決めた。この海をぶっ壊してやろう。
波を叩き、海面を割り、水しぶきと一緒に魚どもを空へ吹き飛ばして、最後にはこの世界ごと跡形もなく静かにしてやるのだ。
なんたって三千円である。
浅野の食費に換算すれば六日分にあたる大金を、この海の魚どもはものの三十分で骨も残さず平らげた。平らげておきながら、餌をくれた人間にすり寄ってくる程度の恩義すら持ち合わせていない。ついさっきまでは画面いっぱいの大群で押し寄せ、水着の女まで出てきて、海を挙げての歓迎式典の様相だったのだ。それが、肝心の一匹が目の前を素通りした途端に、式典は即時解散、全員そろって何食わぬ顔で持ち場へ撤収していった。
今では珊瑚の間を、小魚が二、三匹ひらひら行き来しているばかりだ。
何かございましたか、とでも言いたげな実に平穏な海である。
あっただろうが。つい今しがた。
こちらにだってその三千円でできたことはあったのだ。飯を食うとか洗剤を買うとか、それが無理でも、少なくとも今より三千円多く持っている男として、昼を迎えることはできたのである。
あの女もあの女だと浅野は思う。あれだけ思わせぶりに笑っておいて、魚が揃わなかった途端に泡ひとつ残さず引き揚げてしまった。女の子の笑顔には、まず運営側の都合というものがある。そんなことは浅野がいちばんよく知っている。つい一年前までアイドルの笑顔を売って飯を食っていたのは、ほかならぬ浅野なのだ。しかし知っていることと期待しないことの間には存外深い溝があって、三千円くらいなら音もなくそこへ落ちていくのである。
受け皿の隅に残った最後の一玉を送り出すと、玉は釘に弾かれて穴のふちをかすめ、そのまま下へ消えた。浅野はハンドルから手を離し、台の脇の注意書きをにらみつけた。
『パチンコは適度に楽しむ遊びです。』
だったら、あの魚どもにも言ってくれ。あれだけ大挙して押しかけ、さんざん期待させておいて、節度を問われるのが客の側だけというのはどう考えても筋が通らない。
財布には、昼飯代の千円札が一枚だけ残っている。
昼飯なんぞ二時でも三時でも食える。問題は、今ここで席を立った瞬間に後から座った誰かがあっさり当てて、その金で焼肉でも食いに行くかもしれないということなのだ。この台は浅野が三千円かけてじっくり温めた台である。せめて肉を一皿よこすのが筋というものではないか。
浅野が財布の口に指をかけた、そのときだった。
「──なんだ社長ぉ、まだやるのか」
隣の台からだった。
七十はとうに過ぎているだろう。茶色のポロシャツに灰色のズボン、耳の後ろまで真っ黒に日焼けした小柄な老人である。頭のてっぺんには櫛を通すほどの髪も残っていないのに耳にかかるところだけは毎度きちんと刈り揃えてあって、いったい床屋ではどの工程にいちばん時間をかけているのか、浅野は顔を合わせるたびに考え込んでしまう。
老人は、店にいる男を誰かれ構わず社長と呼ぶ。スーツの男も社長、作業着の男も社長、今も向かいの列で片方の靴を脱いで椅子に足を載せている男も社長である。
さて、浅野の場合、一年前までは本当に社長だった。
最初は嫌味かと浅野は思った。しかし呼ばれて振り向いたところで、支払いの相談を持ちかけられるわけでもなければ何の会社をやっているのか聞かれることもない。本物の会社を持っていた頃より、よほど気楽な社長業である。
浅野は財布の口から指を離して、
「いや、飯にします」
「そうしな。俺も三千円やられたよぉ」
老人は両膝に手をつき、膝を伸ばすのに少し時間をかけて立ち上がった。浅野が台の脇から水筒を取って差し出すと、ぺちんと自分の額を叩いて、
「ああ、いけねえ。これ忘れると怒られるんだ」
老人は水筒を小脇に抱え、その足で通路の向こうの台へ移っていった。台の上の数字をしばらく見比べ、何かに深く納得したような顔で腰を下ろす。何を確かめたのかは知らないが、さっきの台にもあれと同じ顔で座ったはずである。
浅野も財布を閉じて席を立った。このまま眺めていたら、当たれば当たったで、外れれば外れたで、もう一度座るべき理由を自分で思いついてしまいそうだ。そうなれば午後もここで社長をやる羽目になる。
店を出れば、社長と呼んでくれる者はいないのだ。
出口へ近づくにつれて、首の伸びたTシャツに短パン、サンダルという自分の格好が気になり始めた。さっきまでは向かいの列の靴を脱いだ男を眺めて、自分はまだましなほうだと思っていたのだ。ところがガラス一枚を隔てた向こうでは、鞄を提げた男もベビーカーを押す母親も、誰も彼もが自分よりまっとうな用事を抱えて、まっとうな方角へ歩いているように見えてしまう。浅野は通行人の切れ目を待って、自動ドアの前に立った。
