて笑った。
やがて、レオがハリーのトランクを列車へ運び込み、二人で空いている客室を探し始めた。通路には生徒たちが行き交い、荷物が棚に押し込まれる音や、久しぶりに会った友達の歓声が響いている。
しばらく進んだところで、ハリーが客室の窓から外を眺めていた少年に気づいた。
赤毛の少年だった。顔にはそばかすが散っていて、膝の上には大きな袋が載っている。窓の外を見ながら、何かを考え込んでいるようだった。
ハリーは少し迷ったあと、客室の扉を軽く叩いた。
「こんにちは! ここ、誰か座ってる?」
赤毛の少年が振り向いた。
「いや、空いてるよ。入れば?」
「ありがとう!」
ハリーは嬉しそうに客室へ入り、レオもその後に続いた。
「僕、ハリー。ハリー・ポッターっていうんだ」
「……えっ?」
少年の目が大きく見開かれた。
「ハリー・ポッター!?」
「うん。そうだけど……どうしたの?」
「いや、だって……!」
少年はハリーの額をじっと見つめた。前髪の隙間から覗く稲妻形の傷に気づいたのだろう。
「本当に、あのハリー・ポッターなのか?」
「うーん……たぶん、そうだと思う」
「たぶんって!」
少年は思わず声を上げ、それから慌てて口を押さえた。
ハリーはきょとんとしたあと、くすくす笑った。
「そんなに驚かなくてもいいよ。僕は僕だし」
「そ、そうかもしれないけど……!」
「僕の従兄のレオ兄さん。レオ兄さんもホグワーツに行くんだ」
「初めまして。レオ・エヴァンズ・スキャマンダーだよ」
レオが穏やかに挨拶すると、少年は今度こそ背筋を伸ばした。
「お、俺はロン・ウィーズリー。よろしく!」
「こちらこそ、よろしくね、ロン」
「よろしく!」
ハリーはロンの差し出した手を勢いよく握った。
その勢いが予想以上だったらしく、ロンは少し驚いた顔をしたが、すぐに笑い出した。
「なんだよ、ずいぶん元気だな!」
「だって、これからホグワーツだよ! 魔法使いの学校! 楽しみじゃないわけないじゃないか!」
「そりゃそうだけどさ!」
二人はあっという間に打ち解け、魔法界の話やホグワーツへの期待を語り始めた。
レオは二人の会話を聞きながら、荷物を棚に上げて席に腰を下ろした。窓から差し込む朝の光が、客室の座席を明るく照らしている。
「ロンは、兄弟がたくさんいるんだよね?」
「うん。兄貴が五人と妹が一人。俺は六番目なんだ」
「六人兄弟!? すごい!」
「家じゃいつも誰かが騒いでるよ。静かな時間なんて、ほとんどないな」
「楽しそうだね!」
「楽しい……ときもあるけど、兄貴たちは俺をからかうんだ。特に双子の兄貴たちはひどいぞ。俺のことをしょっちゅう笑いものにするんだから!」
ロンは不満そうに口を尖らせた。
「でも、いい兄弟なんじゃない?」
ハリーが尋ねると、ロンは少しだけ口ごもった。
「……まあ、そうだけどさ」
その顔に浮かんだ複雑な表情を見て、ハリーはにっこり笑った。
「僕もレオ兄さんにいっぱい助けてもらってるよ。レオ兄さんがいなかったら、知らないことだらけだったと思う」
「ハリーは、知らないことを見つけるとすぐ聞いてくれるからね。教えるほうも楽しいよ」
「えへへ。だって、レオ兄さんは何でも知ってるんだもん!」
「何でもじゃないよ。僕だって知らないことはたくさんある」
「じゃあ、ホグワーツで一緒に勉強しようぜ!」
ロンが身を乗り出した。
「俺、勉強はそんなに得意じゃないけど、魔法は楽しみなんだ。実際に呪文を使えるようになるんだろ?」
「うん! 杖を振って、呪文を唱えて! 僕、自分の杖で魔法を使うのが待ちきれないよ!」
ハリーは膝の上に置いた杖の箱を、嬉しそうに見つめた。
そのとき、客室の扉が開いた。
「ねえ、ヒキガエルを見なかった? ネビルがなくしたの。どこかの客室にいると思うんだけど……」
入ってきたのは、ふさふさした茶色の髪をした女の子だった。
少し息を弾ませていて、頬がほんのり赤い。腕には何冊もの本を抱えている。彼女は客室を見回し、ロンとハリーを順番に見た。
「あなたたち、ヒキガエルを見なかった?」
「ヒキガエル? いや、見てないけど」
ロンが答える。
「そう……。ネビル、どこに行っちゃったのかしら」
女の子は心配そうに眉を寄せたあと、ふとレオの姿に気づいた。
そして、ぴたりと動きを止めた。
「……あ」
レオが顔を上げる。
「こんにちは。何か困っているの?」
「あ、あのっ!」