ドアが開いた途端、むわりとした熱気が顔じゅうに貼りついた。
九月も半ばだというのに、アスファルトは朝から溜めこんだ熱をまだ足もとからじわじわと吐き出している。街路樹のどこかで逃げ遅れたセミが一匹、思い出したようにじいっと鳴きだして、一小節も持たずに黙りこんだ。向かいの薬局の店先では「秋の健康相談」の幟がのんきにはためいていたが、あそこまで相談に歩いていくだけで具合が悪くなりそうだ。
浅野は建物の壁ぎわに一本だけ残った細長い日陰へ滑りこんで、スマートフォンを取り出した。
十一時四十六分。
時刻を確かめるだけのつもりが、昨日から返していない連絡まで目に入ってしまった。
『ご無沙汰しています。今月末のイベントで、現場を見られる方を探しています。もしお時間があれば、一度ご相談できませんか』
以前付き合いのあった、小さな制作会社からである。
お時間なら、ある。
死ぬほどある。
今の浅野は、週に三度ほど派遣で夜の倉庫に入っている。
段ボール箱を仕分けて台車に積み、朝になったら自転車で帰る。家賃と自分ひとりの食い扶持くらいなら、それでどうにか回る。箱には天地無用だの水濡れ注意だの扱い方がでかでかと印刷してあるので実に助かる。人間を預かっていた頃はこうはいかなかった。無理してないかと聞いても大丈夫ですとしか返ってこず、翌日になってちっとも大丈夫ではなかったことが判明したりしたものだ。
頭のほうは、もう勝手に段取りを組みはじめていた。月末なら夜のシフトはまだ相談できる。会場はどこだろう。当日だけか、前日の仕込みからか。楽屋を見る人間が別にいるなら、ステージまわりだけでも何とかなる。
そこまで考えて、浅野は返信欄を開いた。
『お声がけありがとうございます。会場と日程を教えていただけますか』
読み返しても、おかしなところはない。引き受けますとまでは書いていないし、会場と日程を聞くだけなら一円もかからない。三千円を魚に食わせるより、よほど慎重な行動である。
それなのに、送れない。
会えば、この一年何をしていたのかも聞かれるだろう。倉庫です、と答えれば嘘にはならない。ただし倉庫は週に三日で、では残りの四日は、と重ねて聞かれたら、パチンコ屋で魚を待っています、と答えるほかない。
──言えるか、そんなこと。
いやいや、そこまで聞いてくる相手ではない。先方は月末に人が要るのであって、自分の一週間を調べ上げたいわけではないのだ。
浅野は返事を消した。代わりに「せっかくのお話ですが」と打ち、そちらも消した。
昨日から数えて、引き受ける返事を三通、断る返事を四通、書いては消した。七通も返事を考えたのに、向こうからすれば丸一日ほったらかしにされているだけである。
首筋を汗がひとすじ流れていく。
返すにしても断るにしても、こんな炎天下で干物になりながら決めることはないのだ。
返信欄を閉じた。閉じたくせに、親指は少し前のやり取りまで画面を戻していた。進行表の添付が見える。ファイル名は「最終」で、その二つ下にも「最終」がある。出演順が変わり入り時間が変わり、しまいには弁当の数まで変わった、あのときの「最終」たちである。それでも終わってみれば、またお願いします、と言ってもらえた。
──今も、そう言ってくれているのだ。
浅野はスマートフォンをポケットへねじ込み、コンビニへ向かって歩きだした。
またお願いします、なら武道館の晩にもずいぶん言われたものだ。
またぜひ一緒に。次はもっと大きなことを。追加したグッズまで売り切れて、浅野は、いやいや皆さんのおかげです、と関係者という関係者に礼を言って回った。三年かけて、ようやくここまで来たのである。これで次の仕事にもつながる。金の相談もしやすくなる。その晩は、そう思っていた。
横断歩道の手前で信号が赤に変わった。
歩行者用の信号機の脇に、青までの待ち時間を示す目盛りが縦に八つ並んでいる。
浅野はスマートフォンを出した。
決めた。あれが全部消えるまでに送ろう。
向こうの歩道でスーツの男が電話を耳に当て、見えもしない相手に何度も頭を下げている。武道館の翌月は浅野もああだった。おかげさまでと礼を言って回った相手に、今度はなんとかなりませんかと頭を下げて回った。結局、なんともならなかった。入金は一日ずつ遅れていき、支払いは一日も待ってくれなかった。借りる話がまとまるより先に支払日が来て、会社はそれだけのことであっけなく潰れた。