女の子は慌てて本を抱え直した。腕の中で一冊がずれ、慌てて押さえ込む。顔がみるみる赤くなった。
「い、いえ! 困っているというか、ヒキガエルを探していて……! あ、それより、あなた、もしかしてレオ・スキャマンダーさんですか?」
「そうだけど。僕のことを知っているの?」
「やっぱり!」
女の子の声が一段高くなった。
「私、ホグワーツに入学する前に、魔法界の本をたくさん読んだんです! それで、古代ルーン文字に関する記事に、スキャマンダー家の名前が載っていて……! それに、呪文の構造を独自に研究している天才がいるって……!」
「ええと……その記事、少し大げさだったんじゃないかな」
「大げさなんかじゃありません!」
女の子は勢いよく首を振った。
「あ、すみません! 大きな声を出して……。私、ハーマイオニー・グレンジャーです。よろしくお願いします!」
「よろしく、ハーマイオニー」
レオが手を差し出すと、ハーマイオニーは一瞬だけ目を丸くし、それから嬉しそうにその手を握った。
握手を終えたあとも、彼女はレオの顔を見つめていた。何かを尋ねたくてたまらないのに、質問が多すぎて、どれから口にすればいいのかわからない。そんな気持ちが、忙しく動く視線にそのまま表れていた。
「レオは、古代ルーン文字をどのくらい読めるんですか? それとも、まだ研究中なんですか? あ、あと、呪文の改変というのは、既存の呪文の構造を変えて効果を調整するという意味で合っていますか?」
「うん、だいたい合っているよ。ただ、実際に使うときは、呪文の意味だけじゃなくて、魔力の流れも考えないといけないんだ」
「魔力の流れ……!」
ハーマイオニーは抱えていた本を慌てて開いた。
「それって、魔力の方向性や、呪文を構成する要素の相互作用にも関係しているんですか?」
「そうだね。たとえば、浮遊呪文でも、対象を持ち上げる力だけを強めるのか、動きを安定させるのかで、魔力の組み方は変わってくるよ」
「なるほど……! 確かに、呪文の効果を一つの現象として考えるだけでは足りないんですね!」
ハーマイオニーの目がきらきらと輝いた。
「すごい……。そんな考え方、教科書には詳しく書かれていませんでした!」
「教科書は、最初に覚えることをまとめたものだからね。実際に魔法を学んでいけば、少しずつわかることも増えると思うよ」
「私、もっと勉強します!」
ハーマイオニーは胸の前で本を抱きしめた。
「絶対に、レオと同じくらい魔法を理解できるようになります!」
言い切った直後、彼女ははっとした。
「……あっ! ご、ごめんなさい! 初対面なのに、いきなり変なことを言って……!」
「変じゃないよ。勉強したいっていう気持ちは、とてもいいことだと思う」
「ほ、本当ですか?」
「うん。僕も、知らないことを知るのは好きだから」
レオが自然に微笑むと、ハーマイオニーはますます赤くなった。
「そ、そうなんですね……!」
彼女は本の背表紙を指先でぎゅっと握りしめた。さっきまであれほど滑らかに飛び出していた質問が、急に喉の奥でつかえてしまう。
ハリーはその様子を不思議そうに眺めていた。
「ハーマイオニーは勉強が好きなんだね!」
「えっ? あ、ええ! もちろんよ! ホグワーツに行くんだもの。魔法をきちんと学ばなくちゃ!」
「僕も楽しみだよ! ねえ、よかったら一緒に座らない? ヒキガエル探しの途中なら、休憩していってもいいし」
「えっ、でも……」
ハーマイオニーはレオをちらりと見た。
「私は、まだほかの客室も探さないと……」
「そっか。じゃあ、見つかったら教えてね。僕たちも見かけたら知らせるよ」
「……ありがとう、ハリー」
彼女は小さく笑った。
それから、扉のところで一度立ち止まった。
「あの、レオ」
「うん?」
「ホグワーツに着いたら……古代ルーン文字のこと、もう少し聞いてもいいですか?」
「もちろん。授業や宿題が忙しくなければ、いつでも」
「ありがとうございます!」
ハーマイオニーはぱっと顔を輝かせ、今度こそ客室を出ていった。
扉が閉まると、ロンがぽかんとした顔でレオを見た。
「……すげえな、レオ。あの子、会ったばっかりなのに、ものすごい勢いだったぞ」
「勉強が好きなんだね」
「好きっていうか、すごい熱心だったな……」
「いいことじゃないか。熱心に取り組めるものがあるのは、素敵なことだと思うよ」
「まあ、そうだけどさ」
ロンは頭をかいた。
「俺、あんなに勉強の話をされたら、途中で頭がこんがらがりそうだ」