そうだ。会社を潰したのは自分だ。
身の丈に合わない箱を押さえると決めて判子を押したのは、ほかの誰でもない自分の手である。
それでも、武道館をやめておけばよかったとは一度も思わない。
あの子たちの夢だから、と説明して回ったのは嘘ではない。けれど女の子たちが帰ったあとの事務所でひとり客席図を広げ、ここまで埋まったら袖からどんな景色が見えるだろうと終電を逃していたのは浅野だった。そして、その景色を浅野は見た。満員の客席へ向かって、あの子たちが袖から駆け出していく背中を、いちばん近くで見たのだ。
最後のひと月は、自分のアイドルたちをよその事務所へ売りこんで回った。この子は歌がうまい。この子は本番に強い。スタッフの次の職場も一人ずつ探した。全員の行き先が決まった晩には、三年でいちばんうまくいった営業だと思った。借金は遺産で片がついた。使い道の見当もつかなかったものが、いちばん使いたくなかった使い道できれいに消えた。どうにか誰の給料も踏み倒さずに済んだ。
最後に残ったのは、自分ひとりの行き先だけだった。
目盛りは、残り三つになっていた。
返信欄を開いて、さっき消した文面をもう一度打つ。会場と日程を聞くだけだ。一度きりのイベントで、事務所をもうひとつ潰してくれという話ではない。体のほうは案外あっさり思い出すかもしれない。
大丈夫だよ、と、また言えるかもしれない。
アイドルたちはそのひと言で安心した顔になった。まだ何ひとつ片づいていないのに、先に安心されてしまう。困ったものだと思いながら、浅野はあの顔を見るのが好きだった。
親指が送信ボタンの上に浮く。
──大丈夫だよ。
武道館を決めたときも、そう言ったのだ。
後悔はしていない。だが後悔していない男がまた現場に立てばどうなるだろう。大丈夫だよと笑って、また誰かの居場所を賭けるのではないか。一度ぜんぶ潰して、遺産で帳尻を合わせてもらっただけの男が、どの口であの言葉を言うのか。
最後の目盛りが消えた。
カッコー、と誘導音が鳴りだした。後ろから来た自転車が浅野をよけて先に渡っていく。電話を終えたスーツの男が向こうから歩いてくる。誰もが自分の用事のあるほうへ迷わず進んでいく。
浅野は文面を消してスマートフォンをポケットに戻し、横断歩道を渡った。
決心より先に、また期限のほうが来てしまった。
顔を上げると、コンビニはもう目の前だ。
飯を食ってから返そう。朝から何も食っていないのだ。腹の減った頭の考えることなど、あまり当てにしないほうがいい。
自動ドアが開くと、入店チャイムが浅野を出迎えた。
冷気が汗で張りついたTシャツの背中を撫でる。外とはまるで別の季節に踏みこんだようで、奥の冷凍ケースだけがぶうんと低くうなっていた。
麺の棚には、温泉卵の載った冷やしそばと、載っていない冷やしそばが並んでいた。値段の差は五十円。浅野はいったん卵のほうへ伸ばしかけた手を引っ込めた。三千円すったばかりの男が五十円を惜しむのか、と思われるかもしれないが、違うのである。三千円すったばかりだからこそ五十円が惜しいのである。
卵のないほうを取り、麦茶を一本足してレジへ向かう。
その途中で、天井のスピーカーからイントロが降ってきた。
最初の二小節で、浅野にはわかってしまう。
舞台袖で何十回と聴いた曲だった。このあと右端の子が一歩前へ出てAメロを歌いだし、Bメロで全員が中央へ寄り、サビの頭で一斉に客席を指さす。武道館ではその瞬間、客席いっぱいのペンライトが波のように揺れた。
そばの容器を持つ指に力が入る。
もう担当でもないのだから、いい曲だな、と聴き流せばいいのだ。聴き流すべきなのだ。ところが頭の中の浅野は今もまだ舞台袖に立っていて、Bメロの二小節前になると照明のきっかけを勝手に数えはじめてしまう。
──だめだ。あのサビを、コンビニの天井から、卵の載っていないそばを抱えて聴くわけにはいかない。
サビが来る前に、ここを出なければならない。
レジは空いている。そばと麦茶を台に置くのと同時に、店員の女の子がにこやかに顔を上げて、
「ポイントカードは、お持ちですか」
「ないです」
「袋は、ご利用ですか」
「お願いします」
Bメロに入った。
黒金蓮の声だった。
「お箸、一膳でよろしいですか」
店員の女の子が、少し首をかしげて、
「……お客様? お箸、一膳で」
「あ、はい。一膳で」
千円札を渡し、返ってきた小銭は数えもせずに短パンのポケットへ押し込んだ。袋を受け取ると浅野は出口へ急いだ。自動ドアというやつは、こちらが急いでいるときに限ってのんびり開く。サビが始まる。開ききる前の隙間へ体を斜めにねじ込み、外へ抜けた。
駅前の通りを離れても、足はなかなか緩まなかった。
住宅の塀からはみ出した枝をよけた拍子に、袋の中の麦茶が膝へぶつかった。
どこかの家の網戸の向こうで、テレビが昼のニュースを読み上げている。
──はやく帰って食おう。
部屋の冷房はつけっぱなしのはずだ。出がけに消した覚えがない。そばの卵を五十円ぶん我慢したところで、留守番中のエアコンがその何倍ぶん電気を食ってくれたかは知らないが、今は帰ってすぐ涼しいということだけで十分なのだ。
アパートの角を曲がりかけて、浅野は足を止めた。
──二階の外廊下、自分の部屋の前に、誰かが立っている。
目深にかぶった帽子にマスク、この陽気に長袖のパーカー。顔も髪もろくに見えないが、袖口からのぞく手首の細さと立ち姿からして若い女らしい。鞄を胸の前に抱え、ドアの部屋番号を見上げている。白いスニーカーの両足はきちんと揃っているのに、片方のかかとだけがときどき落ち着かなげに浮いた。
浅野は建物の角まで半歩戻った。
約束はしていない。自分の部屋に女性を招いておいてそれを忘れられるほど、浅野の予定表は混み合っていない。なにしろこの一年、ほぼ白紙のまま運用されているのだ。
部屋を間違えているんじゃないだろうか。
隣は半年前から空き部屋、そのまた隣は夜中の二時に洗濯機を回しはじめる男の部屋である。空き部屋に用があるとは思えないし、あの男に用があるのだとしたら、それはそれで事情を聞いてみたい。
見ていると、彼女はインターホンへ指を伸ばし、ボタンに届く寸前で引っ込めた。今度は鞄からスマートフォンを取り出して、画面と部屋番号を何度か見比べる。ここで間違いに気づいて帰ってくれるのではないか、という浅野の淡い期待をよそに、彼女は深く納得したようにうなずいてスマートフォンをしまってしまった。
ならば押せばいいのだ。押して留守だとわかれば帰るだろうし、帰ってくれれば角に隠れている部屋の主も晴れて我が家に帰れる。
押さない。
彼女はボタンではなく、マスクの上のふちをつまんで鼻のところを丁寧に押さえ直した。帽子の陰で汗が光っている。廊下は日陰とはいえ、この暑さに長袖である。日焼けを気にしているにしても、あれでは日に焼けるより先に干上がってしまう。
ふと視線を感じて振り返ると、向かいの家の二階で洗濯物を取りこんでいた奥さんが手を止めてこちらを見ていた。サンダル履きの男がコンビニ袋を提げて建物の角に張りつき、二階の若い女をじっとうかがっている。
浅野は愛想笑いを浮かべ、ここ自分の家なんですよ、と身振りで伝えようとして、それにふさわしい身振りが一つも思いつかなかった。奥さんは洗濯物を抱えたまま、ゆっくりと窓を閉めた。
鍵までかけやがった。
二階では、事態が新たな局面を迎えていた。彼女は鞄を胸から下ろし、ドアに向かって小さく頭を下げる。顔を上げ、少し間を置き、何か違ったらしく首を振る。もう一度、今度は顎を引いてから丁寧に頭を下げる。
練習でもしているのだろうか。
何の?
挨拶の。
まさか。
浅野の部屋のドアは何も答えないが、そのぶん余計な口も挟まないので練習相手としてはなかなか優秀らしい。
彼女は鞄から白い封筒を取り出し、ドアへ差し出すところまでやってから、あわてて胸元へ引っ込めた。
二階では、話がいっこうに進まない。
一階では、浅野のそばが着実にぬるくなっていく。
もう一度、指がインターホンへ伸びる。
──押せ。頼むから押してくれ。
指は、ボタンの手前ですうっと引っ込んだ。
浅野の辛抱は、そこで尽きた。
角を出て、サンダルをわざとぺたぺた鳴らしながら階段の下まで歩いていく。
それでも彼女は気づかない。ドアに向かって、三度目のお辞儀の真っ最中である。
浅野は階段の下から、下がったままの頭を見上げて、
「あの。うちに何か用すか」
肩が跳ねる。振り向いた拍子に鞄についた小さな金具がちりんと鳴る。帽子のつばが上がり、こちらを見下ろす目がのぞいた。
「ひゃっ……! ま、マネージャーさん!?」
「……蓮?」
考えるより先に、口が呼んでいた。
三年間、毎日のように呼んできた名前だった。