「じゃあ、わからないところがあったら一緒に考えようよ」
ハリーがすぐに言った。
「僕もまだ何もわからないし! 三人で勉強すれば、きっと大丈夫だよ!」
「お前、いいこと言うな!」
ロンは嬉しそうにハリーの肩を叩いた。
「よし、そうしようぜ! ……ただし、宿題を全部一緒にやろうって意味じゃないからな。俺だって、自分でやるところはやるぞ!」
「うん! わからないところを教え合うんだね!」
「そうそう!」
二人が笑い合う。
レオはその様子を見ながら、窓の外へ目を向けた。ホームでは、見送りに来た家族がまだ手を振っている。蒸気機関車の金属音が低く響き、発車の時間が近づいていた。
やがて、汽笛が鳴った。
「わっ、始まる!」
ハリーは窓に駆け寄った。
「レオ兄さん、動いた! 列車が動いたよ!」
「うん。これからホグワーツまで、長い旅だね」
「長い旅かあ……!」
ハリーは窓の外へ手を振った。ホームの人影が少しずつ遠ざかっていく。
「お母さんたち、ちゃんと見送ってくれたかな……」
「きっとね。アリシアもロイドも、ハリーが楽しく過ごせるように願っているよ」
「うん! 帰ったら、ホグワーツのことをいっぱい話すんだ!」
「僕も楽しみにしているよ」
「レオ兄さんも一緒に帰るんだから、二人で話せばいいじゃない!」
「そうだったね」
レオは笑った。
そのとき、ロンが袋を開けた。
「なあ、二人とも。何か食べるか? 家から持ってきたんだ」
中から出てきたのは、サンドイッチと、少し形の崩れた焼き菓子だった。
「食べる!」
ハリーは即答した。
「俺も食べるよ。ありがとう、ロン」
レオも一つ受け取った。
三人で菓子を分けながら、話題はまたホグワーツのことへ戻っていく。どんな授業があるのか。寮はどこになるのか。魔法の授業では、どんな呪文を最初に習うのか。
「俺はグリフィンドールがいいな。兄貴たちもみんなグリフィンドールなんだ」
ロンが言った。
「僕は、どこの寮でも楽しみだよ!」
ハリーは焼き菓子を頬張りながら答えた。
「レオ兄さんは、どこの寮になると思う?」
「さあ。組分け帽子が決めることだからね」
「でも、レオ兄さんなら、どこでもすごいって言われると思う!」
「ハリー、まだ入学もしていないのに」
「だって本当だもん!」
ハリーが笑うと、ロンもつられて笑った。
列車は田園地帯へと進んでいた。緑の丘や小さな村が窓の向こうを流れていく。客室には、菓子の甘い香りと、三人の楽しそうな声が満ちていた。
その頃、通路の向こうでは、ハーマイオニーがまだヒキガエルを探していた。
彼女は客室の扉を一つずつ確認しながら、先ほどの会話を思い返していた。
――魔力の流れを考える。
――呪文の効果だけではなく、構造そのものを見る。
「……すごいなあ」
思わず、声が漏れた。
すぐに、彼女は自分の頬を両手で押さえた。
「だ、だめよ! まだ会ったばかりなんだから! それに、私はまずホグワーツで勉強することが大切なんだから……!」
そう言い聞かせても、レオの優しい笑顔が頭から離れない。
質問をしても嫌な顔をせず、わからないことを尋ねるのを恥ずかしいことだとも言わなかった。知識をひけらかすのではなく、まるで一緒に考えることを楽しんでいるようだった。
ハーマイオニーは本を抱きしめ、ふうっと息を吐いた。
「……よし。ホグワーツに着いたら、もっと頑張ろう!」
そうして彼女は、再びヒキガエル探しへと歩き出した。
一方、客室では、ハリーが窓の外を指さしていた。
「見て、レオ兄さん! 羊がいる!」
「本当だね」
「ロン、あれって魔法の羊かな?」
「いや、普通の羊だと思うぞ」
「そっかあ……。でも、魔法の羊がいてもおかしくないよね?」
「まあ、魔法界だしな……」
ロンが考え込むと、レオは楽しそうに笑った。
「魔法生物の中には、羊に似た生き物もいるかもしれないね。ホグワーツに着いたら、図書館で調べてみようか」
「うん!」
ハリーは大きく頷いた。
「ロンも一緒に調べよう!」
「俺もか? ……まあ、いいけどさ。面白そうだし」
三人はまた笑った。
ホグワーツへ向かう列車の中で、ハリーは新しい友達と出会い、レオは新たな知的好奇心に満ちた少女と知り合った。
まだ、学校生活は始まっていない。
それでも、窓の外を流れる景色のように、彼らの世界は少しずつ広がっていた。
そして、遠くに連なる山々の向こうには、これから三人が通う魔法学校が待っていた。